―的形周辺の道標―

 (平成21年11月8日)

  姫路市大塩町から的形、白浜、妻鹿、飾磨までの旧街道の道標を探してみました。

 

(平成23年6月10日、追加)

 たつの市御津町苅谷~姫路市飾磨区中浜の道標を末尾に追加しました。

 的形周辺の道標地図  

 

姫路市大塩町の道標  

● 山陽電車大塩駅の北の住宅街の中にあります。高砂市の曽根町方面から日笠山を越え大塩町の集落に入ると、この道標の東面を目にします。ここから右、北へ向かえば別所町佐土で山陽道に合流し姫路方面に、また、左、西に飾磨道を進めば、八家地蔵や飾磨津方面に行けます。室津や飾磨津辺りで船を下り飾磨道を東に向かう旅人は、この道標の南面を見て、右、東の高砂や加古川へ向かうことになります。これは、そのような道案内の道標です。

 

● 銘文

 東面「右 飛めぢ /左 やかぢぞう /志かま津 道」(「/」は改行を示す)

 南面「右 そね /た可さご /かこ川 道」

 

大塩町の道標(2) (平成27年2月9日、追加)

● 上の「姫路市大塩町の道標」の「左 八家地蔵/飾磨津」の案内に従って左の路地(飾磨道?)を西に進みます。家が密集しており右、左、右、左、右と5回ほど曲がるとこの道標の南に出ます。

 道標の南面は何とか判読できますが、西面は民家のブロック塀に接近しているのと、風化のため一部の文字が読めません。背面は文字なのかキズなのか、全く判断できません。姫路市の道標資料を探しましたが、記載されていませんでした。この道標の「右ひめぢ」の方に進むと「大塩村道路元標」のある三差路になります。

 

● 銘文 

 南面「右 ひめぢ /左 し可ま/ぢぞう 道」(姫路/飾磨、(八家)地蔵)

 西面「右(?)曽祢 /高砂」

 北面(判読不能、文字でないかもしれない?)  

  

高砂市西浜うまから地蔵堂まえの道標

● 大鳥から的形へ抜ける道は、現在では姫路市と高砂市の境界が複雑に入り組んでいます。この道標はその中間あたりの高砂市北浜町西浜となる道路の西側の新しい地蔵堂のまえにありました。しかし、設置位置が銘文とは180°反対で、この場所で「大坂道」の表示もおかしいので、訳ありのようです。

● 高砂市の資料によれば、東条町栄枝の神谷山禅龍寺辺りのものではないかと疑問符が付けられておりました。北面には戒名らしい記述もあるので供養のための道標のようです。

 

● 銘文(1796年、ひのえ・たつ)

 東面「西 右神谷山」

 南面「北 左大坂道」

 西面「東 寛政八丙辰年」 

 北面「 〇〇童女」 (〇は判読不能)

  

的形の道路元標

● 的形小学校の東の三叉路にこの「的形村道路元標」はあります。

● 右の地図は、まだ江戸時代の道筋が残る明治26年、大日本帝国陸地測量部作成の大塩、的形地区です。

  

養泉寺前の道標

● 的形小学校を西に進むとここ養泉寺まえに出ます。南面の銘文から辰年の男の人(たち?)が何かの記念に建てたもののようです。

 

● 銘文  

 南面「當所 辰年男」

 西面「右 ぢぞう道 /左 曽根高砂」

 北面「右 志かま むろ /すぐ ぢぞう道」

  

福泊神社前の道標

● 福泊神社の前にガードレールの陰で見つけにくいのですが、古い道標があります。ここから南の方角になりますが、八家地蔵まで2丁(約220㍍)であることを示しています。その八家地蔵ですが、「福泊」の地蔵がなぜ「八家」地蔵と呼ばれるのかは謎です。また、「曽根の松」は五ヶ所にある「播磨の名松」の一つでこの地方の名所となっていました。ちなみにこの道標は姫路では古いほうから4番目のものです。

 

● 銘文(1769年、つちのと・うし)   

 南面「明和六己丑九月 /自是 二丁」 

 西面「右 地ぞう道」

 北面「左 そ年の松」 (曽根の松)

 

福泊神社前地蔵堂の道標 (平成22年5月18日追加)

● 上の古い道標の横に小さな祠があります。中には数体の石像がありますが、真ん中の大きな石像をよく見ると頭部の左右に「右」「左」の文字が見えました。後で姫路市の資料で調べてみると道標のようです。 左の写真で祠の左後ろに見えるのが、上の道標の南面になります。

 

● 銘文(正面・南) 

 正面「右 ぢぞう道 /(地蔵坐像) /左 そねみち」

  

木場の道標

● 木場の交差点のポストの陰で見えにくいのですが、かなり大きな道標があります。東面の「左」の文字は「右」のようにも見えます。現物を確認しても傷なのか文字なのか判断しかねます。明治26年の地図(的形村道路元標参照)では、右方向の三ツ橋方面への道筋しかありません。左は塩田になっていますが、大正時代には現在のような道路ができていたのでしょうか?

 

● 銘文  

 東面「左 飾磨 /妻鹿 /(下部中央)白浜 道」

 西面「大正拾四年拾貳月下旬・・・」

 北面「右 木場湊 /左 高砂曽根大塩的形」

 南面、民家に密着しているので確認不能です。

 

木場の道標(2) (平成29年11月12日、追加)

● 駐車場の入り口に放置(?)されたこの道標は、八家地蔵を案内するものと思われます。福泊神社の前にある「明和六年」設置の旧い道標と、形状と材質は異なりますが、大きさ(計測はしてない)や字体は酷似しています。

● 形状は水平型(頭部が水平)と丸型(頭部が丸)、材質は花崗岩と竜山石と思われます。(いずれも前者が本道標を示す)

● 右面の紀年銘はかすかに「明……月」と読めます。福泊の「明和六己丑九月」(1769年)と似ています。もし同じなら姫路市内の道標でも、古さ4番目にランクされます。

● 元の設置場所は不明ですが、「八家地蔵」ではなく「地ぞう」のみの表記になっているので、地元(木場、福泊、的形あたり)であったと思われます。少し離れた白浜町や大塩町、四郷町の道標には「やか」の文字があります。

 

● 銘文(正面・東) 

 右面「明・・・・月」 (「・・・」部は判読不能)

 正面「左 地ぞう道」 (「左」は旧字体)

(背面はブロック塀に密着して確認不能)

  

八家駅前の道標

● 木場の交差点を北に進むと山電八家駅前に出ます。この駅前の道標は詳しく道案内が書かれていますが、木場の道標とは逆で近くの地名が上に書かれています。「むつみ会」の何かの記念の道標と思われます。

 

● 銘文(正面・西) 

 右面「左 白浜妻鹿飾磨 /すぐ 東山四郷御着」

 正面「右 木場大塩高砂 /左 東山見野御着」

 左面「右 白浜妻鹿飾磨 /すぐ 木場港小赤壁 /八家村」

 背面「昭和三年三月 八木村 /むつみ會」

 

糸引村道路元標(平成22年7月15日追加)

● 山陽電車八家駅の東の踏切を渡り、細い町並の続く県道552を北へ進むと、継交差点と四郷町明田方面へ分岐する三叉路があります。この「糸引村道路元標」は、その三叉路の西隅に設置されていました。側溝の上に不自然な形であるので、周辺から移設でもされたのでしょうか?

 

 仁寿山校址案内の道標 (平成22年7月15日追加)

● 上の糸引村道路元標から県道552を西へ進むと糸引小学校の少し先にこの道標はあります。

● 姫路藩家老河合道臣(寸翁)が文政四年(1821)に開いた私塾仁寿山校の址を案内する道標です。仁寿山校は、河合寸翁が藩改革の功績により与えられた奥山の土地を仁寿山と名付け、ここに国に役立つ人材養成を目指し開いた私塾です。頼山陽など著名な講師も招いたということです。

 

● 銘文(正面・南)  

 右面「大正十二年二月十一日」

 正面「仁寿山学問所遺阯 /従是(これより)北約八丁許(ばかり)」

 左面「河合太夫顕彰会建立」  

 

河合家墓所案内の道標 (平成29年5月11日、追加)

● 上の道標から県道552号北原八家線を西に進むと北原交差点で県道402号白浜姫路停車場線に変わります。県道402号線をさらに西に進み、姫路バイパスの高架下を過ぎたところの道路右側にこの道標が建っています。

 

● 銘文(正面・西)

  正面「舊姫路藩老河合家史蹟 /仁壽山梅岡別莊並墓所 /從是東約五丁許」

 背面「大正十二年二月二十五日 /河合大夫顯彰會」

  

美土呂公園の道標

● 白浜町寺家に美土呂という名の公園がありますが、奈良時代から続く「美土呂」の字名が廃されたので、公園にその名を残したと説明板にありました。ここに白浜中村の旧街道(松原八幡宮の南東の甲378番地)にあった道標が移設されています。元の場所である白浜町旧中村甲378の三差路での設置位置を想定すると、東からの旅人が目にすることとなる南面は左 飾磨方面を、西からは西面を目にするので「右 八家地蔵方面」の案内となると思われます。

 

● 銘文 

 東面「左 志かま /むろ 道」 (東面=美土呂公園での設置方向を示す)

 南面「右 ヤカぢぞう /そ祢 /高砂 道」 (「ヤカ」は小文字)

 

妻鹿町、道路元標と固寧倉 (平成26年3月17日、追加)

● お旅山から北西方向に妻鹿町内を進むと、真新しい屋台蔵のまえに「妻鹿村道路元標」があります。

● その道路の反対側の小さな建物は「固寧倉」と呼ばれる郷蔵です。固寧倉は姫路藩領内に設けられた飢饉などの非常時に備えるため穀物類を貯蔵する倉庫です。弘化三(1846)年には288ヶ所設置されていましたが、現存しているのは、妻鹿、白浜、東山、野里、刀出の5ヶ所のみです。その名称は「書経」の「民は惟れ邦の本、本固ければ国寧(やす)し」の語から選んだものです。

(地図は、道路元標の位置を示す)

  

妻鹿市川堤防沿いの道標

● 山電妻鹿駅の前を北に向かって進むと、堤防の右下斜面にこの道標はあります。このあたりは妻鹿村のはずれで字は「出口」といい、奥山や御着への道筋であり、近くに市川の渡し場があったようです。荒神社はこれより1丁北、写真の後方の甲山のふもとにありました。

● 甲山には、かって妻鹿城(甲山城、功山城、国府山城とも)があり、元弘元年(1331)年頃、妻鹿孫三郎がここに城を築いたのが創築とされています。その後、黒田官兵衛の父、職隆(もとたか)が姫路城から移り居城としました。官兵衛は天正8(1580)年の三木城攻めの際、姫路城を秀吉に譲り、自らはこの妻鹿城に移っています。 

 

● 銘文

 南面「右 おくやま /古”ちゃく」 (奥山、御着)

 西面「(左向き手形)古おじん 是より /一丁」 (荒神)

 北面「明治四十五年七月三十日 竣」

   (7月30日で大正元年に改元、珍しい日付になっている)

● 平成29年8月16日、荒神社を再度訪れ、写真を入れ替えました。

 

飾磨区阿成の道標(平成22年4月18日追加)

● 阿成(あなせ)の早川神社の東方、市川の堤防下に道しるべ地蔵というお堂がありました。お堂の一番奥の高い所に道標が祀られていました。住所は「飾磨区阿成渡場」となっています。市川の渡し場があったようです。また、「きたが一中」は「北垣内中」と読むのでしょうか、少し南に「飾磨区阿成中垣内」という住所が見えます。

 

● 銘文(正面・南) 

 右面「右 わたしば /きたが一中」

 正面「(地蔵坐像)右 ひめぢ /左 かめ山 みち」

 左面「たなかや /伊兵衛」

 

● 平成25年9月16日追記

 地蔵堂の横に説明板が新たに設置されていました。

 「安政年間(1854~60)阿成の「渡し場」にあったが、昭和43年に現在の堂に移設したという。この付近で水車を回していた人が通行人から度々道を聞かれるので、道不案内の人のためと、旅の無事平安を祈って石の道標に「左かめやま、右ひめじ」の文字と上端部に仏像を刻みお祀りをした。」

  

飾磨区下野田の道標

● 市川をわたって西へ向かい、駅南大路に出る少し手前にこの道標はありました。いまでは人通りの少ない道路ですが、かっては飾磨道と姫路方面への交差点であったと思います。東面の「臘月」は陰暦の12月を表しています。特殊な表記です。

● 北面「左ひめぢ」は東方向に進みますが、現在の道筋では方向があいません。

 

● 銘文(1862年みずのと・いぬ、12月) 

 東面「文久第二 壬戌 暦 /臘月下旬建之

 南面「左 室津阿本”し 道」(室津、網干)

 西面「右 曽根高砂 /左 御着野田 道」

 北面「左 ひめぢ」

道標の位置と方向について (平成30年4月17日、追加)

● 旧街道の名残のある明治26年の地図によれば、当時の道標周辺の道筋は現在とはかなり異なっています。ここに道標の推定位置を記入してみました。この位置で90°左に回し、西面の「右曽根高砂 左御着野田」を南に向けると案内する方向がすべて合致すると思われます。

移設後の飾磨区下野田の道標 (平成25年10月29日、追加)

● 下野田の道標が、少し西の駅南大路の方に移設されていました。元の場所は大きな建物になり、道標の元の位置周辺はその駐車場になっていました。設置の方角はもとのままになっていましたが、改めて写真を掲載しておきます。

● 元の設置場所では埋没していた南面と西面の下部の「道」の文字が見えるようになりました。北面の下部には「〇〇 /〇〇」と人名らしき文字が2行見えますが、彫りが浅く判別しかねます。「高徳 /塩谷」のようにも見えます。

  

姫路藩御舩役所の趾 (平成22年1月16日追加)

● 下野田の道標をさらに西に進むと、飾磨区玉地に「旧姫路藩御舩役所址」の碑(写真)がありました。この地は池田輝政の姫路城築城と並行してすすめられた三左衛門堀の開削時の土砂によって埋め立てられた人工島だそうです。近くの稲生(いなお)神社の説明板によれば、この神社の手水鉢には、文久二(1862)年に寄進した御船役所の役員の名前が刻まれているようです。御舩役所は姫路藩の水軍で、常時200名が常駐していました。また、藩主が国替えになってもそのまま新藩主に仕える「城付き」の特例が認められていました。 

● 東堀船着場はこの対岸の少し南側になります。船着場は、その後、流入する土砂のため船の着岸が困難となり、弘化三(1846)年に、ここから2㌔ほど下流の野田川の河口に築造された「湛保」と称される船だまりに港の機能が移っています。

 

● 銘文(正面・西) 

 右面「昭和十年五月建設」

 正面「史蹟 舊姫路藩御舩役所之址」

 背面「御舩役所ハ慶長年中姫路藩主池田輝政公當時乃

    飾磨川口三角洲ヲ修築シ東西七十間南北九十四

    間ノ島ヲ築キ髙砂ノ水主ヲ此處ニ移シ播磨海事

    ヲ取扱ヒシ所ナリ」

  

東堀公民館まえの道標 (平成22年1月16日追加)

● 御舩役所の対岸、野田川の右岸の東堀公民館まえにこの道標はあります。船着き場はこの南側になります。この道標は、東からの旅人に新しい湛保(川口)や網干、室津を、また西からの人には姫路や高砂方面を、それぞれ案内していたものと思われます。この道標の2年まえに湛保の築造が完了しており、港の機能は、移っています。

 

● 銘文(1848年、つちのえ・さる) 

 南面「嘉永元年戊申五月 /東堀町

 西面「左 飛免ぢひろみね /やかそ祢高砂」

 北面「右 川口(下部)あぼし /むろ津」

 

● 平成23年10月14日追記

 飾磨津周辺の道標には「ひろみね」を案内したものが多いのですが、これは広峯神社の南一の鳥居が津田細工に、南二の鳥居が本殿より72町の飾磨清水の北にあった(播磨鑑より)ことと関係があるようです。周辺の道標のうち2基は飾磨中部中学に、東堀町のものは同町公民館まえにそれぞれ保管されています。(姫路市文化財シリーズ) 

 

飾磨中部中学校内の道標 (平成28年7月10日、追加)

● この道標は、現在は飾磨区細江の飾磨中部中学校の構内に移設されていますが、元は東堀の船着場付近に設置されていたようです。設置の方位もこのままで目的地の方角と合致しますので、元の場所でもこの方位で建っていたものと思われます。

 

● 銘文(正面・南)(1832年、みずのえ・たつ)

 右面「天保三壬辰年三月下旬 /建・・・」(下部埋没)

 正面「春ぐ ひろみ祢 /志よしや山・・  」(すぐ=まっすぐ)

 左面「左 ひめぢ 高さご /やか そ祢・・」

 背面「右 阿ぼし むろ川 /

    春ぐ ふ祢のり者”」(網干、室津 /すぐ ふね乗り場)

 高さ112㌢、幅27.5㌢ 奥行28㌢

 

飾磨区宮の道標 (平成22年12月7日、追加) 

● 飾磨区宮の町内の辻にこの道標はありました。国道250の一本南の筋になりますが、周辺は虫籠窓のある旧家がたくさん並ぶ昔ながらの町並が残っています。近くの公民館の前に昔の「飾磨絵図」があったので、道標の位置を推定してみると姫路藩御茶屋(現NTT)の西側になります。姫路藩御茶屋の東側付近が当時の飾磨津です。

● 「飾磨絵図」によれば、当時の道筋は、道標正面にある通り「左そね /たかさご」です。現在では、NTTの南側は埋め立てられ右方向でも行くことができます。このことから道標は、埋め立て前の江戸期のものと推定できます。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「福本屋与七良 /松屋元吉」

 正面「左 そね /たかさご」

 左面「右 あぼし /むろつ」

 

飾磨区今在家の道標 (平成23年10月17日、追加)

● 飾磨区宮の道標から北西に伸びる飾磨街道を進みます。船場川に架かる思案橋を渡り、R250号線を横断し、津田天満神社前を通り、しばらく進むと交差点の手前に小さなロータリーがありますが、ここにこの道標はあります。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「あぼし道」

 背面「大正九年十月吉日」

 

飾磨区中浜町1丁目の道標 (平成23年10月17日、追加)

● 今在家の道標からさらに北西方向に進み、水尾川を渡ります。地図で確認すると渡しは現在の中浜橋の少し北になるようです。堤を下りてしばらく進んだ三叉路に西向きに道標がありました。「右」と「左」の文字は何とか判別できますがその下は風化が激しく文字は判読不能です。姫路市石造遺品銘文集にも文字は書かれていませんでした。ここから右は飾磨津や高砂方面、左は姫路方面になります。

● ここから街道は南西の方向にカーブします。少し進んだ所に「英賀城本丸之跡」の大きな石碑がありました。英賀城は、姫路市文化財資料によると、元々は赤松氏の居城があったと伝えられる地に、嘉吉3年(1443)白浜から移ってきた三木通近が新城を築き岩繋城と称していました。天正8年(1580)秀吉の攻撃を受けて落城しました。石碑は昭和35年に建てられています。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「右〇〇〇 /〇〇 道」

 正面「左〇〇〇 道」

 

飾磨区構(かまえ)真福寺南の道標 (平成24年2月9日 追加)

● この道標は、姫路市の「石造遺品銘文集」には記載されていませんでした。しかも南面と西面は周辺と密着しているために確認できませんでしたが、多分構4丁目の道標と大きさや案内の字体、文字が同じなので、記載内容も同じものと思われます。

● ここは飾磨道から少し外れ、亀山本徳寺から英賀保の亀山本徳寺廟所西山支坊(西山御坊)への道筋になります。この周辺は街並みも古く道路も複雑なので、このような道標が設置されたものと思われます。ここから西に向かうと奈良時代の条里制の跡が現在までのこっており、地図でも整然とした区画が確認できます。

●真福寺は英賀城落城後、英賀本徳寺(現在はない)の内徒や百姓により移つされたといわれています。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「左 かめやま道」

 正面「右 阿がほ道」

 左面「有志者  田口喜太次 藤本久雄 /藤本角次 河村栄三 /田中八次

    三木政市」

 背面「大正六年六月建之」(左面、背面は密着して確認できず、推定)

 

飾磨区構三丁目の道標 (平成24年2月9日 追加)

● 真福寺南の道標を西に向かった三叉路の北側に板状型の大きな道標がありました。年代の刻銘はありません。西山御坊を案内する道標になっています。

 

● 銘文(正面・南) 

 正面「左 かめ山道」  (西山御坊方向を指している) 

 

飾磨区構4丁目の道標 (平成24年2月9日 追加)

● 構3丁目の道標を北に向かった辻の電柱の陰にこの道標はありました。真福寺南の道標と同タイプの道標です。

● 「かまえ村」は「慶長播磨国絵図」に見られます。江戸時代を通して姫路藩領でした。その名の由来は英賀城の後園説(播磨鑑)や豪族の邸宅説などがあるようです。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「大正六年六月建之」

 正面「左 あがほ道」 

 左面「右 かめやま道」

 背面「有志者  藤本久雄 田口喜太次 /河村栄三 藤本角次 /三木政市

    田中八次」

 

 

―たつの市御津町から姫路市飾磨へ―

 

 たつの市御津町苅屋の道標(1) (平成22年12月19日、追加) 

● 国道250号線東釜屋の交差点から南東方向に細い道を入った三叉路にこの道標はありました。近くのおばあさんに、「室津への街道は東から来て、この道標を北に向かう道になる」こと、「同じ道標がこの東の苅屋公民館前にあったが、すこし北に移された」などを教えて頂きました。

 

● 銘文(正面・北)(1868年、この年9月に明治に改元)

 右面「慶応四年辰三月建之」 

 正面「左 ひめぢ 道」

 左面「右 むろ津 道」

(平成30年4月22日、追加)

● 現在では、「なぜここに道案内が・・?」と疑問符がつきますが、下の地図は明治31年測量のもので、ここに道標の推定位置を記入してみると、納得です。

  

たつの市御津町苅屋の道標(2) (平成22年12月19日、追加)

● 上の道標から東に向かうと苅屋公民館があり、この三叉路を北へ数メートル行くとまた鍵の辻になっています。この辻の東の建物に密接して道標がありました。先ほどのおばあさんが教えてくれた道標です。案内も設置年月も全く同じでした。

● 移設の際すべての面がよく見えるようにとこのような位置に設置したものと思われます。案内する方位が正確ではありません。公民館の前に設置されていたときは正面が西向きになっていたと思われます。ここから北へ向かうと「室津道の道標」の「たつの市御津町中島の道標」に、東に向かうと次の「姫路市網干新在家の道標(1)」に継ながります。

 

● 銘文(正面・南)(1868、たつ)

 右面「慶応四年辰三月建之」

 正面「左 ひめぢ 道」

 左面「右 むろ津 道」

  

網干区新在家の道標(1) (平成22年12月19日、追加)

● たつの市御津町から元川橋を渡ると姫路市になります。さらに中川橋、本町橋を渡り、網干の町並の入口付近にこの道標はありました。付近には境橋の一部が保存されています。その説明板によれば、道路拡張以前はここに堀割りがあり、その東側(新在家地区)は竜野脇坂藩領、西側(興浜地区)は丸亀京極藩領で、その堀割り(南北の道路)に架かっていた橋がこの境橋ということでした。

 

● 銘文

  西面「左 ひめぢ 道」

 北面「右 むろ 道」

  

網干区新在家の道標(2) (平成22年12月19日、追加)

● 上の道標からあぼし一番街という商店街を東へ通り抜けた広い道路との交差点の北東角に、電柱とカーブミラーに挟まれた格好でこの道標はありました。

 

● 銘文(正面・南西)

 正面「(左向き手形)志かま ひめぢ」

 左面「(右向き手形)いはみ むろ」

 背面「昭和三年九月建立 平松春太郎 /三田来吉」

 

網干区新在家の道標(3) (平成29年12月4日、追加)

● 網干神社南の新在家自治会館の玄関前にこの道標は建っています。ここから北の方角にある魚吹神社を案内しているものと思われます。魚吹神社の境内には建久7(1196年)に神宮寺として津宮山徳寿院が建てられています。現在は、徳寿院は魚吹神社の東隣になります。左面下部の名前はかなり鮮明に見えます。魚吹神社の前にも「あぼし是より 拾六丁」の道標がありますが、その道標の名前は判読が難しいのでここの名前を参照しました。

 

● 銘文(正面・北)(1838年、つちのえ・いぬ)

 右面「天保九年戊戌八月中旬」

 正面「津宮山 是より /拾六丁」

 左面「福屋 新次郎 /福地屋 六兵衛 /島屋 新兵衛」

  

大津区平松 大平橋東詰の道標  (平成22年10月11日、追加)

● 大津茂川に架かる県道421の大平橋の東詰にこの道標はあります。ここから東へ汐入川までの約2㌔ほどは旧街道らしい旧家や神社がありました。

● この道標には珍しく寄付の金額も記されていました。昭和二年三月には昭和金融恐慌が発生し、四月には神戸の大商社鈴木商店が倒産した年でもあります。そんな時期ですから貴重な寄付であったのだと思います。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「昭和二年四月建之」

 正面「右 しかま ひめじ /左 むろつ あぼし 道」

    下部「平松青年会(横書き)」

 左面「右 吉美村 /左 太田 /網干駅」

 背面「寄附 /金拾円 岡田孫冶」

 

大津区吉見の道路元標 (平成30年11月29日、追加)

● この道路元標は街道筋から少し外れますが追加掲載しました。国道250号線の吉見交差点から南に入ったあたりのお茶西公園近くの民家に密着していました。この公園には、かって林田藩の船奉行所や茶屋、蔵屋敷があったということで、その案内板が建てられていました。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「大津村道路元標」

  

広畑区本町の道標 (平成22年10月11日、追加)

● この道標は夢前川に架かる広栄橋の西の広畑区本町三丁目JA西広畑支所の前の三叉路にあります。民家のブロック塀の陰にあるので、東西の街道筋からは少しわかりにくい場所です。近くには造り酒屋や広畑天満宮もある古い家並みの町です。広畑天満宮の境内には、司馬遼太郎の文学碑や広畑出身の祖父福田惣八と父福田是定の玉垣も残っているようです。また、石柱には新日鉄広畑製鉄所長の名や天満宮の恒例祭に広畑製鉄所創業記念祭などがあるのをみると、やはりここは新日鉄の城下町でもありました。

● ここから広栄橋を渡り東に向かうと飾磨の思案橋の三叉路にでました。 また、「右 あぼし駅」の方向は新しい道路で所々途切れますが、北西に道路が延びていてJR網干駅の方に向かっています。しかし道標の立てられたころには、まだ山陽本線、山陽電車、龍野電気鉄道いずれも敷設されていなかったのですが・・・。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「左 飾磨港」

 正面「右 あぼし駅 /左 あぼし港 室津」

 左面「明治十七年五月 /施主 瀬尾孫次郎」

 背面「世話人 /岩田久平」 

  

飾磨区英賀連合公民館前の道標 (平成23年6月13日 追加)

● この道標は、飾磨道から北に外れた英賀連合公民館前の公園の入口にありました。形は角柱型の一角を削った変形五角形です。大正末から昭和初期の道標に多く見られます。同じ形の道標は英賀保駅前や網干区津市場などにもあります。

 

● 銘文

 東面 「北条捨松 酒井義郎 /金子善太郎 酒井為吉 /小林十蔵 結城 次」

 南面 「(右向き手形)志かま」

 南西面「飾磨郡英賀」(削られた一角)

 西面 「(左向き手形)あがほ駅ひめじ」

 北面 「大正十四年四月」

  

飾磨区英賀保村道路元標 (平成23年6月13日 追加)

● 飾磨道は広栄橋で夢前川を渡り、広畑区から飾磨区になります。渡し場は橋の少し南のようです。地図で確認すると渡し場付近から南東方向に細い道が続いています。この元標は英賀東2丁目交差点を渡った少し東の民家の塀に埋め込まれていました。

 

● 正面・南「英賀保村道路元標」