ー中山道の道標(7)ー

(平成28年3月17日)

 醒ヶ井宿の中ほどの醒井大橋という小さな橋を再スタート地点として関ヶ原宿までの街道筋を紹介します。この間は、一本道のせいか目的の旧い道標は2基しか見つけられませんでしたので、周辺の風景を中心にまとめてみました。

 

醒ヶ井宿、居醒の清水

● 醒ケ井宿は中山道の61番目の宿場になります。地蔵川沿いに東に向かうと米原市醒井宿資料館(旧問屋場、)や本陣跡、木彫美術館などが川沿いに並んでいます。

● その街並みの東端に加茂神社が建っています。崖一面の神社の全容に圧倒されます。その前に醒ヶ井の名の由来である「居醒の清水」(いざめのせいすい)という湧水があります。古事記や日本書記に登場する日本武尊が熱病で倒れた時、この水で熱を醒ましたと伝えられているそうです。 

 

一色の一里塚跡

● 加茂神社から東に向かいます。街道の正面に少し雪の残る伊吹山を望みながら進むと醒ケ井宿の東見附跡に出ます。まっすぐ進むと国道21号線に合流しますが、旧街道は右折して東に進みます。米原市一色という町名にかわりしばらく進むと、右側に「中山道/一里塚の跡」の比較的新しい碑がありました。

 

一色から梓河内へ

● 街道は、一里塚跡から東に進み一旦国道21号線に合流しますが、500㍍くらい先で国道を横断して、また細い道に戻ります。国道と並行してしばらく進むと町名は米原市梓河内に変わります。この辺りでは、旧街道と国道21号線と名神高速道が隣同士です(写真中)。うっそうとした杉並木(写真右)の道にも自動車の音が絶えません。

● 地図は杉並木の道の位置を示します。この杉並木の左(北)側に旧中山道が並行している。

 

小川関の趾

● 杉並木を出ると町名は米原市柏原となり、旧中山道と中山道が合流している。ここに「柏原宿枝郷 長沢」と場所を示す碑と共に、「小川関趾」 (背面に大正十一年とある)、「菖蒲(あやめ)ヶ池跡」の碑が建っています。それぞれの説明板によると・・・

● 「小川関址」は、近江坂田郡志にこの辺りに関屋があったことが書かれているが、往時を示す様子はなく、場所は確定できない。しかし、旧中山道の山側(通った杉並木の中?)に整然と区画された館跡を確認することができる。

● 「菖蒲ヶ池跡」は、古くは詩にも詠まれた名所であったが、江戸時代の後期には消滅している。 

 

長沢の道標

● 本日はじめての道標に出会いました。ここからは南東方向になる泉明院を案内しています。これと同じ道標が柏原宿内にもありますので、詳細はそちらに記載します。

●下部は埋没しているので、( )内は推測です。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「やくしへのみ(ち)」

 正面「従是明星山薬(師寺道)」

 左面「屋具志江乃(道)」

 背面(文字は確認できない)

 

掃除丁場と並び松

● 長沢の集落と柏原宿西見附跡まで間の街道は、山裾の曲がりくねった道筋になります。地図でもわかるように田の中のあぜ道を直進した方が近道のようですが、「耕作地を広くしたいので、街道はできるだけ山裾を通していた」という話を姫路近くの但馬道で聞いたことがあるのを思い出しました。

● 途中に「掃除丁場と並び松」という案内板がありました。それによると・・・

 「掃除丁場」は街道掃除の受持ち区域のことで、貴人の通行に備え、街道の路面整備・除草・松並木の枯木や倒木の処置・補植などにこの付近21ヶ村が賦役に従事していた、とありました。また、並び松は松並木のことで、江戸時代後期にはこの付近に約450本の松並木があったそうです。

● こうした庶民の活動のおかげで街道の維持がなされていたのですね。

 

柏原宿西見附跡と一里塚跡

● 宿場の西の入口が西見附で、街道の両側に喰い違いの土手があったようですが、その面影はありません。この辺りは海抜174㍍で、鳥居本宿と番場宿の中間で琵琶湖がみえたという摺針峠(154㍍)より高いそうですが、周りの景色からは高さの想像ができません。ここから東見附跡まで13町の宿場が続くことになります。

● この近くに本日2か所目の一里塚跡がありました。街道の両側にあったということですが、現在はありません。「柏原一里塚跡」(背面に「平成十五年十一月建之/柏原学区史跡保存会」)の碑の付近の河川整備のため街道からは少し外れたところに復元された一里塚がありました。方五間(約9㍍)の塚に一本の榎が植えられていたました。(地図は復元された一里塚の位置を示す)

 

柏原宿

● 柏原宿は中山道60番目の宿場で、江戸から約112里、京までは約21里のところにある。名物は「伊吹もぐさ」で当時は十数店の店があった。その中の1軒「伊吹堂亀屋佐京商店」(中写真)は創業寛文元(1661)年で、広重の「木曽海道六拾九次・柏原」にその店頭風景が描かれている。

 本陣、脇本陣はそれぞれ一軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒、造り酒屋も一時は四軒もあり盛況であった。(宿場中ほどの案内板を引用)

● 各民家の軒下には屋号や役職を示す表示板(右写真)が設置されていて、当時の街道の様子がわかりやすくなっていました。(地図は柏原宿歴史館の位置を示す)

 

やくし道の道標

● 長沢の道標とほぼ同型の道標が宿場内にも建っていました。こちらの道標の背面には紀年銘が入っていました。ここには説明板もあったので引用しました。

● 案内しているのは、最澄が創立したといわれる明星山明星輪寺泉明院です。ここからは南の方向になります。現在の地図には泉明院と記載されています。宿場内の東に同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、ここから泉明院への道は、明星山やくし道、西やくし道と呼ばれていました。戦前までは眼病に霊験があると賑わっていましたが、今は往年の面影はありません。

 

● 銘文(正面・北) (1717年、ひのと・とり)

 右面「屋具志へのみち」

 正面「従是明星山薬師道」

 左面「やくし江乃道」

 背面「享保二丁酉仲春 願主 山門坂本 /富氏法橋秀快」

 

米原市柏原から長久寺へ

● 柏原宿の東端で東海道本線の踏切を渡り、東に向かうと街道の左に神明神社の鳥居があります。ここに「旧東山道」の標識がありますが、ここで北西方向からの旧東山道と合流します。ここから、これから進む県境にかけての中山道は、旧東山道の上に敷設されたことになります。

● 現在もこの地点では、東海道本線、国道21号線、名神高速道が最接近しています。新幹線は少し北をトンネルで通過しています。(地図は左写真の位置を示す))  

 

近江国と美濃国の国境

● 長久寺集会所前の説明板によれば、「かってこの地に長久寺という寺があり今の地名になった。近江美濃両国の境で家数は25軒、うち5軒は美濃に属していた。壁一重を距てて近江美濃両国の者が寝ながらに会話を交わすことができた。これは両国の境が小さな溝一つを距てるのみだから(近江輿地志略、享保19(1734)年より)」。

● さらに国境近くの「寝物語の由来」という碑には次のような言い伝えがあることも説明されていた。

 「平治の乱(1159年)の後、源義朝を追ってきた常盤御前が夜更けに隣宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ所とも、源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った所とも伝えられている。寝物語は中山道の古跡としても名高く、古歌や広重の浮世絵などにも描かれている」。

● 現在もこの小さな溝が、滋賀県と岐阜県の境界になっています。数ヶ所の県境を通ってきましたが、物語付きの県境は初めてです。

 

芭蕉の句碑

● 国境を越えると地名は、岐阜県不破郡関ケ原町今須になります。

 (株)オーツカの工場前に芭蕉の句碑が並んでいました。芭蕉は奥の細道や野ざらし紀行で寝物語の里を通っています。右は「月日は百代の過客にして・・・」のおくのほそ道の板碑、中央は「年暮れぬ笠着て草鞋はきなから はせを」野ざらし紀行の句碑、左は「正月も /美濃と近江や /閏月 はせ越」の句碑です。

 

今須宿

● 東海道本線と国道21号線を横断すると緩い左カーブの下り坂となり今須宿に入ります。今須宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場7軒などがあり、国境の宿として栄えていました。建物が残っているのは、問屋場の山崎家のみです。

● 国道と本線のガードの向こうに見えるのは妙応寺で、正平15(1360)年領主の長江重景によって創建された県下の曹洞宗寺院では最古の寺です。

● 宿場のはずれの坂を上ったところでまた国道21号線と合流します。ここに本日3ヵ所目となる今須一里塚跡がありました。(地図は一里塚跡の場所を示す)

 

藤古川(関の藤川)

● 中山道は、今須一里塚の東で国道21号線を横断して旧道に入るのですが、入り口を見逃したようです。そのまま国道を歩いたので、旧道沿いにあるという常盤御前の墓を見落としてしまいました。

● 関ヶ原町には、武将の墓、陣地跡、首塚などの案内標識が各所に建てられています。最初に目にしたのが、国道から旧道に再び分岐した地点に建っていた大谷吉継の墓の案内でした。

● 旧道を東に進んで坂を下ると小さな川になります。これが藤古川で関の近くを流れているので、関の藤川と呼ばれていました。壬申の乱(672年)では両軍がこの川を挟んで開戦したり、関ヶ原合戦の際には上流右岸に大谷吉継が布陣するなどこの辺りは軍事上の要塞でした。また、古来より歌枕として歌人に知られ、多くの詩歌に詠まれています。

 

不破の関跡

● 藤古川を渡り坂を上り切ると「不破関守址」の標識があります。不破の関は、藤古川を西限として利用し、左岸の高度差10~20㍍ほどの河岸段丘上に主要施設が築造されていました。段丘の中間あたりに不破関西城門(きもん)跡を示す案内板がありました。

● 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに古代律令制下の三関(さんげん)として壬申の乱以後に設けられたとされています。

 延暦八(789)年に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が記されています。

● 昭和49年から五次にわたって実施された不破の関発掘調査により、その概要が明らかとなり、これを契機に昭和57年不破の関跡の一角に資料館が建設されています。

 

不破関東城門

● 街道は、不破関をすぎると平坦な道になります。国道21号線に合流する手前の三差路に「不破関東城門(きもん)跡」の案内板がありました。

 東山道は、ここ東城門から西城門にかけて関の中央部を東西に通り抜けていました。城門には多くの兵士が守りを固めて、日の出に開門し、日の入と共に閉門していました。また、奈良の都での事変や天皇の崩御など、国家的な大事件が起きると中央政府からの指令により固関(こけん)が行われ、すべての通行が停止されていました。(地図は東城門跡の位置を示す)

● 松尾交差点で国道21号線と再び合流し東に進むと、国道の北側に「史蹟関ヶ原古戦場西首塚」があります。関ヶ原合戦では、約17万人の兵士が戦い、8千人の死者が出たといわれています。徳川家康は首実検の後、この地を治める竹中重門に供養料を与えて、その処置を命じました。その結果造られたのが東首塚と西首塚でした。

 

薩摩カイコウズ街道

● 国道21号線は、西首塚の東で国道365号線と交差します。この関ヶ原西町交差点を北に向かうと合戦の開戦地や決戦地などの史蹟が数多く点在していますが、これらはすでに訪れているので本日は省略しました。

 またこのR365は、合戦後に島津義弘が敵中突破したルートでもあるので、現在の地図には「薩摩カイコウズ街道」と付されています。「カイコウズ」とは、海紅豆と書き鹿児島県の県木です。(地図はR21とR365の交差点を示す)

 

圓龍寺、明治天皇御膳水

● この街道では明治天皇の聖蹟碑が少ないと思っていましたが、やっと見つかりました。醒ヶ井宿以来です。

「明治天皇御膳水」という碑は始めてみました。

● 明治天皇がご巡幸の際、隣の宗徳寺で休まれ、圓龍寺の水が出されたということのようですが、詳細は分かりません。宗徳寺には「明治天皇関ヶ原御小休所」の碑があったのですが、これも見落としました。

 

関ヶ原宿脇本陣跡

● 駅に向かう途中で脇本陣跡の案内板を見つけました。