―加古川市北部の道標―

 (平成22年8月25日)

 加古川市の資料によれば、同市の北部(神野町、八幡町)には約20基の道標が記載されています。この地区には主要な街道はありませんが、山陽道と有馬街道(湯之山街道)に挟まれ、網の目のように支道が広がっています。

 ここでは加古川市中津の常夜燈から東に向かって歩いてみました。この地域の道標は、日岡神社への案内が多く、他の地区のように仏像を彫ったものはあまり見当たりませんでした。施主や願主が明確にされているのも特徴的かと感じました。

 また、のどかな農村地帯も道路の整備が進み、何度さがしても見つけることができないものもありました。 

 

 中津常夜燈前の道標 (2基) (←ここをクリックすると所在地を表示)

● この道標の所在地は、加古川市加古川町中津です。ここは中津の旧道で加古川の堤防と大野方面への分岐点になります。県道18号加古川小野線の中津北交差点を西の方に向かった住宅街の中で、一見場違いな感じの大きな常夜燈があります。道標はその前に二つ並んでありました。右側の道標の「大野宮道」は、日岡神社へ向かう道を示している。後ろの常夜燈にも文政六年の年号が入っていました。

● 地図で確認すると、ここから左(西)に向かうと加古川の土手に出て国包や三木方面に行くことができます。右に向かえば日岡神社です。

● 右側の道標

  正面・南「右 大野宮道」

  左面  「願主 高砂 /石井市次郎」

● 左の道標

  右面  「文政六未年五月建立」(1823、みずのと・ひつじ)

  正面・南「右 加古新田 /左 國かね三木 道」

  左面  「當所 西國同行十二人」

(↓下の写真をクリックすると拡大できます)

 

JR日岡駅北の道標

● この道標は、JR日岡駅北の踏切と県道18の間の細い道路にあります。今では間道のような細い道ですが、道案内の内容から当時は重要な道路であったのかもしれません。方位とそれぞれの方角にある地名や場所名が書かれています。 

● 日岡神社の創建は天平2年(730)と伝えられ、安産祈願で有名です。第12代景行天皇の皇后播磨稲日太郎姫命が安産祈願をし、無事双子を出産しました。その一人はヤマトタケルです。このことから安産の神として信仰されるようになったとのことです。近世には「正一位日向大明神」と称していましたが、明治七年に「日岡神社」と改称したとのことです。余談ですが、ヤマトタケルの第二王子が第十四代仲哀天皇でその皇后が、この地区でも伝説の多い神功皇后です。 

● 右面  「北 法華山ほう条 /三木ありま」

  正面・東「○ 日向社加古新田」

  左面  「南 明石兵庫」

  背面  「明治二年 /○巳二月 願主 西國 /同行 北在家 /中津 /大野 十二人 /建之」

 

日岡公園南の道標

● 「日岡駅北の道標」から東に向かって日岡山の南を進むとこの道標があります。写真でもわかりますが、古い割には文字ははっきりと読むことができます。

● 右面  「すぐ 北在家道」横に小さな文字で「石工 伊兵衛」

  正面・北「右 大野御みや /左 高砂加古川 道」

  左面  「すく 國加ね三木 道」

  背面  「すく 加古新田 道」とありその両側に「文政十丁亥年 大野邑 /春三月 西國同行中」

      (1827、ひのと・い)

 

神野町西之山の道標 (平成22年8月28日追加)

● 日岡山公園南の道標から東に道なりに進むとモダンな建物(体育館)に出会い、さらに進むと下り坂になります。その下り坂の途中から左に曲がると、古い細い道になります。東側は一面田んぼ、道の西側は古い農家が並んでいます。再び上り坂にさしかかる三叉路にこの道標はありました。 右は大野の集落を通って北在家や鶴林寺へ行くことができ、左は石守の集落を通り野口町、平岡町に向かう道の分岐点であったようです。「とた山」は刀田山鶴林寺を示しています。

● 正面・北「右 とた山北在家 /左 のくちにし谷」

  

神野新池南の道標 (平成22年9月3日追加)

● この道標は、神野町石守の新池の南の水路の上にありました。道標の南側一帯では、東播磨南北道路の橋脚工事が行われており若干地形も変化しているようです。

● 風化が激しく現物はほとんど読めません。現在では近くの県道384を南へ向かえば、加古郡稲美町六分一の方に行けます。また、東へ県道148から65を進めば、稲美町野寺の方向に行けます。長池は西国街道の立場茶屋(明石市魚住町長坂寺)があったところになります。

● 正面・北「南 六分一な可池 /○ 加古新田野寺」

   

神野町福留三叉路の道標 (平成22年9月3日追加)

● 人通りの少ない細い坂道の途中の三叉路にこの道標はありました。地図にはありませんが、西の方に細い山道(工事用の道路?)が残っていたので正確には十字路になります。その山道は「神野新池南の道標」の方角に向かっています。両道標の間には道路工事のためかなり地形が変わっています。

● 地図で確認すると、近くの県道384を北に向かい383を経て国包方面に行けます。ここは山陽道と有馬街道の中間辺りになります。明石市福里の道標に「三木市場」という表示がありましたが、浜街道や山陽道から有馬街道に向かうにはこの辺りを通ったのかもしれません。

● 右面  「天保十亥年」(1839、(つちのと)い)

  正面・南「(地蔵坐像)右 加古新田 /左 国可祢みき 道」

  左面  「願主○右ヱ門」

  

神野小学校北の道標

● 神野町の足守北の交差点から県道383を北に進み、東神野の交差点を右に折れしばらく進んだ坂の途中の四辻にこの道標はあります。銘文は少し読み難いのですが、下記のようになっています。地図で確認すると、左に進めば「西条の道標」や「中西条の道標」を通り国包方面に行けます。

● 右面  「明治七戌十月建之」

  正面・北「右 加古新田野寺 /左 國加祢三木 道」

  左面  「願主 申歳」

 

西条会館の道標 (平成28年11月29日、追加)

● 西条の集落に設置されていたと思われますが、元の位置は不明です。

● 右面  「文政八酉年 /當所西國同行」(1825年、きのと・とり)

  正面・西「左 加古川高砂 /北在家おのえ 道」

  左面  「右 三木阿里ま /國包小野社 道」

  

神野町西条の道標

● この道標は、県道383号八幡別府線の西条交差点を東に200㍍ほど進んだ四辻の旧家の横にあります。東西の道路はかなり交通量の多い道路です。案内の表示もかなり遠方の地名や場所名がありますので、当時は主要道路だったのでしょうか。

● ここから東面の表示にある「右」に進むと少しずつ東にカーブしていき、「八幡町中西条の道標」を通り、現在の県道65号神戸加古川姫路線に出て、太山寺へ行くことができます。北に向かい芝の渡しを渡って有馬街道に出ると志方や法華山、北条に行くことができます。 

● 右面  「すぐ 加古川大の御宮 /高砂北在家 道」

  正面・北「すく(横書き)志方法花山北条 道」

  左面  「右 加古新村 太山寺 /すぐ 國包三木小野社 道」

  背面  「施主 細池 奥村氏」

 

八幡町中西条の道標

● 「西条の道標」を北に進むと東にカーブし城山の麓をこえて中西条の集落に入ります。この道標は、その集落の中ほどの四辻にありました。

● 年代は安永二年(1773)と推定され、加古川市の資料で見る限り全109基で最古の年代になっています。説明板もなく、溝に放置されている感じでした。大切に保存してほしいものです。

● 右面  「西國同行九人 /口永□巳三月日」(1773?)

  正面・南「左 三木やしろ /ありま 道」

  左面  「右 加古川高砂 /北在家 道」

  

八幡町船町交流会館前の道標 (平成22年8月30日追加)

● 船町公会堂の前に船町交流会館という古い建屋があり、その周辺の植え込みの中に道標は隠れていました。この辺りはJR加古川線厄神駅の東側の集落の中になります。 

● この道標の元の位置は地元の人の話として200㍍ほど東に立っており、そこには国包方面に行く道(圃場整理で今はない)があったということです。そこから右(北東)に向かえば、国包を通り社方面へ行くことができます。左「ふなまち渡し」となっていますが、場所は特定できません。

● 右面  「同行十人」

  正面・東「右 く尓可ねや志ろ /左 ふなまち王たし 道」(国包、社/船町渡し)

  

八幡町船町墓地の道標 (平成22年8月30日追加)

● 厄神駅の少し西の墓地の六地蔵の横にありました。道標の下半分は欠損していますが、元はかなり大きな道標であったようです。近くにあったものがここに移されたと思われます。道案内は姫路と高砂ですが、どちらも加古川を渡ることになるので、渡し場の近くにでもあったのでしょうか?

● 右面  「寛政五 /癸」 (1793、みずのと・うし)

  正面・東「右 ひめ(欠損)/左 た可(欠損)

  左面  「国包村 /同」

 平成23年10月9日追記、「加古川の道標」によると、元の位置は80㍍ほど西の県道207号厄神停車場線の交差点にあった。 

  

八幡町上西条の道標 (平成22年8月30日追加)

● この周辺は東播磨南北道路新設工事が行われていて、道標が見つけられません。加古川市の資料の場所を訪ねても道標が見つからないのです。ここで3か所目になります。どこかに移転されたのか、廃棄されたのかはわかりません。ここでは推定場所の写真を掲載しておきます。

● 写真のようにここから道は3本にわかれ、その先には成福寺、昌岩寺があり、右の道路を北に向かうと上西条の交差点に出ます。野々池から猫池の中に新たに道路が敷設されており、現場近くの工事案内によればこの少し北にインターチェンジもできるようです。 

● 右面「十二月廿(欠損)

  正面「右 上西条 /中 成福寺 /左 ○岩寺」

  左面「寛政○(欠損)(寛政七年、1795)

  背面「窮峯宗○信士」

● 平成23年10月9日追記、道標は、道路工事のため成福寺境内に保管されているとのこと 

● 平成25年11月8日追加、周辺の工事が完了し、道標が戻されていたので写真を追加します。左から2枚目です。新しいのでレプリカのようです。

● 平成26年9月18日追加、背面が墓碑で正面と字体が異なるのでそれぞれ違う時代に刻まれたと考えられる。(「加古川の道標を訪ねて」より)

 

厄除八幡神社参道の道標 (2基)(平成22年8月30日追加)

● 八幡町野村の厄除八幡神社の参道の常夜燈の前に2基並んでありました。この近くの県道84号宗佐土山線を南に向かうと土山や二見、別府方面へ、また、県道377号野村明石線を東に向かうと草谷、神出や明石へ行くことができます。 

● 右の道標

  右面  「万○元年 /庚申九月」(万延元年1860、かのえ・さる)

  正面・北「(弘法大師坐像)右 二見別府 /左 明石神出 道」

● 左の道標

  正面・北「右 土山左草谷」

 

姫路領、明石領分境石 (平成25年11月1日、追加)

● この分境石は、加古川市北部とは、かなり距離が離れた場所になりますが、ここに掲載しました。

● この分境石は、草谷川(広谷川)の左岸に位置し、現在も加古郡稲美町草谷と神戸市西区神出町広谷の境界です。分境石の文字は風化のためほとんど読み取ることはできません。他のブログから文字を拾いました。

● 嘉永四年(1852年)、付近の山林の伐採をめぐって両藩の村の争いとなり、それぞれの領主に訴えましたが、近隣の有力者が仲裁に入って、分境石を四ヶ所に立てることで和解しました。現在はそのうちの2ヶ所に残っているということでしたが、もう1基は、ここから北へ約100メートルほどですが、雑木、雑草、溝などに囲まれ、近づくことができませんでした。この2基目の分境石の辺りは稲美町、三木市、神戸市の交点になります。

● 正面・南「分境 東 明石領 /西 姫路領」

  背面  「嘉永六年癸丑十二月改正 /建之」(1854年、みずのと・うし)