―中山道の道標(4)―

(平成25年9月24日)

 中山道第66宿の武佐宿(近江八幡市)から、第65宿愛知川(えちがわ)宿(愛知郡愛荘町愛知川)と第64宿髙宮宿(彦根市髙宮)を経て、第63宿鳥居本宿(彦根市鳥居本町)迄の街道筋の道標などを紹介します。

 このページは、武佐宿から愛知川宿の少し先の豊郷(とよさと)町の中ほど迄です

 

武佐宿長光寺町、高札場跡と愛宕山常夜燈

● 駅から100㍍ほど東に進むと、石碑と常夜燈と高札場跡の説明板がありました。説明板は手作りで「中山道高札場跡 おきてを書いた板をかかげたやぐらのこと 1989年武佐小学校卒業生」とありました。小学生の説明板はこのほかにも各所に設置され、町ぐるみで宿場の保存活動が行われていることがうかがえました。

● 愛宕山の常夜燈も街道筋の各所で見られました。防火意識を呼びかけるための大切な施設であったと思います。さらに100㍍ほどの所にも愛宕山の常夜燈がありました。(写真右)

● 長光寺町の常夜燈

  右面  「村中安全」

  正面・南「愛宕山」

  左面  「天保八丁酉年・・」(1837年ひのと・とり)(石碑と密着し、判読不能)

 

武佐宿、長光寺町の道標

● 愛宕山常夜燈の5、60㍍東の角になりますが、電柱と看板に隠れてかなり旧い道標がありました。滋賀県の資料によれば、享保五(1720)年の設置になっています。

● 案内する武佐寺は、現在は長光寺となっています。ここから南の道は、途中の大きな工場で途切れますが、地図で確認するとその工場の東側に長光寺があります。

● 武佐寺は聖徳太子の開基ですから7世紀前半の開創になります。太平記には足利尊氏が武佐寺に逃れたという記述があるそうなので、長光寺に名前が変わったのはそれ以降ということになりますが、詳しいことはわかりません。

● 右面  (確認不能)

  正面・北「(梵字)武佐寺長光・・・」(・・・は埋没部分)

  左面  「從是三丁」

 

武佐宿、八風街道辻の道標(1)

● 八風街道は、ここ武佐宿から、八日市、永源寺を経て、鈴鹿山脈の八風峠を越えてからは、朝明川に沿って下り、四日市市冨田一色(桑名宿と四日市宿の中間辺り)で東海道に合流する街道で、現在は国道421号線がほぼこれを踏襲しています。中世から近江商人の伊勢路へ出る重要な通商交通路でした。

 この辻の道標がこの街道の西の起点になります。小学校の一時期四日市に住んでいた私にとっては、当時鈴鹿山脈の向こう側は想像のつかない世界でしたが、こうした街道でつながっていたのかと思うと、お隣同士であったことを改めて思いました。

● しかし、道標の案内どうりに進み、水口で東海道に出ると、鈴鹿峠を越えるルートになり、八風街道の案内になっていないように思われます。資料「滋賀県近世以前の土木遺産」によれば、この道標の保存状態の項は「原位置?」となっているので、どこかから移設された可能性を示しています。

● 正面・北「いせ(中間部)ミな口 /ひの /八日市 道」

  背面  「文政四年 ○○○○」

 (1821年、干支はない。下部は不鮮明、「河野伊一」とも読めるが、当時の名前らしくないので?)

 

武佐宿、八風街道辻の道標(2)

● 上の道標の反対側、四辻の北西側にこの道標はあります。道標の右側の道を北に進むと、安土町内で朝鮮人街道と合流しますが、道標の案内する浄嚴院は少し道筋からは外れ、JR安土駅の西方にあります。

● 浄嚴院は、安土城下慈恩寺の地に信長が建立した浄土宗の名刹です。浄嚴院の創草は、聖徳太子に遡ります。太子が全国に建てた四十八伽藍のうち、近江国の十二伽藍の一つといわれています。正平年間(1346~1370年)には佐々木氏により天台宗の慈恩寺威徳院となりましたが、信長の兵火にあい焼失します。その後信長に招かれた明徳上人により再建され、浄土宗の金勝山慈恩寺浄嚴院に改められました。江戸時代には浄土宗の近江一国の惣本山として八百ヶ寺の末寺を持つ大寺院となっています。浄嚴院が有名になったのは、天正7(1579)年の浄土宗と法華宗の安土宗論でした。そうした歴史的背景から文化財の指定を受けた多くの什物や建物が残されています。

● 正面・南「安土浄嚴院道」

 

武佐宿、八風街道の道標

● 四辻で写真を撮っている時、地元の方に教えてもらいました。八風街道を南へ100㍍ほど行くと小道の入口に小さな道標(町石?)がありました。地元の方の話では鎌倉時代の石碑と教えてくれましたが、各種資料にもなく正確なことが判りません。しかし、地元の方しかわからない場所なので助かりました。

● この道標の先、三町を地図で確認すると、長光寺辺りになります。長光寺の本尊は千手子安観音ということなので、長光寺を案内する道標と思われます。

●正面・北「くわんおん道是より三町」(一部不鮮明)

  

武佐宿、八風街道四辻周辺

● 四辻の東街道筋には、本陣跡があり、その隣が伝馬所跡で、街道の反対側は老舗旅館中村屋があります。

武佐宿の規模は、天保14(1843)年の時点で、本陣、脇本陣各1軒、旅籠23軒、宿内人口537人で、中山道では愛知川宿や柏原宿と並んで中規模の宿場でした。

● 本陣は下川家で、現在は門構えのみが残っています。手作りの説明板では「本陣跡、下川家。公家、幕府役人、大名、武士の宿泊、休憩所」と説明されていました。

● 中村屋は、慶長年間から続く、現存する唯一の老舗旅館でしたが、残念ながら2010年に全焼しました。

(地図は、本陣跡の位置を示す)

 

 

武佐町交差点周辺

● 中山道と国道421号線の武佐町交差点の北東角にポケットパークがあり、案内板と常夜燈を模した道標が設置されていました。案内板の絵は、近江蒲生郡誌を参考に市内の中学生が作成したもので、享保14(1729)年に徳川吉宗により輸入された象が、大坂、京都、大津を経て、江戸へ向かう途中、この地で1泊した時の様子を描いています。

● 常夜燈の南面には「右東京約460KM、中山道六拾七番宿場武佐宿」、西面には「いせ約120KM、火の用心」とそれぞれ書かれています。(東面、北面確認忘れ)

● また、この交差点の少し東の街道南側には、旧い木造の洋館があります。明治19年に建設された旧八幡警察署武佐分署庁舎で、登録有形文化財に指定されています。1955年には隣の魚友楼に払い下げられています。この辺りは交通の要衝として栄えていたので、早くから立派な警察庁舎が建てられたようです。

(地図は、警察庁舎の位置を示す)

 

武佐宿、脇本陣周辺

● 旧警察署庁舎の斜向かいに武佐町会館がありますが、ここが脇本陣跡です。手作り案内板によれば「本陣の予備、補助的な宿泊、休けい所(元奥村家)」とあります。

●その少し東に、平尾家役人宅があります。ここでも手作り説明板を引用します。「武佐宿を取りしまった役人宅、椿井と称する井戸がある。」

● その前の街道沿いの広済寺境内に明治天皇御聖蹟の碑があります。背面に由緒が漢文調で詳しく書かれていましたが、全部は読み取れませんでした。明治11年10月12日北陸から京都へ、また同月21日東京への還幸の際にも広済寺でお小休みされました。左面には「一条實孝 謹書」とありました。

(地図は、明治天皇御聖蹟の碑の位置を示す)

 

武佐宿、大門跡

● 広済寺から東に向かいます。武佐小学校を過ぎたところに牟佐神社の鳥居がありました。牟佐神社の創立は古く、第13代天皇、成務天皇の頃と社伝にあるそうです。 

● この神社の少し東のガレージの前に大門跡の案内板がありました。ここが武佐宿の東の端になります。ここからは、愛知川宿を目指します。

(地図は、大門跡の位置を示す)

 

近江八幡市西生来町、西生来一里塚跡

● 西生来(にししょうらい)町の家並の中ほど、三喜屋という店の前に一里塚跡の標石がありました。江戸から数えて124番目の一里塚ということです。

 

近江八幡市西生来町、泡子延命地蔵尊の碑

● 一里塚跡から東に進むと、小さな川の畔にこの石碑がありました。正面は南向き「泡子延命地蔵尊御遺跡」とありその横に「大根不洗いの川」と刻まれています。

● この場所には、西生来の町名の由来ともなった不思議な話が伝わっています。

 昔、ここに茶店があった。その娘が旅の僧に恋をし、その僧が飲み残したお茶を飲んだところ、不思議なことにたちまち懐妊し、男の子を産み落とした。3年後、川で大根を洗っていると、再び旅僧がやって来たので、娘が事情を話すと、僧は男の子に息を吹きかけた。すると男の子は泡となって消えてしまった。僧は、西の方に「あら井」という池に貴い地蔵があり、この子のために堂を建てて安置せよ、と伝えた。現在、この西の方の西福寺の地蔵堂に「泡子地蔵」が祀られている。ということです。

 

近江八幡市安土町西老蘇、東光寺周辺

● 老蘇と書いて「おいそ」と読みます。この辺りは、旧街道らしい佇まいが続ききますが、その中で東光寺の門は比較的新しいそうでした。しかし門前の説明板によれば室町時代からの古刹でした。説明板を要約します。

● 東光寺はもと清水鼻(現五個荘町)にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院で六角氏滅亡後、現在の東光寺が寺号と本尊を譲りうけた。本尊の阿弥陀如来立像は平安時代後期の作と考えられる。また、境内には、豊臣秀吉の右筆であった建部伝内の像が安置された伝内堂がある。

 

近江八幡市安土町東老蘇、大連橋の道標

● 左の写真は老蘇小学校の前あたりの道路で見つけたマンホールの蓋です。さすが安土町、信長ゆかりの永楽銭が描かれています。

● 大連橋の交差点北東角の緑地帯に新しい道標が設置されていました。ここから左、北へ向かえば、安土町の中心部へ、また右、南に進めば八日市になります。

 東面「内野道 右 観音正寺 /左 十三仏」

 南面「中山道 大連寺橋」

 西面「内野道 右 八日市 /左 安土」

 北面「中山道 東老蘇 右 武佐宿 /左 愛知川宿」

 

近江八幡市安土町東老蘇、轟橋周辺

● 大連橋の新しい道標を東へ進むと、中山道は大きく左に湾曲し、北の方に向かいますがそのカーブに差し掛かる手前に、杉原氏庭園との案内板がありました。説明によれば、江戸時代末期の庭園がほとんど改変されることなく保存され、県指定文化財となっているということです。

● その先の小さな橋の北側に「轟地蔵跡」と書かれた石碑や燈籠がありました。現在、近くの福生寺に祭祀されている轟地蔵は、中山道分間延絵図(重文、1806)にはこの石碑の場所に描かれている。また、慶応元(1865)年の福生寺の絵図には轟地蔵の記載がないので、明治以降橋の修理の際に移されたと考えられています。轟地蔵は、千体仏で安産祈願のお地蔵さんです。往時の橋の石は、奥石神社境内に保存されています。

(地図は、轟地蔵跡の碑の位置を示す)

 

近江八幡市安土町東老蘇、東老蘇公民館周辺

● 旧い家並のつづく街道を北に向かいますが、この辺りの街道と交差する小路にはすべて○○小路などと名前が付けられ看板が掲げられたり、標石が設置されたりしていました。

● 左の写真は公民館から西北に伸びる小路に名付けられた陣屋小路の標石です。周辺の民家の軒先も趣があり、写真を撮らせて頂きました。 

(地図は、標石の位置を示す)

 

近江八幡市安土町東老蘇、奥石神社

● 街道を北に進むと奥石(おいそ)神社の表参道の鳥居がありました。周辺には「老蘇森」「安産守護鎌宮」と書かれた石碑も建っています。奥石神社は中世より鎌宮神社とも云われたということです。道標探しで先を急いでいたので、神社の境内には入っていませんが、本殿は天正九(1581)年に建てられたものです。

● 少し長くなりますが鳥居前の説明板によると、古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ、老蘇、武佐、平田、市辺の四ヶ村周辺からなる大森林地帯であった。現在は奥石神社の鎮守の森としてその名を留めるのみとなった。第七代考霊天皇のころ、この地一帯は地裂け、水が湧き人の住めるところではなかった。石辺大連(いしべのむらじ)という住人が神の助けを仰ぎ、この地に松、杉,桧を植えたところたちまちにして大森林になった。この大連翁は齢百数十歳をかぞえたので、「老蘇(おいそ)」とよばれ、この森が老蘇の森と呼ばれはじめた。大連翁はこのことを悦び、社壇を築いたのが奥石神社の始まりと云われている。

● 表参道の少し北に東参道があり、その入口に道標がありました。道標の設置は昭和64年1月吉日で、7日間しかなかった昭和最後の珍しい日付けになっていました。

● 東面「(二つ違い鎌紋)(左指差手形)200先(横書き) 表参道」

  南面「昭和六十四年一月吉日 建之 総代記念 井上重雄 /坪田棟丞」

  北面「(二つ違い鎌紋)(右指差手形) 東参道」

(地図は、表参道鳥居の位置を示す)

 

近江八幡市安土町東老蘇、新しい道標

● 奥石神社の東参道を過ぎると、家並みはなくなり田園風景が広がります。しばらく進むと国道8号線と交差しますが、その手前に新しい道標がありました。

● ここから国道8号線を北に横断するには、道標の反対側にある地下道を通ります。この地下道の両側には安土城下の案内を兼ねたイラストが描かれていました。

● 右面  「武佐宿へ一里」

  正面・西「中山道 東老蘇」

  左面  「愛知川宿へ一里半」

 

近江八幡市安土町石寺、観音正寺の道標

● 地下道を出て、新幹線の高架を過ぎると正面に道標が見えました。写真後方の観音寺山(標高433㍍)の中腹にある西国33霊場の32番札所、観音正寺を案内しています。

 愛知川宿へは、ここから小さな橋を渡り右方向に進みます。

● 正面・南「西國三十二番観音正寺 從是 /拾五町」

  左面  「○○○」(梵字?)

 

東近江市五個荘清水鼻町、チョットおかしな道標

● 一旦合流した国道8号線から再び分岐して旧道に入り、しばらくすると近江八幡市安土町石寺から東近江市五個荘清水鼻町に入ります。その先の民家、石材店でしょうか、その門前に中山道と書かれた自然石、石板型の道標がありましたが、横に「六十八番宿跡」とあるのはチョット変です。でも、斑模様の入っためずらしい石が使われています。愛知川宿は65番で、武佐宿は66番、67番が守山宿で、68番は草津(東海道52番でもある)になります。中山道六十七次に新設したという遊び心でしょうか?

● 右面  「右 むさ」

  正面・北「中山道 /六十八番宿跡」

  左面  「左 えち川」

 

東近江市五個荘清水鼻町、名水

● 街道の左手に「わがまち一番、湖東三名水の一つ、五個荘地区まちづくり協議会」という案内板が見えました。ここ清水鼻の名水は、醒ヶ井の水、十王村の水と並んで湖東三名水の一つに数えられています。ここにはかって立場もおかれ、中山道の旅人の喉を潤してきました。現在もきれいな水が湧き出ていました。

● ここの茶屋の名物は「焼米はぜ」というお菓子であったそうです。ポン菓子のようなものらしいのですが、あのパッカーンと大きな音の出る機械を想像するのですが、当時はどのように作っていたのでしょう?

 

東近江市五個荘、てんびんの里の像

● 国道8号線と旧街道を分岐する三角地の中に、天秤を担いだ近江商人の像があり、「てんびんの里」と台座に書かれています。

● ここ五個荘は、鳥羽院政期にキヌガサ(糸扁に散)山の東麓に五つの荘園があったことに由来していますが、古くから中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、交通の要衝でした。この地の利を生かした近江商人発祥の地として発展、特に江戸時代後期から昭和の初期にかけて多くの商人が発生し、その商人たちの屋敷や庭園も残り、現在それらの保存活動が活発に行われています。そうした町の象徴としてのモニュメントと思われます。

 

東近江市五個荘、中山道沿いの旧家

● この辺りではわら葺きの旧家も所々で見かけました。あとで調べたところ、写真中の民家は旧片山家で、公家や大名が休憩する立場本陣でした。また、角の「金毘羅大権現」の常夜燈は天保8(1837)年のものでした。

● 右の写真は、五個荘地区まちづくり協議会の説明板がありました。「明治初期の建物で、江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した市田庄兵衛家の本宅です。奥に長い京町屋風の建築様式です。平成十三年に北町屋町が購入し、保存、活用しています。」

(地図は、旧片山家の位置を示す)

 

東近江市五個荘北町屋、明治天皇御小休所の碑

● 京町屋風商家市田邸のほぼ前にある北町屋のポケットパークに「明治天皇御小休所」の碑がありました。この碑に由緒書きはありませんが、明治11年10月12日北陸巡幸を終え京へ向かわれた時、または同月21日東京へのご還幸の際のもので、御小休みの場所は、市田邸でした。

● 右面  「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ /史蹟トシテ昭和十年十一月文部大臣指定」

  正面・西「明治天皇北町屋御小休所」

  背面  「昭和十二年十一月 建設」

● 史蹟名勝天然紀念物保存法で指定された明治天皇の史蹟は、ほとんどが、昭和23年に解除された。

 

東近江市五個荘新堂町、常夜燈

● 田のあぜ道のようなところに常夜燈があり、よく見ると台石部分に道案内があります。左の細い道が「いせ道」になっています。この先には新幹線の線路があり、見通せませんが近くで御代参街道につながっているようです。

● 御代参街道とは、中山道(五個荘小幡町)から東海道(土山宿)へぬけるバイパスとして整備された道です。江戸時代中期のころから毎年、正月、五月、九月に京都御所から多賀大社と伊勢神宮に、公家が名代として参詣する慣わしがあり、、この道を利用したことから御代参街道と呼ばれるようになりました。また、近江商人も頻繁に通行した街道でもあります。

● 正面・西「道 京 右」(右書きになっている) 

  左面  「八日市 ひの いせ(それぞれ縦書き) 左」(右書きになっている) 

  竿部分背面「天保十五 /甲辰 九月(?)(1844・きのえ・たつ)下部の文字は不鮮明

 

東近江市五個荘三俣町、街道風景

● 上の常夜燈からは、街道の両側に家並が続きます。この辺りは松並木もあり当時の街道を思わせる雰囲気があります。

● 左写真の少し先の街道右側には、西澤梵鐘鋳造所があり、現在も鋳造が行われているようです。西澤梵鐘鋳造所の創業は江戸時代で、幕府から限られた者にのみ鋳物師に携わることができた証明書が与えられ、約300年にわたり伝統的鋳造技術が伝えられています。因みに梵鐘の原料は、銅と錫で、一つ制作するのに通常2~3ヶ月かかるようです。

 

東近江市五個荘、街道案内板周辺

● この大きな街道案内板のあるポケットパークは、西澤梵鐘鋳造所の50㍍ほど北になります。案内板は、中山道分間延絵図(文化5・1806年に江戸幕府作製)の五個荘周辺を拡大したものです。大郡神社、長宝寺、善住寺など現在の地図でも確認できる神社や寺院も描かれています。

● 左の集落、石寺村、清水鼻村からはじまり、石塚村、市田村、位田村、北之庄村、小幡村、中村で一番右端は愛知川です。現在地はほぼ中心の北之庄村辺りになります。小幡村に続くこの先の街道は大曲りになっています。現在も街道は、東近江市役所五個荘支所の先でそのままZ字型に屈折しています。

● 山陽道、井原市内にも大曲りがありました。単調な旅に変化をつけるために一里塚と共に意図的に街道を大きく屈折させたと説明されていました。

(地図は、案内板の位置を示す)

 

東近江市五個荘小幡町、太神宮常夜燈

● 街道の大曲りを曲がり切った三叉路のポケットパークに「太神宮」と書かれた常夜燈があります。この三叉路は中山道と、もう一方の街道が御代参街道につながる参宮道です。

● 竿(火袋の下部)の西面に明治五年の文字がわずかに見えますが、資料(滋賀県近世以前の土木遺産)によると、天保2(1831)年に建てられ、「移設/明治五年再建」とあり、移設されてきたことが示されています。

● 竿部右面  「明治五○○壬申・・・・」(文字が不鮮明で判読できない)

    正面・北「太神宮」

    左面  「村中安全」

 

 

東近江市五個荘小幡町、御代参街道分岐の道標 (平成25年10月18日、追加)

● 太神宮常夜燈から北東に進むと、右の五箇荘駅へ向かう道と御代参街道(上述の「五個荘新堂町の常夜燈」参照)とで変則的な四叉路になっています。その四叉路の南側のガードレールの中に「いせ」や「京」を示す彫りの深いしっかりとした文字の道標がありました。東面と南面は未確認ですが、資料「滋賀県近世以前の土木遺構」によれば、享保3(1718)年の銘があるようです。

● 西面「右 京みち」

  北面「左 いせ ひの /八日市 みち」

 

東近江市五個荘中町、御幸橋南の常夜燈

● 五個荘小幡町の街並みを通り抜けると、愛知川の左岸堤防上に出ますが、そこに形の良い常夜燈がありました。愛知川の渡しは街道をほぼ直進する方向に進んでいたようです。現在は少し北の御幸橋を渡ります。

● 燈籠については滋賀県の資料を引用します。春日屋根の正面に唐破風を付けた装飾的な笠(1番上の部分)を持つ、愛知川の渡しの常夜燈で、対岸の祇園神社の常夜燈と対をなし、ともに「にらみ燈籠」と呼ばれていた。

● 竿(火袋の下の部分)の西面の文字が不鮮明で判読できませんでしたが、「文政8(1825)乙酉(きのと・とり)の文字があったようです。この常夜燈も先の資料には「原位置?」とありました。

● 竿の正面・北「太神宮」

  竿の左面  「常夜燈」 

  台石北面  「中 講」

    南面  「大字中所有」

 

愛知川を渡る

● 大神宮の常夜燈から北に向かい、近江鉄道の踏切を渡ると国道8号線に出ます。国道8号線の御幸橋の中程で、東近江市から愛知(えち)郡愛荘町になります。

● 愛知川はかっては徒歩渡りでしたが、天保2(1831)年に地元町人らが共同で木製の橋を架け、渡り賃をとらないことから「無賃橋」と呼ばれていました。当時の様子は、安藤広重の「木曽海道六拾九次之内恵智川」にむちんばしが描かれています。明治11(1878)年明治天皇巡幸のために橋が架けかえられ、大正15(1926)年鉄筋コンクリートの橋となりました。現在の橋は、昭和36(1961)年に架けられた5代目です。

 

愛知郡愛荘町、祇園神社境内の常夜燈

● 国道8号線の御幸橋を渡ると、右手が祇園神社ですが、その北西角に中山道側(国道8号線)に面して常夜燈があります。これは、対岸の五個荘中町の常夜燈と対をなす「にらみ燈籠」です。

● 正面・北「常夜燈」

  背面  「弘化三年丙午春三月」(1846、ひのえ・うま)

 

愛知郡愛荘町、愛知川宿

● 中山道は、しばらく国道8号線に沿って進みます。約500㍍ほど行くと、また旧道と分岐しますが、旧道の入口に「中山道愛知川宿」と書かれた大きなゲートがあります。いよいよ第65番目の宿場、愛知川宿に入ります。

● ゲートを過ぎると小さな橋を渡りますが、下を流れる川は「不飲川」(のまずかわ)、橋は「不飲川橋」(のまずかわはし)とそれぞれ読みます。欄干の上にあるのは、愛知川地区だけに伝わる伝統工芸品「びん細工手まり」(ガラス瓶の中に手まりが入っている)を模したモニュメントでした。

● 不飲川の伝承は諸説あるようです。川の源流で激戦があり、川が血で真っ赤に染まってしまったので、それ以来川の水を飲まなくなった。また、川の源の野間津池で平将門の首を洗ったことから川が血で染まったとの説もあります。

(地図は、愛知川宿ゲートの位置を示す)

 

愛知郡愛荘町、竹平楼の明治天皇御聖蹟の碑

● 料理旅館竹平楼の前に「明治天皇御聖蹟」の碑があります。竹平楼はそのホームページによれば、創業宝暦8(1758)年の老舗の料理旅館です。初代平八が「竹の子屋」の屋号で旅館を営んだのが始まりです。

● 明治十一年三代目平八のとき、明治天皇が北陸東山道巡幸の際に立寄られました。それには岩倉具視はじめ大隈重信、井上馨、山岡鉄舟ら明治の重鎮も御供をされていたということです。その時の御座所や広間は登録有形文化財として保存されています。

● 正面・西「明治天皇御聖蹟」

  左面  「元帥伯爵 東郷平八郎 謹書」

  背面  「明治十一年秋 天皇巡幸・・・十二日駐蹕於愛知川町竹平楼・・・二十一日還幸・・・・/

       昭和九年五月 滋賀県立愛知高等女学校長・・・」

      (背面全面に漢字が書かれていたが、一部のみ確認)

 

愛知郡愛荘町、宝満寺

● 街道の左側に「親鸞聖人御舊跡」と書かれた大きな石柱がありました。ここ宝満寺は真宗大谷派の寺院ですが、境内には親鸞聖人お手植えの紅梅があり、毎年沢山の人々が梅を見に訪れてきます。愛知川が氾濫して川を渡ることができなくなったとき、親鸞聖人はここに仮宿を持たれました。その時植えられたのが梅の木でした。

● また、宝暦2(1752)年から続く、蓮如上人御影道中の御上洛の定宿にもなっています。蓮如上人御影道中とは、北陸の吉崎御坊から京都東本願寺まで上人の御影と共に歩く行事のことです。

● 正面・東「親鸞聖人御舊跡」

  左面  「負別山寶満寺」

  背面  「弘化二年乙己三月」(1845、きのと・み)

 

愛知郡愛荘町、愛知川宿北口

● 郡分(こおりわけ)延命地蔵尊を安置する地蔵堂の脇を流れる小さな川が境川で、愛知川村神崎郡と中宿村愛知郡の境界となります。町名は堺町となっています。また、ここが愛知川宿の北口でもあります。

 

愛知郡愛荘町中宿、近江商人亭

● 郡分延命地蔵尊を過ぎてしばらくすると、右手に立派なお屋敷が見えてきました。蚊帳の行商で商いを広げた近江商人、田中邸の別邸です。現在は料亭近江商人亭となっています。

● 明治25年に建てられた南土蔵を再利用しながら、大正8年に主屋を新築し、茶室、北蔵、大広間を建設、庭園を整備し現在の屋敷構えになっています。近江商人の多くは江戸時代に発展したのに対し、愛知川の商人は明治以降の近代にピークを迎えたということです。(近江商人亭HPより)

 

愛知郡愛荘町沓掛、豊満大社の道標

● 愛知川小学校前で街道は右寄りに大きく湾曲しますが、その角に昔ながらの民家があり、最近見なくなりましたが、屋根には「水」の文字があります。しばらく北へ進むと沓掛の三叉路になり、ここに「旗神豊満大社」と書かれた道標がありました。豊満(とよみつ)神社は、左の道を2㌔ほど南に行ったところにあります。

● 豊満神社は、神功皇后が三韓征伐の際、日本軍の軍旗を作ったのが始まりとされ、地元では「旗神さん」「御旗さん」と呼ばれています。境内にある竹を切って旗竿にすると戦いに勝てると言われているため、源頼朝ら多くの武将が豊満神社の竹で旗を作ったと伝えられています。また、鎌倉時代後期に建立された四脚門は国の重要文化財に指定されています。

● 正面・北「旗(竹かんむりあり)神豊満大社」

 

愛知郡愛荘町、歌詰橋

● 愛知郡愛荘町と犬上郡豊郷(とよさと)町の境界となる宇曽川に架かる歌詰橋の南にポケットパークがあり、宇曽川と歌詰橋の由来が案内されていました。

● 案内板によれば、宇曽川はかっては水量も豊富で舟運が盛んで、「運槽川」と呼ばれていたが、中世になってこれが訛って「うそ川」になったと言う。また、歌詰橋の伝承は、藤原秀郷が平将門の首に追いかけられ、その首に歌を一首と迫ったところ歌に詰まって首が土橋の上に落ちた。以来村人がこの橋を歌詰橋と呼ぶようになった。

 

犬上郡豊郷町、江州音頭発祥の地

● 街道の左手、千樹禅寺の参道入口に「江州音頭発祥地」の碑や「観音堂(千樹寺)の盆踊り /江州音頭発祥の起源」と書かれた碑が並んでがありました。

● 「えいー皆さまたのみます/(アードッコイセ)/おみかけどおりの若輩が/習い覚えた一節を/・・・(コラ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)・・・とつづく江州音頭、歌詞から想像すると伊勢音頭や河内音頭と根がつながっているように思えます。

● 千樹寺は、奈良時代に行基によって建設された江州四十九院の一つです。この寺は、中世以来たびたび焼失しましたが、その度に近在の人々の努力で再建がすすめられました。その落慶供養の余興の中で「江州音頭」の原型が出来上がりました。永禄元亀の頃、信長の戦火にあい焼失しましたが、当地の藤野太郎右エ門が浄財を投じて天正14(1586)年に再建しました。その落慶供養で音頭の調子をとり、円陣をつくって踊り明かしたと言い、それ以来旧暦の7月17日にこの行事が続けられました。天明年間またも大火にあい、焼失、このときは近江商人、藤野四郎兵衛が観音堂(千樹寺)を再建、弘化3(1846)年7月17日古例により遷仏供養を行いました。その際、八日市の西沢寅吉という祭文作りの名人を招き、一般民衆向きの音頭を作らせ、それに絵日傘や扇を与えて工夫を凝らし、当日集まった民衆にも踊らせました。その後、他の村の祝い事などでもこの踊りを催すようになり、現在では毎年8月17日の観音盆には、扇踊り、日傘お踊りが好評を博しています。 

 

犬上郡豊郷町、一里塚址の碑と豊会館

● 豊会館の前に「中山道一里塚址」の碑がありました。これは日本橋から数えて121番目の「石畑一里塚」跡を示す石碑ですが、元の位置は、ここから1㌔ほど北の豊郷町役場付近になるそうです。

● 豊会館は、現在は資料館ですが、藤野喜兵衛の本宅、又十屋敷でした。幕末の頃、喜兵衛は12歳で北海道にわたり、又十という商標の呉服商で財をなし、そのかたわら漁場を開いて廻船業も営みました。松前藩の信頼を得て、根室、千島列島全島の漁場から鮭鱒を捕獲し、大坂、兵庫、下関へ輸送、販売しました。喜兵衛は帰郷し、44歳で亡くなりますが、業績は引き継がれ鮭鱒缶詰工場として発展、「あけぼの印の缶詰」として知られるようになりました。

● 最近読んだ浅田次郎の「終わらざる夏」という終戦秘話の小説がありますが、この中に千島列島の北端、幌筵島のあけぼの缶詰工場での女工たちの様子が描かれていたのを思い出しました。

 

犬上郡豊郷町、金田池

● 湧水の周りに、「金田池」と書いた説明板その前に「水の香る郷/四ッ谷」、井戸の後ろに「西沢新平家邸跡」と書かれた石柱がありました。

● 金田池の説明板によれば、この地より50㍍ほど北に金田池という池があり、中山道を旅する人々の喉をうるおしてきた。、近年地殻の変動により出水しなくなり埋め立てられましたが、当地区の最上流にあり、永年名水として親しまれてきたので、それを模して再現したということです。

● 四ツ谷という場所、西沢新平という人物についてはよくわかりません。地図で確認すると近くに「西沢藤平商店」がありますが、名前が一字違いです、関係者の方でしょうか?

 

犬上郡豊郷町、伊藤忠兵衛記念館

● 中山道に面して、黒塀に見越しの松のあるひときわ目立つ豪邸が伊藤忠兵衛記念館です。伊藤忠商事、丸紅の創始者である初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備し、伊藤忠兵衛記念館として、一般公開しています。

● 初代忠兵衛は、1842年繊維業を営む「紅長」の家に生まれました。17歳の時、行商先の長崎で外国貿易の盛んなことに刺激を受けました。そして、明治5年大阪本町で繊維問屋「紅忠」を開設します。2代目忠兵衛はイギリスに留学し、外国商館を通さず直接イギリスと商売することが国益になることに気づきます。この経験が「総合商社」の原点になっています。その後業績を拡大し、「伊藤忠商店」は本家の「紅長」と合併、「丸紅商店」がうまれ、現在の「伊藤忠商事」「丸紅」へと発展しました。(豊郷町HPなど)

 

犬上郡豊郷町、伊藤長兵衛家屋敷跡の碑

● 伊藤忠兵衛記念館の少し北の公園の一角の小高い塚に「伊藤長兵衛家屋敷跡」「七代目伊藤長兵衛翁の偉業/豊郷病院」の碑があります。この辺りは駐車場でしたが、伊藤長兵衛の子孫の方が寄贈した土地との説明がありました。

● 伊藤長兵衛は、幼名を若林長次郎といい、16歳で伊藤長兵衛商店に入り、22歳で伊藤長兵衛(初代忠兵衛の兄)の養子となり、その後七代目長兵衛を襲名しました。そして、先代が創業した伊藤長兵衛商店を発展させ、1921年伊藤忠兵衛商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就きました。1925年巨額の浄財と敷地の大部分を寄付して、豊郷病院を創設した篤志の人でもありました。

 

犬上郡豊郷町、くれなゐ園

● 伊藤長兵衛家屋敷跡の隣接地はかなり広い公園になっています。

入口には「くれなゐ園」の碑が、中央には伊藤忠兵衛のレリーフの下に「伊藤忠兵衛翁碑」と書かれた大きな碑があります。この公園は、昭和10年に同氏の功績を讃えて作られています。