ー広峰山、増位山の丁石ー

 

(平成28年6月10日)

 姫路城の北には広峰山と増位山が連なって聳えています。広峰山には黒田官兵衛ゆかりの広峰神社が、増位山には随願寺がそれぞれあり、それらの登山道には江戸時代や明治、大正、昭和の時代に設置された「丁石」がほぼ1丁ごとにあります。木立の中に続く山道で「二丁」「五丁」「十丁」などの丁石に出会うと頂上への距離感が実感でき疲れも半減します。これらの丁石を以下に紹介します。

 

姫路市白国五丁目、広峰山登山口の丁石(1)

● 競馬場の東からまっすぐ北に進んだ住宅地のはずれの坂道に4基の石柱が並んでいます。すべて「一丁」の丁石になります。右から丁石(1)、丁石(2)、丁石(3)として紹介します。左の自然石の碑は「・・・跡」とありますが、他は判読困難です。

● この丁石は、将棋を愛好する人の寄贈によるものと思われます。「嘉永」の年号が入っていますが、願主の住所が明治22年市制施行後の「姫路市龍野町二丁目」となっています。左面の上部に王将と角の二つの駒が描かれており、右面には丁石を建てた経緯のような文章が綴られています。このことにより嘉永の遺言により明治22年以降に建立されたものと思われます。

 右面  「源助父曰善兵衛氏廣岡揖東郡太田郷原村人幼 

       從父平蔵移姫路性好将碁支族数家善兵衛之稱

       有故譲支家今奉納標石從其遺言云

        嘉永七年甲寅三月             」(1854年、きのえ・とら)

  正面・東「從是 /廣嶺山 江 十八町         」(「江」は小文字)

  左面  「             姫路市龍野町二丁目

       (王将と角の駒の絵) 願主 萬屋 源助

                     同  善三郎  」

  背面  「      管事  羽岡津太夫

                 石工 九助       」

● 高さ160㌢、幅30㌢、奥行30㌢

 

姫路市白国五丁目、広峰山登山口の丁石(2)

● 右から2番目の丁石です。

● 右面  「      東阿保 黒田憲雄

         施主  四郷村 菅原勝次

             飾 磨 岡田米次郎 」

  正面・東「從是 廣嶺神社江十八丁     」(「江」は小文字)

  左面  「大正十四年三月 世話人 黒田憲雄

                   菅原勝次」

● 高さ122㌢ 幅26㌢ 奥行23㌢ 

 

姫路市白国五丁目、広峰山登山道の丁石(3)

● 右から3番目の丁石です。新参道とあるので、このころ車も通行できる現在の参道と1丁ごとの「丁石」が整備されたものと思われます。昭和62年に修復されているのでさらに新しく見えます。

● 右面  「    飾磨区中島 /中安車輌工業         」

  正面・東「新参道 広峯神社江十八丁              」(「江」は小文字)

  左面  「昭和二十五年四月献之 /昭和六十二年八月高橋工業修理」

● 高さ130㌢ 幅28㌢ 奥行23㌢

 

登山道の丁石

● 登山道には1丁ごとに比較的新しい丁石が整備されています。その内の4基を以下に紹介します。

● 1丁の丁石群から登りはじめ山陽自動車道の暗渠を抜けたところに「二丁 姫路市飾磨区中島 /中安政市」があります。頂上付近の眺望の開けたところにセトレというリゾートホテルがありますが、そこを通り過ぎたカーブの途中に「十五丁 姫路市飾磨区中島 /三木三郎」があり、駐車場には「十六丁 姫路市飾磨区中島 /泉 常一」がありました。ここから広峰神社までは残り二丁です。途中が「十七丁(以下埋没)です。

(地図は「十五丁」の位置を示す。)

 

広峰神社前の丁石(A)

● 広峰神社前石段の右に3基の丁石があります。内2基は終点を示す「十八丁」ですが、1基は「一丁」になっています。その理由はよくわかりません。頂上からの逆順もしくは登山口からの移設でしょうか?

● 一番手前の丁石を丁石(A)とします。これは昭和25年4月献之となっているので、新参道整備の際のものと思われます。

 右面  「昭和二十五年四月献之」

  正面・南「十八丁 世話人 飾磨区玉地 山本廣吉 /仝 吉野十良雄 /仝 中安萬吉」

 

広峰神社前の丁石(B)

● この丁石は、丁石(A)の後方左の丁石です。正面には王将と桂馬の駒が描かれています。右面には登山口の丁石(1)と同様に建立の主旨と思われる文章が刻まれています。したがってこれも明治22年以降の建立と思われます。

● 右面  「源助父曰善兵衛氏廣岡揖東郡太田郷原村人幼 

       從父平蔵移姫路性好将碁支族数家善兵衛之稱

       有故譲支家今奉納標石從其遺言云

        嘉永七年甲寅三月             」(1854年、きのえ・とら)

  正面・南「(王将と桂馬の駒の絵)十八丁  願主 姫路市龍野町二丁目 /萬屋源助 /同 善三郎」

  左面  「管事 羽岡津太夫 /石工 九助」

 

広峰神社前の丁石(C)

● この丁石のみが「一丁」となっています。加西市の法華山から書写山への巡礼道の途中、増位山隋願寺へ登り、尾根伝いに広峰神社に参詣し、北平野の方面へ下山して巡礼道に戻るコースを考えると頂上から登山口への逆順の丁石も推定できます。

● 右面  「干時 文政八乙酉年 /二月仲春建之」(1825年、きのと・とり)

  正面・南「一丁 備中國松山城下 /為長屋善六 /為 長屋善三郎」

  左面  「世話人 備中松山 /花屋亀助」

ー 増位山から広峰山へ ー

 

白国、増位山登山口の一丁石 (平成28年6月15日、追加)

● 増位山の登山口から40~50㍍ほど先の地蔵堂の前にこの丁石がありました。新しい台石の上に設置されています。

● 右写真の登山口の道標は「巡礼道、書写道」に掲載済です。

● 右面  「天保二卯年再建」 (1831年、う)

  正面・西「(地蔵坐像)一丁」

  左面  「 施主 釋妙教」

 高さ65㌢ 幅23㌢ 奥行18㌢

 

増位山、三丁石  (平成28年6月15日、追加)

● 随願寺念佛堂を通り過ぎたあたりの参道の左側に、舟形光背型と角柱型の2基の丁石が並んでいました。

角柱型は一丁石と同じものですが、半分ほど埋没しています。舟形光背型は立像の仏像頭部と足部の2か所で亀裂を補修しているので一部の文字が消えていますが、半分ほど埋没した台石に「三・・」の文字があるので三丁石と思われます。

● 舟形光背型

  正面・東「于(時)享保十二丁(未)歳  ( )内は割れ目  

       (仏像立像)       (台石に「三丁」とあるが、「丁」は埋没)

       (二)月十二之天    」 (1727年、ひのと・ひつじ)

● 角柱型

  右面  「天保二卯年再・・・  」(1831年、う)

  正面・東「(地蔵坐像)三・・・ 」

  左面  「 施主 釋・・・   」

 

増位山、六丁石 (平成28年6月15日、追加)

● 参道の右側に2基の丁石らしいものがありました。左は一丁石と同じ型の「六丁」の丁石ですが、右は台石の文字が「五」にも見えます。

 左の丁石

  右面  「天保二卯年再建 」(1831年、う)

  正面・西「(地蔵坐像)六丁」(台石にも「六丁」とある)

  左面  「 施主 釋妙教」

  丁石 高さ57㌢ 幅22㌢ 奥行16㌢

  台石 高さ24㌢ 幅37㌢ 奥行37㌢

● 右の丁石(?)

  右面  「天保十一子 /三木・・・」(1840年、ね)

  正面・西「(仏像坐像)」(台石に「五丁」?とある)

  丁石 高さ48㌢ 幅23㌢ 奥行15㌢

  台石 高さ20㌢ 幅38㌢ 奥行38㌢  

 

増位山、七丁石、八丁石 (平成28年6月15日、追加)

● 「随願寺参道」の案内板から丸太で整備された階段を登り自動車用登山道の高架下を過ぎたところに四阿がありますが、その横に2基の丁石がありました。「七丁」と「八丁」となっています。右の「七丁」は下部が半以上埋没していますが、どちらも一丁と同じ天保二年の丁石と思われます。

● 七丁石

  右面  「天保・・・    」

  正面・東「(地蔵坐像)・・・」(台石に「七丁」とある)

  左面  「 施主・・・   」

● 八丁石

  右面  「天保二卯年再建 」(1831年、う)

  正面・東「(地蔵坐像)八丁」(台石にも「八丁」とある)

  左面  「 施主 釋妙教 」

 

増位山、九丁石 (平成28年6月15日、追加)

● さらに登り自動車用登山道を横断すると、参道は左右に分岐しています。付近で休憩中の人にたずねると、左は少し先で自動車用登山道につながっているとのこと。右は傾斜が急で岩場が多いが近道とのこと。右の参詣道を進むことにしました。少し登った先で「九丁」の丁石に出会いました。

● その付近に文化二年の銘のある舟形光背型の仏像がありましたが、丁石ではないようです。

● 九丁石

  右面  「天保二卯年再建 」(1831年、う)

  正面・東「(地蔵坐像)九丁」(台石にも「九丁」とある)

  左面  「 施主 釋妙教 」

● 舟形光背型

  「文化二乙丑 /(仏像立像) /八月建・・・」

 

増位山、拾丁石 (平成28年6月15日、追加)

● 放生池の手前の石段左側に「拾丁」の丁石がありました。一丁と同じものです。

● 右面  「天保二卯年再建 」(1831年、う)

  正面・東「(地蔵坐像)拾丁」(台石にも「十丁」とある)

  左面  「 施主 釋妙教 」

 

増位山、十一丁石、2基 (平成28年6月15日、追加)

● 放生池の上の石段の左右に「十一丁」の丁石がそれぞれ1基づつあります。ここからは随願寺本堂まで残り1丁ほどです。石段左の丁石は登山口の「一丁」と同じものですが、台石はほかの丁石より立派な造りになっています。この先には丁石は見当たらなかったのでこの十一丁が頂上を示す丁石かもしれません。

● 石段の右の舟形光背型と思われる丁石は頭部が欠損し、年号の銘が見えません。形状からすると「三丁」と同じもののようです。「享保」の「享」の下部と思われる「子」のみが見えています。享保十二年かもしれません。仏像の左右の他の文字は判読困難です。

● 石段左の十一丁石

  右面  「天保二卯年再建 」(1831年、う)

  正面・南「(地蔵坐像)十一丁」

  左面  「 施主 釋妙教 」

● 石段右の十一丁石

  正面・南「享保十二(?)・・・ /(仏像立像) /・・・」(1726年、台石に「十一丁」とある)      

 

増位山随願寺 (平成28年6月15日、追加)

● 十一丁の石段を登り左に進むと随願寺本堂です。境内の案内板によれば「随願寺は、僧慧便(えべん)が開基し、天平年間(724~749)行基が中興したともいう。平安時代には諸堂が整備され、山上には三十六坊もある大寺であった。天正元年(1573)別所長治に攻められ全山を焼失。同十三年には羽柴秀吉が再興した。江戸時代姫路藩主榊原忠次が当寺を菩提寺とし、再建、整備に尽力した。」とあった。

 

随願寺から広峰神社へ (平成28年6月15日、追加)

● 尾根伝いに歩くこと約1時間で広峰神社に到着しました。石段下の3基の丁石を再び見ました。ここからは「一丁」の丁石から始まる北平野方面へ下山することとしましたが、下山口がよくわかりません。神社で聞いてみると「わかり難いので案内します」と下山口まで案内して頂きました。石段に向かって左側の小さな公園の中に下山口がありました。ここから北平野の天満神社まえの登山口までは八丁ほどのはずです。白国からの自動車道は十八丁ですから、距離が短い分かなり急な下りでした。

 

下山道の道標 (平成28年6月15日、追加)

● 近くの標識から判断すると300㍍ほど下りたと思われる地点の道の右側に丁石ではなく、道標が建っていました。この場所は、冠者殿神社裏となっています(昭和50年、姫路の道しるべ)が、この辺りにそのような神社は見当たりません。右参詣道とあるのは、冠者殿神社への参詣道、それともふもとの先の巡礼道を指すのでしょうか?

● 右面  「文化二丑年」(1805年、うし)

  正面・東「左 志よしや /ひめぢ 道」

  背面  「右 さんけ以 道」

 

広峰山、四丁石 (平成28年6月15日、追加)

● さらに下山すると、参道の右側に「四丁」の丁石がありました。ふもとには「八丁」があるので、この参道では頂上からの逆順の丁石になっているようです。

● この少し先の道の真ん中に大きな岩があり、横に「牛岩、これより上は霊地につき牛馬の侵入は禁止」という案内板がありました。

 正面・東「四丁」

  左面  「飾磨天神町 /細野惣兵衛」

 

北平野奥垣内、広峰神社丁石  (平成28年6月15日、追加)

● やっと天満神社の屋根がみえるあたりでこの立派な丁石に出会いました。頂上の「一丁」と同じ寄贈者によるものです。ここから100㍍ほど下りると登山口になり、広峰神社へ0.9㌔の表示があります。

● ここから1㌔ほど南に向かうと巡礼道に出て、姫路や書写山へ向かうことができます。

● 右面  「干時 文政八乙酉年 /二月仲春建之」(1825年、きのと・とり)

  正面・西「従是 /廣嶺山八丁 備中國松山城下/本町/下町 講中」

  左面  「世話人 備中松山 /花屋亀助」

● 高さ160㌢ 幅41㌢ 奥行30㌢