―西国街道の道標(3)―

(平成23年2月24日) 

 山陽道は、西宮から海岸線を離れ一路北上します。ここまで「山陽道」にこだわってきましたが、神戸市内や西宮市内の標識も西国街道となっていましたので、ここからは「西国街道」とします。

  

西宮市の西宮神社の道標 (←ここをクリックすると所在地を表示)

● 芦屋市打出の両街道合流地点から阪神電車のほぼ南側を東に向かって進みます。阪神香櫨園駅を過ぎた辺りで再び国道43号線に出ますが、その少し先が西宮神社になります。神社の南東角に国道43号線に面して燈籠型の大きな道標があります。西宮の庄屋の差添役(補佐役)たちのえびすさんへの献灯を兼ねた道標です。

● 神社の表大門は赤門と呼ばれています。慶長九年(1604)豊臣秀頼の寄進により再建されたもので、国の重要有形文化財に指定されています。西国街道は道標のすぐ北にあるこの赤門の前をしばらく東に進み、正念寺の角を左に曲がって北に向かいます。

● 右面  「西宮太神宮 左 京都 /大坂 道」

  正面・北「右 兵庫 /はり満 道」

  左面  「世話人 平内太郎右衛門 /真宜(さなぎ)喜三右衛門」

  背面  「寛政十一年巳未十一月吉辰」(1799、つちのと・ひつじ)

(↓下の写真をクリックすると拡大できます) 

 

西宮市役所内の道標 

● 再び西国街道筋に戻ります。街道からは少し西に外れますが、市役所と南側のアミティホールとの間の通路に自然石型の小さな道標がありました。昭和40年代の庁舎建設時に発掘されました。表記内容から元は北の大社村辺りにあったものが墓などの移転の際に紛れたのではないかとのことです。

● 隣の石柱は「六湛寺」とのみ書かれており、ここに寺があったことを示しています。今は何もありませんが、六湛寺町の町名が残されています。。この地の領主であった瓦林家の家臣が讒言により切腹の命を受け、その遺児はこの寺で処刑されたようです。前後の事情は複雑ですが、それは地方の豪族が足利、織田の政権下で如何に生き残りを図って来たかであり、中世の西宮の歴史そのものでもあります。小さな石柱ですが、大きな歴史が秘められています。

● 正面・北「右 甲山」

  左面  「左 越木岩村」

  

西宮市与古道町公園の道標 

● 西国街道は西宮神社の赤門から東に向かい正念寺の角を北にまがります。東川沿いに進むと与古道公園があり、その少し先にこの道標はあります。

● この道標は、ここから北西方向にある、神功皇后が三韓征伐の凱旋後創紀されたといわれる広田神社を案内しています。市内にはこのほかにも数か所に広田神社を案内する道標がありました。

● 正面・北「官幣大社廣田神社 是より /十四丁」

  背面  「明治三十一年六月」

  

西宮市柳本町の道標 

● 国道171の北側に国道とほぼ平行に斜めの細い道路があります。これが西国街道ですが、西宮中央運動公園で途切れます。京から兵庫方面に向かう街道として、古くは南西方向に芦屋市打出辺りまで直進していました。しかし、江戸時代初期に西宮の宿場が西宮神社の東側辺りに整備されると西国街道は運動公園辺りから南に向かうようになり、打出方面への街道は消滅したようです。

● この道標は、旧の西国街道筋で西からの旅人に広田神社を案内する方向に建てられています。文字は廣田神社の元祠官の揮毫によるものです。道標の作者が説明されているのは珍しいことです。

● 右面   「明治四辛未正月吉日」

  正面・南西「廣田社」

  左面   「廣田社」

  

西宮市中屋町の道標 

● ここも西国街道を少し外れ、中央運動公園の北の御手洗川に架かる橋の南詰にあります。大きな燈籠の手前に柳本町の道標と同じ元祠官の揮毫になる道標があります。「生日足日」の「日」は小さな文字になっています。日付けを干支で表現することもあるので、生は壬、足は兎に見えなくもないのですが、どちらにしても意味がよくわかりません。こちらの道標は西国街道を東から来る旅人に対して廣田神社を案内しています。 

● 右面  「廣田社」

  正面・東「廣田社」

  左面  「廣田社」

  背面  「明治三庚午歳十二月生日足日」

  

西宮市門戸岡田町の道標 

● ここは西国街道と有馬道との分岐になります。ここから左即ち北に向かうと有馬方面に行けます。この道標は正面が門戸厄神を案内していますが、この面のみ字体が異なるので、文久2年再建時に彫り直されたといわれています。門前は西となっていますが、現在の地図で確認すると北になります。

● 右面  「すぐ 京都伊丹池田 道 /左ハ参詣ちかみち」

  正面・南「(左向き手形)日本 /三躰厄神明王社」

  左面  「文久二壬戌冬再建 /すぐ西宮兵庫 道 /・・松井源兵衛 /・・中尾権兵衛 /・・播磨屋
       喜兵衛 /・・大和屋半兵衛」(1862、みずのえ・いぬ)

  背面  「是より門前まで西(左?)へ五丁 /左甲(中?)山荒神三田有馬 道」

  

西宮市大市西町の道標2基 

● 阪急電車の門戸厄神駅を過ぎた変則五差路の一角に2基の道標があります。大きい方の道標は門戸厄神を案内するもので、おそらく江戸時代中期のもののようです。小さい方は甲山神呪寺を案内する道標で、施主の折屋は大坂の篤志家で1740年頃の寄進と推定されています。また、道標の前の西国街道は古代山陽道とも重なっていますので、1300年前の道路ということになります。

● 門戸厄神の道標

  右面  「すぐ尼嵜大坂/左伊丹池田京 道」

  正面・東「日本 /三躰厄神明王 道 /是よりすぐ西へ 五丁」

  左面  「是ヨリ西宮江三十丁 /尼嵜生魚 上積中」

● 甲山への道標

  右面  「施主 大坂新町 /折屋徳兵衛 /ゑゐ」

  正面・東「すぐ加婦と山観音 /是より十五丁」

 

西宮市下大市東町の道標 (平成23年2月27日 追加)

● 上の2基の道標の50メートルほど南東の場所になります。この道標は、折損して近くの溝に放置されていたのですが、「西宮の道標」の著者宮崎延光氏により発見されここに設置されたと近くの説明板にありました。大坂あたりから守部の渡し(武庫川上武庫橋付近?)を越えてきた人たちに厄神を示す道標になっているようですが、地図で確認すると設置方向が合わないように思います。移設の際、道案内の三面が見える位置に設置したものと推測しましたが・・・。

● 東面「高木村 /津高平兵衛門」

  南面「すぐ 高木今津 道」

  西面「左 尼ヶ嵜大坂 道」

  北面「右 厄神明王 道」

  

西宮市門戸東町の道標 

● 西国街道を少し外れますが、阪急門戸厄神駅の北の厄神明王参道に燈籠とともにこの道標はあります。元はもう少し南の駅の近くにあったようですが、道路整備の際ここに移されたということです。 

● 厄神明王の由緒書によれば「弘法大師ゆかりの厄除で名高い門戸厄神は、正式には松泰山東光寺という高野山真言宗の別格本山です。弘法大師が自ら刻まれた明王像は三躰あり、それが「日本三躰の厄神明王」と言われています。高野山麓の天野明王と岩清水八幡宮とそれぞれ祀られましたが、現存するのはこの東光寺のみです。」とあります。 

● 右面  「武庫郡大社村森具 /施主 田中宇太吉」

  正面・南「日本 /三躰厄神明王 /是より五丁」

  背面  「大正十一年一月建之」

 

門戸厄神前の道標 (平成23年2月27日 追加)

● この道標は、門戸厄神の表門前の階段上り口のところにあります。表記の距離から見ると近くから移設されたものと思われます。

● この階段は「男厄坂」といわれ42段あります。1段上るごとに厄が落とされるということで多くの厄年の人たちがお参りに来ているようです。ちなみに33段の「女厄坂」は中楼門の下にありました。

● 右面  「是より一丁」

  正面・東「 日本 /三躰やく志ん王」

  背面  「願主 越木岩」

 

西宮市若山町の道標 (平成23年2月27日 追加)

● この道標も西国街道を少し外れます。下大市西町の2基の道標から東に進むと、下大市東町の道標になります。さらに東に進み国道171号線を横断したところの水路の上にこの道標はありました。大坂、尼崎辺りから門戸厄神への参詣者のための道案内です。

● 正面・東「すぐ 厄神明王道」

  左面  「すぐ 尼大坂道」

  背面  「西宮 /宮本八兵衛」

  

西宮側、髭の渡し 

● 門戸厄神駅を過ぎたあたりからは、西国街道は複雑になっていますが、所々に「旧西国街道」の標識が取り付けられていました。武庫川の手前に野球などで有名な報徳学園があり、その前を通るとすぐに武庫川の堤防に出ます。この辺りが「髭の渡し」になります。

● 髭の渡しは、明治42年近くに甲武橋が完成するまで使用されたということです。説明板によれば、「渡しは、対岸尼崎側の常松の春日神社付近への渡しで、近隣の五ヶ村で管理されていた。渇水期は徒行渡し、増水時は肩車か輦台などを使用していた。文政八年(1825)渡船使用許可願を役所に申し出て許可されている。大名や武士、僧侶は無料であったが、参勤交代の大名の中には関係村に心付けを渡していたものもあったようである。」とありました。

  

尼崎側、髭の渡し (平成23年2月28日 追加)

● 尼崎市の説明板によれば、西国街道沿いの西昆陽村に髭をはやした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と名付けられたといわれている、とありました。また、西宮市側の説明板では、尼崎市常松の春日神社辺りまでの渡しであったとありました。春日神社は堤防の東側ですが、地図で確認するとこのあたりは水路が多くあります。当時の川幅はもっと広かったのかもしれません。

  

伊丹市寺本1丁目の道標 (平成23年2月28日 追加)

● 西国街道は、髭の渡しから国道171号線の西昆陽交差点へ出てそのまま国道を進みますが、昆陽里交差点の手前で伊丹市になります。街道はこの交差点を越えてから東に入る細い道になります。最初の交差点にこの道標はありました。妙見は川西市と大阪府能勢町にまたがる妙見山にある真如寺境外の能勢妙見宮をまた、中山は宝塚市の西国24番札所大本山中山寺をそれぞれ示しています。

● 正面・南「(地蔵立像)左 妙見 /中(山)

  

伊丹市、崑崙山昆陽寺 (平成23年2月28日 追加)

● 寺本町の道標から少し東に向かうと「閼伽井の井戸」と書かれた小さな公園があります。閼伽井(あかい)は仏前に供える水をいい、昆陽寺付近の地を閼伽井と読んでいたことからこの井戸が「閼伽井の井戸」と名付けられた、と説明板にありました。

● この公園から北に向かうと昆陽寺の山門に出ます。昆陽寺は崑崙山昆陽寺といい、天平五年(733)僧行基によって開創されたといわれています。行基が畿内で創建した49院の一つです。境内には行基堂もあります。天正七年の織田信長と荒木村重との戦いの際、兵火に会い、一山の堂塔を焼失しました。山門は江戸時代中期に西国街道に面して建てられ、その左右に広目天、多聞天の立像が安置されています。

  

伊丹市昆陽8丁目の標識 (平成23年2月28日 追加)

● 昆陽寺からしばらく国道171号線沿いに北東へ進み昆陽8丁目で横断すると、写真の西国街道の標識があります。ここからまた細い道路になります。

● 伊丹市内もこうした標識や説明板がよく整備されていました。また、街道沿いには古い民家もかなり残っています。

 

伊丹市昆陽6丁目長勢橋の碑 (平成23年2月28日 追加)

● 西国街道沿いの長勢児童公園に小さな石碑「長勢橋の碑」があります。近くの説明板によれば、「元治元年(1864)蛤御門の変で敗走した長州勢が、ここで踏み止まって戦ったといわれています」とありました。西国街道の一つの歴史を物語る碑として紹介しておきます。

  

伊丹市稲野小学校前の道標 (平成23年2月28日 追加)

● 長勢児童公園を東に進むと稲野小学校前に出ます。この校門の前にこの道標がありました。元は少し西の有馬道との交差点にあったそうです。有馬道は複数ありますが、ここでの有馬道はこの少し西の南北の細い道です。この前の西国街道はやや東北に向かっているので、正面は南東になります。 「小濱」は中山寺の手前、中国道宝塚インターの南側辺りになります。 

● 右面  「すぐ 西之宮」

  正面、東「すぐ 中山 /小濱」

  左面  「すぐ 京都」

  背面  「すぐ 尼ヶ崎 /大坂」

  

伊丹市大鹿消防団前の道標 (平成23年2月28日 追加)

● ここも西国街道と有馬道の交差点です。南北の道路が有馬道です。このまままっすぐ北に進めば中山寺や有馬温泉に向かうことを案内しています。この辺りは真新し立派な消防団の建物があります。すぐ近くには「旧西国街道」と書かれた大きな看板もあります。

● 右面  「すぐ 西宮」

  正面・南「すぐ 中山 /ありま」

  左面  「すぐ 京」

  背面  「すぐ 大坂」

  

伊丹市、有岡城跡 (平成23年3月6日 追加)

● 西国街道からは少し外れますが、JR伊丹駅のすぐ前に有岡城跡があります。この城は、摂津国守護荒木村重の居城として、天正二年(1574)に大改修され、伊丹城から有岡城に改称されました。荒木村重は、織田信長に反旗を翻し1年近く戦いますが、天正七年(1579)ついに落城、あとに入った池田之助が天正十一年(1583)美濃へ転封になり、その後廃城となりました。明治時代になって付近に鉄道が敷設され土塁などが少しづつ削られました。昭和50年から発掘調査がおこなわれ昭和54年に国史跡の指定を受け、一部が保存され現在公園として整備されています。司馬遼太郎の「播磨灘物語」に黒田官兵衛が、1年近くこの城の牢に幽閉されることとなる場面がありました。播磨との因縁を感じます。

● また、その城下町、伊丹郷は酒造りの町として発展します。右の写真の建物は延宝二年(1674)に建てられた国指定重要文化財「旧岡田家酒蔵」です。

 

伊丹市春日丘、和泉式部の墓 (平成23年3月6日 追加)

● 西国街道に戻ります。大鹿の道標から東に進むと春日丘辺りで伊丹坂にでますが、この坂の途中に「→和泉式部の墓」と書かれた標識がありました。標識にしたがって住宅街の中に進むと小さなお堂の中に五輪塔があり、和泉式部の墓との説明板がありました。和泉式部は平安時代の人ですが、五輪塔は鎌倉時代後期の造立らしいと説明板にありました。

● 和泉式部の供養塔は各所で見られます。加古川市野口の山陽道にも立派な五輪塔がありました。

  

伊丹市北伊丹の辻の碑(いしぶみ)及び道標、2基 (平成23年3月6日 追加)

● 伊丹坂を下り、広い道路(県道13)を横断した初めての交差点辺りにこの道標と辻の碑があります。この交差点は西国街道と多田街道の辻になります。

● 「辻の碑」は自然石型の道標で、伊丹市の史跡に指定され、立派なお堂に納められています。碑の表面は風化が激しく中央の一行「從東寺拾里」(とうじより十里)しか読み取れません。しかし、寛政10年(1798)に刊行された「摂津名所図会」によるとその下には各地までの距離が書いてあると、伊丹市の資料にありました。四方の国境からそれぞれ七里で、ここが摂津の中心地ということになります。だれがいつごろ建てたのかはよくわかっていません。

● また、前の道標は川西市多田院多田所町の多田神社を案内する道標です。

● 辻の碑

 「距関戸七里」(山城国との境、京都府大山崎町にいたるところ七里の意) 

 「距須磨七里」(播磨国との境、神戸市須磨にいたるところ七里の意)

 「距天王七里」(丹波国との境、三田市母子にいたるところ七里の意)

 「距大小路七里」(和泉国との境、堺市大小路にいたるところ七里の意)

● 前の道標

  正面・南「従是多田御社一里半」

  背面  「元禄十四辛己歳十一月 松田氏信福」

  

伊丹市の猪名川の渡し (平成23年3月6日 追加)

● 辻の碑から東に向かい、JR福知山線の踏切を越えると猪名川の西岸に出ます。対岸は大阪空港の北端になります。このあたりが猪名川の渡しだったようですが、それを示す標識等は何もありません。現在は猪名川に架かる軍行橋を渡ると対岸は伊丹市下河原になります。下河原は江戸時代からの村名で摂州川辺郡に属していました。ここにある淨源寺の銀杏は西国街道の一里塚的な存在であったようです。