―東海道の道標(2)―

(平成25年4月25日)

 「東海道の道標(1)」に続き、大津宿~草津宿の道標を紹介します。

 

大津市京町、華階寺の石柱 (←ここをクリックすると所在地を表示)

● 大津駅前の大通りを北に下ります。旧東海道との交差点の手前に華階寺(けかいじ)という寺院があり、その門前に下のような石柱がありました。「俵藤太」の名には記憶があり、何かいわくがありそうな気がしたのでので、道標ではありませんが、とりあえず写真を撮ってあとで調べることにしました。

● 華階寺は、藤原秀郷館の旧地と伝えられています。その境内には、俵藤太(藤原秀郷)が三上山でムカデを退冶した大矢の根(鏃=やじり)で彫ったと伝えられる矢の根地蔵が祀られているとのことでした。また、大通りの中にある大きなイチョウの樹は、樹齢が400年余のもので、かっては華階寺の敷地でしたが都市計画で道路になったので、イチョウのみそのまま残した、と資料にありました。(俵藤太については、後述の「瀬田唐橋」を参照下さい。)

● 西面「俵藤太 矢根地蔵 /月見の石」

  北面「   華階寺」

(↓下の写真をクリックすると拡大できます)

 

大津市松本、平野神社参道

● 上の写真の民家の少し手前(西)右側に平野神社の参道入口があって、石柱が参道の両側に建っており、このまま南へ進むと境内になります。右の石柱は「平野神社」と書かれていますが、左側の小さい石柱には「蹴鞠神社」と書かれていました。蹴鞠神社の石柱の右面には「文久元(1861)辛酉十二月 願主 中井氏」の銘がありました。

● 平野神社は、天智天皇が大津に京(みやこ)を遷したとき(667年)、京の鎮護のために藤原鎌足に命じて仁徳天皇の分霊を勧請したのが始まりとされています。しかし、社殿は応仁の乱で焼失します。その後、天正2(1574)年に現在地に移されています。相殿の精大明神は、蹴鞠の神として知られる猿田彦命を祀り、毎年夏の例大祭には蹴鞠まつりが行われるそうです。

 

大津市馬場の道標

● 東海道は、京阪電車の踏切りを渡ると三叉路になり、どちらに進むのか迷いました。このまま、まっすぐ進めば、義仲寺の前に出ていたのですが、なぜか踏切手前の標識が右矢印になっていたのを思い出し、右方向を選択しました。少し先で繁華街となりおかしいと気付いたので引き返そうとした時、また三叉路があり、そこに道標を見つけました。怪我の功名でした。道標の彫りは、はっきりしていますが、変体仮名や草書体に慣れない 私には、ほとんど読めませんでした。

● 右面  「右 義仲寺」

  正面・南「者世越翁の墳 是より /ニ丁」(ばせお翁の墳=芭蕉翁の墓)

  背面  「大正四年十一月吉(?)日」

 

大津市馬場、義仲寺

● 上の写真(左)の右の道を北に向かうと義仲寺になります。このあたり古くは粟津ヶ原といい、琵琶湖に面した景勝の地であったようです。現在ではここから湖面までは400か、500㍍くらいの距離があります。

● 義仲寺の境内には、木曽義仲公巴御前の墓芭蕉翁の墓があります。木曽義仲は、寿永3(1184)年源義経と戦って敗れ、この地で討ち死にしました。義仲公の側室である巴御前が、その菩提を弔うために、公の墓のまわりに庵を結んだのが義仲寺の始まりとされています。

● この寺を度々訪れていた芭蕉は元禄7(1694)年大坂で亡くなりますが(大阪御堂筋に「芭蕉翁終焉ノ地」の碑がある)、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、当寺に墓が建てられました。嵐山光三郎著「悪党芭蕉」にはこの間の事情が詳しく書かれています。拝観料は300円でした。(地図は山門の位置を示す)

 

大津市西の庄、膳所城北総門跡の碑

● 東海道は、義仲寺の前を東に進みます。200㍍ほど先の鍵の辻の北側民家の玄関先に、この碑がありました。ここから街道は、膳所(ぜぜ)の城下に入りることになります。膳所城の位置は、ここから南東方向の琵琶湖に突き出た膳所城跡公園になります。

● 南面「膳所城北総門跡」

  北面「昭和四十八年二月 大津市教育委員会」

 

大津市西の庄、法傳寺

● さらに東に向かうと、右手民家の間に隠れるように石柱が建っていました。突然「天智天皇」の文字が目についたので何気なくカメラに納めましたが、帰ってから調べてみると、わが国が律令国家として確立される頃の激動の時代との深い関わりを示す石柱でした。(地図は、石柱の位置を示す)

● 中大兄皇子は、白村江の戦いのあと、大津に都を移し、翌年天智天皇として即位(668年)しますが、即位して3年後に亡くなります。その後、壬申の乱で大友皇子(天智天皇の第一皇子)は敗れ、大海人皇子(天智天皇の弟)が天武天皇となり、都を飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に移します。大津に都が置かれたのは、667年から672年の5年間ということになります。

● 法傳寺は、天智天皇が近江国滋賀郷に建立し、当初は一乗院円明寺と号しました。大宝元(701)年、大友皇子の子といわれる大友与太王が出家して第5代住職となりました。のちに大友皇子、天智天皇の尊牌を安置し、延元年間(1336~40)に法傳寺と改号しています。法傳寺の住職は代々大友氏に引き継がれ、現在の住職の方も大友姓です。大友皇子の墓は、ここから南方約2㌔に位置する茶臼山古墳がその候補地の一つとされています。また、天智天皇陵は、東海道沿いの京都市山科区御陵上御廟野町にありました。

● 大友皇子は、日本書紀では天皇と認められていませんが、明治3年「第39代弘文天皇」と追称され、大津市御陵町の長等山々麓の古墳がその陵墓(長等山前陵)とされました。また、壬申の乱の後、東国に逃れたとの伝説もあり、神奈川県伊勢原市にも御陵があるようです。 

● 北面「天智天皇御尊牌奉安 法傳寺」

 

大津市西ノ庄、石坐神社

● 法傳寺の東100㍍ほどのところに石坐(いわい)神社があり、東海道沿いに2基の燈籠と石の鳥居が建っています。境内を見ると、拝殿、本殿とその横に稲荷神社がありました。本殿は、鎌倉時代の建築で県の指定文化財になっています。 (地図は鳥居の位置を示す)

● 門前の由緒説明板などによると、石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀したのがはじまりで、茶臼山古墳の奥に位置する御靈殿山(ごりょうどやま)に磐座(いわくら)を建てたことが、石坐の社名の由来になっています。鎌倉時代の文永3(1266)年に現在地に移ってきました。祭神は、天智天皇、弘文天皇(大友皇子)などの6座です。

 

大津市木下町、響忍寺

● この辺りは神社と寺院が連なっています。石坐神社の東の小さな川(相模川)を渡ると、東海道は逆U字型に大きくカーブしています。ここを曲がりきると響忍寺(ごうにんじ)の門前になります。

● 響忍寺は、真宗大谷派の寺院で、山号は春台山です。もとは膳所藩家老村松八郎右衛門の屋敷で、響忍寺がここに移されたのは、享保18(1733)年でした。この長屋門は、家老屋敷当時のものです。

(地図は長屋門の位置を示す)

 

大津市木下町、和田神社

● 東海道は、響忍寺の長屋門の前を南東方向に進み、突当りの三叉路を右折します。しばらく進むと右手に和田神社の石柱が目に入ります。鳥居に向かって進むと正面が拝殿で、その右に大きなイチョウの樹がありました。(地図は石柱の位置を示す)

● 和田神社の創起は、社伝によれば白鳳4(675?)年とされ、その後、八大龍王社、正靈天王社などと呼び名も変わったが、明治維新の頃、膳所藩主の令達により現在の和田神社となった。本殿は、鎌倉時代の建築で国の重要文化財に指定されている。門は、文化5(1808)年創建された膳所藩校遵義堂の表門を移築したもの。また、境内のイチョウは、樹齢推定650年、高さ25㍍で市の保護樹木に指定されている。関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が京都へ護送されるとき、この樹につながれて小休止したと伝えられている。(和田神社HPなど)

● 樹齢650年ということは、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、京都へ上るときには、このイチョウの樹を目にしたのでしょうね!

 

大津市丸の内町、縁心寺

● 和田神社の200㍍ほど南の民家の間に、「舊膳所城主御菩提所」と書かれた石柱と「梅香山縁心寺」と書かれた石柱が2本街道沿いに建っていました。(地図は石柱の位置を示す)

● 縁心寺は、膳所藩初代城主戸田一西(かずあき)が慶長7(1602)年に創建した。元和3(1617)年三河西尾藩から移ってきた本多康俊が膳所藩主となり菩提寺とした。もと栄泉寺といい、瓦寺とも称された。当時膳所や大津には瓦葺の寺院がなかったなかで、唯一当寺が瓦葺であったからという。境内には、戸田一西や本多家代々の墓がある。(大津市歴史博物館HPなどより) 

 

大津市丸の内町、膳所城中大手門跡

● 縁心寺から南に向かった次の広い交差点の北西角に、建物と道路の間の植込みの中に「膳所城中大手門跡」の石柱がありました。ここから東(左写真の左方向)に向かうと膳所城の大手門になります。

 

大津市本丸町、膳所城跡公園

● 、中大手門跡の交差点からは東海道を外れ、東に向かいます。正面が膳所城跡公園で、そこは城門を模した入口になっています。公園は全体が琵琶湖に突き出ており、北の島が北の丸、真ん中が本丸、その南が二の丸になっています。現在、二の丸は膳所浄水場になっています。

● 膳所城は、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6(1601)年に徳川家康が、大津城を廃し、東海道を制し、湖上交通を抑える目的で、築城を命じました。明治3年、新政権の樹立を急ぐ新政府軍により廃城の太政官布告が出された翌日から移築、解体が始まりました。大手門(膳所神社)、北大手門(篠津神社)、南大手門(鞭崎神社)は移設して現存し、国の重要文化財に指定されています。

(地図は、公園入口の城門の位置を示す)

 

大津市中庄、晴好雨竒亭址

● 膳所城跡公園から再び東海道に戻り、南に向かいました。京阪電車の中ノ庄駅付近で左折し、しばらくすると左側に「晴好雨竒亭址」と書かれた真新しい碑がありましたが、写真撮影のみで通り過ぎました。「晴好雨竒」とは、晴れても好し、雨でもよしという意味のようです。現在では想像できませんが、このあたりから琵琶湖の素晴らしい景色が広がっていたのでしょう。

● 碑の説明文によれば、晴好雨竒亭の主人は、膳所の名金工師奥村菅次寿景(1788~1840)で、琵琶湖を一眸するこの地に居を構え、金銀銅鉄器をはじめ、櫓時計や鉄砲を制作していました。また、頼山陽や貫名海屋なども来遊していました。頼山陽が、晴好雨竒亭と名付け額も揮毫しています。余談ですが、私の住まいの近くの海岸の景勝地「小赤壁」も頼山陽が命名したものです。

● 奥村歯科とあるのは、奥村菅次寿景の子孫の方でしょうか?  しかし、地図を見るとこの辺りは奥村姓がよく目につきます。

 

大津市中庄、篠津神社

● 篠津神社は、奥村歯科の100㍍ほど南になります。(地図は東海道沿いの入口を示す)

● 篠津神社は、古くは牛頭天王社と称し、膳所中ノ庄の産土神でした。明治4年に篠津神社に改称しています。創建は不明ですが、康正2(1456)年の棟札が現存しているので、室町時代にはこの地に鎮座していたと見られています。神社の表門は、膳所城の北大手門が移築されたもので、国の重要文化財になっています。

 

大津市杉浦町、「杉浦重剛先生誕生地」の碑

● 篠津神社から南へ進みます。京阪電車の踏切を越えてしばらくすると三叉路になり、東海道は左折をしますが、右手の民家の横の石柱が目にとまりました。気になったので近寄ってみましたが、汚れと欠損で「杉・・・・地」と、よく読めませんでした。

● 帰ってから周辺の地図を調べてみると、この石柱の西の方角に「杉浦重剛の旧宅」があることが判り、改めて石柱の写真を眺めてみると、「杉浦重剛先生誕生地・・・」と読めました。下部にも何か書いてあるように見えますが、判読できません。地図にある旧宅を案内する表示があるのかもしれません。

● 杉浦重剛(1855~1924)は、膳所藩出身の教育者で、藩校遵義堂に学び、明治9年イギリスに留学し、帰国後は文部省に勤めています。言論や教育活動を展開し、自ら東京英語学校を創設して青少年の教育に尽力します。その門からは、横山大観や吉田茂など各界にわたる人材を輩出しています。大正3年には東宮御学問所御用掛となり、後の昭和天皇に帝王倫理を進講しています。

● 大津市は、昭和42年に膳所の5町を統合して、杉浦重剛誕生のこの地に因み杉浦町としています。

 

大津市杉浦町、若宮八幡神社

● 杉浦重剛の三叉路を左折してすぐの道路左側にこの神社はあります。鳥居の後ろの表門は、膳所城の犬走り門を明治3年廃城の際に移築したもので市の指定文化財になっている、と説明板にありました。

● また、由緒説明板によれば、壬申の乱の3年後の白鳳4(675)年に宇佐八幡の御神託により、仁徳天皇をここに祀り、その4年後に社殿が完成したとありました。社殿は、落雷や、源義経と義仲の粟津の戦い、応仁の乱などの戦火にあい度々焼失しましたが、その後、再建され代々の膳所藩主に修理、保護され、大切にされてきました。

 

大津市御殿浜、膳所城勢多口総門跡の碑

● 若宮八幡神社から東に向かうと再び京阪電車の踏切を渡ります。総門に近いせいか、この辺りは鍵の辻が続きます。二つ目の鍵の辻の民家の玄関先にこの碑が建っていました。大津市西の庄の北総門からここまでが膳所城の城内ということになります。

● 大津市の資料では、民家に移築された勢多口総番所は、平成18年に取り壊されたとありますが、ここのことでしょうか。膳所城下への入口であるとともに東から京へ向かう主要な街道でもあったわけですから、重要な番所であったと思われます。

● 西南面「膳所城勢多口総門跡」

 

大津市晴嵐、今井兼平の墓

● 東海道は、勢多口総門からは琵琶湖岸の線をコピーしたような曲線を描いて南に向かいますが、晴嵐の交差点を越えると半導体のルネサスという工場の前に出ます。その先の小さな川(盛越川)に沿って右(西)方向に行けば今井兼平の墓に行けるのですが、川は工場の中を流れているので工場の外周を廻っていかなければなりません。東海道からは1㌔弱くらいになります。

● 説明板を要約します。今井兼平は、木曽義仲の腹心の武将。寿永3(1184)年正月、源義経、範頼の軍と近江の粟津で戦い、討死した義仲のあとを追って自害した。その最期は、刀を口にふくんで馬から飛び降りるという壮絶なものであった。

 寛文元()1661)年、膳所藩主本多俊次は、今井兼平の戦死の地を求め、兼平の塚のあった墨黒谷(篠津川上流)に墓碑を建立した。寛文6(1666)年次代藩主康将のとき参拝の便を考えて、東海道の粟津の松並木に近い現在地に墓を移したという。

 碑は明治44年、その兼平の墓を再改修した時のものである。碑文によれば、滋賀県知事、膳所町長、兼平の末裔で信州諏訪の人が発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修したという。

● 後世に整備されたせいか、義仲寺の義仲の墓より立派でした。

 

大津市鳥居川町、「明治天皇鳥居川御小休所」の碑

● 今井兼平の墓から再び東海道に戻ります。東海道本線、京阪電車を過ぎ、国道1号線の高架下を通り南へ進むと、鳥居川の交差点に出ます。ここを左折すれば、瀬田唐橋はすぐです。その交差点の手前西側の民家にはさまれた黒門の前にこの碑がありました。ここはもと旅籠松屋で、明治天皇が巡幸の際に小休止をされたところです。その日付は背面にあるのかもしれませんが、明治18年10月の12日か21日のどちらかになると思います。

● 平成25年6月28日追記

 明治天皇は、明治11年10月12日福井県から京都への途次、また10月21日には東京への御還幸の際、守山宿の東門院の境内で御小休みされた、と東門院の「明治天皇聖蹟」碑にありました。

● 右面  「史跡名勝天然記念物保存法ニ依リ史跡トシテ /昭和十年十一月文部大臣指定」

  正面・東「明治天皇鳥居川御小休所」

  左面  ( 未確認 )(「昭和十二年三月建之」との資料もあったが?)

  背面  ( 未確認 )

 

大津市唐橋町、瀬田唐橋

● 瀬田唐橋は、琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川に架かる全長260㍍の橋で、日本三大古橋(宇治橋、山崎橋(現存せず))の一つです。「唐橋を制するものは、天下を制する」といわれ、京都を防衛するためには重要な橋で、古来より数々の合戦の場でもありました。

● 余談、東詰の石碑には「日本三大名橋/瀬田の唐橋」とありますが、三大名橋にも諸説あります。錦帯橋、日本橋、眼鏡橋にこの瀬田唐橋や二重橋が入れ替わり使われているようです。いずれにしても三つに限定すること難しいことです。 

● 瀬田唐橋が本格的な橋となったのは、近江大津京遷都のときと考えられ、当初は現在より65メートルほど南にあり、雲住寺辺りが東端でした。江戸時代には、膳所藩の管理下となり、現在のコンクリート製の橋となったのは、昭和54年ですが、その擬宝珠は代々引き継がれ、「文政」「明治」などの銘の入ったものが残っています。

● この橋には、天慶3(940)年、平将門の乱を征した藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治の伝説があります。この橋の上で、琵琶湖の魚を喰い散らすなどの悪さをする三上山に住むムカデを退治してほしいと大蛇(爺さんや女房に姿を変えたパターンもあり)に頼まれ、俵藤太は三本の矢を持って退治に出かけ、三本目の矢で見事ムカデを退治します。大蛇(琵琶湖の龍王の化身とも)からそのお礼に瀬田橋の下の竜宮に招待され、俵をもらったので、「俵藤太」と呼ばれるようになったという。

 

大津市瀬田、瀬田唐橋東詰の道標

● 瀬田唐橋の東詰の木立の中に小さな祠と並んでこの道標が建っていました。道標には「跋難陀・・・」とありますが、「ウバナンダ」と読むようです。八大龍王の一人で水の神様で、瀬田川の龍神だそうです。また、この道標の横には「龍光山雲住寺」の大きな石碑も並んでいました。この南にある「龍王宮秀郷社」や「雲住寺」には、今回行っておりませんが、この道標と関わりがあるので、記しておきます。

● 龍王宮秀郷社は、永享12(1440)年ころ、橋を現在の場所に架け替えたときに建てられました。この社は、龍王宮と秀郷社に分けられ、それぞれ龍王乙姫と藤原秀郷(俵藤太)の霊を祭っています。かって川下6,7町南東にあった小祠を寛永年間(1624~44)に秀郷の子孫蒲生忠知がこの地に遷したので「龍王宮秀郷社」と称することになったようです。

● 雲住寺は、応永15(1408)年、藤原秀郷の14代末裔蒲生高秀により、秀郷の追善供養のために建てられたのが始まりで、瀬田唐橋の守り寺にもなっています。

● 南面「跋難陀龍王宮 是より」

  西面「俵藤太秀郷社 川そい /半丁」

  未確認ですが、北面か東面に「文化十丁丑年五月再建」(1817、ひのとうし)とある。

 

大津市瀬田、瀬田唐橋東詰交差点の道標

● 瀬田唐橋東詰交差点の南の横断歩道を渡った先の正面の電柱横にこの立派な道標がありました。ここから南東方向に太神山(たいじんさん)があり、その山頂の三井寺と関わりの深い「田上太神山不動寺(たなかみたいじんさん)」を案内しています(注:太神山の南麓は甲賀市の信楽町)。もとは50㍍ほど東の角にあったそうです。そこが東海道と太神山への参道の分岐であったようです。

● 南面「是より二里半(下部に)施主 /富小路四条上町 /加賀屋九七 /大坂 /金屋長兵衛」

  西面「田上太神山不動寺」(「田上」は横書き)

  北面「寛政十二年庚申歳正月吉日」(1800、かのえ・さる)

  東面「石工 京 日川太郎衛門 /田上冶兵衛」(東面は未確認)

 

大津市瀬田、大橋屋前の案内標

● 唐橋東詰交差点から東に向かいます。100㍍ほど進むと、道路の北側の大橋屋さんのまえに道標らしい石柱が見えたので道路を横断し近寄ってみました。案内標のようです。道路に対して斜めに建てられていますが、前の大橋屋さんが建てたものと思われます。

● 西南面「瀬田の唐橋」

  東南面「建部の社」

  北東面「大橋屋」

 

大津市神領、建部大社

● 大橋屋前の案内標から東に向かうと、神領という一見三叉路に見える交差点に差しかかります。東海道は、ここから左折して北に進みますが、前に大きな鳥居が見えたので近くまで行ってみました。そこには、「建部(たけべ)大社」と書かれたおおきな石碑とその一の鳥居があり、境内の案内板や由緒説明板も並んでいました。本殿までは遠そうなので行くのはあきらめました。(地図は、一の鳥居の場所を示す)

● 建部大社は、式内社(名神大社)で、祭神は日本武尊です。景行天皇のとき神崎郡建部郷(現東近江市五個荘伊野部町付近)に、日本武尊の霊を祭ったのが始まりで、天武天皇のとき(645年)、近江国の守護神として近江国府近くのこの地に遷され、近江一の宮となっています。平家物語には、源頼朝が平家に捕えられ、京から伊豆へ流される途中でここに参詣したことが記されています。

●昭和23年に建部神宮から「建部大社」となり、出世開運などの神として広く崇められています。

 

大津市大江、近江国庁跡

● 建部大社から東海道に戻り北に向かいます。東海道は少しずつ上りになり、小さな川を渡ってから右折して細い道を上ります。そのまま進むと三叉路に突当たり、ここで東海道は左に折れますが、近くに近江国庁跡があるというので、右へ向かいました。坂はさらに急になり、それを上りきった丘の上は、よく整備された広場になっていました。ここが古代国家の地方行政庁の跡になります。そこはまわりよりも一段高く、当時はさぞ見晴らしもすばらしかったと思わせる場所です。

● 近江国庁は、律令制下全国68か所に置かれた役所の一つです。ここは、その遺構で昭和48年に国の史跡に指定されました。昭和38年と40年の発掘調査で近江国庁の中枢部の様子が明らかになりました。これがわが国初の国庁遺跡発見例になったようです。広場の中央部に「近江国衙跡」の碑と、「近江国庁跡」「近江国府跡周辺案内」の説明板があり、その区別が判りませんでした。後日調べてみると、「国庁」は地方行政の中心施設を指し、それらが集まった区画を「国衙」と言うそうです。そして国衙などの重要施設を集めた都市域を「国府」と呼ぶようです。こうした制度は、奈良時代前半から平安時代の後期までの約500年間存続していました。

 

大津市一里山、一里塚趾

● もう一度東海道に戻り、北に進みます。瀬田小学校の手前で右折し、幅3㍍ほどの住宅街の中を道なりに進むと広い道路の交差点に出ます。町名は「一里山」です。この交差点の手前の民家の塀の上に立派な「道標」と書かれた石板があり、ここの位置がわかり易く表示されています。この前の家の方が建てたものと思われます。「3代当主義輝」と左下に書かれていました。

● この交差点を横断した先には、「一里塚趾」と書かれた大きな自然石型の石碑があります。明治の末期まで一里塚はここに残っていたそうです。現在はこの碑と横に説明板があります。(地図はこの場所を示す)

● 「道標」と書かれた石板の内容

       「気 安全飛車往来」

  0°側  「三條大橋迄で /五里余り」

  90°側 「膳所藩札場より /大萱港常夜燈に至る」(注:北の方角に大萱という町名がある)

  180°側「江戸日本橋迄で /百二十ニ里余り」 

  270°側「旧朝倉道 /信楽より伊勢桑名に至る」(注:大戸川沿いの県道16で信楽に出る)

       「平成二十ニ年 /三代当主 /義輝此建」

 

大津市月輪、月輪寺

● 一里山から東へ1㌔ほど進むと、月輪(つきのわ)という町名に差しかかります。広い道路を横断してすぐの右手に「曹洞宗普門山月輪寺 行者堂」「明治天皇御東遷御駐輦之所」と書かれた大きな石碑が並んで建っていました。月輪寺は「がつりんじ」と読むようです。明治天皇は明治元年9月20日に京都を発って東京に向かいました。鳥居川の小休所も21日となっていたので多分同じ日に輦をここに駐められたものと思われます。(地図は石碑の場所を示す)

● ここの東隣に月輪自治会館があり、その前に月輪の地名の由来が書いてあったので要約します。「月輪(つきのわ)池に由来する地名で、この池に移った美しい月の姿から名づけられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったともいわれます。元来は原野でしたが、江戸時代に開墾がすすめられ、延宝4(1676)年大萱新田となり、明治7年月輪村と改称された。」

 

大津市野路、萩の玉川

● 弁天池からさらに北に向かいます。街道の左側の小さな公園の中に湧水池があり、まわりに東屋と説明板がありました。説明板によれば、ここは日本六玉川の一つ、萩の玉川(野路の玉川)と呼ばれる名勝の地であったそうです。また、瀬田川沿いに宇治方面に抜ける分岐点でもあり、平安朝から鎌倉時代までは交通の要衝、野路宿として栄えていました。

● 十禅寺川の伏流水の湧き出る泉と一面に萩が広がる周辺の景観は、古くから紀行文や詩歌、絵にも描かれました。東海道を旅する人たちのよき憩いの場にもなっていましたが、江戸時代に草津宿に移ってからは、周辺もさびれ、泉も枯れてしまったので、近年地元の方々の努力で復元された、と説明板にありました。

 

草津市野路、不明の石柱

● 住宅街の中を歩いていると、大きなお屋敷の石垣にもたれるように1本の石柱が建っていました。道標の探索者としては、気になったので近寄ってみましたが、読めません。西南向きの面に「野路・・・用地」、その背面に年号が読めるのですが、これもよくわかりません。

● 道標ではなさそうですが、調べてみてもよくわかりませんでした。

 

草津市野路、新宮神社の鳥居

● 閑静な街並みを通り抜けたところに大きな鳥居がありました。この奥に新宮神社があるのですが、鳥居の写真のみにとどめて先を急ぐことにしました。

● 新宮神社は、天平年間(728~748)に僧行基によって創建されたと伝えられ、野路の鎮守様で一名を野路神社とも言われています。現存する本殿は、大永3(1523)年建立で国の指定重要文化財になっているそうです。スーパーマン、僧行基はここでも活躍していました。

 

草津市野路、野路の一里塚跡

● 新宮神社から北に向かい、かがやき通りと名付けられた広い通りを横断すると、上北池公園という一画があります。その公園の植え込みの中に一里塚跡の比較的新しい石碑がありました。野路の一里塚は江戸から119里になるそうです。

● 石碑の説明によれば、一里塚は、この石碑より北西約30㍍の所と、、北東約20㍍の所の2ヶ所にあった。明治14年頃に私有地に払い下げられ消滅した。ここに野路の一里塚の旧地を証するためにこの碑を建てたとなっています。古い絵図によればこの2ヶ所の塚には松の木が植えられていたということです。

● 地図を見ればわかりますが、東海道は、この公園辺りを通り北の矢倉南交差点方向に抜けていたものと思われます。その消えた東海道の両側に野路の一里塚があったことになります。

 

草津市矢倉、矢倉の道標

● 矢倉南交差点で国道1号線を横断し北へ400㍍ほど進むと、左に瓢泉堂という瓢箪屋さんがあります。もとは、草津名物「うばがもち」を商う茶屋であったそうですが、その店の前にこの道標がありました。道標横の説明板によれば、ここが矢橋(やばせ)道との追分になり、北西方向の琵琶湖に面した矢橋の渡しのある矢橋湊に行けます。ここは草津宿南の矢倉村で、旅人が休む立場(矢倉立場)でもありました。この立場の様子と道標は、歌川広重の「東海道五十三次・草津」にも描かれています。 道標は、立場の右の方に描かれています。

● 大津へは陸路よりも矢橋湊から船で渡る方が早かったようですが、比叡山から吹き下ろす風などでリスクも高かったので、「武士のやばせの舟は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠まれ、「急がば回れ」の語源になったということです。道標のお陰で勉強になりました。

● 道標は、享保15(1730)年に、高さ5尺(約1.5㍍)のものが建てられましたが、旅人に見えにくいということで、寛政10(1798)年に矢橋船惣代によって建て替えられました。これが現存する道標です。

● 正面・北「右 や者(は)せ道 古連(これ)より廿五丁 /大津へ船わたし」

       (やばせ道  是より25丁/大津へ船渡し)

 

草津市矢倉、矢倉橋

● 草津川に架かる矢倉橋を渡ると草津宿に入ります。橋を渡った一画に草津宿の説明板がありそれによると、矢倉橋の南詰あたりに黒門と呼ばれる宿の内と外を限る施設がありました。元はこの先の立木神社の近くにあった見附がここに移されたようです。草津宿にはこのほかに東海道の江戸方からの入口として坂口見附が、中山道には札の辻見附(追分見附)がそれぞれありました。

● 立木神社前を過ぎたあたりから宿場らしい賑わいがありました。

 

草津市草津、草津宿

● 草津宿は、東海道と中山道がここで合流し、東海道では52番目、中山道では68番目の宿場になります。天保14年には、宿内の家数は586軒、2351人で、旅籠は72軒、本陣は2ヶ所、脇本陣が2ヶ所という規模であったようです。

● ひとまず目についた施設を紹介します。太田酒造は同店のHPに、太田家は江戸初期道灌公の末裔太田若狭守正長が福井藩から街道の要衝、近江草津に移り、代々関守を務めていたが、その後、この宿場で酒造りをはじめた。特に遠祖の名に因んだ清酒「道灌」は街道を行き交う人々に銘酒として賞味された、とあります。

● 草津宿街道交流館は、草津宿の当時の様子や江戸時代の旅行や街道がわかる歴史館として、平成11年に開館した草津市の施設です。 

● 2階には県内最古(延宝8年、1680年)といわれる道標が展示されていました。写真撮影はできませんでした。これは、京都壬生村萬寶院のあしだの行者といわれる人が、7年間毎月伊勢神宮と愛宕神社への参詣を達成した感謝と記念に寄進した道標で、追分の道標の前身と推測されています。東海道を伊勢道、中仙道を多賀道として案内しています。道標の表示は次の通り

● 正面「       伊勢太神宮 延寶八庚申年

      (梵字)  七ヶ年中履行月参詣願成就所 みぎハ たうかいとういせミち

            山城愛宕山  十一月吉日                

  左面「ひだりは中せんたうをた可みち 京みぶ村萬寶院あしだの行者」

● 余談、姫路市の最古の道標は、延宝五年ですが書き方がよく似ています(「巡礼道の道標」参照下さい)。 梵字の下に西国三十三所成就と書かれ、その両脇に延宝五年と9月18日の日付けが書かれています。 

 

草津市草津、石山ミちの道標

● 草津宿街道交流館から少し北に進みます。右手にプリマヴィラ本陣というマンションがあり、その玄関先に消火栓と並んで石碑が建っていました。何かのオブジェかと近寄ってみると、西面は「右 以し山ミち」(石山道)と読めました。他の面は何も書いてありません。

● 「右」、即ちここから南西方向に東海道を戻り、瀬田唐橋を渡り、鳥居川の交差点を南に向かえば石山寺です。しかし、街道の分岐でもないところにあるのは、おかしな感じです。

● 草津宿街道交流館でたずねたところ、「表示を見れば、本来街道と石山道の分岐にあるものです。マンションのオーナーの方がどこかからここに移設されたらしい」とのことでした。

 

草津市草津、脇本陣跡

● 草津宿街道交流館と草津宿本陣の中間辺りにこの脇本陣跡の碑がありました。脇本陣の数は、時代によって異なりますが、2~4軒あったそうです。

● ここは、そのうちの1軒、仙台屋茂八家の跡地に旧町屋風の建物を復元したもので、現在は「ベーカリー&カフェ脇本陣」となっています。

 

草津市草津、草津宿本陣跡

●  草津宿を北へ進むとトンネルが見えてきますが、その手前100㍍ほどの左側に草津宿本陣跡の大きな屋敷があります。現存する本陣跡は、2軒あったうちの田中七左衛門本陣で、弘化3(1846)年の旧姿に復原されているということです。(ウィキペディア)

● また、本陣は、寛永12(1635)年に創建されましたが後に焼失し、膳所藩本多家の瓦ヶ浜御殿を拝領して再建されました。広大な敷地と39という部屋数は、本陣としては最大のクラスの屋敷で、東海道筋では唯一完全に残っている本陣です。(滋賀県観光情報)

● 多数の関札や膨大な大福帳など貴重な資料が残されており、それらには、吉良上野介、浅野内匠頭、皇女和宮、土方歳三などの名前も見られるそうです。

 

草津市草津、追分の道標

● 到着しました! 本陣跡から少し北に進むとトンネルがあり、その入口の右側の一段高い所に燈籠型のこの道標がありました。ここが追分で、 そのまままっすぐトンネルを進めば中山道になります。東海道はここから右に曲がり東に向かいます。

● 道標は、文化13(1816)年の3月に、京都、大坂、尾張、岐阜などの飛脚問屋の宰領中や播州、備前、江戸などの日雇方の寄進によって建てられています。それらの名は、基礎部の各面に刻まれているようですが、確認できませんでした.。 

● 道標の後ろは天井川(旧草津川)ですが、現在は廃川になっています。天井川は、度々の洪水で運ばれた土砂で川床の高さが増し、その都度堤防を嵩上げしたことで出来上がったようです。堤防を上がり降りするのは大変だったようで、通行する人馬の交通の便を図るために、明治19年になってここにトンネルを完成させました。道標が建てられたところは、建立当時の堤防の上ということになるのでしょうか。

● 南面「右 東海道いせみち」

  西面「左 中仙道美のぢ」

  東面「文化十三年丙子三月建之」(1816・ひのえ・ね)

 

草津市草津、追分周辺

● この追分の三叉路周辺は、草津宿の高札場でもありました。トンネル入口左側には高札場跡を示す説明板がありました。

● また、追分道標の道路南側には「草津村道路元標」(北面)が設置されていました。 

(地図は草津町道路元標の位置を示す)

 

草津市草津、天井川

● 旧草津川は、洪水で運ばれた土砂のために徐々に川床が上がり、それに伴い堤防の嵩上げも繰り返され、現在のようになりました。しかし、草津川放水路が完成しているので、現在は写真のように水はありません。

● 下の写真は、追分道標付近と横町道標付近の天井川の様子です。偶然撮った場所ですが、この2ヶ所が草津川の渡し場だったようです。天保3(1739)年の資料によれば、渡し賃は水量で異なりますが、8~32文との記録があるようです。1文20円とすれば160~640円ということになります。 

●川床と廻りの建物を比較すると、川床の高さが判ると思います。(地図は、横町道標付近の天井川の位置を示す)

 

草津市大路、覚善寺前の道標

● 追分からJR草津駅へ向かうには、トンネルを通り中山道を北に向かいます。しばらくすると県道143と交差しますが、明治19年にトンネルが開通してからは、ここが、中山道と東海道との追分になり、この角こあった道標が現在は少し東、東海道沿いの覚善寺門前に移されています。

● 草津市の資料ではこの道標は、かっての町名でしょうか、「大路井(おちのい)の道標」として紹介されています。

● 東面「明治十九年三月建之」

  南面「右 東海道」

  西面「左 中仙道」 

 

草津市草津、横町道標

● 追分の道標を右折して東海道を東へ進むと、追分の道標と同じ形の立派な道標があります。かってはこの辺りは東横町であったようです。江戸方面からの草津宿への入口になります。また、東海道と金勝寺道との追分でもあります。金勝寺(こんしょうじ)は、栗東市の竜王山の山頂近くにある古刹です。

● 来た道を振り返ると宿場への道は鍵の辻になっています。この道標は、道路の反対側の天井川土手に建てられていたらしく、道案内の方向が90°異なっているように思います。北面の「左東海道」を西向きに、「右金勝寺」が街道沿いの南向きということになるのでしょうか。

● 道標の寄進者は、蒲生郡日野町出身で有名な近江商人とのことです。

● 東面「文化十三年丙子三月建之」(1816、ひのえ・ね)

  南面「奉京都 中井正冶右衛門橘武成」

  北面「左 東海道いせ道」

  西面「右 金勝寺志がらき道」 

 

JR草津駅前の道標

● 駅東口前の広場に、観光PR用の真新しい道標が建っていました。多少異なりますが、「追分の道標」を模したようにも思えます。

● 東面「左 中仙道美のぢ」

  南面「  平成八年三月竣工」

  西面「右 東海道いせぢ」

  北面「草津宿」