ー小野市の道標ー

(平成26年5月29日)

● このページでは、加西市法華口駅から小野市の浄土寺に至る道筋の道標を紹介します。この間の道標は、加西市の一乗寺、小野市の浄土寺、加東市の清水寺に関わるものが多くみられ、ほとんどの道標には仏像や「西国巡礼」の文字が刻まれていました。古の旅の多くは巡礼であったことをうかがわせます。

● 法華口からほぼ県道81号に沿って南東に進み、大住橋で加古川を渡り小野市に入ります。小野市の中心部は、小野駅周辺の一柳藩の陣屋跡で、浄土寺への道筋は、ここから斜めに市を横断し、北東に進みます。

● 判読不能の銘文は「小野市道標調査報告書(平成25年3月)」と「加西の道標」を参照しました。

(平成29年1月25日、追加)

● 下部に「三木市の道標」を追加しました。

 

加西市田原町大坪橋付近の道標(1)(2)2基  (←ここをクリックすると所在地を表示)

● 国道372号線の法華口交差点から県道716号(倉谷玉野線)を南に進み、下里川に架かる大坪橋を渡って右に折れたあたりのあぜ道に2基の小さな道標が並んでいました。ガードレールの陰で見えにくいのですが、道路から見て右の道標を「道標(1)」、左を「道標(2)」とします。どちらの道標も銘文がほとんど読めません。

● 道標(1)

 右面  「寛政三辛亥 四月十八日」(1791年、かのと・い)

 正面・東「(仏像)右・・・/ 左・・・」 (風化のため判読不能)

 左面  「西國同行四人」

● 道標(2)

 右面  「俗名 を(?)せい」

 正面・東「(仏像)右 や・・・/左 北・・・」(剥落のため判読不能)

(↓下の写真をクリックすると拡大できます。写真以外のところをクリックすると元の画面に戻ります。)

 

加西市田原町大坪橋付近の道標(3)

● 「田原町大坪橋付近の道標(1)(2)」の10㍍ほど南にこの道標があります。これもほとんど判読できません。この道は南西方向の倉谷へと向かっているので、県道716号の旧道かもしれません。

● 正面・北「(仏像)・・・/(周遍寺?)國包」(刻銘は全く確認できない、加西市資料による)

 

加西市田原駅付近の道標(4)(5)2基

● 大坪橋を再び渡り県道81号(小野香寺線)に入ります。南東方向に向かい田原駅付近の農家の入口で2基の道標を見つけました。高さ1㍍ほどの「道標(4)」の前に、ほとんど埋没した「道標(5)」があります。

● 農家の人の話では、県道と斜めに交差する細い道が旧道だそうです。現在南西側は農家の玄関先で道は途切れていますが、この道の幅を広げた時、道の真ん中になってしまった道標を道の脇に移したということでした。

● 道標(4)

 右面   「天保四巳十二月」(1833年、みずのと・み)

 正面・北東「仏像)右 ほうぢやう 但馬 /左 ほつけ山 姫路」

● 道標(5)

 正面・北東「(仏像)右 北条 /左 法花山」

 左面   「八十一才 女」

 

加西市田原駅前の道標(6)

● 田原駅の西を南北に通る道路と、「道標(4)」から続く旧道との交差点にこの道標はあります。南北の道路を北に行くと、中野町付近で国道372号線と合流し、南に進むと西にカーブして倉谷町で県道43号(高砂北条線)と合流します。また、東西の道路は、西は法華口の先で笠原町になり、東に向かうと小野市粟生町になります。

● 右面  「西 笠原町 /東 粟生」

  正面・東「(仏像)右 中野 /左 倉谷」

  左面  「昭和十六年三月○日 /施主 河合国太郎」

      (「○」は人偏に「夭」?) 

 

加西市田原町の道標(7)

● 「道標(6)」から旧道を東に進むと小さな三叉路になります。ここを右折してすぐの右側民家の前に小さな道標がありました。

● 右面  「辰年女二才」

  正面・東「(仏像)右 北條 /左 法花山」

 

加西市田原町の道標(8)

● 「道標(7)」を南に向かって県道81号と交叉する地点にこの道標が建っています。年号が不鮮明でよくわかりません。加西市の資料では「○化六○酉三月吉日」となっていますが、該当する干支はありません。写真を拡大してみると、「酉」は「巳」にも見えます。「文化六巳」ではないでしょうか。案内する方向が会いません。不鮮明な「右」は、「左」かも?または他から移設された可能性もあります。

● 右面  「○化六○酉三月吉日」(文化六巳(1806)では?)

  正面・南「右 法花山ひめじ /すぐ 志うへんじ」(周遍寺は網引駅の北東方向になる)

  左面  「西国同行 猫(?)太良 /久吉 /友助 /周助」

 

加西市網引駅前の道標

● 「道標(8)」から東に県道81号を進み万願寺川に架かる栄通橋をわたり、200㍍ほど先で右折して網引駅前の集落の中に入ると、三叉路の右側にこの道標が傾いて建っていました。各面ともかなり傷んでおり文字も所々見えない状態です。福崎など遠方も案内していますので、大きな分岐点であったかもしれません。背面の「右ふくざき」は風化のためほとんど見えません。また、「ミち」は埋没しており確認不能です。

● 右面  「文久四年 /子正月吉日」(1864、きのえ・ね)

  正面・南「右 ふくざきたじまミち /左 ほつけ山ひめじ」

  左面  「當所 /○社中

  背面  「○ 三木ひやうご」 

加西市網引町八幡神社東の道標

● 網引駅前の道標から東に進み、県道79号(高砂加古川加西線)を横断すると八幡神社の前に出ます。ここをさらに東に進むと民家の途切れたあたりで三叉路になっています。この三叉路の南側に道標がありました。その後方には9基ほどの石仏群があります。加西市の資料によれば、このうちの2基は道標の様ですが、何枚もの前掛けが重ねられているので確認できませんでした。

● 右面  「文化十四年丑八月吉日」(1817年、ひのと・うし)

  正面・西「(仏像)右 きしのみき /左 あを志”よ𡈽うじ」(来住野、三木、粟生、浄土寺)

  左面  「常三郎 茂一郎 三郎兵衛 友左衛門 /徳蔵 友平 仁兵 五右兵門/

       利吉 嘉平次 圓太郎 ○造 /新蔵 勇蔵 忠四郎 忠○ /周兵衛」   

     

 

小野市西脇町の道標(1)

● 八幡神社東の道標の「左 あを志”ようどじ」の方向に進むと県道81号に合流し、しばらく進むと小野市に入ります。西脇北バス停前のポケットパークにこの道標があります。ここから北東に向かうと社方面、北西に向かうと北条方面、西に向かうと法華山、姫路方面、そして南に行くと三木方面であることを示しています。正面の下部は一部欠落して判読不能になっています。右面に年号の刻銘らしきものが見えますが、確認できません。左にあるのは「安政七年の墓碑」です。

● 正面・南「右 やしろ き(よう?) /中 ほう条 た(じま?) /左 本つけ ひめぢ」

  左面  「當村 /西國同行」 (下部に5名の名前あり、亀吉・・・幸吉、中の3名は不明)

  背面  「春ぐ 三木」     

 

小野市西脇町の道標(2)

● 「西脇町の道標(1)」の北、天満宮のふもとの北条鉄道沿線にこの道標はあります。元は加西市の網引町から法華山へ通じる田んぼのあぜ道に転がっていたものをこの地に移設保存していると、小野市資料にありました。下部は2文字分ほど埋没している。

● 右面   「文政六年 /未十一月(下部に)粟生村 /孫右衛門」

       (1823年、ひつじ、「右」以下は埋没)

  正面・北東「右 法花山ひめじ」(「め」以下は埋没)

  左面   「左 細工所そね」(「ね」以下は埋没)

  背面   「四國供養」

 

小野市東本町の道標

● 西脇町から粟田大橋で加古川を渡れば小野市街地になりますが、この橋が全面通行止めのため下流へ大きく迂回し、大住橋を渡ります。ここから北東に2キロほど進むと小野藩陣屋跡、小野高校になります。小野高校の正門から北東方向に浄土寺を目差す道筋があります。この道筋と商店街の交差点にこの大きな道標がありました。浄土寺や加東市の清水寺、大深山東福寺の各霊場を案内しています。

● 右面  「右 志”ようどじへ三十丁 /大深山へ二り半(下部中央)念佛講中」

  正面・西「左 やしろ /きよ水へ六り(下部中央)西國同行」

  左面  「文化四丁卯年八月」(1807年、ひのと・う)

 

小野市中町の道標

● 「東本町の道標」から浄土寺への道筋を進むと、中町に変則6差路があります。ここのポケットパークにこの道標が設置されていました。「左」は北東方向に向かい浄土寺方面、「右」は東の万勝寺方面で、その分かれ道になります。左の自然石に「右」の文字がみえますが、表面がかなり剥落しており、他に文字らしきものは確認できません。この道標が見えなくなったので新たに建てられたと思われると、小野市の資料にありました。

● 右面  「明治七年建之」

  正面・西「(仏像)右 脇川吉川/左 浄土寺清水」

  左面  「西國同行」(下部に数名の名前あるが、確認不能)

 

小野市黒川町の道標(1)

● 「中町の道標」から北に向かいます。後池の西側の三叉路にこの道標が建っています。道標正面の上部には西國25番清水寺のご詠歌「あわれみや 普(あまね)き門(かど)の品々に なにをかなみの ここに清水」が変体仮名で書かれています。また、最上部には清水寺本尊の千手観音が彫られています。

● 右面  「明治廿七年三月 /供養塔建之」

  正面・南「(千手観音像)廿五番清水 /あ王礼ミやあま祢き /可登”能志奈〲尓/

       奈尓を可奈ミのここ尓 /きよ水

       (下部)右 浄土寺小田 /左 志きじあを 道」(敷地、粟生)

  左面  「當村西國同行 /拾人」 

 

小野市黒川町の道標(2)

● 「黒川町の道標(1)」から後池の北の堤防を東に進むとこの道標があります。ここから北の中島町の観音堂を案内しています。

● 正面・西「(左指さし手形)加東準四國 /へんろみち /次第六十番」

  正面下部「施主兵庫親切講 /○下 /○本 /栄田 /鈴木」

 

小野市黒川町の道標(3)

● 「中町の道標」から北東方向、「左浄土寺清水」の方向に進み、中町から黒川町に入った旧道にこの道標がやや傾いて立っています。浄土寺方面からやってきた人への案内でしょうか、いずれも南方向の地名を指しています。

● この付近は「物見ヶ鼻」といって、「三軒茶屋」があり、小野藩の参勤交替時の送迎場所となっていたようです。私が以前住んでいた広島市安芸区にも、参勤交代の出迎えの場所として「出迎えの松」という史蹟があったのを思い出します。

● 右面   「天保十三年寅正月」(1842、みずのえ・とら)

  正面・北東「右 小野 たる以 /左 三木あ可し」

  左面   「西國同行九人」

 

小野市浄谷町陸橋下の道標

● 「黒川町の道標(3)」から北東に道筋を延長すると浄谷町の交差点に達します。この交差点の南東の陸橋下にこの道標はありました。横の説明板によると。元の設置場所は南池の南西堤防の裾であったようです。四面に刻銘があり、高さ約90㌢、幅約33㌢の立派な道標です。

● 右面  「左 あ可志(下部)三木 /須磨 /高砂 /北在家」

  正面・南「左 浄土寺(下部)万勝寺 /脇川」

  左面  「左 きよ水(下部)やしろ /たんば /東条」

  背面  「左 村道(下部)黒川村 /西國供養 /同行十二人」

      「村道」の右に小さな文字で「文化七庚午四月吉日」(1810年かのえ・うま)とある。

 

浄谷町公民館(東)の道標

● 浄谷町交差点を北に進むと、ここ浄谷町公民館前に出ます。この道標を右折すると浄土寺はすぐです。道標は高さ168㌢、幅33㌢の大きなもので、四面に道案内があります。また、横に「右 社」と書かれた道標の一部が転がっていますが、道路の反対側の地蔵堂の前に折損の跡が残っているので、ここに道標があったものと思われます。

● 右面  「すぐ 清水(下部)や登村 /登う条 /や志ろ /た起の」(屋度村、東条、社、滝野)

  正面・西「すぐ 浄土寺 江三丁(下部)施主 西國同行」

  左面  「すぐ 高砂(下部)小野 /三木 /北在家 /明石」

  背面  「すぐ 姫路(下部)あ於 /○○○ /ほう条 /たじ満」

      (「○○○」は「者ん處」(繁昌)か?)

 

小野市浄谷町公民館(北)の道標

● 「浄谷町公民館(東)の道標」の西50㍍ほどの角に東向きに道標が建っています。浄土寺での参拝を済ませた人たちのための道標、もしくは西國巡礼の案内でしょうか。仏像の下に「二拾六番」とあるのは西国三十三所第二十六番霊場法華山一乗寺を示していると思われます。

● 右面  「明治三拾三年十二月建」

  正面・東「(仏像)右 かの 高田 /左 あを法花山」(仏像の下右横書き「二拾六番」とある)

  左面  「西國同行七人 藤原林之助 /同 藤助 /同 菊松 /藤木仙吉

   (下段)河合官蔵 /河合富松 /島村 /冨田仙次郎」

 

小野市浄土寺前の道標

● 浄土寺バス停前にあるこの道標は、高さ150㌢、幅29㌢で、元は若宮神社東側の辻に建っていました。四面に刻銘がありますが、道案内は正面と左面のみです。浄土寺での参拝を終えた人の案内とすれば、正面は北向きに設置されていたと思われます。夫婦同伴で西国巡礼を終えた記念の道標の様です。

● 右面  「文化十酉五月」(1813年、みずのと・とり)

  正面・南「右 法花山(下部)あを /本う志”やう /飛めじ」

  左面  「左 明石(下部)を能 /た可さご /みき」

  背面  「西國順禮同行

   (下部)中嶋邑 /安兵ヱ /儀兵ヱ /平七 /力弥 /政蔵

   (下段)つや /なを /りゑ /○○ /ふゆ /○○」

 

小野市浄土寺南の道標

● 浄土寺の南の出入り口を出ると歓喜院のところで三叉路になっています。その突き当りに小さな道標があります。左すなわち東の方角の長尾村を案内しています。右面は刻銘がほとんど消えて読めませんので、小野市の資料を参照しました。

● 右面  「大師講世話人 /右中嶋」(下部に名前あり)

  正面・北「(仏像)左 ながを道」

  左面  「大正八年三月」

 

極楽山浄土寺

● 本日のゴールは高野山真言宗の寺院、浄土寺です。浄土寺は重源上人により東大寺領である当地に建てられました。「天竺様」という建築技法を用い建久五(1194)年に上棟された国宝の浄土堂は、東大寺の南大門とともに「天竺様」を伝える貴重な建物です。本尊の阿弥陀如来像および両脇侍立像は、鎌倉時代の名仏師快慶の作で、いずれも国宝に指定されています。

―三木市の道標ー

 

(平成29年1月25日、追加)

● ここでは三木市内の有馬街道沿い以外の道標を紹介します。三木市の「三木の道しるべ」を参考にしました。

● 有馬街道沿いの道標は「有馬街道の道標」に掲載しています。

 

三木市福井、鶯谷交差点の道標 (平成29年2月19日、追加)

● 姫路方面から県道20号加古川三田線を東に進み福井交差点で右折すると、そこからは県道22号神戸三木線になります。その県道22号線を南方向に緩い坂を上り切ったところが鶯谷交差点です。この交差点の一角に約半分に折れた道標が残っています。上の半分は右面を上にして近くに横たわっていました。。他の多くの道標は補修されていましたので、残念なことです。

● 古い写真では鉄枠で補強されていましたので、もともと折損していたものと思われます。倒れた上半分では正面の「右 あ /左 たい」くらいが判読できます。下部の各面も所々しか文字は確認できませんでした。太山寺や西国同行の文字があることから西国巡礼が盛んであったことがしのばれます。

● 右面  「天保八酉四月」(1837年、ひのと・とり)

  正面・北「右 あかし /左 たいさんじ」

  左面  「西國同行十七人」

● 高さ 134㌢、幅 27㌢、奥行 27㌢ (倒れた部分の長さは約60㌢)

 

三木市鳥町 大師堂横の道標 (平成29年3月8日、追加)

● 県道360号正法寺三木停車場線を大村方面から西に進むと、鳥町で左にカーブしています。ここを曲がらないで真っ直ぐ細い道を進むと左側に7基ほどの石造物が並んでいます。一番西の祠の中にこの道標があります。三木市内では最古の道標です。元の位置はここから西へ60㍍ほどの分岐点にありましたが、昭和29年に移設されました。

● 道標に示す「むろ山」(現在は小野市樫山町)には、かって加古川の船着き場があり、高砂港へ年貢米の積出しが行われていました。幕末までは、室山への街道は年貢を運ぶ牛馬が行き交い賑わっていました。鳥町には旅籠も3軒あったということです。

● 右面と左面の銘文は、風化と祠に接近していて確認できませんでした。

● 右面  「安永二巳閏三月吉日」(1773年、みずのと・み)

  正面・南「      右 やし(ろ)

       (仏像坐像) 西國供養

             左 むろ(山)」( )内は欠落

  左面  「同行 母 平右ヱ門/ 母 傳左ヱ門」

● 高さ 50㌢、幅 20㌢、奥行 12㌢

 

三木市大村の道標

● 三木市内の道標は、ここ数年でかなり修復されていました。掘り起こされたもの、台石を整備されたもの、鉄枠で補強されたものなどが目につきました。隠れた文化財としての道標がこのように保存されることはうれしいことです。この道標もよく補強されています。

● 「三木の道しるべ」によると、ここは明石、加古川方面からの道と大村坂から小野、社に通じている道が交差する場所です。すぐ南側に新しい道路(県道360号正法寺三木停車場線)が整備されここは旧道になっていますが、T字路の面影は残っています。

● 右面  「大正十一年 大村青年團」

  正面・北「右指差し 鳥町 加古川/ 左指差し 三木 明石」

  左面  「右指差し 小野 社」

● 高さ 120㌢、幅 25㌢、奥行 25㌢ 

 

三木市大村、大村駅西の道標(1) (平成29年3月8日、追加)

● 神戸電鉄大村駅から西に進み、金剛寺への道を右折すると踏切の手前の農地の中にこの道標が建っています。高さ約2.5㍍で市内では一番大きな道標です。

● 右面には、昭和13(皇紀1598)年に戦死した息子の英霊菩提のために父親が建立したことが記されています。

● 右面  「陸軍歩兵中尉井上豊蔵従興亜口/ 皇紀二千五百九十八年十月廿四日戦死/

       為右英霊菩提  父秀治健之」

  正面・南「是より/ 北八丁  金剛寺」

● 高さ 246㌢、幅 40㌢、奥行 38㌢   

 

三木市大村、大村駅西の道標(2) (平成29年3月8日、追加)

● 大村駅西の道標(1)の20㍍ほど北の道路右側のガードレールの先に立っています。下半分ほどは欠落しています。上部も風化が激しく欠損が拡大しそうです。

● この道路を北へ進むと金剛寺になります。右吉川方面にはあぜ道しかありませんが、東の「平田橋東詰の道標」のところにつながっていたのかもしれません。

● 正面・南「(梵字) 右 吉川 小(川)/ 左 金(剛寺)」

  左面  「西國同行」 

● 高さ 62㌢、幅 22㌢、奥行 12㌢

 

三木市平田、平田橋東詰の道標 (平成29年2月19日、追加)

● 県道23号三木宍粟線の大村交差点を東に向かった平田橋東詰にある道標です。左方向、西に行くと大村交差点で県道23号に出て小野方面に行くことができます。また右方面は、平田小学校の前を通り、北方向の金剛寺への道を案内しています。

● 右   「右 古んごう寺道」(金剛寺)

  正面・南「左 小野 やしろ道」

  左面  「天保十一年子三月」(1840年、かのえ・ね)

● 高さ 133㌢、幅 30㌢、奥行 26㌢

 

三木市久留美、八雲神社南の道標 (平成29年2月19日、追加)

● 県道20号加古川三田線が山陽自動車道に差し掛かる手前に八雲神社があります。八雲神社入口から県道を横断してはじめての細い道を西に約100㍍ほど進むときれいに刈られた植込みに挟まれるようにこの道標が建っていました。おかげで見つけるのにかなり手間取りました。

● 八雲神社東の道標と同様に、西国供養の文字や清水寺を案内しているので西国巡礼道を示す道標であったと思われます。

●植え込みで右面、左面の銘文は確認できませんでした。

  右面  「右 吉川 小川」

  正面・南「(仏像) 西國供養」

  右面  「左 東条 清水」

  背面  「天保十三寅四月」(1842年、みずのえ・とら)

● 高さ 97㌢、幅 26㌢、奥行 26㌢

 

三木市久留美 八雲神社東の道標 (平成29年2月19日、追加)

● 八雲神社前を20号線に沿って東に約300㍍進むと、道路の北側に小さな祠があり、内には4基の仏像が祀られています。一番左側が道標です。下半分ほどはなくなっているようです。右の大きな仏像には「第廿四番や文政四年、西國供養」などの文字があるので、ここは巡礼道であったのかもしれません。

 右面  「文化九壬申 /東 吉川 /七月吉日」(1812年、みずのえ・さる)

  正面・南「(仏像)南 兵庫」

  左面  「西 三木」

  背面  「北 東条」

● 高さ 58㌢、幅 18㌢、奥行 18㌢

 

三木市細川町細川中の道標 (平成29年3月8日、追加)

● 再び県道20号線に戻り吉川方面に向かいます。細川中のバス停南の三叉路にこの道標が建っています。

● 道標は、吉川方面からの旅人に、「右 三木」に進むと川を渡って久留美、三木方面へ、「左 明石」は細川中を通って平井、与呂木、大塚を経て明石方面への分岐点であることを案内しています。

● 右面  「文化十一歳/ 甲戌六月日」(1814年、きのえ・いぬ)

  正面・北西「右 三木」

  左面  「左 明石」

● 高さ 72㌢、幅 26㌢、奥行 28㌢

 

三木市細川町豊地の道標 (平成29年3月8日、追加)

● 県道20号線の豊地橋を渡った右側の観音堂の前にこの道標は建っています。ここは左、吉川方面と右、小川(現在の細川)方面への分岐点になっていました。植え込みでよく見えませんが、比較的大きな板碑型の道標です。道標の後ろには「細川村道路元標」が寄りかかっています。

● 正面・西「       文化己巳      (文化6(1809)年、つちのと・み)

       (梵字) 右 小川 ありま

            左 よ川 きよみず

              西國同行    」

● 高さ 107㌢、幅 61㌢、奥行 18㌢、板碑型  

 

三木市細川町高篠、高篠橋周辺の道標 (平成29年3月10日、追加)

● この道標は、美嚢川に架かる高篠橋の下流側20㍍ほどのところの土手にありますが、斜めになって埋没いており、東面はほとんど見えません。

● 三田から三木への幹線道路(県道20号線)から、南東方向にある蓮花寺(口吉川町)を案内するために建立された道標のようです。周辺から移設されたものと思われます。

● 右面  「西 三木(道)」 ( )内は埋没部分を示す

  正面・北「北 三田(道)」

  左面  「東 (蓮花寺)」

  背面  「(弘化四)/ 未十二(月 供養)」 (1847年、ひのと・ひつじ)

● 高さ 60㌢、幅 28㌢、奥行 28㌢ 

 

三木市細川町高篠の道標(1) (平成29年3月10日、追加)

● 県道20号線沿いの土手の草むらに3基の道標(県道側から(1)(2)(3)とする)があります。埋没や倒れたりして最悪の保存状態です。かなり草を刈り取りましたが、うまく写真も撮れませんでした。

● この道標は、3基のうち一番県道側のものです。左方向は小野市の浄土寺を案内していますが、この先はゴルフ場のため現在は道路はありません。各面の銘文は次の通りです。

● 右面  「西國供養」

  正面・東「右 三田」

  左面  「左 浄土寺」

  背面  「天保(  )」 ( )は埋没

● 高さ 47㌢、幅 22㌢、奥行 22㌢ 

 

三木市細川町高篠、道標(2)(3) (平成29年3月10日、追加)

● 道標(1)の左側になります。傾いて建っているのは明治時代建立の道標(3)です。その右で無銘の面を上にして倒れているのは多分万延元年の道標(2)と思われます。正面の案内の方向から推測するとこの2基は道路南側の県道20号線側に正面を向けて並んで建っていたものと考えられます。

● 「わきがわさん」「だいし」とあるのは脇川の教海寺を案内しています。この地点は、西方小野市の浄土寺や南西方向の教海寺への分岐点であったようですが、周辺は圃場整備やゴルフ場開発で様子はかなり変化しています。

● 道標(2)・・・背面を上にして倒れている

   右面 「万延元年七月日」

   正面 「右 だいし/ 左 三木 明石」

   左面 「西國供養同行六人」

   高さ 62㌢、幅 22㌢、奥行 16㌢

● 道標(3)

   右面 「明治十二年卯七月吉日」

   正面 「右上向き指差し わきがわさん/ 左 みき あかし」

   左面 「同行二人 村きみ」

   高さ 60㌢、幅 21㌢、奥行 15㌢   

 

三木市細川町高篠、農地の中の道標 (平成29年3月10日、追加)

● 3基の道標から西の方向に進むと農地の中に、自然石型の大きな道標が建っています。「左 大師」は脇川の教海寺を指していますが、「右 瀧」は現在はないようです。「三木の道しるべ」によれば「美嚢郡誌」に、県道より六、七丁奥に高さ七間の雄滝と同じく二間の雌滝があったと記されているとありました。

● 県道20号線側にも「白老瀧道」と刻まれた高さ50㌢ほどの石柱がありました。(「三木の道しるべ」にこの石柱の記載はない)

 右面  「田村喜之助健之」

  正面・東「右 瀧/ 左 大師 道」

● 高さ 120㌢、幅 45㌢、奥行 22㌢、自然石型   

 

三木市細川町高篠、小橋の道標 (平成29年3月10日、追加)

● この道標は、農地の中の道標から20㍍ほど西の小橋を渡ったところに上向きに倒れていました。風化が激しく下部に「久吉」の文字がかろうじて判読できる程度で、その他はほとんど判読できません。「三木の道しるべ」にも案内する地名や寺社の名前が判読できないとありました。

● 正面・東「              久吉  ○助

                     源三良 ○市

       安政二年/ 桃坂村西國供養 ○良  ○○ (1855年)

                     常助  ○○

                     延蔵  弥吉 

                     ○市    」

● 高さ 80㌢、幅 60㌢、奥行 20㌢、 自然石型 

 

三木市久留美、マスターズゴルフ場北の道標 (平成29年2月19日、追加)

● 八雲神社の東側の県道510号万勝寺久留美線に戻ります。ここから山陽自動車道を越え、北に雑木林の中を約3㌔ほど進み、マスターズゴルフ場の入口を過ぎた緩い右カーブの道路右側にポツンとこの道標が建っていました。

● 道標の示す「左」方向、東方面には、道路はありません。「三木の道しるべ」によれば「現在は新しい道がついて古道はなくなってしまったが、山越えで北から三木方面に向かって来た旅人に西村(細川町)への分岐を教えるもの」とありました。

 右面  「久留美村 /西國供養 /同行三人」

  正面・北「右 三木 /左 西村」

  左面  「寛政十一年 /未七月日」(1799年、つちのと・ひつじ)

● 高さ 70㌢、幅 24㌢、奥行 24㌢

 

三木市加佐の道標、2基 (平成29年3月10日、追加)

● さらに北に進み、県道510号線が小野市との境界に出たところの三差路に2基の道標がコンクリートの台石の上に北向きに建っています。

● 「三木の道しるべ」では住所が「三木市細川町脇川」となっていますが、調べてみると「三木市加佐」のようです。また、左の河原石の丸い道標から「丸石」の地名が出たとのことです。近くに丸石というバス停があります。紀年銘はありませんが、「一者”」(いちば)の表記などから江戸時代の道標と思われます。

● 右の道標

   正面・北「右 おの いちば/ 左 三木 あかし」

   高さ 110㌢、幅 53㌢、奥行 23㌢、板碑型

● 左の道標

   正面・北「(梵字) 右 一者”/ 左 三木」 (一者”=市場)

   高さ 70㌢、幅 55㌢、奥行 40㌢、自然石型

 

三木市細川町高畑の道標、2基  (平成29年3月10日、追加)

● 県道510号線を北に進むと小野市に入り、四ツ堂まえで県道353号大畑小野線と交差します。この四ツ堂前にも古い道標がありますが、これは小野市で紹介します。この交差点で右折して県道353号線を東に進むと、再び三木市となります。三木市側の道路右側に板碑型の道標が東向きに建っています。そしてその横にほとんどが埋没し頭部のみしか見えない道標があります。

● 東から来ると、右方向は小野市の万勝寺や浄土寺に、左は三木市を通り小野市の市場へ向かうことができます。風化のため下部が一部剥落していますが、梵字や紀年銘は枠の外側に刻まれています。 

● 右の道標、正面東

   枠上部「梵字」、枠右「寛政十二庚申」、枠左「三月廿一日」(1800年、かのえ・さる) 

   枠内「右 志”やう(どじ)/ 左 三木 市(場)」( )内欠落

   高さ 110㌢、幅 56㌢、奥行 20㌢、板碑型

● 左の道標

   正面・東「(仏像) 右 ・・・/ 左 ・・・」(・・・は埋没して確認不能)

   高さ 46㌢、幅 30㌢、奥行 14㌢、角柱型

 

三木市細川町高畑の道標(2) (平成29年3月10日、追加)

● この道標は、ほぼ同じ場所ですが、5メートルほど東の道路下の草むらの中に倒れていました。草を払いのけて撮影したものを回転させたのが左の写真です。四面に銘文があるようですが正面しか確認できません。また、下部の一部は折損していると思われます。

● 明治の地図で確認すると、現在の県道85号神戸加東線沿いに「蔵谷」「谷口」の地名が見えますが、これらを案内する道標だったのでしょうか?

右面  「寛政三辛 亥/ 十一月日」(1791年、かのと・い)

 正面・上「右 くらのた(に)」( )内は欠損部

 左   「やぐち」

 背面  「西國供養 三木上(町)/ 同行二人」

 高さ 70㌢、幅 25㌢、奥行 22㌢、角柱型