―山陽道(西1)の道標―

 (平成23年8月22日) 

 播磨から一路西へ 向かいます。岡山県備前市三石から秀吉の中国大返しの起点となった岡山市の備中高松城址までの山陽道を歩いてみました。

 このページでは備前市三石から岡山市中区東岡山までの道標などを紹介します。

 

船坂峠越えの旧道と国道2号線の合流地点 (平成24年7月16日、追加)

● 船坂峠越えの現在の山陽道は、ほぼ山陽本線のトンネルの上を通ります。旧道を抜けると国道2号線に合流し、しばらくは2号線を歩きます。この辺りに神戸まで105キロ、姫路まで43キロの標識がありました。 播磨国の幅は約100キロ、姫路はほぼ中間に位置することになります。

 

備前市三石の一里塚跡 (平成24年7月16日、追加)

● 国道2号線から再び分岐して旧道に入ります。山陽本線の踏切を越え、少し進んだところに石垣で一段高くなったところにこの説明板がありました。

 

備前市三石の道標 (平成24年7月16日、追加)

● 一里塚跡を少し西に進んだ山すそにこの道標がありました。ここから北の方にある深谷(みたに)の滝を案内する道標です。深谷の滝は東備地区最大の滝で、昔は荒修行の場でもあったようですが、現在は備前市十景の一つになっています。

 

● 銘文(正面・南西)

 右面「明治十四年巳七月」

 正面「深谷瀧道 是ヨリ /六町」(下部は小文字)

 

備前市の三石一里塚跡(2) 

● JR三石駅前の山陽道曲がり角に新しい「一里塚跡」の石柱がありました。「中国行程記」にしたがってこの場所が特定されたということです。東の一里塚跡(1)との関連はよくわかりません。この辺りの山陽道は船坂峠から続く下り坂が、ほぼ国道2号線に沿って西に向かって続いています。

● 三石はレンガの町(耐火煉瓦の国内シェアーは3割とか)でもあり、周辺にはレンガの工場や建造物も多く見られました。 

 

木野山神社参道の石柱 

● 三石一里塚跡を西に向かうと、山陽本線のトンネルをくぐりぬけます。そのレンガ造りのトンネルを出た左側に「木野山神社参道」の石柱がありました。この山の上に木野山神社があります。

● また、トンネル手前の右側には光明寺があり、「明治天皇三石行在所」の碑があったようですが、見過ごしました。明治天皇は明治18年8月5日広島から海路岡山に上陸され、翌日は岡山市内を巡幸、後楽園が行在所になりました。7日山陽道を馬車で三石に向かわれ、光明寺宝珠院が行在所になり、翌8日は船坂峠を越え姫路に向かいました。この行幸の供奉人員は199名を数え、伊藤博文の名もあります。と記録にありました。因みに姫路市の船場本徳寺には「史蹟 明治天皇姫路行在所」の碑があります。 

 

八木山一里塚跡 

● 八木山の町内を抜けると、山陽道は再び国道2号線に合流します。山陽自動車道の高架下を通り抜けたところの小さな公園に「八木山一里塚跡」と「明治天皇八木山御小休所趾」の碑がありました。

 

閑谷神社の丁石 

● 山陽道は四軒屋という交差点で国道2号線と分れます。周りは山、山で名前のように民家は少ないようです。小さな川を渡った所に祠があり、その前に閑谷神社の丁石がありました。地図で確認するとここから北に向かったところに「閑谷学校」や「閑谷神社」があります。 閑谷学校は、寛文10年(1670)岡山藩主池田光政によって開設された日本で最初の庶民のための学校です。幕末には兵庫県上郡町出身の大鳥圭介もこの学校で学んでいます。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「明治十年六月吉日」

 正面「閑谷神社」

 左面「從是三十(横棒一本に縦棒三本の一字)壱丁十四間」 (約3.4㌔㍍)

 背面「菅〇〇襄也建焉(以下は小さな文字)岡山・・・ /石工・・・」

   (〇〇及び・・・は判読不能)

 

藤ヶ棚茶屋跡の標柱 

● 「備前焼桂花園」の看板のある大きな屋敷のまえに「藤ヶ棚 茶屋跡」と書かれた案内がありました。右面には「江戸期、備前藩主の休憩所があり、湯屋もつくられた。」と説明があります。

 

片上一里塚跡 

● 山陽道は再び国道2号線に合流しますが、歩道との分離帯に「片上一里塚跡」の石柱があり、その横に「一本松一里塚」の説明板があります。一里塚はここから東へ約50㍍の所にあったと思われると説明があります。一本松一里塚が本来の名称なのでしょうか? 

 

片上宿の標柱 

● 山陽道のダラダラと続いてきた下り坂も海に面した「片上宿」で一旦終わります。片上の町のほぼ中心に宇佐八幡宮があり、その前に片上宿の案内がありました。この辺りが宿場の中心であったということでしょうか。「片上駅本陣小國邸趾」の碑は、ここから500メートルほど西、「片上の道標(1)」の近くにありました。案内の内容は次の通りでした。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「三石宿 二里半(約十K)]

 正面「旧山陽道 片上宿(方上津)」

 左面「藤井宿 四里半(約十八K)」

 

片上宿の道標(1) 

● 宇佐八幡宮から西に進むと山陽道はT字路の交差点になり、山陽道はこの交差点を北に進みますが、この道標は南の海の方に向かってすぐの民家の横に置いてありました。このままでは示す方向が180°反対になるので、道路の反対側にでも設置されていたのかと思われます。船坂峠を越えないで、船で赤穂辺りまでの海路があったのかもしれません。

 

● 銘文(正面・西)(1835年、ひつじ)

 右面「右 ゑびす道」(西の方に恵美須神社がある)

 正面「左 渡海場(下に小さな文字で)施主 /小浦 釣舩中」

 左面「天保六未十一月世話人 /京屋庄太夫」 

 

片上宿の道標(2) 

● この道標は、T字路を北に向かった所にありました。西からの旅人に案内をしているようです。

 

●  銘文(正面・北)

 正面「右 恵美須 /左 大坂 道」

 左面「山内 紋三郎」

 

お夏の墓と茶屋跡 

● 片上の道標(2)から約500メートルほどのところに「お夏の墓」があり、そこからまた500メートルほど西に向かった国道2号線のトンネルの上あたりの葛坂峠の頂上に「お夏の茶屋跡」の説明板がありました。姫路では清十郎が無実の罪で処刑され、お夏はその霊を弔うことに一生をささげ尼僧となり、二人の墓は姫路市野里の慶雲寺にあります。 意外なところで茶屋や墓に出会いました。さてどちらの生涯が真実?

 

「臥龍之松」案内の碑 

● 山陽道は、伊部の町を過ぎると大きな池(大ヶ池)沿いの道になります。その池を過ぎたところの用水路の端に「卧龍之松道」という石柱がありました。あとでわかったのですが、この碑の北に「卧龍之松」があったようです。

● 松は昭和21年に松くい虫の被害にあい、枯死していますが、当時は高さ3間(5.4㍍)ながらその枝は、東西方向に168尺(51㍍)、南北方向に94尺(28㍍)も伸びていたということです。

 

大瀧山福生寺の丁石 

● ここから約2㌔㍍北にある真言宗の大瀧山福生寺の丁石です。福生寺は、奈良時代の天平勝宝6年(754)、鑑真により創建された山陽地方でも有数の古刹です。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「本堂まで十八丁」

 正面「從是大瀧山道」

 左面「本堂まで十八丁」

 

香登一里塚跡 

● 大内神社の境内にある一里塚は当時の形をほぼ残しています。近くの説明板によれば、道路を挟んで南側にも同じものがあったそうですが、明治二十年頃に取り壊されたようです。北塚の大きさは道路沿いの東西幅は約5㍍、南北の奥行約7㍍、道路側の高さ約1.8㍍ということです。

 

石長姫神社の常夜燈 

● 大内神社から西に向かったところに、石長姫神社があり、その入口の鳥居の前に自然石を重ねた常夜燈がありました。

 

● 銘文(正面・北)(1849年、つちのと・とり)

 右面「嘉永二年己酉」 

 正面「常夜燈」

 左面「夏 四月吉祥日」 

 

香登西の道標 (平成23年8月29日、追加)

● 石長姫神社から西に進むと、道路の北側の塀に隠れて道標がありました。この近くに城山稲荷神社は見当たりません。少し北に城山公民館があるのでこの辺りにあるのかもしれませんが、確認できませんでした。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「城山稲荷神社道」

 

香登西の常夜燈 (平成23年8月29日、追加)

● 香登の街並みを過ぎた橋の手前に、ここにも自然石の常夜燈と石柱がありました。

 

● 常夜燈銘文(正面・南)(1839年、つちのと・い)

 右面「天保十亥年三月 香登 /西村中」 

 正面「奉燈 金毘羅大権現 /瑜伽大権現」

● 石柱銘文(正面・南)

 正面「森の木橋」

 

坂根の里程標柱? (平成23年8月29日、追加)

● 住宅の横に何やら文字の書かれた石柱があったので、近寄ってみました。上部がありませんでしたが、すぐ近くに上部らしい部分が倒れていました。つなぎ合わせると神戸市の御影駅前にあった里程標柱と類似の表示になります。 山陽道を西に向かうと、岡山県の最西端は井原市高屋町になります。こことの距離を示しているのでしょうか?距離も大体合致します。

 

● 銘文

 上部「距高屋管轄境十八里廿六丁」

 下部「・・・廿八間一尺六寸」(右面)

    (上下を合せると、「管轄する境高屋から距ること72,842.9㍍」?)

 下部「・・・山縣」(正面)

● 平成24年6月1日追記

  同じ里程標を総社市で見つけました。「山陽道(西3)の道標」国分尼寺址周辺の里程標を参照して下さい。 

 

熊山登山口の道標 (平成23年8月29日、追加)

● 街並みのはずれに大きな道標がありました。年号を調べてみるとかなり古い道標になります。熊山はここから約5キロほど北で赤磐市になります。また備前国第一の山岳信仰の霊地でもあります。山中には熊山石積遺構や熊山神社が確認できます。

 

● 銘文(正面・南)(1737年、ひのと・み)

 右面「宮まで四十五丁」

 正面「從是熊山道」

 左面「元文二丁巳 /九月廿四日 施主 二日市村 善九郎」      

 

瀬戸内市長船靱負神社 (平成23年8月29日、追加)

● 熊山登山口の道標からしばらく西に進むと、瀬戸内市長船町に入ります。長船町長船は刀剣の里であり、長船町福岡は黒田官兵衛ゆかりの地でもあります。国道2号線を越えたところにこんもりとした森がありますが、ここが靱負神社です。神社の手前の用水路の上に架かる小橋の四隅に小さな石柱があり近寄って見ると、それぞれに「ゆきえはし」「靱負橋」と書かれていました。

● 神社の入口には「備前長船刀剣発祥之地」と書かれた大きな石柱があります。ここでは狛犬も備前焼でした。また、神社の森は「天王社刀剣の森」と言って、足利尊氏が九州から持ち寄った日向松の子孫だということです。「め」と書いた半紙が貼ってありましたが、この神社は古くから眼病平癒にも霊験があり、拝殿に「め」の文字を貼って平癒祈願を行うそうです。長船町福岡にいた黒田家が姫路で一時期目薬を扱っていたと司馬遼太郎の「播磨灘物語」にありますが、なにか関係があるのでしょうか?

 

備前大橋東詰の明治天皇巡幸の碑 (平成23年8月29日、追加)

● 吉井川にかかる備前大橋の東詰に金網で囲われた大きな石碑があります。

 

● 銘文(正面・東)

 正 面「明治天皇巡幸記念之碑」

 左下部「枢密顧問官従二位勲一等 石原健三謹書」

 

瀬戸内市長船町福岡の街並み (平成24年12月2日、追加)

● 長船町福岡は、備前大橋の下流側、吉井川の左岸一帯の地になります。現在ではあまり知られていない一地方の町村ですが、鎌倉時代から江戸時代にかけては、吉井川の水運に支えられて大いに繁栄した町でした。その様子は国宝の「一遍上人聖繪」にも描かれているようです。また、ここに住み着いた刀工によって福岡一文字や備前長船といった名刀が生み出され、備前刀として伝統工芸となり今に伝えられています。

● 豊臣秀吉の軍師黒田官兵衛の曾祖父高政(妙興寺にその墓がある)は、近江国から流れてきてここに居住し一財をなしています。祖父重隆は赤松家に仕え播磨国に移り、その後御着の小寺家に仕えます。官兵衛の子長政は、関ヶ原の戦い後に、その功によって筑前国に封じられ、新しい本拠城を黒田家ゆかりの備前福岡からとって「福岡城」としました。これが現在の福岡市や福岡県の名称の由来とされています。

(地図は、写真の「備前福岡」の標識の位置を示す)

 

岡山市東区一日市宿の常夜燈 (平成23年8月29日、追加)

● 備前大橋の中間で岡山市東区に入ります。この辺りの山陽道は国道2号線と重なりますが、一日市(ひといち)の信号からまた分かれます。信号から吉井川の堤を下りたところが一日市宿(片上宿と藤井宿の間宿)になりますが、ここに文政年間の常夜燈があります。また、堤の反対側の吉井川の河原に「明治天皇駐蹕碑」があります。「駐蹕」(ちゅうひつ)は、行幸中に乗り物を一時停めることとあります。ここから少し先に「御休」という地名もあり、「御休小学校」もあります。明治天皇の行幸と関係があるようです。「みやす」と読むとのことでした。駐蹕碑の周辺は雑草に覆われて下りることができませんでしたが、 駐蹕碑の左側に見えるのは「岡山縣指定史跡一日市一里塚」の石柱で、さらにその先には渡し場跡もあったことが後でわかりました。

 

● 常夜燈銘文(正面・西)(1821年、かのと・み)

 右面「文政四年辛己八月廿五日」 

 正面「常夜燈」

 左面「當所氏子中」

 

岡山市東区楢原の道標 (平成23年8月29日、追加)

● 一日市を過ぎるとしばらく田圃道 が続きます。集落の入り口に和田八幡宮の天保三年の常夜燈と明治の道標がありました。和田八幡宮はここから少し先の国道2号線を越えた山の中にあります。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「明治十四年四月吉日」(?)

 正面「和田八幡宮道」

 左面「施主 当村 大畠辰之進」(?)

 

楢原郵便局付近の道標 (平成23年8月29日、追加)

● 県道37号線を越えた立派な塀の一角に大正時代の高さ50センチほどの道標がありました。ここから北に進むと県道37号線に出ます。山陽本線の瀬戸駅近くを通り、赤磐市の北部で津山方面と美作方面に分かれます。正面は山陽道の道筋の案内です。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「大正六年 春」

 正面「(右指差し手形)神戸大坂 /(左指差し手形)岡山廣島 道」

 左面「(左指差し手形)せとゑき /美作津山 道」

 

岡山市東区鉄、安国寺経塔 (平成23年8月29日、追加)

● ここの住所の「鉄」は「くろがね」と読みます。古い街並みの角に石碑がありました。近くの説明板には、「安国寺は1500年ごろ戦火のため焼失しましたが、江戸時代のはじめころ眠室宗安禅師が昼夜無休で一万部近い経典読経の大事業を成し遂げ、寺の再建を記念して経塔を建立した」とあります。 しかし、付近に安国寺は確認できませんでした。常夜燈は「天保十己亥三月」(1839、つちのと・い)とありました。

 

経塔の主な文字

● 「奉読誦一乗妙典八千七百部成就所」右下に「元和十年」(1624)とあり

 

岡山市東区藤井宿 (平成23年8月29日、追加)

● 写真左は総社八幡宮、この前に藤井宿の説明板があります。要約すると「山陽道は度々ルートが替わったが、宇喜田秀家の頃、ここ藤井が岡山城下町以東最初の宿駅となり賑わった。本陣(安井家)や旅籠屋などが整備されたが、後に本陣は増やされ、従来の西本陣と新たに創設された東本陣となった。」 

● 右の写真はすさのお神社です。この前に「新往来」の説明板がありました。要約すると「ペリー来航以降尊王攘夷運動のため、諸藩の志士の往来が激しくなった。これらの通行人が岡山城下を通行することを回避するため、ここ藤井宿から北の方を回るルートを建設し、1864年以降「新往来」を通行させるようにした。」とありました。写真の軽自動車の方向が新往来になります。神戸にも市内の外国人居留地を避けるためのバイパスとして徳川道が設けられていました。

 

岡山市中区長岡郵便局前の道標 (平成23年8月29日、追加)

● 長岡郵便局の前に2メートル近い大きな道標がありました。四国88ヶ所、秩父、西国、阪東の100霊場巡りを成就した記念の道標のようです。これこそ大事業です。

● また、山陽本線東岡山駅は明治24年開業当時は「長岡駅」、同39年西大寺駅、昭和36年東岡山駅と改称されています。道標建立の頃は長岡駅でした。

 

● 銘文(正面・南西)

 右面    「明治三十八年六月」

 正面(上部)「(右指差し手形)西大寺観音 /

        (左指差し手形)長岡駅 道」

   (下部)「四国 秩父 /西国 /阪東 順拝為也」

 左面(上部)「(右指差し手形)岡山 玉島 /

        (左指差し手形)神戸 大坂 京 道」

   (下部)「施主財田村大字東神下 /一厘堂店 /吉田兼五郎 /

        同行 遠藤嘉之吉」