―巡礼道、書写道の道標― 

(平成21年12月1日) 

 加西市の法華山一乗寺(西国三十三ヶ所第二十六番)から姫路市の書写山圓教寺(同第二十七番)までの「巡礼道の道標」を紹介します。ちなみに「巡礼道」は巡礼者がよく通る道という意味で、各霊場をつなぐ道の一般名ですので、各地にみられます。 

巡礼道の道標地図

 

(平成24年2月4日、追加)

 姫路市の書写山ふもとから姫路城下市之橋までの「書写道の道標」を末尾に追加しました。

書写道の道標地図 

● 西国巡礼道

 中山寺(24番)→名塩→道場河原→三田→福島→相野→立杭→清水寺(25番)→坂本→馬瀬→佐保→繁昌

 →法華山(26番)→石の宝殿→曽根天満宮→姫路→坂本→書写山(27番)→置塩→前之庄・・・成相寺

 (28番)

● 西国巡礼兵庫巡り

 中山寺(24番)→小浜→広田社→西宮夷→莵原→摩耶山・布引の滝・生田社・楠木正成石碑→兵庫(來迎

 寺・真光寺)→須磨(福祥寺)→垂水→人丸社→明石→大久保→野口→鶴林寺→尾上住吉社→曽根天満宮→

 石の宝殿→姫路→坂本→書写山(27番)→庄→法華山(26番)→繁昌→佐保→馬瀬→坂本→清水寺

 (25番)→市原→古市・・・成相寺(28番)

                         (参考文献「西國三十三所順礼道」兵庫県教育委員会)


法華山一乗寺 (←ここをクリックすると所在地を表示)(平成26年9月19日、追加)

● 法華山一乗寺は、白雉元(650)年法道仙人によって開山されました。永延二(988)年花山法皇の御幸があり、この時、金堂を大悲閣と命名され、西国第26番札所と定められました。以後巡礼の霊場となっています。

 金堂は、寛永五(1628)年に再建され、平成20年には大修理が完了しています。また、承安四(1174)年完成の三重塔は国宝に指定されています。

(↓下の写真をクリックすると拡大できます。写真以外をクリックすると元の画面に戻ります。)


一乗寺境内の道標 (平成26年9月19日、追加)

● 一乗寺境内は斜面にあるために3段ほどに別れています。1段目の階段の右の石垣の前に3つの道標と1つの丁石があります。見子明神社はここから右の方に向かったところにあります。

●左の道標

 右面  「昭和拾貮年七月建立」

 正面・南(右指さし手形)見子堂道」

 左面  「大阪西堀     広畑      広畑

        浜田伊作    大谷竹次    岩岩次

        毛利治良吉   田中竹一    宮澤庄次

               高砂

                三木亀之助       」

●その右の道標(真中)

 右面  「奉納 姫路○○」

 正面・南「右 見子社道」

●一番右の小さい道標

 右面  「施主 飾磨 /○木○○」

 正面・南「右 い奈里道」(いなり道)

●丁石(道路の中)

 正面・東「二〇〇メー /トル 神代鶴」  

 

一乗寺門前右側の道標

● ここは加西市坂本町になります。この道標は、一乗寺入口小橋の右の桜の老木に押さえられるようにして立っています。2㍍ほどの高さのかなり大きな道標です。御嶽山清水寺は第二十五番、書写山圓教寺は第二十七番の霊場です。清水寺は寺号で書かれています。

● 正面・南「右 きよ水寺 八里 /左 志よしや山 五里」

  左面  「姫路講中」(判読不能のため未確認)

 

一乗寺門前左側の道路元標 (平成26年9月19日、追加)

● 一乗寺入口の小橋の左側、上の道標の反対側にこの道路元標が建っています。「加西市の道標」の「三口町の道標(1)」と建立の年月も建立者も全く同じものです。

● 右面  「為参詣者 /技折建之 神代鶴醸造場 /施主 稲岡耕作」

  正面・南「奉/納(横書き)法花山元標・・・」(一部欠落)

  左面  「昭和参年巳五月 周旋人 三口 稲岡壽之助 坂本 佐藤富三郎/

              (横書き)   稲岡芳太郎    岩崎熊治/

                      西岡熊太郎    佐藤安太郎/

                      稲岡三十     松田慶治/

                      丸岡石松         」


一乗寺門前の地蔵道標  (平成26年9月19日、追加)

● 一乗寺の入口の少し西、地蔵院前にこの地蔵道標があり、その台石に道案内がありました。

● 右面  「智乗童子」

  正面・東「右 志よしや道」

  左面  「暁有童子」

  背面  「明和二乙酉年 /林田 三木氏 /姫路 田村氏」(1765、きのと・とり)

 

一乗寺参道の道標 (平成25年11月8日、追加)

● 一乗寺門前から西にむかった加古川市との境界の川の手前に西門があります。その横に大正時代の道標がありました。下から1/3くらいのところに折損の痕跡があります。

● 右面  「大正八年三月建之」

  正面・南「西/國 二十六番法華山一乗寺 /是ヨリ本堂へ五丁」(左行は小文字)

  左面  「名古屋市西区塩町 /伊藤萬蔵」

平成26年4月21日、追記

● 伊藤萬蔵を研究している方からメールをいただきました。

● この道標の建立者「伊藤萬蔵」さんは名古屋の豪商で、東海地方を中心に各地の寺社に石造物を寄進し続け、その数は千基とも言われているそうです。詳しくは次のWEBでどうぞ

http://www5d.biglobe.ne.jp/~noryuasa/manzou01.html

  

加古川市法華山入口の道標

● ここは加古川市志方町畑になります。県道515から法華山へむかう県道717の分岐にあり、加古川市内では一番大きな道標です。高さは基礎部も含めて223㌢です。道標の四面と基礎部の四面すべてに銘文があります。基礎部には「時(異体字)文政四年/辛巳五月」(1821年かのと・み)のほか願主、世話人、石工の名前がそれぞれ書かれています。ここに書かれた「直」や「すく」はまっすぐの意です。

● ここから東へ向かうと法華山一乗寺になります。ここから北へは加東市の清水寺やさらに宮津市橋立の第二十八番成相寺、舞鶴市の第二十九番松尾寺に向かい、西へ進めば、書寫山圓教寺になります。

● 東面「直 書寫山道」横に小さな文字で「志よしやさん /ひめぢ」

  南面「すく たしま道」

  西面「直 法華山道」

  北面「すく めい志よ道 /加古川、大坂」

  

姫路市飾東町小原桶枝池北の道標 (2基)

● 法華山入口の道標から姫路に向かうのは二つのルートに分かれます。この道標は北のルートの現在の国道372に入ったところにあります。左の写真、道標の左側が丹波篠山市方面へ向かう国道372で、地蔵の手前を右へ行くのが法華山への古い道です。道案内の書かれた地蔵は新しい地蔵のうしろになります。

● 道標 正面・西「右ほつけさん」

● 地蔵立像 正面・西「右 ほつけさん /(地蔵立像) /左 たん者”」(左 たんば)

  

加古川市志方町畑野深池北の道標

● この道標は、法華山入口の道標から南のルート、県道388にあります。自然石型の素朴な道標で、分れ道にあり、いかにも道標といった風情が感じられます。これらの二つの道標はいずれも西方面、姫路方面から来る人のための案内になっています。西からくる巡礼者が多かったのでしょうか、あるいは巡礼順序にルールでもあったのでしょうか?

● 正面・西「左 ほっけ山」

● 平成22年8月10日追記、西国三十三ヵ所巡拝の順序について「東播磨の歴史」の中に次のような記述が見つかりました。

 「札所の順番通り行くのはオーソドックスなやり方ですが、播磨周辺では名所も多く遊山旅も優先されたようです。二十四番中山寺(宝塚)の後は、浜街道沿いの播磨の名松や石の宝殿などを経て、先に二十七番円教寺(姫路)に行きます。その後、二十六番一乗寺(加西)、二十五番清水寺(加東)から北に向かい二十八番成相寺(天橋立)へ向かいます。」

  

姫路市飾東町大釜公民館横の道標

● 野深池北の道標から西に進むと姫路市飾東町大釜の村になります。この村の入口に八幡神社があり、その辺りから旧道は県道から分かれて村の中に入ります。少し進むと小さな川があり、この橋を渡った左の山のふもとに公民館と地蔵堂があります。この道標は地蔵堂の裏に一石五輪塔などと並べて置いてありました。もともとは八幡神社の北の田んぼの中にあったそうですが、土地改良計画に伴ってここに移されました。

● 正面・北「右 やま道 /(地蔵立像) /左 法花山道」

  

姫路市飾東町谷外公民館前の道標

● この道標は、上の道標から約4、5㌔ほど西の姫路市飾東町豊国にあります。仮にここに置かれているのでしょうか、表示の方向が180°合いません。

● 正面・南(地蔵坐像)右 書寫山 /西 ひめじ /東 谷地蔵」

  

姫路市飾東町豊国、最古の道標

● 写真右の道標は延宝五年(1677)とあり、姫路市内で最古のものです。法華山一乗寺と書写山圓教寺に通じる巡礼道と但馬道の交差点にあります。これは、古さでは全国的には十四番目、近畿地方でも八番目のもので、初期の道標です。

● 風化と汚れが激しくほとんど判読はできませんでした。姫路市の資料によると下記の通りでした。また、通常年号と共に記される干支(丁巳になる)の表記がないのも珍しい。表記があるもかもしれませんが、表面が汚れていて確認できません。

● 道標設置時の時代背景としては、延宝八年には徳川綱吉が五代目将軍となり、11年後の1688年には、江戸時代の文化のエポックメーキングとなる元禄の時代を迎えます。

● この写真の右の道を進むと、飾東町庄、花田町小川を通り、市川の松ヶ瀬の渡しへと続きます。最古の道標の写真の左は、文久三年(1863年)のものです。約200年の時差のある道標が並んでいることになります。さらに加えるならば、左の道標の約150年後に一番左の白い説明板が姫路市教育委員会により立てられたことになります。

● 右の道標

  右面   (梵字)これより右ハしよしやみち」

  正面・東面「延宝五年 /(梵字)奉納西國三十(縦棒三本横棒一本)三所順礼成就攸 /九月十八日」

 (下部)に 「・・・門」(文字不明)など7行あり、8行目に「七人」とあります。

  

姫路市飾東町豊国、最古の道標、横

● 上の最古の道標の左の道標です。Wikipediaによれば「江戸時代に観音巡礼が広まり、西国33ヵ所、阪東33ヵ所、秩父34ヶ所を併せて日本百観音という」とありますが、この道標は、豊国の誰かがそれを終えた記念なのでしょうか・・・ これも勝手な推測です。

● 東面(観音立像)文久三年癸亥 /西國 秩父 阪東 豊國 (以下判読不明)(1863、みずのと・い)

  南面「此方 ひめじ」

  西面「西 志よしや」

  北面「すぐ ほつけ」

 

姫路市飾東町庄丹波道の道標 (平成24年2月22日 追加)

● 左の写真で位置関係を説明します。地蔵堂の左方向を北に行くと豊富町で但馬道と合流します。丹波道を西に向かうと「西 ひめじ」姫路城竹之門へ、東に向かうと「飾東町豊国の道標」のところで巡礼道と丹波道が合流し、法華山に行くことができます。また後ろのネットフェンス沿いが南北の通りになり、手前「南 御着」に向かうと「有馬街道の道標」御国野町国分寺の道標に出ます。この道標はその国分寺の道標によく似た形式になっており、4面に案内がありますが、立派な祠に納まっているので 正面しか確認できませんでした。

● 右面  「東 ほつけ」

  正面・南(地蔵坐像)南 御着」 (やや西向き)

  左面  「西 ひめじ」

  背面  「北 たじま」 

  

姫路市飾東町庄の道標(石燈籠型)

● この道標は、最古の道標から西に向かい播但道の下を通り抜けた飾東町庄にあります。左の石燈籠の下に文字が書かれているようですが、ほとんど判読できませんでした。姫路市銘文集によれば、次の通りでした。

● 右面  「春ぐ(すぐ) 志よ志や山」 

  正面・南「此方 ごちやく」

  左面  「春ぐ(すぐ) ほつけ山」

  

姫路市飾東町庄の道標

● 石燈籠から西はしばらく民家が続きますが、民家のはずれの小川(用水路)の中にこの道標は立てられていました。それぞれの方位と行き先名が、かなりはっきりとした文字で記されていました。左の写真は道標の西面を写したもので、道標の右の道路が順礼道で、手前の道路を北に行くと豊富町で但馬道に合流します。

● 余談ですが、あるテレビ番組で現在の高速自動車道路網のほとんどは古代の道路網とダブっていると説明されていましたが、なるほどこの但馬道は播但道に、また、巡礼道は山陽自動車道にそれぞれ重なっていることが、歩くことで実感できました。

● 東面「東 ほつけ山 /ごちやく 道」

  南面「南 飛めぢ道」

  西面「西 志よしや山ミち」

  北面「北 たじま道」

  

姫路市佐良和(さろお)の道標

● この辺りの道路はかなり広くなっています。この道標も用水路の上にありました。ここから少し右(東)には歳徳神社参道という大きな看板がありました。歳徳神社は姫路城の鬼門を守護する神社といわれています。

● これから西への巡礼道はよくわかりませんでした。市川の渡し場までに2つの道標があると資料にはありましたが、道標は地蔵堂の中にあるのか、いずれも見つけることができませんでした。

● 正面・南(右)歳徳神社 /左 ひろみね /志よ志や 道」((右)部は欠損部分)

 

姫路市佐良和の道標(2) (平成24年2月16日 追加)

● 小さな道標ですが、四面に案内と年代の刻銘がありました。東西の通りが法華山一乗寺から書写山圓教寺に至る巡礼道のようですが、東西どちらもこの先で途切れていました。現在は新しい分譲地の中になっています。

● 右面  「文化八未二月 /春ぐ(すぐ)みち 志よしや」(1811、ひつじ)

  正面・南(地蔵坐像)先祖代々 /春ぐみち たじま /勇玄童子」 

  左面  「春ぐみち ほつけ」

  背面  「春ぐみち ひめじ」

● 平成26年9月30日、追記

 明治26年大日本帝国陸地測量部(陸軍参謀本部の外局)測量の地図を入手した。これによるとこの辺りの巡礼道は、豊国の市内最古の道標のところで丹波道から分岐しまっすぐ西に向かっている。現在この道路は学校や公園、分譲地で途中途切れているが、この道標はその線上にある。

 

姫路市花田町小川の道標2基 (平成23年10月19日、追加)

● 周りの商店街から取り残されたような場所に地蔵堂があり、その横に2基の古い道標が見つかりました。大きい石塔には「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」と書かれ、その下の台石が道標になっています。

● 左の小さい方の板碑型の道標は、劣化が激しく一番上の「左」の文字しか判別できませんので、姫路市石造遺品銘文集を調べました。道標に書かれた案内を辿ると、丹波道を通り、笠原(加西市)→小野→古市(篠山市)→三田→一倉(一庫?ひとくら、川西市)→黒川(川西市)→妙見山(大阪府能勢町)という道順が読めます。遠方までの親切な道案内になっています。また、美作市吉という住所が美作ICの近くにありますが、これが「作州吉ヶ原」でしょうか。

● この辺りは巡礼道から少し外れます。姫路城下から小川の渡し(旧小川橋の南)を通る丹波道のルートにはなるようです。

● 石塔台石型の道標

  正面・西「右 上原田村 /左 ほつけ山 道」

   塔身  「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」

● 板碑型の道標

  正面・西「左 のせ妙見山 /順路是より笠原○○新田小野 /○○古市市原三田 /○野一倉黒川/

       妙見様○た○るべし」

  左面  「施主 作州吉ヶ原万代講中 /世話人 当村作兵衛」

 

姫路市花田町高木の道標 (平成23年10月18日、追加)

● 市川に架かる高木橋の東の三叉路にこの道標はありました。大正天皇の御大典(即位式と大嘗祭)は大正4年11月10日に京都御所で行われました。これは国家的なイベントとして盛大に行われたので、この道標もその記念として建てられたものと思われます。

● 道標前の民家の方から「高木公民館前から最近ここに移設された」と聞きました。

● 右面  「御大典記念」

  正面・西(地蔵坐像)西 しよしや /東 ほつけ」

  左面  「南 花田村役場」

  背面  「大正四年十一月 /安部傳右衛門建立」 

  

姫路市保城、佐和鍍金工業南の道標 (平成23年6月29日 追加)

● 姫路市佐良和を西に進み市川の松ヶ瀬の渡し(場所は特定できません)を渡ると姫路市保城辺りになりますが、この辺りの巡礼道の正確なルートはよくわかりません。この道標の表示から推測すると、この地点は、南北のたじま道と東西の巡礼道の交差点でしょうか。道標の表記の方角が180度反対ですので、本来は正面が南向きであったものと思われます。また、下部の半分以上は埋没しており、表記をうまく写真に撮ることができませんでした。

● 正面・北(右向き手形)ほつけ /(左向き手形)志よしや」

  左面  「左 河野」  

  

西中島法林寺西の道標 (平成23年6月9日 追加)

● この道標は、上の道標から南に向かった西中島、法林寺の西、船場川の手前、薬師堂の北側に祠の中にありました。

● 右面  「弘化四丁未年」(1847、ひのと・ひつじ、丁未は斜め書)

  正面・北(地蔵坐像)左 ほつけ」

  左面  「右 志よしや」

  

西中島公民館南の道標 (平成23年6月29日 追加)

● この角柱型の道標は、西中島公民館の南側に祠の中にありました。公民館は旧水上村役場であったと説明板にありました。

● 正面・南(地蔵坐像)右 本つけみち /左 志よしや道」(法華道、書写道)

  

姫路市増位本町、水上村道路元標 (平成23年6月29日 追加)

● 西中島公民館を南に向かい、次の角を右に折れ、播但線の高架下を通りぬけた交差点の一角にこの「水上村道路元標」が設置されていました。 

  

梅ヶ枝町日吉神社境内の道標 (平成23年6月29日 追加)

● この自然石型の道標は、巡礼道からは少し外れ梅ヶ枝町日吉神社の入り口の鳥居の左側にありました。標記から推測すると神社の前の道路は但馬道ということになります。北に向かうと白国2丁目増位山登山口の道標に出ました。 

● 正面・南「右 たじま /左 ひろミ祢」 

 

白国二丁目増位池南西の道標 (平成24年2月22日 追加)

● 県道518砥堀本町線の1本北の細い道になりますが、ここが巡礼道のようです。増位池の西の三叉路の民家の塀に密着してこの道標はありました。この道標の表示にはありませんが、道標の向かって左の方向に200㍍ほど進むと、「増位山登山口の道標」のところに出ます。

● 右面  「左 ほつけ山」

  正面・東「右 志よしや山」

  左面  「白国邑勧進 /西尾市松 仝白井源十郎 /仝白井仲次郎 /ヒメジ 喜多利吉/

       明治三十年五月 (下部に斜書き) 建 設

  

白国ニ丁目増位山登山口の道標 (平成23年6月9日 追加)

● 法林寺前の道路を300㍍ほど西に進み右折して北に向かいますが、この辺りはよく整備区画されているので旧道はわかりません。しかし県道518の越えると道は細くなり旧道のおもかげが感じられます。この道標は県道518の交差点を越えてすぐの三叉路にありました。

● 正面・東「右 たじまみち」

  左面  「左 増位山 道」 

  

白国三丁目増位山登山口の道標 (平成23年6月29日 追加)

● 右側の細い道が増位山の随願寺への登山道です。道標の下部は埋没しており読めませんでした。

● 正面・南「右 増位 たいし尊 /ふうら堂 道」

  背面  「昭和十四年五月建設 増位保勝會・・・ /代表緒・・・」 (・・・は判読不明)

 

白国二丁目蔵谷橋西詰の道標 (平成28年6月9日、追加)

● 蔵谷橋西側の護岸の上にこの道標が建っていました。背面の寄贈者を見ると「白国二丁目増位池南西の道標」と同じでした。写真には「倉谷橋」の札が写っていますが、橋の銘板には「蔵谷橋」となっていました。

 右面  「 法花山川渡 」

  正面・北「右 志よしや山 /左 ほつけ山」

  背面  「白國村勧進 /西尾市松     白国村 /白井仲次郎

       ヒメジ○ケ坪セワ人 /志水嘉吉 仝 右 /白井源十郎

       明治三十年五月         姫 路 /喜多利吉 (下部に斜書き) 建 設 」

  

白国弁天池南東の道標 (平成23年6月9日 追加)

● この道標は、弁天池の南側にありました。道標というより現在では路傍の地蔵様でした。赤い衣をあげて確認してみました。

● 右面  「明治廿九年十一月八日建立」

  正面・南(地蔵坐像)右 ほつけ山 /左 志よしや山 道」

  左面  「為長田治郎吉 /長田利吉」 

  

上大野大野峠の道標 (平成23年6月9日 追加)

● 上の道標から2㌔ほど西に進むと小さな峠に差し掛かります。この峠の頂上付近に地蔵堂があり、地蔵の台石に道案内が書いてあります。現在「右」方向に道はありません。しかし明治26年の地図を見るとこの辺りは安室村と城北村の境界で三差路になっており、右方向にも小径が描かれています。

● 正面・西「右 ほつけ /左 ひろみね」

  背面  「三界万霊 /無縁法界」

  

御立北三丁目の道標(1) (平成23年6月9日 追加)

● 峠を下ったところで細い旧道に入りますが、その村中に立派な道標(高さ140㌢)がありました。大きな道標であり、彫りも深く文字もはっきりと読めます。

● 右面  「左 志よしやさん道」

  正面・南「右 ほつけさん /ひろミ祢 道」

  左面  「すぐ やまみち」

  背面  「安政三丙辰年四月」(1856、ひのえ・たつ、丙辰は斜め書) 

  

御立北三丁目の道標(2) (平成23年6月9日 追加)

● 上の道標の50㍍ほど南の三叉路にこの道標はありました。これも立派な道標(高さ164㌢)です。同じ村中に2つも大きな道標があるのは珍しいことです。南に向かい飾西の因幡街道に出れば、龍野や網干に行くことができます。上の道標の3年後の道標なので、遠くの地名も案内しているのでしょうか。

● 右面  「左 ひろみね /ほつけ山 ミち」

  正面・北「右 書寫山 鹿谷道」(右側に「しょしゃざん かやみち」とフリガナがあり)

  左面  「左 たつの むろつ /びぜん あぼし 道」

  背面  「安政六己未年三月吉日」(1859、つちのと・ひつじ) 

● 平成24年2月7日追記、鹿谷の名は現在は夢前町の鹿谷中学校に見られますが、かっては鹿谷村が存在しました。昭和30年に置塩村、菅野村と合併して夢前町となり、鹿谷の名は消滅しています。また、夢前川の上流に播磨八薬師霊場の一つ鹿谷山薬上寺があります。いずれにしても「鹿谷」は夢前川上流方面を指しています。 

  

  

横関橋東詰の道標 (平成23年6月9日 追加)

● よく車で通る道路ですが、この道標には気が付きませんでした。半分ほど埋まっていて、歩いていても見逃しそうです。元の高さは100㌢あったようです。周辺の道路は何度も整備されたのかもしれません。埋没部分の銘文は姫路市の資料によると次の通りでした。また、「右」や「左」の方向を示す文字が見当たりませんが、よく見ると上部の観音様が手を拡げて左右を指差しています。珍しい方向の表示です。

● 右面  「明治四十四年一月六日 /先祖為 梅宮浅冶郎」

  正面・東(観音坐像)ほつけさん /ひろみね山 道 /志よ志や山道」 

  

書写東坂口の道標 (平成23年6月9日 追加)

● 書写橋を渡りすぐに右に向かうと書写山頂へのロープウェイ乗り場ですが、東坂参道はまっすぐ進みます。地蔵堂の前に常夜燈があり、道案内が記されています。

● 地蔵堂は書写山蓮乗院の地蔵尊が移され、弘冶2年(1556)に建立されました。東坂本の大火の際に焼損を免れたことから不焼地蔵と尊崇をされているとのことです。

● 右面  「左 ほつけさん道」

  正面・東「右 志よしや山道 /(左下に小さな文字で)幷女人堂」 

  

書写東坂の道標 (平成23年6月9日 追加)

● 東坂を登りはじめてすぐの民家の角に、この道標はありました。

● 右面  「天保ニ卯年/正月 日」(1831、かのと・う)

  正面・南「すぐ 書寫山/左 女人堂」

  

書写如意輪寺の石柱 (平成23年6月9日 追加)

● 本日のゴール書写山麓の如意輪寺(通称女人堂)に到着しました。

● 本堂のまえに「守護使不入」の石柱がありました。元々は夢前川東岸の御立村と東坂本村の境にあったものです。室町時代の守護は国内のすべての土地に立ち入って強制執行する権限や金銭を取り立てる権限を持っていましたが、圓教寺はこれらに対抗するためにこの石柱を立てました。圓教寺は西の比叡山ともいわれ、往時は書写千軒といって強大な勢力を誇っていました。この石柱からも当時の勢力の大きさがしのばれます。

● 同様の石柱は山城国山崎の離宮八幡宮にも見られました。

● 石段下の左の旧家は「椎名麟三」の育った家で、前に「椎名麟三文学碑」があり、彼の作品の一部が書いてありました。それによると前の階段は43段あり、幼いころよく遊んだそうです。 

  

如意輪寺境内の道標、3基 (平成23年6月9日 追加)

● 境内には道案内の書かれた仏像がたくさんあるようですが、目に付いたものを紹介しておきます。

● 右の道標(A)(姫路市の資料では町石に分類)

  右面  「姫路市中二階町 /発起寄附人 来住鹿之介」

  正面・南「三帝親臨 /之 霊場 書寫山圓教寺 登山基點 /従是拾八町」

  左面  「明治三十五年十二月十八日建之 姫路筆者福本虎臣 /石工原喜八」

● 左の道標(B) 

  右面  「永代毎月十七 /十八日 夜燈」

  正面・南「右 書寫山道」

  左面  「施主 姫路井上勘右衛門 /宿坊十地院盛喬」

  背面  「文化十ニ乙亥歳正月吉辰」(1815、きのと・い)

● 道標(C)仏像の台石

  右面  「寛政元己酉稔 /五月建立」(1789、つちのと・とり)

  正面・南「右 ひめぢミち /為両親菩提 /左 ほつけミち」

  左面  「施主 浄心 /世話人 和右衛門」

  背面  「左 ひめぢミち /ほつけさん道」 

  

如意輪寺境内の道標(D) (平成23年6月9日 追加)

● 上の道標群の横に仏像の並びがありますが、その一番左の端にこの道標がありました。この道標の上には仏像があったものと思われます。

● 右面   「白円童女神戸出」

  正面・南西「右 女人だう道」

  左面   「岱山了青信士 /一幻恵空童女」

  背面   「姫路市茶町明石屋河内之立」 

 

如意輪寺西側の道標(1) (平成28年6月5日、追加)

● 如意輪寺境内の墓地の西側にも東坂登山道がありますが、この登山口に3基の道標がありました。一番手前の道標(姫路市石造遺品銘文集では町石に分類されている)は、1~18丁の丁石や仁王門前の碑と同様に大正七年に施主兵神書寫講によって建立されたものでした。

● 右面  「西國二十七番巡禮札所」

  正面・南「三帝親臨 /之霊場 書寫山圓教寺 登山基點 /従是十八丁」

  背面  「大正七年七月十八日建之 施主兵神書寫講」

     高さ186㌢、幅37㌢、奥行31㌢

 

如意輪寺西側の道標(2) (平成28年6月5日、追加)

● これは、如意輪寺西側の道標(1)の後方左の道標になります。正面の「右 本堂道」は書写山を示していますが、「左 念佛堂」は、地図で確認するとこの方向には光明寺しかありません。光明寺=念佛堂かどうかは確認できません。右面下部の住所や背面の施主の名前には、風化のため一部が判読不能でした。

● 右面  「是より法花山へ五里 /慶應二丙寅十二月建

    (下部)相生町・・・ /下寺町・・・ /・・・ /・・・」(1866年、ひのえ・とら)

  正面・南「右 本堂道」

  左面  「左 祢ん仏堂道」

  背面  「姫路真丸講

    (下部)玉屋利兵ヱ /朽木屋友助 /野田屋利兵ヱ /中野次右・・ /同 吉兵ヱ /○○久七」

  高さ165㌢、幅30㌢、奥行30㌢ 

 

如意輪寺西側の道標(3) (平成28年6月5日、追加)

● これは、如意輪寺西側の道標(1)の後方右の道標です。五輪塔の台石に道案内が刻まれています。安永八年の旧い道標ですが、文字ははっきりと確認することができました。

● 右面  「 寶岸浄船信士 /為 寂岸貞照信女 菩提 /道裕童女」

  正面・南「右 志よしや道 /左 祢んぶつどう道」

  左面  「安永八己亥二月立之 /施主 金平」 (1779年、つちのと・い)

  高さ(五輪塔上部まで)120㌢、幅25㌢、奥行22㌢

 

東坂登山道の丁石 (平成28年5月30日、追加)

● 如意輪寺西側の道標(1)の登山口から上がっていくと右側の斜面に「壹丁」の丁石群があります。ここから山上の仁王門前までの参道に十八の丁石が設置されていました。これらには自然石型の旧いものと施主が兵神書寫講のもの、個人名のものの新旧3種がありました。このうち自然石型のものは壹、貮、三と十三丁(?)の4ヶ所、個人名は数ヶ所でしたが、兵神書寫講は十八ヶ所すべてそろっていました。いずれも年号は確認できませんでした。

● それぞれの大きさはほぼ次の通りです。兵神書寫講「壹丁」は、高さ52㌢、幅20㌢、奥行17㌢。自然石型「三丁」は、高さ100㌢、幅60㌢。個人名「三丁」は、高さ73㌢、幅18㌢、奥行12㌢。

● 地図は「壹丁」の丁石群の位置を示す。

● 写真は、十八の丁石のうちから抜粋して掲載しています。

 

東坂登山道の丁石、1丁 (平成28年6月5日、追加)

● 上記の道標群にはもう1種類の丁石が設置されていました。丁石群の一番奥にある仏像の台石が丁石になっていました。急な斜面と雑草で各面の撮影はできませんでした。この台石には「一丁」の文字は確認できませんでしたが、他の丁石と建立年月日や大きさが同じでした。

● 右面  「享保九・・・ /八月二十・・・」(下部埋没、 1724年)

  正面・南「法 界」

  左面  「施主 /休圓」  

 

東坂登山道の丁石、二丁 (平成28年6月5日、追加)

● 上部に丸いくぼみのある角柱ですが、一丁の丁石のように上には、後ろの仏像と丸台座(蓮華座)があったものと思われます。

● 右面  「享保九辰・・・ /八月廿四日」(1724年)

  正面・南「二丁 /法 界」

  左面  「施主 /休圓」

  高さ30㌢、幅24㌢、奥行24㌢

 

東坂登山道の丁石、三丁 (平成28年6月5日、追加)

● 二丁の丁石と同様に角柱ですが、上部に丸いくぼみがありますので、後ろの仏像の台石であったと思われます。後方の仏像は、台石にコンクリートで接着されており、高さは68㌢でした。

● 右面  「享保九・・・ /・・・」(他の台石と密着して確認不能、1724年)

  正面・南「三丁 /法 界」

  左面  「施主 /休圓」

  高さ30㌢、幅24㌢、奥行24㌢

 

書写山境内(仁王門前)の道標 (平成26年9月19日、追加)

● ロープウェーで書写山に登りました。ロープウェーを下りてまず最初に仁王門前で丁石を見つけました。大きな石柱の前は「十八丁」の丁石です。ロープウェーを下りたところが十三丁でしたが、そこからも参道には一丁ごとに丁石が置かれていました。如意輪寺境内の参道起点の道標(A)に是より十八丁とあるので、ここが参道の終点となります。

●正面・南「三帝親臨 /之霊場 書寫山圓教寺 従麓 /十八丁」

 左面  「西國二十七番巡禮札所」

 背面  「大正七年七月十八日建之 兵神書寫講」 


円教寺境内(十妙院前)の道標、2基 (平成26年9月19日、追加)

● 仁王門からしばらく参道を登ると、十妙院の前に出ます。ここに道路を挟んで2基の道標がありました。

地図は、道路の南側の道標の位置を示す。

●道路北側の道標(自然石型)

 右面  「右 たんご道」

 正面・南「右 法華山幷姫路         (ほつけさん ひめち)

      左 本堂幷諸堂  道 下坂十八丁」(ほんたう はとう)とふりがな有り 

●道路の南側の道標(角柱型)

 右面  「神戸 小形鉄太郎 小形秀太郎 米田伊之助/

         米田常次  石橋鹿次  浜村すて  」

 正面・北「すぐ ほんどう 右 西坂/左 東坂」

 左面  「一丁」


円教寺境内(湯屋橋前)の道標 (平成26年9月19日、追加)

● 摩尼殿前のはづき茶屋の横の小さな橋の手前にこの道標があります。

● 正面・東「左 東坂本 ひめぢ /ほつけ 道」


円教寺境内(摩尼殿下)の道標 (平成26年9月19日、追加)

● 摩尼殿の下に大きな自然石型の道標があります。

● 正面・南「左 諸堂幷開山堂道 /半丁」(みつのたう おくのゐんミち)とふりがな有り


円教寺境内(食堂前)の道標 (平成26年9月19日、追加)

● 食堂(じきどう)まえにあった自然石型の道標です。施主以下の文字はほとんど読めませんでした。食堂内では、大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮影風景の写真展が開催されていました。ドラマ放映以降かなり来訪者が増えているとガイドがありました。平日にも関わらず若い女性のグループも多く見かけました。

●正面・東「      施主 京都千切屋善右衛門内 

       右 於く能ゐんみち/

            半丁     」(奥の院道)

― 書写山から姫路城下市之橋まで ―

書写道、御立西四軒屋地蔵尊 (平成24年2月4日 追加)

● 書写山から山陽道に向かいます。曽左から田寺、辻井を経て山陽道に合流します。曽左辺りの書写道は姫路市の資料で判明したのですが、その他のルートはよくわかりません。

● この地蔵尊で、書写道と鹿谷道が分岐し、この前には広場や茶屋があったそうです。 お堂の中を見ることはできませんでしたが、地蔵の台座正面に道案内があるようです。寛延三年(1750)の「飾西郡御立村明細帳」に地蔵の記録があるとのことなので、それ以前の地蔵ということになります。

● 説明板の下に小さな角柱がありますが「元禄三年(1690)」との刻銘が見えます。他の面の刻銘は見えないのですが、もし道標なら姫路で2番目に古い道標ということになります。

● 正面・南「左 志よしや道」「右 かやミち」

 

書写道、田寺三丁目の道標 (平成24年2月2日 追加)

● この道標のあたりは旧家とマンションと畑などが混在した町です。近くには六本の松があり「松下」という茶屋があったそうです。そんな町なかの三叉路にこの道標はありました。道標の表示にある「左姫路宿屋町」の方向に進むと「辻井観音堂の道標」の辺りに出ます。 また、地図で確認すると、ここから小さな川(水尾川)に沿って南に進むと車崎で山陽道に合流します。

● 姫路に宿屋町という町名は見当たりません。姫路城下の山陽道西口は備前門になりますが、ここを入ると福中町になり、ここは江戸時代には旅籠町と呼ばれていたのでこの辺りを指しているのかもしれません。

● 右面  「右 車崎六丁目道」

  正面・北「左 姫路宿屋町江二十町」

      (「江」は小文字、「町」は埋没している。「二十丁」との資料もある)

  左面  「従是書寫山江二十丁」 (「江」は小文字、「丁」は埋没している)

  背面  「文久二年(1862)/三月下旬 世話人 彌吉・・・/・・・」 (建物に接近して見えない)

 

● 平成25年1月26日、追記  「宿屋町」に関連した神戸新聞の記事を見つけた。

「播磨国総社の三ツ山大祭を担った中世の村落」は、「国府寺村」「福中村」「宿村(しゅくむら)」の三村だったようである。その後、福中村、宿村は解体され、住民は強制移住させられたため実体がなくなった。このたび江戸時代の姫路城下を図示した「宿村絵図」がみつかった。という主旨の記事が掲載されていた。このことから推測すれば、播磨国総社の周辺に宿村(宿屋町?)はあったようである。

 

辻井の常夜燈 (平成24年2月4日 追加)

● 田寺三丁目の道標の「右 車崎六丁目道」の案内に沿って南に旧道を進むと、行矢神社の南で農道と交差しますが、この交差点に燈籠があります。この辺りは現在でも畑が多いので、燈籠設置当時は暗かったと思います。ろうそくなどで周辺道標の役割を果たしていたのでしょう。いまは電灯が引かれていました。

● 正面・北「奉納(横書き)光輝」

  右面  「明治三十(縦棒三本に横棒一本)一年戊九月下○」(○は判読不能) 

 

書写道、辻井観音堂の道標、2基 (平成24年1月31日 追加)

● 田寺3丁目の道標の案内にある左方向に向かい県道67号線に出て少し南に行くとこの観音堂になります。観音堂は歩道橋の下にあり、中に寛政十年(1798)の道標があります。右面の「右 さい所みち」はどこの場所を指しているのかよくわかりません。お堂は50㍍ほど南にあったそうですが、昭和のはじめに道路工事に伴い、ここに移されました。その時に南側の道標も新たに建てられたということです。

● 観音堂内

  右面  「右 さい所みち」

  正面・西(観音坐像)左 志よしや道」 (「左」の文字しか視認できない)

  左面  「寛政十戊年正月十七日」(1798、つちのえ(うま))

● 観音堂横

  正面・西「左 志よしや道」

  左面  「大正十五年十月建之」

 

八代公民館前の道標 (平成24年2月4日)

● 辻井北の交差点から東に進むと兵庫県立大学の前に出ます。ここから少し東に進み右に折れたところに八代公民館があり、その前にこの道標がありました。この道標の元の位置はここから200㍍ほど東の船場川沿いになります。

● 古代の山陽道は増位山、広峰山の山すそを通っていましたが、中世には公民館前のルートである野里門~八代~辻井であったと考えられています。このルートは大正時代のころまでは、道標の道案内が示すように重要な道路であったようです。道標の元の位置の東30㍍程の船場川には舟着場も残っています。(平成5年から11年にかけて船場川の護岸工事に行われ、舟着場はここしか残っていない。←「姫路市文化財見学シリーズ2」により平成30年6月9日追加)

● 右面  「左 ひろみ祢 /志よしや ミち」

  正面・南「右 京大坂 /たんば ミち」

  左面  「○ びぜん /しかま ミち」

  背面  「明治十八年六月 /右 しかま /びぜん ミち (下に)周旋人 岩神」

 

姫路城西、小利木町の道標 (平成24年2月4日 追加)

● 八代公民館前の道標の元の位置から、船場川沿いに南に向かうと、姫路城西の「いもせはし」の西詰に小さな道標がありました。右面の「白川」は、300㍍ほど北の白川神社の案内と思われます。

● 姫路市の資料ではこの道標は「亡失」となっていましたが、ここに復活していました。

● 右面  「すぐ 白川 /大いし」

  正面・西「左 志よしや道」

  左面  「清水七郎建立」

 

 

市之橋西詰の道標 (平成24年1月31日 追加)

● 姫路城の西を流れる船場川に架かる市之橋の西詰の交差点にこの道標はあります。ここ2年くらいの間に新しく(清掃?)なっています。姫路市の資料では所在地は「材木町歳徳神社境内」となっています。この道標の道路の反対側に歳徳神社はあります。また、ここから数百㍍南へ行くと山陽道に合流します。

● この道標は、交通事故で折損し、新たに復元されたものです。平成27年10月26日に付近にお住まいの方から情報が寄せられ、判明しました。

● 右面  (右指差し手形)書寫山 宍粟郡 /(左指差し手形)石の寶殿 高砂」

  正面・東(右指差し手形)廣峯山 増位山 /(左指差し手形)飾磨町 室津港」

  左面  「大正十四年十一月 姫路市材木町 /建立人 鍋山八重吉 /石工觜崎 溝井千代治」

  背面  「ひき兎むる人もなけれバ浄土への /十萬億土阿しの早さよ」

      (引きとむる人もなければ浄土への十万億土足の早やさよ)