―浜街道の道標―

 (平成21年11月8日) 

 高砂市阿弥陀町の山陽道から分岐して、曽根天満宮から浜沿いに東に進み、山陽道と再び合流する明石市の明石川に架かる大観橋までの浜街道(西国下街道=高砂市資料)の道標を紹介します。 (浜街道の道標地図)

 浜街道沿いには、「播磨の名松」といわれる松が5ヶ所にあります。西のほうから「曽根の松」「高砂相生の松」「尾上の松」「菅公お手植えの松」「手枕の松」です。江戸時代から昭和の初めにかけて、目出度いものの象徴としてこれらの名松めぐりが盛んに行われました。また、庶民の旅人には大名行列の多い西国街道より、石の宝殿などの名所や白砂青松が続く浜街道の方が好まれたようです。この街道筋は「めいしょ道」とも呼ばれていました。そのためか、仏像型の道標は少なく、「○○松」と名松を案内する道標が多く見られました。

 加古川市別府町から明石市までの間では道標を見つけることはできませんでした。

  

高砂市曽根町亀底地蔵堂横の道標  (←ここをクリックすると所在位置を表示)

● 国道2号線豆崎交差点から南に向かうと、曽根町の地蔵堂横に窮屈そうに建っている道標があります。以前はその横に地蔵が祀られていたのですが、その後、道標を動かさずに地蔵堂を立てたので、道標が地蔵堂の西壁に密着してしまったそうです。

● 地蔵堂内部の地蔵の台座南面にも「ひめじ/志かた」の道案内があるようですが、確認できません。

● 南面「左 ひ免ぢ 道」

  西面「右 そねのまつ 道」

  北面「明治十六年」

(下の写真をクリックすると拡大できます。写真以外をクリックすると元の画面に戻ります)

  

曽根町光照寺前の道標

● 地蔵堂の100㍍ほど南の旧家の北側に小さな道標があります。半分ほど埋まっていますが、上部は彫りも深く字ははっきりと読むことができます。左へ行くと曽根の町中へ進み、左に向かうと天川を渡り大塩方面へ行く、その分岐点であったようです。

● 南面「世話人 岸野重吉 /木村○○」

  西面「左 そ祢の(まつ道)

  北面「右 ひ免じ(道)

  

曽根郵便局前の道標

● 光照寺前の道標を左(東)に向かい、しばらくして右に折れ、南に進みもう一度左に折れるとこの道標の西面を目にします。そこを右に折れ、南に向かえば曽根の天満宮、曽根の松です。山陽道から曽根の松までは約2㌔ですが、その間に4基の案内の道標(1基は「山陽道の道標」に掲載)がありました。播州名所巡覧図絵に掲載された観光名所でもあり、非常に親切な道案内を実感することができます。

● 本道標は曽根小学校に置かれていましたが、平成9年元々あった現在の郵便局前に移設されたということです。

● 南面「左 ひめぢ」

  西面「右 そ祢乃松」

  

曽根天満宮前の道標

● 道標は、天満宮の門の前にあります。「当社曽根の松」と書かれ、名松の所在地であることを示しています。また、ここからは右(北と西)に向かえば山陽道、豆崎へ、西に向かえば浜街道の大塩を経由して姫路へ、そして左(東)に向かえば高砂や石の宝殿へ向かいます。

● 曽根の天満宮の説明板によれば、延喜元年(901)菅原道真公は太宰府への途次近くの伊保港に船を寄せて、日笠山に登られ「我に罪なくば栄よ」と祈って、山上の小松を植えられました。これが霊松「曽根の松」で、その後秀吉の兵火にかかったり、枯死したりして、現在の松は五代目になっています。

● 東面「當社曽根松」

  南面「天保二年辛卯九月吉日」 (1831年かのと・う)

  西面「當社そね松

  北面「右 飛免ぢ /左 石宝でん 道」

  

伊保西部自治会館前の道標

● 曽根天満宮から東に向かい、鹿島川を渡り、ボート店のところで県道718号線を横断すると、道は細くなり、旧家が途切れたところにこの道標があります。もとはここから少し東、伊保交差点北の三叉路辺りにあったものが、自治会館建設時にここに移設されたということです。書かれた文字も美しく読みやすい道標です。

● 東面「右 ひめぢ (道)(一部埋没)

  西面「左 石のほうでん」

  北面「右 そ年のま川 /左 たかさご」

  

伊保緑地公園の南の道標

● 県道718の伊保交差点の少し北の細い道がかっての浜街道ですが、この道標はわかりにくい場所にあります。常念寺の南、緑地公園の南西の県道の手前です。ここから右、北東に進むと石の宝殿になり、左、北西に進むと曽根方面になります。ここがかっては浜街道と宝殿道の交差点のようです。。

● このあたりでは珍しい自然石型の道標で、風化が激しく文字の判読も難しい、歴史を感じさせるものです。

● 南面「左 高砂おのへ」

  西面「右 石乃ほうでん /左 ひめぢそねの松」

  

伊保緑地公園南の道標(個人庭園内)平成22年2月3日追加)

● 上の道標の10㍍ほど南、個人のお宅の庭園内にありました。これは高砂市の資料にも掲載されていない道標です。

● 後日「加古川の道標」を調べていたら、東神吉の人が神吉山の麓で拾得し、その後高砂市の個人宅に移されたとありました。 (平成23年10月9日追記)

● 右面  「左 加古川 道」

  正面・東「右 本つけ山 /ほう志やうみち」(法華山、北条道)

伊保港町の道標

● この道標は、南北に通る浜街道と三木方面に向かう美嚢道の分岐点にあります。大正五年の銘がありますが、江戸時代のものの複製ではないかと「高砂の道標」にありました。

● 伊保崎村は、北に石材の産地竜山(この地区の道標の多くは竜山石が使用されている)、南に塩浜があり塩市なども開かれ商業都市として栄えていたそうですが、今ではその面影はありません。

● 東面「右 石のほうでんそね /左 高砂尾上乃松」

  南面「すぐ ひめじ /大正五年一月」

  西面「右 姫路 石のほうでん /そ祢の松」

  北面「すぐ 高砂」

  

荒井観音寺南の道標

● 荒井観音寺南の住宅街の、人通りの少ない細い道に縁石と間違えそうな小さな道標がありました。年代は「壬辰三年」となっていましたが、「天保三年」(1832年)でしょうか?(後日、豊富町太尾北で「天保三年壬辰」と書かれた道標をみつけました。)

● 東面「ひだり 本うでん /そねノ松」

  南面判読不能(下部に「ひめぢ/あ本志(?)」とある)

  西面「壬辰三年」 

 

荒井神社の北、荒井村道路元標

● 観音寺と荒井神社北の道標の中間あたりにこの道路元標がありました。

● 西面「荒井村道路元標」

 

荒井神社北側の道標

● 東門の道標と形状や字体も同じ道標ですが、こちらの方が約20年前に建てられています。美しい字体や漢文調の年代表記など特徴のある道標です。年代の頭の「時」は異体字で者に似た文字が書かれています。南面は荒井神社の塀に密着しているため確認不能でした。

● 東面「右 いしの宝でん /そ祢の末川 /ひ免ぢ 道」(石の宝殿、曽根の松、姫路)

  南面「時 天明二年歳次壬寅 /秋八月二十有七日建焉」(1782年みずのえ・とら)

  北面「左 た可さご /を乃へ /當うたさん 道」(高砂、尾上、刀田山鶴林寺)

 

  

荒井神社東側の道標

● 荒井神社の東側の民家の前にこの道標はあります。東の面には21文字の建立の趣旨らしい漢文が書かれています。「時」は北側の道標と同様に異体字です。南と西の面が道案内です。

● 東面「里人逵八右衛門者奉亡姥 /建之冀使其徴志不朽焉」

  南面「左 いし能宝でん /そ祢の末川 /ひめぢ 道」(石の宝殿、曽根の松、姫路)

  西面「右 た可さご /を乃へ /當うたさん 道」(高砂、尾上、刀田山鶴林寺)

  北面「時 寛政十二年歳次庚申」(1800年かのえ・さる)

  

高砂市荒井公民館前の道標(平成22年8月13日追加)

● この道標は、荒井公民館前の地蔵堂の脇にあります。高砂の道標によれば、元々は道路の反対側に正面を北向きにして立っていたのではないかとのことです。ここから西に向かえば、荒井神社や曽根方面に行けます。道標にはありませんが、北に向かうと小松原から北条方面になりますので、そのような分岐点だったようです。また、戒名らしい文字もあるので、旅の途中で亡くなった人の供養の碑かもしれません。

● 正面・東上部「南無阿弥陀仏」

      中部「右 石のほうでん /そ祢の松 /ひめじ」

      下部「安永六年 /白光妙賢位 /丁酉」(1777・ひのと・とり)

  

高砂市農人町の道標

● この道標は、現在地は児童公園の入口ですが、元は20㍍ほど東の三叉路にありました。右の写真の手前に道標元の位置というプレートがありました。交通事故で折損したために修復後の平成10年ここに移設されました。銘文はすぐ横に説明板があります。

● 江戸時代高砂町は堀川で囲まれた町割りを形成していました。ここは堀川の外側で高砂町の西の端にあたります。

● 東面「右 姫路 石のほうでん /楚年能末川 道」(石の宝殿、姫路、曽根の松)

  西面「文化八歳未三月 施主 加満屋彌次兵衛」(1811年、かのと・ひつじ)

  北面「高砂相生うたひ乃名所」

 

高砂市横町三叉路の道標(平成22年8月13日追加)

● この道標は三叉路の正面にあるのですが、電柱の陰で半分は塀に埋もれているのでわかりにくい場所です。元は少し北にあったようですが、戦時中の道路拡張時に現在地に移設されたと高砂市の資料にありました。左すなわち東に行けば高砂神社、そして船乗り場から大阪へも行けます。西に向かえば、十輪寺や曽根の松に向かうことができます。このあたりは当時は往来の激しい場所であったようです。

● 高砂の旅籠は、釣屋の屋号が多いと戎町の説明板にありました。右面は塀で確認できませんが、「杓」は「釣」では? 清河八郎も安政二(1855)年5月「・・・曽根の松を再び見て、高砂のつり屋に泊まる」と西遊草に記しています。

● 右面  「安政二甲三月之立願主杓屋吉左右衛門」(1855・きのえ)

  正面・北「左 相生松大阪道」

  左面  「右 石の宝でん曽根松 /十輪寺姫路」

 

高砂神社正門前の道標(平成22年8月13日追加)

● 江戸時代、神社の南東側に渡し場と船役所があったそうです。南へ行くと川口御番所、神社を抜けて北へ行き、東側に行けば尾上や船乗り場から大阪へ行けました。また浜街道を西へ行けば、曽根や石の宝殿へも行けました。この道標は復元品で、旧の道標は交通事故で損壊し、本殿に保管してあるそうです。

● 東面「東  」

  南面「南 港 道」

  西面「西 曽根○ 宝殿道」

  (曽根と宝殿の間に1字欠落しているが、「松」か「石」か不明のため復元されず)

  北面「北 尾上 大阪道」

  

高砂神社北門前の道標

● 高砂神社には相生の松があり当時の松巡りコースの一つになります。北門の常夜燈の前に道標がありました。道案内はくずした字体で書かれています。こうした漢字を読むのは、多少慣れたとはいえ大変難しいことです。古文書などもみなこうした文字ですから、昔の旅人は読めたのでしょうね?

● 「相生の松」とは、黒松と赤松が一つの根から出た松で、縁結び、夫婦和合、長寿の象徴とされてきました。高砂神社の説明板には「ある日、尉と姥の二神が現れ、神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん、と告げたことから霊松として人々の信仰を集めるようになり、和歌や謡曲でも有名になった」とあります。

● 南面「左 いしの宝でん楚祢能末川 /を乃へ能加年あ可し 道

    (石の宝殿、曽根の松、尾上の鐘、明石)

  西面「當社相生松」

  

加古川相生橋付近の道標 (平成23年4月26日 追加)

● 神戸新聞によると、「かって加古川にかかる相生橋近くの堤防にあった道しるべが、ほぼ半世紀ぶりに元の場所に戻された。郷土の資料として尾上小学校に保管されたままになっていたが、地元町内会が里帰りを働きかけた。道しるべは、大正12年(1923)に相生橋が架けられた時、橋のたもとの堤防に立てられたとみられる。高砂方面から橋を渡ってきた人のために播州松巡りで知られる尾上の松(尾上神社)や手枕の松(住吉神社)、それに鶴林寺、土山駅などの方向を示していた。道しるべは、現在の相生橋の約250㍍上流、かってと同じ旧相生橋があった場所に移された。長さ240㌢のうち約70㌢を土で埋め、しっかりと固定。小高い堤防から大崎地区を見守るように立っている。」とあります。

● 正面・西「右 尾上相生松幷鐘濱之宮天神社 /刀田山鶴林寺別府手枕松 /加古川驛 /土山(驛) 道

  

尾上神社北門前の道標

● 高砂神社から加古川を渡り、県道718の長田の交差点を北にしばらく進むと尾上神社の北門に出ます。この北門の外にある比較的新しい道標は昭和42年に復元されたもので、もとの道標は門を入ってすぐ左にあります。加古川市内では2番目に古い道標です。また北面の銘では、古い道標がここから二十間北にあったと記されています。

● この神社の正門前にも「高砂うたひの名所」の石柱があります。高砂が二つあることについては、「播州名所巡覧図絵」に次のような記述がありました。尾上住吉明神ノ祠(やしろ)の説明に「社記に云・・・高砂と号(なづ)く所、東は池田より、北は此所に続き、人家多くて船の往来も程近く、漁労のたよりもよろしきに、世変わり、年を積みて・・・波も遠浅となり・・・船の出入りもよろしからずとて、又数年を経て、今の高砂といへる所へ家どもを移し、同所ながら高砂、尾上と相別ちて隔つ事八丁斗也」とありました。 また、「相生の松」については「我齢(わがよわい)の久しきと、松の齢の久しきを比べて、互いに老いぬるの心をよむがゆえに相老(あいおい)といへり・・・雌雄偶生の松を相老の松と名付けしは、後世の誤り成りべし」とありました。いずれに受け取っても霊松に変わりはないと思います。

● 東面「右 石の本うでんへ 一り半」

  南面「高砂尾上社 相生能松幷/可年あり」(相生の松ならびに鐘あり)

  西面「安永七戊戌年八月朔旦願主某」(1778年 つちのえ・いぬ)

  北面「往古之立石ハ弐十間北ニ道・・・」

  

尾上神社正門前の道標

● 尾上神社正門前の常夜燈の陰にこの道標はあります。風化も激しく文字も判読が難しい状態です。加古川市資料によれば碑面は下記の通りです。また、「土山駅」とあるので明治以降の建立ではないかとも書かれていました。

● 南面「すぐ 濱之宮へ三丁 /別府手枕松へ十八丁 /土山駅へ三十丁(下部)神戸 /大坂 道」

  西面「・・築之 世話人 多木定治郎 /北畠源四朗 /石工 中谷林之助」


鶴林寺公園の道標 (平成27年11月5日追加)

● 浜街道からは少し外れるが、尾上神社の北東方向の鶴林寺公園の外周道路に三分の二くらい埋没した道標がある。各面の銘文は、加古川市の資料によれば下記の通りである。四本のうちの一本と書かれているので、同様のものが他に三本あったということであろうか。山陽道「野口交差点北の道標」はその内の一つかもしれない。

● 右面  「立石四本(内 願主安田 /孫右衛門)」 ( )内は埋没ヶ所

  正面・南「左 刀田山(明石道)」

  左面  「是ヨリ(尾上江八丁)」 

 

十五社前の道標 (平成28年11月29日、追加)

● 鶴林寺から東に向かい十五社橋で別府川を渡ると十五社(神社)があります。この神社の南側の細い道(旧道?)にこの道標は建っています。

 左、西方向の鶴林寺や北在家方面を、右、東方向は途中旧道は途切れますが、口里や別府方面を案内しています。「加古川の道標」には、口里稲荷は山電浜の宮駅北にある山守稲荷と考えられると書かれています。

● 右面  「左 たうたさん /きたさいけ 道」(刀田山鶴林寺、北在家)

  正面・南「右 くちり以奈り別府 /すく ふたミ 道」(口里稲荷)

  左面  「安政七申二月世話人 /四國西國同行中 平野淺治」(1860年、かのえ・さる)

  

尾上町池田地蔵堂の道標 (2基)(平成22年2月7日追加)

● 県道718号線姫路信用金庫の裏、旧浜街道沿いの地蔵堂の一番下の左右の二体の地蔵菩薩立像に道案内の文字があります。写真左が旧浜街道で、東に進めば別府方面になります。地蔵堂の後ろの道を右に向かうと白旗観音寺の方角になります。

● 地蔵像は、いずれも西向きです。左の地蔵は案内の方向が逆になるので、以前は東側に置かれていたのでしょうか?

● 左の地蔵菩薩立像

 「右 やまざき /直 高砂」

● 右の地蔵菩薩立像

 「右 観音(道) /左 別府」

● 平成23年10月9日追記、「やまざき」は、山電浜の宮駅北側あたりの口里字山崎のこと  

尾上町口里の道標 (平成22年2月7日追加)

● 上の地蔵堂から東へ200㍍ほど向かったところに、やはり西向きの地蔵堂があります。一見地蔵のようですが、地蔵菩薩座像が刻まれた角柱型の道標です。案内の右すなわち南に向かうと白旗観音寺になります。このまままっすぐに浜街道を東へ進めば明石方面になります。写真では、右の道路が旧浜街道です。手前の道路は白旗観音寺の参道です。

● 写真のように実は文字はよく見えませんでした。上の地蔵同様に花も供えられ大切にされていました。

● 西面「右 く王んのん /すぐ あかし」(右 観音/まっすぐ 明石)

  

白旗観音の道標 

● 県道718の道端の選挙用看板の陰でわかりにくいのですが、白旗観音を示す道標があります。ここから南へ100メートルほどに白旗観音寺があります。元々は、この道標は少し北の浜街道との交差点にあったものと思われる。

● 同寺の説明板には「観音様のお告げで白布を船印にすると、荒海でも風波の厄を受けることがなかった。以来、高砂の浦人は船印に白布を使うようになったので、この寺を白旗観音寺という」とありました。

● 正面・東「左 白旗観音寺道(左下部)生竹山」

  左面  「昭和十年二月 世話人高砂」

  背面  「右 白旗観音寺道(左下部) /生竹山」

  

白旗観音の道標(2)(平成22年2月7日追加)

● 上の道標から南へ向かうと、突き当たりにこの道標はあります。ここを左に折れると突き当たりが白旗観音寺(写真では一番奥)になります。建立の年月が上の道標と同じなので同一人が建てたと思われる。

● 南面「昭和十年二月」

  北面「左 白旗観音道」

 

浜の宮天神社と菅公お手植えの松(平成22年7月23日追加)

● 播磨の名松の一つ菅公お手植えの松(加古の松)をここで紹介しておきます。

浜の宮天神社のHPによれば、901年菅公筑紫左遷の折、当地で休息され海上の平穏と万民の幸福を祈願され、記念に松を植えられました。後世、公の徳を追慕し1012年に小祠を建てお祀りしたのが起源ということです。

● 現在の社殿は昭和50年に完成したもので、松は2代目で樹齢は約500年です。

  

別府町民会館前の道標

● 遠くからでも見やすい大きな道標です。道標の下の部分は埋もれています。加古川市内では4番目に大きなものです。ここから右へ四、五丁行くと別府住吉神社で、本殿前に三代目の手枕の松がありました。少し傾いているので手枕の松というのだそうです。

● 幕末の志士清河八郎も安政二年にここを訪れ、日記西遊草に「実に名のように手枕の形をなし・・・播州では第一の松に推さねばならぬ」と記しています。

● 「右 田まくらの松 明石大坂道」(手枕の松)

  

別府町元町の道標

● 商店の店先にあるこの道標は、この辺りでは珍しく花崗岩に彫られています。手枕の松のすぐ近くの道標ですが、その案内の文字は見当たりません。 北面で明石、大阪方面を案内しているので、道標の手前の道が旧浜街道のようです。

● 東面「右 おのへ /た可砂 道」

  南面「寛政元酉九月 立之」(1789年、(つちのと)とり)

  北面「左 あ可し /大坂 道」

  

別府町東町の道標(1)

● 元町の道標から南に向かい手枕の松を目指しました。途中、路地の奥に民家の玄関の門柱かと思いましたがよく見ると石板型の道標でした。ここから右、南に向かいすぐに左に折れれば別府住吉神社です。手枕の松は本殿前にありました。元は、県道129号別府港加古川停車場線と旧浜街道の別府本町交差点付近にあったものを区画整理の際ここに移されたらしい。

● 右面  「左 おのへ高砂ミち」

  正面・西「右 たまくらの松」 

  

別府町東町の道標(2) (平成22年2月7日追加)

● 住吉神社の前の広い道路を横断し、狭い路地を少し西に行き、左に折れた角にこの道標はあります。道標の案内は「すぐ」となっていますが、鉤型の辻になっているので、まっすぐにはいけません。後ろの家の向きなどからみると、以前は直進の道路であったものが何らかの理由で鉤型の辻になったものと思われます。また、大坂の坂の文字の辺りで折損の痕があります。

● 南面「すぐ 明石大坂 道」


別府本町の道標 (平成27年11月5日追加)

● この道標は、別府元町の道標から東に向かい対潮橋を渡って、宝蔵寺の一本北の筋を少し東に入った個人宅の生垣に道路に向かって立っている。風化のためほとんどの文字は判読不能です。

● 道標の前を県道553号別府・平岡線に沿って東へ向かうとJR土山駅へ、1本南の筋、浜街道を東へ進むと本荘、明石方面へ、また、県道129号別府港・加古川停車場線を北に進むと、一色、二俣を通り、西岡(旧山陽道)に行くことができます。

● 道標上部の形状が確認できないが右面の文字から推測すると常夜灯として設置されていたかもしれない。

● 右面  「○○霊符常夜燈」

  正面・南「右 本庄

         あ可し ミち

       左 西谷     」

 

山陽電車播磨町駅北の道標(平成22年8月13日追加)

● 現在は喜瀬川に架かる野添橋の東詰めにありますが、元々はもう少し南に立っていたそうです。浜街道辺りに正面を東向きにすれば道案内と一致すると思うのですが・・・。 

● 正面・北「すぐ 高砂道」

  背面  「右 明石 /左 三木 道」

  

ここから先の浜街道では

● 明石まで道標を見つけることはできませんでしたが、古宮の姫路藩砲台跡、魚住の住吉神社、江井ヶ島の地ビールなど興味深い場所もありました。また、この辺りは海岸が一段と高くなり、明石原人の発見された崖などもあり、地図では平坦に見えてもかなりの坂道で、少々エネルギーを使いますが、淡路島も間近に見え格別の景色で癒されます。

● 明石市内の大観橋で山陽道と合流しますので、市内の道標は山陽道にまとめました。