―山陽道(西3)の道標―

(平成24年5月31日)

 山陽道を板倉宿から西に向かいます。岡山県境までの宿場は、川辺宿、矢掛(やかげ)宿、七日市宿、高屋宿になります。

(山陽道(西3)の道標地図)

 

倉敷市矢部の道標

● 岡山市の板倉宿から山陽道を西に進むと、足守川の手前で倉敷市になります。この道標は、足守川を越え堤防を下りたところの交差点にあります。方向を示す手形に扇が添えられた珍しい表示になっています。「御大典紀念」となっているので、大正4年11月に行われた大正天皇の即位の記念事業の道標と思われます。また、少し西には鯉喰神社という珍しい名前の神社があります。案内板によれば、吉備の国を平定するためにこの地で戦っていた吉備津彦命(桃太郎のモデルといわれている)が、鯉に姿を変えた賊を捕食したという伝説に基づいて神社をお祭りしたということです。

 

● 銘文

 東面「(右向き手形と扇)川辺 やかげ /そう志や 道」(やや北向き)

 南面「(左向き手形と扇)金毘羅 くらしき /庄早島」

 西面「御大典紀念 大正四年十一月建設 吉備郡高松町

          調刻人 牧野芳太郎(「調」は碑の通り)

          世話人 青年團」

 北面「(左向き手形と扇)吉備津 岡山 /大坂」

 

岡山市北区新庄下の道標

● 上の道標を西に向かい、山陽自動車道の高架下を過ぎると再び岡山市北区になります。畑地の十字路にこの道標はありました。標記の帝釈天や毘沙門天について近くの人に尋ねましたが、「よくわからない」とのことでした。あとでわかったことですが、北の庚申山のふもとに帝釈堂があります。また、南の日差山(倉敷市)には毘沙門天の磨崖仏 があり、それぞれを案内しているものと思われます。庚申山の山上にも毘沙門天の磨崖仏はありますが道標にある毘沙門天は日差山のものと思われます。北面に世話人2名の名前がありますが、当時苗字を名乗れるのは特定の人のみですので、苗字なのか場所名なのかは不明です。余談ですが、秀吉の高松城攻めの時、庚申山には吉川元春が、日差山には小早川隆景がそれぞれ毛利方の本陣を築いていました。

 

● 銘文(1859年、かのえ・いぬ)

 東面「従是北帝釋天江 十五丁」(江は小文字)(やや北向き)

 南面「嘉永三庚戌年三月建」 

 西面「従是毘沙門天江十三丁」

 北面「    世話人 造(?)山庄三郎 /大山仲右ヱ門 」

 

岡山市北区新庄上の境界石(?)

● ため池のほとりに小さな石柱が見えたので近寄って見ると、半分埋没して下部の文字は見えませんが、境界石のようです。地図で確認するとこの辺りは新庄上(西側)と新庄下(東側)の境界になっており、付近の境界線は複雑な曲線になっています。

 

●   東面「従是東(以下埋没)」

  北面「従是西(以下埋没)」

 

岡山市北区新庄上交差点の道標

● 境界石(?)の西で山陽道は県道270に合流し、その先の交差点のよく整備された一角に大きな道標がありました。表示の「左」方向は北になりますが、このまま進むと高松地区の最上稲荷の方になります。近くの案内板によれば、この辺りは古墳が多く残っています。古代では吉備は、畿内や出雲と並んで強力な勢力を持っており、優れた製鉄技術や巨大古墳文化を有していました。中でも近くの造山古墳は、現存する古墳では国内第4位の規模を持ち、この地方の繁栄ぶりを示しています。吉備は689年の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令により備前、備中、備後に分国され、さらに713年に備前から美作が分立し、明治時代まで続いています。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「左 いなり 道」

 左面「従是 五十二丁」

 

総社市国分尼寺址前の道標

● 岡山市北区の「 左 いなり 道」の道標を過ぎるとすぐに「総社市」の標識がありました。少し進むと、山陽道は再び県道270から分岐します。分れて間もなくすると自動車修理工場の店先のこの道標の場所で国分尼寺址へ分岐しています。この道標の方向の表示の矢印は斜めに書かれています。「あしもり江き」は、ここから北東の方向に位置する吉備線足守駅でしょうか。吉備線は明治37年、中国鉄道の吉備線として岡山駅、湛井駅(総社市井野尻)間で開業しました。その時足守駅も開業しています。

 

● 銘文

 東面「(右下向き矢印)あしもり江き」

 南面「(左右下向き矢印の交差)をかやま /やかげ」

 北面「大正元年十月立 /宿 青年團」 (注:大正は元年7月30日以降)

 

総社市国分尼寺址周辺の里程標

● 国分尼寺址へ行くつもりでしたが、山陽道を西に向かった先の民家の生垣の中にこの里程標を見つけました。読める範囲で文字を確認してみました。県境の三石や高屋までの、そして岡山県の元標までの、それぞれの距離が記されていました。

 

● 銘文

 東面「距 高屋管轄境九里廿六町廿八間一尺八寸」

 南面「距 岡山元標四里」

 西面「距 三石管轄境拾四里十四町〇〇四間三尺」

 北面「明治廿九年五月一日 岡山縣」

 

総社市国分尼寺址の標柱

● 備中国分尼寺は、奈良時代に聖武天皇の発願により造営されました。この林の中には、南門、北門、金堂、講堂などの伽藍跡の案内板が立てられていました。

 

● 銘文

 東面「史蹟 備中 国分尼寺址」

 南面「史蹟名勝天然記念物保存法に依 /大正十一年十月 内務大臣指定」

 

総社市備中国分寺前の石柱

● 案内板を要約します。「国分寺は国分尼寺と共に鎮護国家を祈るため、天平十三年(741)に聖武天皇の勅願により建てられた官寺です。備中国分寺は中世に廃寺となりましたが、江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものです。」 なお、石柱にある倉敷市の観龍寺は備中西国三十三所霊場の第二十九番霊場になります。

 

● 銘文(1826年、ひのえ・いぬ)

 東面「発願主 〇府三霊芳兵衛義智」

 南面「當國順禮 /二十八番 日照山國分寺」

 西面「従是 倉敷観龍寺江 一里半」(江は小文字)

 北面「文政九丙戌十月吉良現住證旭」 

 

総社市宿の道標 (平成24年6月10日、追加)

● 国分尼寺址周辺の里程標から山陽道を西に進み、県道270を斜めに南へ横断すると、宿の街並みに入ります。街並みに入ってすぐ、山陽道の北側の民家の前にこの道標はありました。下部が埋没しているので「はつとり江」しか読み取れませんが、多分ここから北西方向の「服部駅」となっていると思われます。吉備線の服部駅は明治41年に開業しています。

 

● 銘文

 東面「(右下向き矢印) はつとり江(き) 」( )内は埋没

 南面「(左右下向き矢印) をかや(ま) /や可(げ)」

 北面「大正元年十月立 /宿青年團」

 

備中国分寺周辺の道標(1)

● この辺りの山陽道は、国分寺の南を東西に通っています。ほぼ真南に位置する比較的広い交差点に新しい道標を模した石柱がありました。ライオンズクラブ写真同好会の寄贈となっていますが、おなじ案内標はこのあとも数か所で見かけました。

 

● 銘文

 東面「左 おかやま」

 南面「岡山旭ライオンズクラブ写真同好会 /昭和五十二年一月建之」

 西面「右 やかげ」

 北面「旧山陽道 宿」

 

備中国分寺周辺の道標(2)

● 上の道標から数十㍍西になります。国分寺への分岐点になる民家の生垣の中に大きな道標が立てられていました。道標の右側を北に向かうと国分寺の山門になります。

 

● 銘文

 東面「大正四年二月吉良日建之 /施主 都窪郡大高村笹沖 生水サト」

 南面「聖武天皇 /勅願道場(?) 國分寺」

 西面「當山第七十一世 一視龍辨代 /世話人(以下生垣の中のため確認できず)」

● 平成24年6月5日、追記

 世話人の下は「平山 渡部新五郎 /菅生村西坂 石工 山田管治郎」でした。

 

備中国分寺周辺の道標(3)

● 国分寺の五重塔が見通せるこの場所に古い道標がありました。雑草を払いのけて背面の年代をみて驚きました。約200年前の道標でした。

● あとでわかったことですが、この道標は、近くの畝道の石橋になっていたのですが、昭和63年ころに台石とともにこの場所に移設されたそうです。

 

● 銘文(1806年、ひのえ・とら)

 南面「國分寺詣道」

 北面「文化三年丙寅九月宿村中」  

 

総社市岡谷の道標

● 国道429を横断して200mほどのところにライオンズクラブ寄贈の案内標がありました。案内にある「すもうとり山」はここから南の方角にある5世紀初頭の古墳です。名前の由来は近くの御崎神社で戦前まで秋祭りの際に奉納角力が行われていたことによるそうです。また、近くには金毘羅さんの常夜燈もありました。

 

● 銘文

 東面「東 まかね」(やや北)

 南面「岡山旭ライオンズクラブ写真同好会 /昭和五十二年一月建之」

 西面「南 すもうとり山」

 北面「旧山陽道」

 

総社市山手郷土館前の道標

● 江戸時代末期の商家がそのまま山手郷土館として保存されています。その前の交差点にこの道標は立っていました。案内の表示から判断すると、この交差点は山陽道と四国方面への分岐になります。下村は現在の倉敷市児島下之町で江戸時代から大正の頃までは讃岐への港、四国遍路や金毘羅参りなどの人たちで賑わったようです。

 

● 銘文

 東面「施主 倉敷 /美内屋利之助」

 西面「(右指差手形) くらしき /志もむら」

  

総社市西郡の一里塚跡

● 案内板によれば、この一里塚には大きな松があったそうですが、昭和30年頃にかれてしまったということです。

 

● 銘文

 東面「左 おかやま」

 南面「岡山旭ライオンズクラブ写真同好会 /昭和五十二年一月建之」

 西面「右 やかげ」

 北面「旧山陽道 一里塚」

 

総社市ふれあい広場の道標

● 山陽道は一里塚を過ぎてしばらくすると県道270と合流します。この辺りは坂になっていますが、頂上辺りに「清音ふるさとふれあい広場」の入口があり、道標を模した案内標が立っていました。この入口の付近で山陽道は再び県道270と分れます。その分岐から少し先の池の畔にふれあい広場の案内標とともに古い道標がありました。

● 案内の大覚寺はここから西南の方角の清音軽部にあります。大覚大僧正は京都で日像上人の弟子となり、中国地方にお題目を布教された高僧です。「大覺大僧正の碑」は岡山市北区一宮にもありました。(山陽道(西2)に掲載済み)

 

● 北面「左 大かく大僧正」

 

倉敷市真備町(まびちょう)川辺の一里塚跡の碑 (平成24年6月10日、追加)

● 総社市清音方面から高梁川の川辺橋を渡ると中ほどで、倉敷市になります。この一里塚跡の碑は川辺橋西詰の少し南の堤防の下にありました。横にある説明板の内容を要約します。「この一里塚は川辺の渡し(高梁川右岸)にあったが、明治40年からはじまった高梁川大改修が完成した大正14年に現在地に移転した。ここから上りの一里塚は山手村西郡の、下りは真備町箭田の一里塚になる。」

 

● 銘文

 西面「史蹟 山陽街道一里塚 江戸より /百八十里」

 

倉敷市真備町川辺宿本陣跡の碑 (平成24年6月10日、追加)

● 一里塚跡から山陽道をまっすぐ西に進むと、街道の南側の植村歯科の前にこの碑がありました。横に設置された説明板を要約します。

● 「川辺本陣は代々難波氏で、生業は醤油屋であった。建物は明治26年の大洪水で流出し、資料も残っていない。兵庫県豊岡市で発見された川辺本陣間取り図によると、国指定重要文化財の矢掛本陣によく似ている。当時は高梁川に橋はなく、舟や徒による渡しのため氾濫があると、しばしば逗留を余儀なくされたことから川辺宿の賑わいは矢掛を凌いでいたと思われる。川辺宿の次の宿泊地は、上りは岡山市藤井や和気郡三石、下りは広島県神辺」とありました。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「山陽道川辺宿」

 正面「川辺本陣跡」

 

倉敷市真備町川辺宿の脇本陣跡の碑 (平成24年6月10日、追加)

● 本陣から数十㍍西の街道の北側にこの碑がありました。説明板はありませんでしたが他の資料によれば、脇本陣は日枝氏で、フジテレビ会長日枝久氏はここの末裔ということです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「山陽道川辺宿」

 正面「川辺脇本陣跡」

 背面「平成二年三月吉日」

 

 

倉敷市真備町川辺の艮御崎神社 (平成24年6月10日、追加)

● 脇本陣の碑の4軒ほど西に、艮御崎(うしとらおんざき)神社の門柱があります。向かって右の門柱の勇壮な感じの文字は犬養毅元首相の揮毫によるもので、県下でも珍しいそうです。犬養毅は、倉敷市に近い備中国賀陽郡庭瀬村(現岡山市北区川入)の生まれです。また、神社の名前も珍しいのですが、吉備津神社系で、備前、備中には艮や御崎と付く神社が40社もあるということです。

 

● 南面「八雲絶唱大雅千古」

 

倉敷市真備町箭田(やだ)の吉備公墳の碑 (平成24年6月10日、追加) 

● この地区には、吉備真備(きびのまきび)ゆかりの遺跡がたくさんあります。この碑もその一つで、吉備公の墓を案内する碑です。近くには墓のほかに吉備寺やまきび公園もあります。公園の説明板を引用します。

● 「吉備真備は、奈良時代、備中の小田川流域にあたる下道郡の豪族下道圀勝の子で、若くして遣唐留学生に選ばれ、阿倍仲麻呂らと中国長安に赴きました。唐に留まること19年間、儒学をはじめ、政治、経済、数学、天文など多方面にわたって学び、帰国後は日本の諸制度や文化の繁栄に貢献しました。カタカナも真備による発明と伝えられています。その後再び中国に渡り、鑑真和上らと帰国し、奈良時代を通じて国政の重鎮となり、晩年には正二位右大臣の位階を授かりました。」

● 余談ですが、吉備公の菩提所である吉備寺の本尊薬師如来は行基菩薩の作と伝えられているということです。スーパーマン行基菩薩の名がこの地でも見られました。

 

● 銘文(正面・南)(寛政二(1790)年、かのえ・いぬ)

 右面「是より三町」

 正面「吉備公墳」

 左面「寛政庚戌十月二十日 /再立  神戸信」     

 

倉敷市真備町箭田の一里塚跡の碑 (平成24年6月10日、追加)

● この一里塚跡は、吉備公墳の碑から少し西の民家の玄関先にありました。ここから上りの一里塚は、川辺宿の一里塚になります。 また、ここから西の山陽道は、国道486と合流、分岐をくりかえして矢掛方面に向かいます。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「史蹟 山陽街道一里塚」

 

小田郡矢掛町東三成、福頼神社の道標 (平成24年6月10日、追加) 

● 小田川に沿って国道486を西に進むと、倉敷市真備町妹(まびちょうせ)を境に小田郡矢掛町東三成(ひがしみなり)になります。小田川に架かる福頼橋の北詰のガードレールの間にこの道標がありました。 道路の反対側(北側)には天保十年(1838)の常夜燈とともに現在の標識もあり、福頼(ふくより)神社がここから約1㌔南にあることを表示しています。備前尺所は和気郡和気町尺所(しゃくそ)でしょうか、随分遠方の人が建立しています。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「備前尺所 大森氏建之」

 正面「福頼宮 江拾丁」

 

小田郡矢掛町東三成の道標 (平成24年6月10日、追加)

● 三叉路の民家の塀の陰にこの古い道標はありました。道標の北側の東西の道路が山陽道になります。表示された地名は左即ち東が大坂、右は小田川沿いに南へ玉島となっています。道標の近くに「行部」(いくべ)という地名が表示されていましたが、地図にはありません。公会堂にその名があったので字名なのでしょうか。

 

● 銘文(1858年、つちのえ・うま)

 東面「安政五戊午七月施主建之」   

 西面「右 玉しま道」

 北面「左 大坂 道」(やや西向き)

 

旧矢掛本陣石井家住宅 (平成24年8月25日、追加)

● 矢掛町のほぼ中央に本陣石井家があります。石井家は矢掛町の庄屋を務めながら酒造業を営んでおり、寛永12(1635)年に本陣を命じられたと伝えられています。現存する建物は江戸時代中期に建てられた裏門、酒蔵などを除き、本陣としての御成門や御座敷など主要施設は江戸時代後期(天保年間~安政年間)にかけて再建されたものです。大名が宿泊、休憩した上段の間に入ると、一般庶民の私としては、造りや装飾などの品々の雰囲気に圧倒されました。左写真の右端が御成門、また山陽道の標識は本陣の前、道路の反対側にありました。

 

矢掛町の高通川徒渡し跡 (平成24年8月25日、追加)

● 本陣前の街道を西に進むと、旧栄橋になります。この橋の西詰に比較的新しい標識「高通川徒渡し跡」の碑が設置されていました。この川を歩いて渡っていた場所ということになりますが、高通川という名が地図では見当たりません。栄橋から数百㍍上流側で美山川と星田川が一つの流れになり、栄橋の下流で小田川に合流しています。国交省の地図では栄橋の西詰辺りの地名が「高通」になっているので、二つの川が一つになり小田川に合流するまでの数百㍍が「高通川」と言うことでしょうか?

 

小田郡矢掛町小田の堀越宿 (平成24年7月26日、追加)

● 井原鉄道小田駅の南が国道486号線ですが、もう一本南の筋が旧山陽道になり、この辺りが堀越宿になります。 高梁川の支流である小田川に沿っている堀越は、高瀬舟の遡行限界であり、また、笠岡と成羽を結ぶ南北の街道との交差点でもあり、交通の要衝でした。旧街道が国道とは重なっていないので、旧い街並みもよく残されています。平成十六年のやかげ歴史の道復元事業の説明板を要約します。「小田の堀越は西江原と共に、旧山陽道の矢掛、七日市間の間(あい)の宿として賑わいました。旧堀越は七十八軒の屋敷があったと伝えられています。」

 

井原市東江原、岡山県貨物前の道標(2基) (平成24年7月26日、追加)

● 小田駅と早雲の里荏原駅の中間辺りの国道486沿いにある岡山県貨物の営業所の入口付近この道標がありました。右側(道標(A))「万人講供養」は背面に道案内があるようですが、フェンスに密着していて確認できませんでした。 左(道標(B))の舟形光背型の台石に道案内のような文字が見えました。また、この上部の地蔵は牛の上に描かれているようです。地図で確認しましたが、ここから北西方向にある法泉寺は早雲の父盛定が、古潤仁泉を招き開山した寺です。早雲はこの古潤仁泉を学問と武芸の師と仰いでいました。

● 近くの高越城は北条早雲生誕の地です。早雲は、城主伊勢盛定の子として、永享4(1432)年この地に生まれ、伊勢新九郎と名乗り、33歳までここで過ごしています。早雲は、後に伊豆、相模を攻め取り、北条氏百年の基礎を築きました。ということで「早雲の里荏原」です。

 

● 道標(A)銘文(正面・西)

 正面「万人講供養」

 背面「南 やくしミち /〇したミち」

● 道標(B)銘文(正面・西)

 正面「(地蔵坐像、牛の上) 北 万人講 /智勝院 /法泉寺 道 /

     明治廿九年十月」 

 

井原市東江原国道486号手前の道標 (平成24年7月26日、追加)

● 国道486の青木交差点手前の旧道の一段高い石垣の上にこの舟形光背型の道標がありました。道標の前に燈明台が密着しているので、一部の文字は読めませんが、読める範囲で確認してみました。それによれば、案内の方向が、左右逆になっているので、道路の反対側にでも設置されていたのでしょうか?

 

● 銘文(正面・北)

 正面「(地蔵坐像、牛の上)右 小田村・・・ /亡牛・・・ /

              左 木之子・・・」

 

井原市東江原、日本綿布前の道標(2基) (平成24年7月26日、追加)

● 上の道標の数十㍍西の三叉路に2基の道標が無雑作に置かれていました。東向きの道標(A)とその後ろに倒れている道標(B)の2基です。

● 耕運機のない時代には、田を耕すためにどこの農家も牛を飼っていました。飼っていた牛が死ぬと「万人講」を開き牛供養の寄進を募って飼い主を施主として供養碑を作り、道端など人目につきやすい場所に建てていたということです。 戦後は「亡牛供養碑」などと刻まれ、以前のような万人講とは違った意味合いを持つようになりました。(井原市の方のブログより)

 

● 道標(A)銘文(正面・東)

 右面「       西ハ 井原 髙屋 福山」(カナは小文字)

 正面「(地蔵坐像) 東 小田 矢掛ヲ /経テ 岡山」

 左面「       南ハ 木子 門田ヲ /経テ 笠岡」

  (下部)「施主 /木山嘉三郎」

 背面「昭和二年 /二月建立」

● 道標(B)銘文

 正面「 右 井原 施主 池田清市朗

    為 亡牛供養万人講

     左 稲木 経 福山 昭和廿五年十月」

 

井原市東江原、一里塚跡の碑 (平成24年7月26日、追加)

● 青木の三叉路から右の旧道を西に進むとすぐにこの一里塚の碑があります。この碑の下部に名前があるので個人で建てられた碑のようです。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「旧山陽道 /一里塚 /一五九二年豊臣秀吉設定」

   (下部)「田中家一同 /一九七二年六月建之」

 

井原市西江原今市駅本陣跡 (平成24年7月26日、追加)

● 今市宿は、矢掛宿と七日市宿の間の宿ですが、小田川を挟み七日市宿の対岸になり、川待ちなどで賑わったということです。 本陣は難波家でした。

● また、近くのバス停に「田中生誕地」とあったので「たなか」さんの生誕地がなぜバス停に?と不思議に思ったのですが、あとでわかりました。この地は彫刻家平櫛田中(1872~1979)の生誕地でした。生家が田中で、養子先が平櫛なので二つの姓を合せて号としたそうです。

 

● 標柱銘文(正面・北)

 右面「西江原史跡顕彰会」

 正面「史蹟 今市駅本陣跡」

 左面「平成十二年三月」 

 

井原市西江原、今市宿から日芳橋まで (平成24年7月26日、追加)

● 今市宿を過ぎて、七日市宿に向かう街道も鍵の辻などが残っていたりして、旧い街並みが続きます。鍵の辻の近くに「史跡 相田嘉三郎旧宅」「平成八年十二月吉日建立」と書かれた標柱がありました。明治の初め養蚕の奨励や製糸業に尽力した人のようです。また、日芳橋の近くには、「川越え上り場跡」や「日芳橋碑」があったのですが、暑さのせいか見逃してしまいました。旧渡し場は日芳橋の少し東(下流側)で、旧街道も橋より東の細い道になります。 (地図は日芳橋を示す)

 

井原市七日市町の道標 (平成24年7月26日、追加)

● 井原と笠岡を結ぶ井笠鉄道は、昭和46年に廃線となっていますが、開通したのは大正2年でした。その当時の七日市駅を案内する道標と思います。道標を設置した齋藤さんは鉄道の敷設や駅の建設にも貢献された方のようです。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「大正二年十一月開通」

 正面「七日市停車場」

 左面「従是通路三十六間 /寄附者 齋藤金夫」

 

井原市七日市町、七日市本陣屋敷跡の碑 (平成24年7月26日、追加)

● ここ七日市宿は、山陽道四十七次の一つで本陣1軒と脇本陣が3軒もあったというかなり大きな宿場であったようです。この街並みに漆喰塗り、なまこ壁の建物が多く目につくのは、七日市は安政3(1856)年の大火でほぼ全焼し、その後建てられた家が多いせいだそうです。 

 

● 銘文(正面・北)

 正面「旧山陽道 参勤交代 /七日市宿場

    本陣屋敷跡 /昭和六十一年秋勲五等叙勲記念 /川相武夫 建之」

 

井原市下出部(しもいずえ)の道標 (平成24年7月26日、追加)

● 現在の井原鉄道「いずえ駅」は、ここから500㍍ほど西になります。この道標は昭和10年に設置されているので、旧井笠鉄道の「出部(いずえ)駅」を案内していると思われます。井笠鉄道、井原~高屋間は大正14年に開通していますが、 昭和46年廃止となっています。その後、用地は鉄建公団に買収され、平成11年に開通した井原鉄道建設に供されています。

 

● 銘文(正面・北)

 正面いづへ驛」

 背面「昭一〇・七建」 

 

井原市下出部の一里塚跡の碑 (平成24年7月26日、追加)

● 新しい民家のまえにこの一里塚はありました。ここは、備後尾道より八里、備中板倉より九里の地点になります。 

 

● 銘文(正面・南)

 正面「旧山陽道 /一里塚跡」(下部)「平成四年五月吉日 /下出部ふる里会」

 

井原市下出部の里程標 (平成24年7月26日、追加)

● 荒神社の境内に里程標がありました。下の部分は文字に続きがあるのか、終わりなのかよくわかりません。読める範囲の文字は以下の通りです。 

 

●銘文(正面・北)

 右面「距 三石管轄境廿三里十四町・・・」

 正面「距 岡山元標十三・・・」

 左面「距 高屋管轄境廿六町・・・」

 背面「明治十四年五月一日」 

 

井原市下出部の大曲跡 (平成24年7月26日、追加)

● 荒神社からさらに西に進むと、井原鉄道高架沿いの小さな公園のところで三叉路になっていますが、ここは旧街道の「大曲跡」であると説明板にありました。区画整理により昔の姿はないが、その説明によれば、街道はここからL字形に大きく北に曲がって、国道313号線を南西に延長した道路につながっていました。

● 説明板を要約します。「旧山陽道では、単調な旅に変化をつけるために一里塚と共に大曲がつくられた。戦乱の世には、東西を走る敵の数を調べるの都合がよく、また、参勤交代の際には、殿様が行列の前後を眺めては長い旅をつづけたという。」

 

井原市下出部、大曲跡付近の道標(2基) (平成24年7月26日、追加)

● 大曲跡の三叉路に2基の道標と「水準点」「一六〇七号」と書かれた石柱がありました。水準点の左の道標(A)と少し西の建物の近くに道標(B)がありますが、どちらも文字は判読できません。

 

● 道標(A)銘文(正面・南)

 正面「(右指差し手形?)右上方道 /左さく道」 (?)

● 道標(B)銘文(正面・東)

 正面「右・・・ /左・・・」 (?) 

 

井原市下出部1丁目の旧山陽道標識 (平成24年7月26日、追加)

● 新しい標識です。近くに大橋公民館があるので「大橋」は古い字名かもしれません。

● 銘文(正面・北東)

 正面「旧山陽道 備中大橋跡」

 背面「平成七年三月建立 出部いにしえ会」

 

井原市高屋町の丁石 (平成24年7月26日、追加)

● 高山寺は、経ヶ丸山の中腹にある真言宗大覚寺派の別格本山です。天平勝宝年中(749~756)に行基が開創したと伝えられている。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「備中 西国第八番」

 正面「従是 高山寺 十八丁」 

 

岡山県、広島県境界の里程標 (平成24年7月26日、追加)

● 高屋の街並みを通り抜けたところに高さ3㍍ほどの立派な道標がありました。この道標は交通事故で破損したので建て替えたということです。ここからは備中国から備後国に入ります。また、この道標のところが現在も岡山県と広島県の県境になりますので、ご近所の方はお隣が他県ということになります。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「神辺驛へ 壹里拾八町四拾五間」

 正面「広島縣距 広島細工町元標参拾里貳拾八間三尺九寸

    岡山縣距 岡山橋本町元標拾参里貳拾七町参拾六間」

 左面「七日市驛へ 壹里拾壹町拾参間」

 背面「大正八年壹月 備中國後月郡高屋村

           備後國深安郡御野村」

● 別の小さな石柱「平成十七年二月災害により建替」