―中山道の道標(3)―

(平成25年6月27日)

 中山道は、江戸板橋宿から67番目の守山宿までの六十七次ですが、東海道の草津宿と大津宿を含めて六十九次と呼ばれることも多いようです。

 ここでは「東海道の道標(2)」に続き、草津から武佐までの道標などを紹介します。武佐への到着がおそくなったので、武佐宿内の道標探しは次の機会とします。

 街道マップ(中山道)

 

草津市渋川、伊砂砂(いささ)神社 (←ここをクリックすると所在地を表示)

● JR草津駅の東を通る中山道を北東方向に進みます。駅から1㌔ほどの間に光明寺、行圓寺、佛乗寺などの寺院が並んでいますが、その先にこの伊砂砂神社があります。

● 神社の創建や由緒の詳しいことはわからないそうですが、明治2年にご祭神名に因み、伊砂砂神社と改称されています。本殿は、応仁2(1468)年に建立されたことが棟札により確認されています。大正11年に国の重要文化財に指定されています。

(↓下の写真をクリックすると拡大できます)

 

栗東市綣、用水路の地蔵さん

● 伊砂砂神社から北東方向に向かい、民家と用水路の間の細い道を通り、東海道本線の下の小さな隧道を通り抜けると県道2に出ます。県道2を進み葉山川橋を渡ると、草津市から栗東市になります。

● 道標を探しながらキョロキョロと歩いていると用水路の中に石造物が並んでいるのが見えました。道標ではないようです。偶然用水路に置かれたものと思い、そのまま通り過ぎましたが、この先の守山市に入る手前でも、やはり用水路に地蔵菩薩像と思われる石造物がありました。詳しくはわかりませんが、意図的に置かれたもののように思われます。この辺りは田畑も多いので、用水のお守りと感謝のしるしなのでしょうか。

● このあたりは「綣」と書いて「へそ」と読む珍しい地名です。大宝公園にあった「綣のいわれ」の説明板によれば、いわれは諸説あるようです。この地区は文字のない時代から集落の中心として「へそ」と呼ばれていました。また、後年、周辺の荘園で布を織るための糸づくりが盛んとなり、それに用いる紡錘を「へそ」と呼んだことから「糸」と「巻」を一字にしたとのことです。

(地図は、草津市と栗東市の境界地点を表示)

 

栗東市綣、大宝神社前の道路元標

● 大宝神社の前に真新しい道路元標が建てられていました。各所への距離も表示されているので里程標も兼ねています。横の説明板によれば、もとの道路元標は、風化が激しく、また交通事故で折損をしたので、平成12年に復元され、現物は栗東歴史民族博物館に保存されているようです。右の面には京都伏見の第十六師団司令部や大津市駐屯の歩兵第九連隊などが表示されており、当時の世相を表しています。

●右面  「距 第十六師團司令部最迫 九里八丁十二間五尺

        大津市第九聯隊最迫  四里三十町十三間五尺」

      (それぞれ約36,200㍍、約19,000㍍)

 正面・西「距 大津市元標 四里十八町三十間五尺

        栗太郡役所 二十四町三十一間四尺  大寶村大字綣元標

        草津警察署 二十九町二十五間                 」

      (それぞれ、約17,730㍍、約2,700㍍、約3,200㍍)

 左面  「距 東 大寶村大字野尻 十一町六間三尺    南 大寶村大字苅原 八町四十間一尺

        西 大寶村大字中小路 五町二十一間三尺  北 物部村大字二町 四町五十八間三尺」

      (それぞれ、約1,200㍍、約950メートル、約590㍍、約540㍍)

 背面  「大正六年二月十五日建設 寄附 西田哲太郎」 

 

栗東市綣、大宝公園内の芭蕉の句碑

● 大宝神社の鳥居北側の大宝公園内に芭蕉の句碑が建っていました。芭蕉は、元禄3(1690)年頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣村の立場に足をとどめました。その際に旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句といわれています。と句碑横の説明板にありました。

● 「へそむらのまだ麦青し春のくれ ばせを」

 

守山市二町町、古髙俊太郎先生誕生之地の碑

● 大宝公園からさらに北に向かうと、栗東市から守山市になります。しばらく進むと左手に、「古髙俊太郎先生誕生之地」とかかれた石碑がありました。またここから西北約500㍍くらいの所に福寿院があり、古高一族の墓と古高俊太郎顕彰碑があるそうです。

● 古高俊太郎は、近江国栗太郡物部村古高(現、守山市古高)で文政12(1829)年に生まれた、幕末の勤皇志士です。武士でありながら、京都で枡屋喜右衛門を名乗り薪炭商の傍ら、長州藩の間者として情報収集や武器調達の元締として活動していました。その後、新撰組に捕縛され拷問の末、御所放火の計画などを自白させられ、それが池田屋騒動の発端となったとされていますが、これには異論もあるようです。元冶元(1854)年、禁門の変のどさくさに紛れて獄舎の役人に斬首されます。因みに、このとき生野の変の平野國臣らも斬首されています。明治24年その功績を称えて、正五位が贈られました。

● 右面   「昭和三十九年五月十九日建之」(1954年)

  正面・南東「古髙俊太郎先生誕生之地 /これより西一㌔」(㌔は、米扁に千と思われる)

  背面   「百年祭遺徳顕彰会」

 

守山市焔魔堂町、諏訪神社前の淀藩境界石

● ここは、焔魔堂町といいます。その町名は、古高俊太郎の碑の少し北にある十王寺の別名、焔魔堂に由来します。その十王寺の前に諏訪神社があり、神社の鳥居の前の木陰に、「是より南は淀藩の領」と書かれた境界石があります。この辺りは各藩の飛地が入り組んでいるようです。お隣の野洲市の蓮照寺にも淀藩の境界石があったので、淀藩領について調べてみました。

● 焔魔堂町自治会HPによれば、この境界石は別の場所にあったそうですが、正確な場所はわからないとのことです。慶安4(1651)年の淀藩の藩領図によると、焔魔堂、二町、古高の一部、などを領有し、その後も改易や転封が多々あったが、焔魔堂、二町は、明治まで藩主が変わっても淀藩領のままであった。因みにこの北の今宿、勝部は膳所藩領であった。

 地図で確認すると、ここの北側は勝部、今宿で、ここは焔魔堂町の北端、そして南側が二町町になっています。

● 「従是南淀領」(南東面を除く、三面にあり)

 

守山市焔魔堂町、住蓮房母公墓の碑

● 県道2号線の焔魔堂町交差点の手前にこの碑があり、この碑の奥(南東方向)の民家の庭に、墓があるそうです。石柱は新しいので最近復元されたものでしょうか? そして、住蓮房とは? その母の墓とは? 焔魔堂町自治会のHPなどによれば、長い物語がありました。

● 建永元(1206)年、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守中に、上皇が寵愛する松虫、鈴虫という二人の女性が御所を抜け出し、念仏法会に参加しました。仏教がまだ貴族や権力者のみに許された時代でした。松虫と鈴虫は仏の教えに感銘を受け、法然の門弟である住蓮房と安楽房に出家を懇願します。しかし上皇の許可がないために住蓮房らは躊躇しますが、二人の女性の必死の願いにうたれ、住蓮房は松虫を、安楽坊は鈴虫を剃髪し得度させました。これに後鳥羽上皇は激怒、住蓮房、安楽房を含む門弟4人に死罪を言い渡し、さらに法然ならびに親鸞らの僧籍をはく奪し、流罪に処しました。これが「建永の法難」(承元の法難とも)と呼ばれる宗教弾圧です。(おいでやす~近江路へ、のHPより拝借)

● 住蓮房の母は、息子の死罪を知り、一目会いたいと中山道を急いでいましたが、この地ですでに打ち首になったと聞き、悲嘆のあまりここ尼ヶ池(昭和の中ごろ埋め立てられた)に身を投じたということです。

● 後年、この地の所有者の市村さんが、その菩提を弔うため墓と石標を立てています。

● 右面   「明治三十四年十月」

  正面・北西「(梵字)住蓮房母公墓」

  左面   「市村長左ヱ門 建之」

 

守山市今宿、今宿の一里塚跡

● 県道2号線の焔魔堂町交差点を過ぎると今宿になり、しばらく北に進むと右手に大きな榎が見えます。ここが今宿の一里塚跡です。

● この一里塚は中山道の一里塚で、江戸日本橋から草津までに129ヶ所あったうちの128番目の一里塚になります。一里塚は、江戸幕府により慶長9(1604)年に整備されたもので、一里ごとに街道の両側に五間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。滋賀県内には、中山道のほか、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、道路の拡張や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。

● 今宿一里塚跡は、規模は小さくなっていますが、南塚のみが残り榎が植わっています。先代の榎は昭和の中ごろに枯れましたが、脇芽が成長し現在に至っています。

 

守山市今宿、本像寺

● 今宿町の交差点を越えると、右手に大きな銅像が見えます。ここが具足山本像寺です。今浜の法華寺、岩倉の妙感寺とともに「近江国三具足山」の霊地として広くその名を知られています。

● 本像寺は、日蓮の弟子である日像上人が開基した寺です。日像は、今浜の今井彦右衛門(本像寺門前の説明板では、今浜の庄屋、今江彦左衛門となっている)の力を借りて、守山市清水町に法華堂を建てて法を説き、文明年間(1469~87)に現在の本像寺の場所に堂を移しています。ここに宿院をたてて、今井氏の「今」をとって「今宿」と名付けたといわれています。(守山市広報より)

 

守山市今宿、樹下神社境内の道標

● 土橋の手前の街道左側に比較的新しい常夜燈が並んでいますが、その先に樹下神社があり、その境内に道標が1基保管されていました。この道標は、元は本像寺の南の今宿町交差点に建てられていました。破損状態がひどいようですが、守山の近代化に貢献した記念碑としてここに復元されたということです。

● 明治45年に営業が開始されたJR守山駅(旧国鉄東海道本線守山駅)と、中山道(旧国道)を結ぶ守山で最初の道路「守山停車場線道路」の開通を祝って、江畑栄太郎氏が発起人となって建立したものです。

 当時勝部村今宿は、吉身とともに守山宿(本町)の加宿として栄えていたことから、駅への貨客の集積通行に最適地であるとしてこの地に道路の建設が決まり、道標が建てられました。

● 正面・南「停車場道」

  左面  「今宿村中 /発起人 江畑栄太郎」

 

守山市守山、土橋

● 樹下神社を出て、この橋を渡ると守山宿になります。

● 橋のたもとにあった説明板の内容を要約します。

 この橋は、旧栗太郡今宿村と野洲郡守山宿の郡境を流れる境川(吉川)に架かる中山道の重要な橋として瀬田の唐橋の古材を使って架けられた公儀御普請橋でした。橋の幅は2間(3.6㍍)、長さは20間(36㍍)ありましたが、現在は、長さ48㍍のコンクリート橋になっています。

 

守山市守山、明治天皇聖蹟

● 土橋を渡り、守山銀座西の交差点をすぎたあたりの左手に「明治天皇聖蹟」と書かれた大きな石碑がありました。これは明治天皇の聖蹟をしのび、明治100年を記念して地元の保存会が昭和45年に建立したものです。

● 明治天皇は、明治11年10月12日福井県より京都への途中、現在の東門院境内にあった守山小学校で御小休みのうえ、草津に向かわれました。また9日後の10月21日、東京へ御還幸の際にも、ふたたびここで御小休みののち、鏡辻町に向かわれました。その聖蹟を記念した石碑です。

 

守山市守山の道標(1)

● 明治天皇聖蹟、東門院表門をすぎ、中山道をさらに北に向かうと、街道は大きく右方向に曲がりますが、その曲がり角の交差点辺りはかっての高札場であったそうです。その一角にこの道標が建っていました。

● 道標の高さは155㌢、一辺が30㌢の四角柱で花崗岩製です。右、中山道は、守山宿の中心に向かいます。左は、ほぼ北方向になる真宗木部派本山である錦織寺(野洲市木部)まで約4㌔であることを、また、こ乃者満ミちは、北西方向の琵琶湖の津である木浜港を、それぞれ示しています。

 この道標は、昭和52年に民俗資料として守山市の文化財に指定されています。道標の横に詳しい説明板がありましたが、こういうのは、図書館などに行く手間が省けて大変助かります。

● 東面「延亨元甲子年霜月 願主 釋宗有 /釋浄圓 /釋祐壽」(1744年きのえ・ね、11月)

  南面「右 中山道 幷(小文字) 美濃路」

  西面「左 錦織寺 四十五町 /こ乃者満ミち」(このはまみち)

  北面「江州大津西念寺 /京大坂江戸大津  講中建之」

 

守山市守山、守山宿

● 道標(1)から東が守山宿の中心部、本町になります。ここは古来、東山道の宿駅として栄えていましたが、江戸時代に中山道に改められました。寛永19(1642)年には徳川幕府より認可され、中山道の67番目の宿場となっています。その街並みは、治安上の理由から民家の敷地が1戸毎わずかに段違いとなっており、稲妻型屋敷割という特殊な街並みになっています。

 わが街、姫路にも城の周辺(城西、野里地区)に「のこぎり横丁」というジグザグ道路が一部に残っています。

● 京都三条大橋から守山宿までは、八里六丁(約35㌔)で江戸時代の旅人の一日の行程にあたり、京都から江戸方面への東下りの際の最初の宿泊地となりました。このことから「京発ち守山泊り」と呼ばれ、守山宿は明治維新まで繁栄していました。

● 街並みの中ほどに、本陣跡の碑と井戸の石組がありました。本陣跡の碑は、この場所に本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されています。この本陣には文久元(1861)年、皇女和宮が江戸に向かう途中に宿泊されたそうです。また、井戸は当時防火用水や生活用水に使われていた井戸の石組のみを西20㍍くらいから移設復元したものです。この辺りは野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため用水路がなく、このような井戸が使われていたということです。

(地図は、本陣跡の場所を示す)

 

守山市守山の道標(2)

● 守山宿を東に進むと大きな三叉路になりますが、その南東の角にこの道標がありました。横の説明板によれば、この道標は栗太郡葉山村(現、栗東市)や東海道に向かう人々に対して案内するものです。栗東市林(道標は高野郷となっている)にある新善光寺は、彼岸には門前に市がたつ賑わいをみせ、守山方面からも多くの人が参拝に訪れたようです。栗太郡誌には、東海道の林から守山宿まで20町59間4尺と記され、高野、辻、浮気(ふけ)の道筋は守山道(現県道157?)と呼ばれ、中山道から東海道に入る多くの人が利用していました。「いしべ」は湖南市にあり、東海道51次の宿場で、栗東市林からさらに4㌔ほど東になります。

● 説明板の冒頭には「この道標は守山宿の東端から枝分かれして・・・」東海道に向かう人を案内している、と書かれています。ということはここがその分岐点ということになります、とすると、この道標は90度右に回して、中山道側の北面に「すぐいしべ道」があったのではないかと思います。復元の際、両面が見えるようにこのように設置したのではないかと、推測します。

● 西面「すぐいしべ道」

  北面「髙野郷新善光寺道 是ヨリ /二十五町」

    (「是」、「十」、「町」と読める文字は、補修や汚れでよく見えない)

 

守山市吉身、帆柱観音

● 守山の道標(2)を過ぎ、伊勢戸川(説明板によっては守山川、美戸津川とも)という小さな川を渡りると、吉身西の交差点になります。この辺り一帯は吉身といい、古くは「吉水郷」という水に恵まれた景勝の地であったようです。守山が宿場として指定されたとき、西の「今宿」と共に守山本宿の加宿として宿場の役割を分担してきました。

● さらに進むと、交差点の200㍍くらい東の右手に、「帆柱観世音」と書かれた真新しい石柱が見えました。帆柱の2字は海とは縁遠いこの地に不思議な感じがしました。この石柱の南にある慈眼寺(じげんじ)の縁起によれば、最澄が唐からの帰国の際、突如海難に遭遇したが、海上に観世音菩薩があらわれて、風波が鎮まり無事帰国できた。帰国後最澄は、海難で折れた帆柱で、十一面観世音菩薩と持国天、多聞天像を彫り、弘仁元(810)年中山道に沿うこの地に水難と交通安全の守り佛として安置されたのが起源とされているそうです。江戸期以来風雨に晒され崩壊寸前であった慈眼寺の本堂は、平成21年に地元の人たちの努力で再建されました。

● 北面「帆柱観世音 慈眼寺」

  西面「本はし羅金んせお無」

 

守山市吉身、中山道高札場跡

● 慈眼寺から100㍍ほど北東になるこの地点は、中山道の高札場であったようです。また、中山道と石部道(伊勢道)との分岐でもありました。

● 守山宿との境の美戸津川から高札場までは、守山本町と同じように稲妻型道路になっていたようですが、現在では見にくくなっており、あまり気がつきませんでした。

 

守山市吉身、吉身小学校南交差点

● この交差点南東の一角に「なかせんどう」の石柱や益須寺(やすてら)跡の説明板がありました。益須寺は「日本書紀」の持統天皇7(692)年に記載されている古い寺です。昭和40年代の発掘調査でここから東100㍍ほどのところに益須寺があったことが確認されたと、発掘された法隆寺式紋様のある瓦などの写真を添えた説明板がありました。

● 「なかせんどう」の石柱は最近のものと思われますが、年代は不明です。また、平成6年の道路拡張工事の際の調査では、中山道の道幅は現在とほぼ同じであり、両側は田んぼであったことが確認されました。中山道は、かっての東山道を江戸時代に再整備したもので、正徳6(1716)年までは「中仙道」と表記していたが、以降「中山道」となったようです。

 

 

野洲市野洲、野洲川橋を渡る

● 県道11との吉身三の交差点を過ぎると野洲川橋に向かって、徐々に上り坂になります。野洲川が守山市と野洲市の境界と思っていたのですが、後日地図で確認すると、野洲川の手前に両市の境界がありました。境界辺りに昔の野洲川の流れがあったのでしょうか?

● 野洲川は鈴鹿山系の御在所山を源とし琵琶湖に注ぐ、長さ約65㌔の川です。河口部では多くの洲をつくり、古くは「八洲川」と呼ばれていました。また、土砂の流出も多く天井川となり、流域では水害も多かったようです。

● 野洲川橋から、上流側に近江富士と呼ばれる三上山(みかみやま、432㍍)が見えます。三上山は、古事記などにも記述のある山です。また、瀬田唐橋に伝わる俵藤太のムカデ退治伝説にも出てくるムカデの住む山でもありました。

(地図は、守山市と野洲市の境界を示す)

 

 

野洲市野洲、十輪院境内芭蕉の句碑

 

● 野洲川を渡り、堤防を下りた左手に十輪院という無人のお堂があります。まわりはフェンスに囲まれて中には入れませんでした。十輪院は、明暦3(1657)年に開かれたお堂で、守山宿から、早朝や夜、野洲川を渡る人は、常夜燈の灯りが目印になったそうです。

● その境内の常夜燈の横に芭蕉の小さな句碑がありました。説明板によれば、野洲川晒しの一工程で川の中に据えた臼に布を入れて杵でつく作業があり、冬の冷たい川に入って布をつくのは大変な重労働だったようですが、その苦労をしのんで詠んだ句だということです。

● 芭蕉句碑

 「野洲川や身ハ安からぬさらし宇す 芭蕉翁」

 

 

野洲市行畑、蓮照寺境内の道標、3基

● 十輪院の先で東海道本線の高架を通り抜けると、宇野酒造という大きな造り酒屋が街道の両側にあります。さらに東に進むと、変則十字路になりますが、その北東の角に蓮照寺(浄土真宗本願寺派)があります。ここに道標や境界石などが3基あると聞いていたので、境内に入ってみました。右手の塀際に3基が並んでいました。

(後でわかったのですが、宇野元総理生家の造り酒屋は、守山宿の守山市歴史文化まちづくり館となっていました。)

● 左の道標は、ここから約200㍍東の朝鮮人街道との分岐点からここに移設されたものです。資料では享保4(1719)年となっていたので、背面に「享保四」の文字があったのかもしれませんが、確認できませんでした。各道標とも背面は塀に密着しているので文字は読めません。

  右面  「左 中山道」

  正面・西「右 中山道 た・・・」(以下不明、たが/いせ らしい?)

  左面  「左 八まんみ・・・」(以下不明)(八まんみち、朝鮮人街道の異名)

 

● 中の道標は、ここから北の方角にある野洲市木部の錦織寺を案内する道標です。「従是・・・」(これより)ではなく、「自是・・・」(これから)は、「迄」とセットで使われているようです。例えば、「自是山上惣門迠・・・」(箕面市勝尾寺口の道標)などがありました。

  正面・西「自是錦織寺迄四十・・・」(以下不明、四十五丁らしい?)

 

● 一番右は境界石です。守山市焔魔堂町の諏訪神社境内に同様の境界石「従是南淀領」がありました。

 話は変わりますが、江戸時代には「藩」という言葉は使われていなかったそうです。そういわれてみれば、確かにこれらの境界石は「従是西備前国」「従是東尼崎領」「従是西尼崎領/他領入組」などとなっていました。

  右面  「従是北淀領」

  正面・西「従是北淀領」

  左面  「従是北淀領」

(中と、右の2基も朝鮮人街道の分岐にあったかどうかはわかりませんでした)

 

 

野洲市行畑、背くらべ地蔵

● 蓮照寺の北東方向の中山道と広い道路との交差点南側に小さなお堂があり、中に2体の地蔵がありました。「背くらべ地蔵」と書かれた案内板があります。

● この地蔵は、鎌倉時代のもので中山道を行き交う旅人の道中を守ったと伝えられています。また、当時は乳幼児が育ちにくかったこともあり、子を持つ親たちが「わが子もこのお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」と背くらべをさせるようになり、「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになったと言います。

 

 

野洲市行畑、朝鮮人街道との分岐点

● ここは背くらべ地蔵の100㍍ほど東の三叉路で、朝鮮人街道との分岐になります。ここから左方向の八幡、安土、彦根を経由して、再び中山道と合流する脇街道ですが、八幡道、京道、彦根道の呼び名もあります。

● 旧来の中山道が安土城下を経由しないために、織田信長が岐阜から京都へ向かう道として整備し、後年豊臣秀次が八幡建設後もこの道を利用することを奨励しました。

● 関ヶ原の戦い後は将軍専用道路となり、参勤交代の大名も使用できませんでしたが、唯一例外として朝鮮通信使の通行が認められたため「朝鮮人街道」と呼ばれるようになりました。通信使の通行は、慶長12(1607)年から文化8(1825)年までで12回に及び、一行400人は守山に宿泊後、八幡で昼食をとり、彦根に泊まり、翌日中山道に入るというコースをたどったようです。

 

 

野洲市小篠原の街並み

● 野洲小学校の南の交差点は五叉路になっており、地図とナビを何度も確認しながら進みました。こうした交差点は現場に立つと、建物などで道が隠れ地図で見るのようにはわからないものです。少し先で新幹線の高架をすぎた辺りから道幅の細い街道が、緑の舗装で歩行者のスペースが確保され、凹凸も無く安心して歩けました。

● しばらく進むと小篠原公民館の横に「小篠原村庄屋 苗村邸跡」の立派な碑がありましたが、説明板はなく詳細はわかりませんでした。

 

 

野洲市上屋(かみや)、篠原神社付近

● 小篠原公民館あたりから、街道はそれまでの東方向からやや北寄りの北東方向に変わり、国道8号線と新幹線の中間辺りを進みます。途中、甲山古墳や子安地蔵を通り約2㌔ほど進むと小さな川の手前に神社があります。周辺の道路は最近工事を終えたらしくよく整備されていました。

● 近くの説明板によれば、この小さな川は家棟川といい、かっては天井川となっていました。大正6年の大正天皇行幸にあたり、突貫工事で天井川の下にトンネルが掘られ、家棟隧道と名付けられました。家棟隧道は、昭和28年に国道8号線が開通するまでは中山道として国土の幹線道路の一端を担ってきましたが、平成19年家棟川の切下げ工事を機に撤去されました。新しい橋を渡った左側には、周辺の愛宕信仰の常夜燈が集められていました。

(地図は、篠原神社参道の入口を示す) 

 

 

野洲市大篠原、西池

● 街道は、家棟川をこえてしばらくすると国道8号線と合流します。国道の右手が堤になっており、そこに説明板がありました。「西池は、大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413年頃)近江国に48個の池を掘らせたときの一つといわれている。(中略)この西池の長い堤が源平盛衰記に出てくる篠原堤であるとの説もあるが、定かでない。(後略)」と説明されています。

 

 

野洲市大篠原周辺の街並み

● 西池の中ほどから、街道は一旦国道8号線から分岐しますが、昔の面影の残る街並みを通りぬけると再び国道8号線に合流します。

● 古代の東山道は、ここからかなり南を通っていたようですが、大篠原には、駅家(うまや)が置かれ、篠原駅は宿場と共に栄えたようです。しかし鎌倉時代以降、中山道は現在の地を通るようになり、宿場の機能もこの先の鏡に移ったようです。

(地図は、国道との分岐点を示す)

 

 

野洲市大篠原、平宗盛胴塚

● 再び国道8号線に合流し東に向かいます。大篠原北の交差点をすぎると、右手に「平家終焉の地」と書かれた案内板があり、雑木林の方角を矢印が示しています。工場の塀と雑木林に挟まれた細い道を100㍍ほど行くと、「首洗い池」の案内板とその先に「平宗盛郷終焉之地」と書かれた碑と墓石が二つ並んでいました。向かって左が平清宗の墓で、右がその父平宗盛の墓です。

● これには概略次のような経緯があります。

 寿永4(1185)年3月、平家は壇ノ浦の戦いに敗れ、一門はことごとく入水しました。しかし、当時平家の総帥であった宗盛(清盛の三男)とその子清宗らは生け捕りにされました。源義経は宗盛父子を護送し鎌倉へ下りますが、兄頼朝は、義経を腰越に留め、会わずに京へ追い帰します。再び京に向かった一行は、京都まであと一日ほどのここ篠原の地に到着しますが、首のみを京へ持って帰るために、義経は宗盛父子を斬殺しました。そして、胴は一つの穴に埋めてここに塚をつくり供養をしました。その際に首を洗ったのが首洗い池で現在はほとんどが埋め立てられ、大篠原北交差点の近くにその一部が残っているのみです。

 平家終焉の地としては、あまりにも寂しい場所です。

 

 

竜王町鏡、源義経元服の池

● 胴塚から国道8号線に戻り、小さな峠を越えます。峠の頂上というほどでもないのですが、一番高そうなところで、野洲市大篠原から蒲生郡竜王町鏡になります。そのすぐ先の道の駅「竜王かがみの里」の北に「源義経元服の地」と書かれた案内板や旗がたくさんたっていました。元服の地はこの先の鏡神社です。ここは元服の時盥(たらい)で使った水の池です。石碑には「九郎判官源義経/元服之池」と書かれています。

● 鞍馬寺に預けられた牛若丸は遮那王と呼ばれていました。その遮那王は16歳のとき(承安4=1174年)奥州平泉の藤原秀衡の下に旅立ちますが、平家の目を盗んでの逃避行です。草津で舟を下り、この鏡の里へ着いたとき元服を希望し、自ら「九郎義経」と命名しました。前髪を落とすために石碑の前の池の水が使われたということです。

 以上は「平治物語」によるものですが、「義経記」では、元服の場所は尾張国の熱田神宮となっているそうです。 

 

 

竜王町、鏡神社周辺

● 鏡神社は南北朝時代の建築で、日本書紀にも記されている新羅の皇子「天日槍(あめのひぼこ)」を祀る神社です。本殿は国の重要文化財に指定されています。天日槍に関する余談です。古事記では姫を追って日本に渡りますが、行く手を阻まれ但馬の出石(いずし)にとどまった、とあります。また、播磨風土記の神前郡(かんざきのこおり)の条では出雲の大国主神と争ったと記され、地元兵庫ではよく耳にする人物ですので、親しみもわきました。

● 参道の入口に烏帽子掛けの松があります。鏡の宿で元服した牛若丸(このころは遮那王、説明板ではすべて牛若丸となっている)は、この松に烏帽子を掛け、神社に参拝し源九郎義経を名乗り源氏の再興を祈願しました。松は明治36年台風で折れたので、株上2.7㍍ほどの幹に屋根をつけて後世に残すこととしたものです。

● 参道の少し東に「源義経宿泊の館跡」の大きな石碑があります。牛若丸は、東山道、鏡の駅の長(おさ)であった澤彌伝の白木屋に投宿し、元服しました。その際に使用した盥(たらい)は代々秘蔵していましたが、現在は鏡神社で保管しているそうです。その白木屋の跡を示す石碑です。この西隣は、江戸時代、中山道の本陣(林惣右衛門)で、その前が脇本陣(白井弥惣兵衛)です。

(地図は、鏡神社参道入口の場所を示す)

 

 

竜王町、鏡の宿旅籠跡

● 鏡は、平安時代末期より室町時代までは、東山道の宿場としてにぎわいましたが、江戸時代に入ると守山宿と武佐宿の間(あい)の宿となり、宿場の指定から外されてしまいました。しかしながら、本陣、脇本陣も置かれ、特に紀州侯の定宿で、皇族や将軍家の御名代をはじめ多くの武士や旅人の休憩の宿場として役目を果たしてきました。その頃の旅籠跡には、それぞれ案内板が設置されていました。

(地図は、吉野屋跡の場所を示す)

 

 

竜王町鏡の宿、愛宕山常夜燈

● 宿場の中間辺りになりますが、小さな川を越えたところに愛宕山の常夜燈がありました。この辺りではこうした常夜燈をよく目にしました。

 

 

竜王町、西横関交差点の道標

● 国道8号線と国道477号線が交わる交差点の南西角にこの道標がありました。国道477は三重県四日市から大阪府池田市までの国道です。四日市から御在所山を越え、竜王町を通り琵琶湖大橋を渡り、比叡山をこえて亀岡市、池田市と続く国道です。数十年前に車で国道1号線から当時は県道であった国道477を通り、御在所山を越えた記憶がありますが、かなりきついカーブの連続で大変な道路であったことを思い出しました。

● 道標の案内に従えば、ここから国道477は、南に向かうと名神高速の竜王ICの先で、右折して県道13に入り湖南市三雲で国道1号線と合流します。国道1号線を東に進めば甲賀市水口です。水口は東海道で50番目の宿場になります。

● 北面(国道477号線側) 「是より いせみち」

  西面(国道8号線側)   「ミなくち道」

 

 

近江八幡市馬淵町、八幡社前の高札所跡の碑

● 竜王町の西横関交差点からは国道8号線を進みます。日野川(横関川)を渡ると、近江八幡市になります。

街道は橋を渡って川沿いに北に行くのですが、工事中で通れませんでした。その先に日野川の渡し跡があるそうですが、かなり遠回りをすることになるので通過しました。

● 東川交差点から北に向かって旧街道に戻りました。その旧街道もしばらく行くと、また国道8号線に合流しますが、その合流地点は、八幡社の参道入口で。鳥居と燈籠があります。その燈籠の前に真新しい「高札所跡」の碑がポツリと立っていました。右面には「中山道四百年祭記念」と書かれていたので、平成16(2002)年頃に建てられたものと思われます。中山道に宿制が定められたのは、慶長7(1602)年でした。

● 八幡社は、源義家(4代あとが頼朝)が奥州遠征の途中、武運長久を祈願して造営しました。元亀2(1571)年信長の兵火にあって焼失しますが、現在の本殿は、文禄5(1596)年に再建され、国の重要指定文化財に指定されています。

 

 

近江八幡市馬淵町、妙感寺の道標

● 白鳥川に架かる国道8号線の橋は千僧供橋ですが、その手前に妙感寺の道標を兼ねた題目塔がありました。具足山妙感寺は、ここから南東方向の県道14号線の岩倉交差点の近くにあります。永仁4(1296)年に真言宗のお寺として開創されたと伝えられていますが、応長元(1311)年日像上人がこの地で布教活動をしたときに、日像上人を開山として日蓮宗に改宗しています。

● 右面  「日像菩薩開基之霊地」

  正面・北「南無妙法蓮華経」(ヒゲ文字)

  左面  「具足山妙感寺 (下部に小文字で) 従是 /三丁」

  背面  「現住 廣通院日亮聖人(下部に小文字で 施主願○ /現安後善」(下部の文字は定かでない)

 

 

近江八幡市馬淵町、高野世継観音の道標

● 題目塔の20㍍ほど南に、年代はありませんがかなり古そうな道標があります。東近江市永源寺高野町の永源寺は、ここからはかなり距離がありますが、中山道からの分岐として案内しているのでしょうか。臨済宗永源寺派大本山永源寺の御本尊は、世継観音です。

● 東面「左(?) 高野世継観音道 (下部に小文字で) ○○ /講中」

  北面「た加のよつきく王んおんみち」

 

 

近江八幡市千僧供町、安楽房、住蓮房之墓の道標(1)

● 千僧供橋から300㍍ほど東で、また国道8号線から分岐していますが、その分岐点の用水路脇の草の中に何やら文字の書かれた石柱がありました。折損したのか鉄材で補強されています。良く見ると「安楽房/住蓮房 御墓」と読めますが、下部は埋まっているのでわかりません。方向も里程もないので道標ではありませんが掲載しておきます。

● 安楽房と住蓮房が処刑された経緯は、「守山市焔魔堂町、住蓮房母公の墓の碑」で述べたとおりです。安楽房は京都六条河原で、住蓮房は故郷のこの辺りで、それぞれ処刑されましたが、二人の墓は千僧供古墳の上に造られました。

 

 

近江八幡市千僧供町、安楽房、住蓮房御墓の道標(2)

● 国道8号線の分岐から東に進むと六枚橋バス停の横にも同じような道標がありました。これには里程もあるので、間違いなく道標です。道標を探すのに一生懸命なので、道路の反対側の公園に、住蓮房首洗い池があったのを見逃してしまいました。

● 正面・北「安楽房 /住蓮房 御墓 (下部に小文字で) 是よ里 /三丁」

  左面  「○別安積里郡山○ /井桝屋半右ヱ(以下埋没)(右行の文字は大半不明のため正確でない)

 

 

近江八幡市西宿町、伊庭貞剛邸跡

● 六枚橋で国道8号線に戻り、東に向かいます。500㍍ほどの所でまた分岐し旧道に差し掛かると遠くに近江鉄道の踏切が見えました。武佐駅はもうすぐそこです。

● その分岐点から武佐駅に向かう途中に愛宕山の常夜燈があり、「鎮火霊璽」と珍しい文字が書かれていました。その先に大きな楠が見えます。近くに行くと「伊庭貞剛邸跡」と書かれた説明板がありました。

● 伊庭家は近江守護佐々木氏の流れをくむ名家です。屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な敷地を有していましたが、近年解体され、巨大な楠のみが往時をしのばせます。伊庭貞剛(1846~1926)は、明治12年裁判官を辞め、住友家に入社し、翌年に大阪本店の支配人となりました。明治38年に住友家を辞めるまでには、四国別子銅山の公害問題の解決や、住友家の総理事を務めるなどの活躍をしました。