―中山道の道標(5)―

(平成25年10月18日)

 このページでは、愛知川宿と髙宮宿の間の宿、石畑(豊郷町大字石畑)から彦根市の鳥居本宿(とりいもとじゅく)までの道標などを紹介します。

 この間は、数ヶ所に松やけやきの並木が残っており、旧街道の面影を残しています。一方、新幹線と名神高速道にはさまれた区間もあり時代の流れを感じさせる街道でもあります。

 

犬上郡豊郷町大字石畑、一里塚の郷の碑

● 近江鉄道豊郷駅で下りて、中山道を北東に進みました。しばらく進むと豊郷町役場があり、その前の交差点辺りに、江戸から121里の一里塚があったそうですが、その形跡は何も見つけられませんでした。

● さらに進むと、八幡神社の境内に「一里塚の郷 石畑」と書かれた大きな丸い石柱が建っていました。近くの説明板には、石畑の歴史が案内されていました。

● それによると、ここ石畑は、江戸時代のころは愛知川宿と髙宮宿の間の宿として発展し、立場茶屋が設けられ旅人や馬の休息で栄えていた。役場前交差点南(小字一里山)には一里塚が設けられ「高さ一丈余の塚で松が植えられてあって塚の上からは湖水が見えた」と豊郷村史にあるそうです。

● また、石畑の歴史として、源平合戦のころ、那須与一の二男、石畠民武大輔宗信がこの辺りの豪族佐々木氏の旗頭としてこの地を治めていたことや、この碑の付近には、延應元(1239)年石清水八幡宮から勧請した八幡神社と正嘉2(1258)年に創建された称名寺があることが、案内されていました。

 

犬上郡豊郷町大字四十九院付近

● 左の写真は、四十九院交差点手前の街並みですが、四十九院の地名は、このお屋敷の前、街道の右側に見えた唯念寺から来ているようです。(地図は、左写真の家並撮影の位置を示す)

● 四十九院は、僧行基が731年に江州四十九院(畿内49院とは別のようです)の最後に開創したと伝えられる古刹で、この寺名が地名として残されたものです。1506年には浄土真宗に変わり、1586年に唯念寺となっています。

● 四十九院の交差点を過ぎると、けやき並木が続きますが、街道の左(西)側は彦根市出町、右(東)側は犬上郡甲良町大字尼子になっており、街道の中心がその境界になっています。

 

彦根市葛籠(つづら)町、旅人のモニュメント

● けやき並木を過ぎると街道は両側とも彦根市になります。やがて松並木に変わり、その並木が途切れた街道の右側に大きなモニュメントがあります。三本の柱の上には三者三様の旅人の像があり、手前の柱には「おいでやす 彦根市」と書かれています。また反対側の柱には「またおいでやす」と書かれていました。

 

彦根市法士町、一里塚跡の碑

● 葛籠町の先は、ゆるく蛇行しながら少し家並が続きます。小さな川の手前に平成23年に建てられた法士(ほうぜ)一里塚跡の碑がありました。江戸から120里の一里塚になります。

● 右面   「中山道」

  正面・北西「法士一里塚跡」

  左面   「平成23年建立」

 

彦根市高宮町無賃橋南詰、牛頭天王道の道標

● 本日最初の道標を、ここ無賃橋の南詰で見つけました。道標の案内に従って地図で確認すると、東へ約1㌔ほどの所、犬上郡甲良町大字小川原に小川原神社と願照寺があります。調べてみると、ここと牛頭天王との関わりには次の2説が見つかりました。

● 建武年間(1334~38)の大洪水で、大滝村(現、多賀町大滝村)から漂着した「牛頭天王」を、願照寺境内に祀ったのが創始とされ、元禄4(1691)年境内に社殿を建立し、牛頭天王社と称しました。明治18年、神仏分離令によって小川原(こがわはら)神社と改称しています。

● 聖徳太子が百済寺草創のとき心魂を傾けて尊像を彫刻しました。それを願照寺住職が牛頭天王宮として境内に奉祀したのが神社の創始です。

● 正面・南「牛頭天王道 東へ八丁余」

  背面  「明治三十七年甲辰七月 /長濱 ○○○○建・・・」(「○」は判読不能、「・・・」は埋没」

 

彦根市高宮町、無賃橋南詰

● 犬上川に架かる高宮橋側道橋の南側に「中山道 高宮宿」と書かれた大木の柱と共に無賃橋の碑があります。ここは高宮宿の南の入口でもあります。無賃橋のいわれは、近くの説明板によると次の通りです。

● 天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」を解消するために、この地の富豪、藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋を架けることを命じました。当時川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれるようになりました。

● 右面  「無賃橋」

  正面・南「むちんはし」

  左面  「天保三年 /壬辰十一月」(1832、みずのえ・たつ)

  背面  「むちんはし」

 

彦根市高宮町、無賃橋北詰

● 高宮橋の北側に無賃橋地蔵尊があり、その前にも南詰と同様の碑が建てられていました。

● 右面  「むちんはし」

  正面・東「無賃橋」

  左面  「むちんはし」

  背面  「天保三年 /壬辰十一月」(1832、みずのえ・たつ)

 

彦根市高宮町、圓照寺と明治天皇行在聖跡の碑

● 無賃橋を渡ると高宮宿の街並みが続きます。しばらく進むと街道の左側に圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑がありました。

● 浄土真宗本願寺派の三光山圓照寺は、明応7(1498)年高宮氏家臣の北川九兵衛が仏門に入り、明道と名乗って仏堂を建立したのが始まりとされています。慶長19(1614)年徳川家康は佐和山から永原へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公腰掛石」が境内に残されています。側には樹齢350年の老紅梅があり、保存されています。また、明治天皇が北陸東海巡幸の往復時に宿泊の際、気に入ったといわれる「止鑾松(しらんまつ)」(2代目)もあります。

● 右面  「  陸軍大将  一戸兵衛書」

  正面・東「明治天皇行在聖跡」

  背面  「行在  明治十一年十月十一日 /明治十一年十月二十一日」

 

彦根市高宮町、高宮宿本陣跡と芭蕉紙子塚

● 圓照寺の前に高宮宿本陣跡(小林家)があります。高宮宿の本陣は1軒で、総坪数448坪、建坪123坪あったといわれていますが、現在は表門が当時のまま残されています。脇本陣は2軒でした。

● 本陣跡の少し北、街道の左側に芭蕉ゆかりの紙子塚の碑がありました。

(地図は、本陣跡の位置を示す)

 

彦根市高宮町、多賀大社一の鳥居と道標

● ここから東へ約4㌔の所にある多賀大社一の鳥居です。ここは中山道と多賀道の分岐であり、同大社の旧境界でもありました。鳥居の建立は寛永12(1635)で、幅は8メートル高さは11メートルあり、県の文化財にも指定されています。

● 鳥居右側の柱の横に、句碑などと並んで道標(丁石?)が1基あります。その後ろの常夜燈は高さ6㍍で、背面には燈明を灯す小窓まで石造りの13段の階段があります。かっては参道の両側に常夜燈があったようです。

● 道標右の句碑「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな 尚白」(尚白は芭蕉の弟子のひとり)

● 正面・北西「是より多賀みち 三十丁」(「丁」は埋没している)

 

彦根市高宮町、高宮神社

● 高宮神社は、高宮宿の中ほど中山道の左側にあります。鳥居前の説明板によれば、明治3年の大洪水で旧記が流され、沿革はほとんど判らないそうですが、拝殿と本殿の間には正徳3(1713)年のものと思われる灯篭が残っているということです。また、毎年4月には「高宮の太鼓祭」として知られる春季例大祭が行われています。

● 鳥居の前には、古民家を改装した「宿駅 座・楽庵」というコミュニティスペースがあります。この建物は、江戸時代に近江上布の店であった布惣を、滋賀県立大学の学生が改装し、運営しているものです。布惣は高宮の商人堤惣平が明治末期まで経営し、大正時代からは金物店を営み2007年ころ店を閉め、改装しています。

(地図は鳥居の位置を示す)

 

彦根市高宮町、大北の地蔵堂

● 中山道と県道224号線の高宮町大北交差点の南西角にこの地蔵堂があります。説明板によれば眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身で「木之本分身地蔵菩薩」と呼ばれているそうです。

 

彦根市大堀町、彦根道分岐の道標(2基)

● 高宮町大北の交差点から近江鉄道の踏切を渡ると常夜燈があり、その辺りが高宮宿の北の入口になるようですが、見逃してしまいました。そこから少し進むと彦根市大堀町になります。大堀町の町中の三叉路、民家の塀のまえに2基の道標がありました。この三叉路を左(西北)に進むと、東沼波(ひがしのなみ)町、七曲り地区を通り、高宮口御門で彦根城下に入ります。

● 右側の小さな石柱も道標のように見えますが、正面の文字が判読できません。右面は明治元年と読めます。戊辰戦争のさ中に建てられたということになります。この年は、9月8日(西暦1868年10月23日)に慶応から明治に改元されていますが、慶応4年1月1日(西暦1868年1月25日)に遡って明治元年とすると定められています。

● 左の道標

 正面・南西「すぐ 中山道 /左 彦根道」

 背面   「○・・・・・・○ 」(判読不能)

● 右の道標

 右面   「明治元年戊辰十月・・・」

 正面・南西「右・・・・ /左・・・・」(判読不能)

 

彦根市大堀町、石清水神社前の道標

● 芹川の手前の小高い山のふもとに「石清水神社」の石柱が建ってました。神功皇后を祭神とするこの神社は、安産の神として参拝、祈願する人も多いようです。

● この神社前の中山道沿いに多賀大社を案内する道標(丁石?)がありました。道標の右の道を東に進み芹川沿いに進むと多賀大社に向かうことができます。鳥居本宿方面からの旅人にとっては近道になります。

● 正面・西「是より多賀みち・・・」(「・・・」は二十丁とも読めるが、なぜか塗りつぶされている)

 

彦根市大堀町、大堀橋南詰の石碑

● 旭森公園の北、芹川に架かる大堀橋の南詰に真新しい石碑が建っていました。ここに記された「床の山」は、鳥籠山、鞍掛山などいろんな呼び方をされ、万葉集にも出ているそうです。また、壬申の乱の際の戦場でもあったと記録に残っています。古くから知られているにも関わらず、場所が特定されていません。という訳で石柱の右面にも「・・・異説がありますが・・・」と断りがあります。

● 右面  「鳥籠山につきましては往々の異説がありますが、旧跡を

       残す意味に於いてこの場所に建立しました。」

  正面・北「中山道旧跡 床の山」

  左面  「ひるがおに昼寝せうもの床の山 芭蕉」

(大津から岐阜への途中、中山道床の山辺りから彦根の李由に文通した句、立寄って昼寝でもしたいが、会わずに過ぎる心残りを床の山に託して言い送った。近江の芭蕉句碑を訪ねる、より)(李由は、光明遍照寺=現、彦根市平田町明照寺の住職)

  背面  「平成二年五月三日 細江敏 建之 柳堂書」(フェンス側のため未確認)

 

彦根市正法寺町、金毘羅大権現の道標

● 交差点の北東角にこの道標があります。この道標は、ここから東方の野田山にある金毘羅宮慈眼寺を示しています。

● 右面  「慶應二丙寅年五月十日  現・・・」(1866.ひのえ・とら)「・・・」部分は判読不能

  正面・南「金毘羅大権現 是ヨリ十・・・」(「・・・」は埋没、「ヨリ」は横書き)

  左面  「   願主・・・」(判読不能)

 

彦根市地蔵町、矢除地蔵堂と春日神社

● 街道から少し左(西)に入ったところ、勝満寺の鐘楼のまえに地蔵堂があります。これが聖徳太子ゆかりの矢除地蔵堂です。地蔵堂の由来は、概略次の通りです。第30代敏達天皇のころ、仏教伝来に反対する物部守屋と争われた聖徳太子は、難を逃れてこの地に隠れておられた。守屋の軍勢が太子を見つけ矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。あとになって松の根方に小さな地蔵さんが右肩に矢を射こまれて血が流れた跡があった。世人はこれを尊び一宇のお堂を建て、往来の安全を願った。

● 春日神社に伝わる古文書には、仏教の伝来を忌む物部守屋が軍を起こした。厩戸皇子は不知川(不知哉川、いさやかわ、現芹川)の東方、鳥籠山(とこのやま)に陣した。その際、皇子は麓の霊神に戦勝を祈願し、当時矢除けに用いた石矛を奉納した。その霊石は当社に存する。と記されているようです。

(地図は矢除地蔵堂を示す)

 

彦根市原町、彦根インター付近の道標 (6基)

● 正法寺交差点の北の旧道のようなところに多賀大社の常夜燈がありますが、その北側に6基の石柱が無雑作に並べてありました。この辺りは名神高速道の彦根インタ―になっているので、それらの工事の際にここに集められたものと思われます。いずれは北側のような緑地帯に整備されることと期待しています。

● 常夜燈は慶応3(1867)年の建立で、願主は野村善左衛門、野村善七となっています。また、三番目の道標が示す慶光院はここから東南方向、名神高速道の東側にあります。

● 一番右の石柱 (常夜燈の由緒説明と思われる)

 正面・北「多賀大社東参詣道のしるべとして多賀町中川/原住人野村善左衛門が発願、慶応三年二月/

      野村善七が建立寄進した」

 左面  「風雪の浸食甚だしくここにその意を伝えるべく標・・・/

      昭和六十年三月 彦根市銀座町 野村・・・」(「・・・」部分は確認不足)

● 右から二番目の道標 (正法寺町の道標とほぼ同じ)

 右面  「慶應二年丙寅年五月十日 現○○○」(「○○○」は判読不能) 

 正面・北「金毘羅大権現 是ヨリ十一丁」(「ヨリ」は横書き)

 左面  「   願主・・・」(「…」部分は判読不能)

● 三番目の道標 

 正面・北「○○○/○○○ 安産観世音 是ヨリ/四丁 慶光院」

     (○の6文字は、「鑑査状/○下附」とも読めるが?)

● 四番目の道標 

 正面・北「多賀大」(下部欠損)

● 五番目の道標 

 正面・北「廿八丁」(丁石と思われる。上部は欠損、左右面の文字は判読不能)

● 六番目の道標

 正面・北「是より多賀ちかみち」

 

彦根市原町、彦根インター北側緑地帯の道標 (2基)

● 彦根インターの下を通り過ぎるとよく整備された緑地帯があり、そこに2基の道標がありました。中山道側(東)の道標は、天寧寺五百羅漢を案内していますが、西側の道標(?)は、、左右面の年月をみると、起工から竣工まで1年半を要しているようです。これから推測すると、道路整備完了の記念碑のように思われます。「はらみち」はここ原町から多賀大社までの参詣道を指すようですが、正確なことは判りません。また、石碑正面の中央部に「訓」とあり、下部に2文字づつ3行書かれています。一番右は「感謝」のようにも読めますが、彫りが浅く判読できません。説明板がほしいところです。

● 天寧寺は、ここから北西方向の里根山の中腹にあります。井伊直政公の実母をまつっていた崇徳寺を移築したと言われ、文化8(1811)年に本堂が建立されています。その後、文政11(1828)年に羅漢堂が建立され、五百羅漢が安置されました。11代藩主井伊直中公が、不義をはたらいた腰元を成敗しますが、あやまりに気づき、腰元とその子(藩主の孫になる)の菩提を弔うために京の仏師に500体の羅漢像を作らせ、羅漢堂に安置した、という経緯があるようです。

● 東側の道標

 右面  「す /く  ひこ祢」(「すく」は右横書き)

 正面・北「天 /寧 /寺 五百羅漢 江 七丁餘」(「天寧寺」は右横書き、「江」は小文字)

 左面  「天保十五年甲辰初夏」(1844、きのえ・たつ)

● 西側の道標(?)

 右面  「昭和廿八年三月起工 彦根市長」

 正面・北はらみち(中部)(下部)○○ /○○ /○○」(上部は陽刻、下部は判読不能)

 左面  「昭和廿九年九月竣工 彦根市長」

 

彦根市原町、原八幡神社の鳥居

● この鳥居の先が原八幡神社ですが、境内に入ることなく通り過ぎました。あとで調べてみると、境内には芭蕉とその門人祇川の句碑があるようです。鳥居の下にはその案内の碑が見えます。

● 芭蕉句碑(昼寝塚) 「ひるかほに 昼ねせうもの 床のやま」(大堀橋南詰の句碑と同じ)

● 祇川句碑(白髪塚) 「恥ながら 残す白髪や 秋の風」(芭蕉門人・祇川居士が、聖徳太子と物部守屋との戦いなど、幾多の戦いの将士たちをあわれみ、師の夏の句に対し秋を詠んだ句といわれる) 

 

彦根市小野町、小町塚

● 原町の少し先で新幹線の高架下をくぐると、新幹線と名神高速道に挟まれた狭いところを街道は通ります。しばらく進むと、名神高速道を背にして小さなお堂があり、そのまえに小町前茶屋、小町塚などの案内板がありました。

● 小町前茶屋は、ここに明治の中頃まで茶店があり、お多賀さん参りの客で賑わったとあります。

● 小町塚のお堂には、小町地蔵と親しまれてきた自然石に彫られた石仏(15世紀後半の造仏)がある。また、ここ小野の地は、東山道の駅家として機能していたことや、小野小町の生誕地としての伝承がある、ことなどが説明されています。

 

彦根市小野町、小野町こまち会館周辺の街並み

● ここ小野町は、中世の東海道(現中山道)の宿駅の一つ小野宿でした。古い街並みが感じられます。また、街道沿いの小川へは、各家ごとに階段がつけられ、洗いものなどでいつでも利用できるようになっていました。

(地図は、小野こまち会館前を示す)

 

彦根市鳥居本町、彦根道との分岐の道標

● 小野町の家並みを過ぎると、しばらくは野道になり新幹線も名神高速道も左右にかなり離れていきます。次の家並みは、本日のゴールである中山道第63次鳥居本宿(とりいもとじゅく)です。宿場に入って最初の三叉路の南西角に、数本の石柱に囲まれて大きな道標がありました。ここが中山道と彦根道の分岐になります。野洲市で分岐した朝鮮人街道はここで再び中山道と合流しました。横に設置された説明板によると、彦根道は、二代彦根藩主井伊直孝の時代に中山道と城下を結ぶ脇街道として整備されました。また、説明板には、「・・・京/いせ 道」となっていますが、「道」の文字は埋没しているのか、現物では確認できませんでした。

● 東面「左 中山道 京 /いせ」

  西面「文政十丁亥秋 建之」(1827、ひのと・い)

  北面「右 彦根道」

 

彦根市鳥居本町、「往来安全」の碑

● 彦根道分岐の道標の道路の反対側、彦根道からの突き当たりに「往来安全」という碑が立っていました。旅人の安全を願っての碑でしょうか。上部には環状の金具が取り付けられていますが、どのように使用するのかよくわかりませんでした。また、そうした場所には、多くは地蔵菩薩があるのですがそれも見当たりませんでした。

● 正面・西「往来安全」

  背面  「大正七年三月」

 

彦根市鳥居本宿、専宗寺

● 宿場の中ほど、街道の西側に聖徳太子が開祖と伝えられる専宗寺があります。門前の説明板によれば、太鼓門の天井は、佐和山城の遺構と伝えられています。

 

彦根市鳥居本町、街道風景

● 近江鉄道の鳥居本駅に向かう途中の街道筋の風景です。

● 合羽所「松屋」、江戸時代には渋紙で合羽が製造されていましたが、鳥居本ではその製造は1970年代に終焉し、屋根の上の看板が、産地の歴史を伝えています。昔のままに屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、かっての家屋の構造を生かして2001年に改築されました。

● 脇本陣、問屋跡、鳥居本宿には脇本陣が2軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた髙橋家が残されました。脇本陣には、当時の輸送システムの一部である人馬継立を行う施設、問屋場が併設されていました。

(地図は、脇本陣、問屋跡の位置を示す)