―中国街道の道標―

(平成23年4月10日) 

 中国街道(西海道、尼崎道とも呼ばれている)は、西宮市与古道町付近で西国街道と分岐し武庫川をこえ、尼崎市神崎町で神崎川を渡り大阪市内に入ります。大阪市内の経路は、十三で淀川を渡り、中津、梅田付近を通り、難波橋を渡り、北浜を通り、高麗橋に至る街道です。

 今回は高麗橋の東詰にある大阪府の「里程元標跡」を終点としました。この橋を東に進むと大坂城の大手門になります。

  

西宮市小松南町岡太神社の藩境界石 (平成23年2月24日 追加)

● 西宮神社前から一旦中国街道に向かいました。正念寺の少し北で大坂方面に向かう街道、中国街道と分岐します。その分岐地点から約5㌔くらい東の武庫川の手前に岡太神社があります。その境内に藩境界石がありました。

● 江戸時代の尼崎藩領は川辺、武庫、菟原、八部の四郡にまたがって、天領や旗本領や他の藩領が複雑に入り組んでいました。そのため尼崎藩はあちこちにこのような碑を建てています。現在も西宮、尼崎などの五か所ほどに立派な石柱が残っています。

● 岡太神社は、893年この地を開墾した広田地区の岡司氏が水害などを防ぐために広田神社の末社として創建した古い神社ですが、阪神大震災で社殿は崩壊し再建されました。

 

● 銘文

 東面「従是東尼崎領」

 南面「従是東尼崎領」

 西面「従是西尼崎領 /他領 入組」

  

尼崎市大庄西町、雉(きじ)ケ坂 

● 武庫川橋を渡りすぐに左に折れると、街道は下り坂になります。この坂の途中に尼崎市の説明板がありました。

● 要約すると「天正10年(1582)、秀吉の中国大返しの際、岡太神社付近に到着すると一農夫の注進があり、対岸の武庫川を見るとまだ夜明けに間があるのに竹やぶからあわただしく雉が飛び立つのが見え、異常を悟った一行は進路を西国街道西昆陽方面に替え、無事主君信長の無念を晴らすことができたということです。後に太閤となった秀吉は、この付近の雉の捕獲を禁止し、土地の人には田と池を与えたといわれています。そのため地元では今でもこの坂を「雉ケ坂」と呼んでいます。」とありましたが、史実としては?

  

尼崎市大庄小学校内の道路元標 

● 中国街道を東に進むと大庄小学校に突当たり一旦途切れます。校門が開いていたので中に入ってみると正面に「大庄村道路元標」がありました。

  

尼崎市内の神社 

● ここに三つの神社を載せましたが、中国街道筋にあるのは、琴浦神社のみです。 

● 琴浦神社、祭神は嵯峨天皇の皇子である源融公(822~895)です。彼は京都

  六条河原院に陸奥の塩釜に模した庭園をつくり、この付近から毎日水を運んで塩を

  焼かせたと伝えられています。また、付近の景色が他より勝れていたので、異浦

 (ことうら)と呼ばれていたそうです。こうした伝承から平安初期の京都貴族との密

  接な関係が推定できます。

● 七松八幡神社(現地の説明板での名称)は、寛仁三年(1019)、この地にあっ

  た一本松にさらに六本の松が移され、七本松八幡宮と改称した。後に荒木村重によ

  り七松城が築かれたが織田信長に敗れ、家族も含め多数の犠牲者がでたということ

  です。境内には真新しい「七松城落城なくなられた武士及び家族/故六百二十餘人

  之碑」と書かれた碑がありました。

● 尼崎戎神社は、醍醐天皇の御代(898~930)以前の創建といわれています。

 「尼のえべっさん」は、海の神様、漁業航海を守る神様として崇拝され、尼崎の発展

  とともに商売繁盛の神様としても知られるようになりました。七松八幡神社から神

  田南通の道標を探しに行って道に迷い偶然この神社に着きました。 

  

尼崎市神田南通の道標 

● 中国街道筋に立つ道標です。下部はかなり埋没していますが、尼崎市の資料では、台石を持った立派な道標ではないかと書かれていました。

 

● 銘文(1846年、ひのえ・うま)

 東面「発起主 竹屋儀右衛門 /世話元 卯之助」

 南面「左 西ノ宮兵庫」

 西面「右 大坂道」

 北面「弘化三丙午歳 /八月〇建之 /世話人(斜め横書き)難平 梶宗 /

    道善 綿源 /玉伊 綿五 /東新田太蔵 /大物豆九」   

  

尼崎市汐町、貴布禰神社 

● 街道筋の神社ということで寄ってみました。正門は国道43号線に面して建っています。ここの北東の長洲中通に鎮座する貴布禰神社が元社になりますが、海人の守護神であった当社の方が発展し、尼崎の一宮として崇敬されています。毎年8月に行われる「だんじり祭り」が名物になっているようです。元社はこの後通りましたが、工事中のためかブルーシートで社殿全体が覆われ、入口の鳥居も鉄骨で支えられているといった状態でした。(写真右) 

  

尼崎市築地の街並みと尼崎城跡 

● 貴布禰神社から国道43号線をこえ、戎橋を渡ると築地本町になります。

● 戦国時代に尼崎町と呼ばれていた地域に、元和三年(1617)に藩主となった戸田氏鉄が翌年に尼崎城の築城を始め、同時に、寺院を一か所に集めて寺町をつくるなど城下町の再編成を行いました。青山氏の時代になって城の南の葦のはえた二つの島にまたがって町づくりを行い、寛文四年(1664)に築地町が完成しました。平成七年一月の大震災でこの地区は液状化の大きな被害を受け復興町づくりが行われました。

● 築地本町の東にある大黒橋を渡り北に向かうと尼崎城跡になります。 

  

尼崎市大物町、大物主神社 

● 往古の尼崎の海岸線は現在よりも北にありました。神崎川と武庫川に挟まれた三角州で、海ヶ崎、海士ヶ幸と呼ばれていましたが、水害の地であり、海運の要衝であるとともに難所でもありました。「平家物語」にも語られていますが、義経、弁慶ら主従が静御前とも別れ、大物浦から船出し、九州に向かいましたが、大風で戻されてしばらくこの神社に隠れていたということです。境内には「義経弁慶隠家跡」の碑があります。しかし、当社は尼崎城の鬼門の方角にあったので、江戸時代に当地に移ったとの資料もあるので、真偽のほどはわかりません。創建は不明です。主祭神は、大物主大神ですが、1630年頃には宗像三神も合祀されています。

  

尼崎市長洲中通、大門緑地公園の道標 

● 中国街道は大物主神社から北に向かい、国道2号線をこえると五叉路に差し掛かります。一番手前の細い道が中国街道です。少し進むと住宅街の中に貴布禰神社元社があります。その西の細い道を北に向かうと、大門川緑地公園に出ます。その公園の西端に大きな道標がありました。市の資料を見ると元の位置は中国街道と尼崎・伊丹道の交差点、長洲字杭ヶ本にあったとありました。町名が変わっているので元の位置が確認できませんでした。先ほどの五叉路あたりかな?

 

● 銘文(1808年、つちのえ・たつ)

 東面「左 尼崎西宮」

 南面「右 大坂京 /左 伊丹有馬 道」

 西面「右 尼崎大坂」

 北面「文化五年戊辰三月吉日」  

  

尼崎市常光寺、皇大神社 

● 大門川緑地公園から北東に街道を進みます。常光寺1丁目に皇大神社と浄光寺が向かい合ってあります。● 皇大神社は、本殿棟札によると、天長元年(824)空海上人が浄光寺創設の折に勧請したとされています。正平年中(1346~69)赤松則裕が当地を平定し、守護の佐々木秀詮がこの地に淨光寺城を築きましたが、天正七年(1579)の織田信長と荒木村重の戦火の折や天正10年(1582)羽柴秀吉が明智光秀を追って京へ上る際に、城とともに全焼しました。その後、元禄13年(1700)村人たちにより社殿が造営されました。現在の本殿と北の鳥居はその当時のものです。 

● 道路の向かいにある浄光寺(住所は常光寺)は、補陀洛山浄光寺といい、真言宗の寺院です。天長六年(829)空海上人の創建と伝えられています。かっては七堂伽藍を備えた大きな寺院でしたが、皇大神社と同様の戦火にあい、焼失しました。昭和に入り前に公道が整備され境内は大きく削られました。皇大神社は浄光寺の一角にあったが、明治の神仏分離の折に分れた、と浄光寺側の説明にありました。

  

尼崎市西川、西川八幡神社の藩境界石 

● 西川2丁目の住宅街の中に西川八幡神社があり、その境内に尼崎藩の境界石がありました。尼崎藩領の境界石を見たのは岡太神社に続き2本目です。

● 説明板によると「元は字樋ノ口の中国街道筋にあったものと考えられています。同村は、東は神崎村(藩領)、西は旗本青山知行地、南は大和国小泉藩領に接していました。明和六年(1769)以降に整備されたものと思われます。」とありました。

 

● 銘文

 東面「從是東尼崎領」

 西面「從是西佗領」(「佗」は「他」の異体字)

 北面「從是北佗領」

 

尼崎市神崎町の地蔵 

● ここは西川八幡神社から北に向かった住宅街の中で、有馬街道の道筋になります。大阪方面から有馬温泉へ行く「有馬街道」は神崎辺りから二つのルートがありました。一つは神崎から北上して藻川沿いに猪名寺・伊丹に至る本道と、次屋・下坂部・久々知・上坂部・塚口を通って昆陽に至り、宝塚市内で本道に合流するコースです。この地蔵の位置は二つ目のルートのようです。

● 道標は祠の中にあるので東面しか見ることができませんが、尼崎市の資料によると、下記の通りです。施主の神南邊隆光の道標は尼崎市内にほかにもあるそうです。

 

● 銘文

 東面「(地蔵坐像)右 伊丹中山 /左 尼崎西宮」

 南面「南無阿弥陀仏 隆光」

 北面「左 大坂 施主堺 /神南邊」 

  

尼崎市神崎町の金毘羅宮燈籠 

● 地蔵の道標から少し東に向かうと神崎川の堤防に出ます。よく整備された緑地帯に大きな燈籠があります。● 尼崎市教育委員会の説明を引用します。「金毘羅大権現は、讃岐国の金刀比羅宮に祀られた海上の守護神で、早くから船乗りの信仰を集めていました。神崎の津は、都と西海を行き来する船と人々でにぎわっていました。この石燈籠は、航海の安全を祈念し、灯台の役割をもつものです。願主岸田屋冶兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く人々から寄付が集められ、文化元年(1804)頃建て替えられたものです。台石にはそれらの人たちの名が刻まれています。この燈籠は、船着き場に近い堤防の上にありましたが、堤防工事のため現在地に移築されました。」 

  

神崎川を渡る 

● 燈籠の南の神崎橋で神崎川を渡ると大阪市に入ります。写真は尼崎側からのものですが、渡ったところに大阪市の「神崎橋」の説明板がありましたので、以下要約します。

● 「神崎橋は南北朝の戦乱の中、神崎の地をめぐる争いのため正平17年(1362)焼け落ちました。そののち600余年を経た大正末期まで架橋されることはなく、神崎の渡しがそのかわりを担っていた。 大正13年西成郡のころ鋼材を使った神崎橋がかけられた。橋面は丸太を並べ砂利が敷かれたもので、市内の橋に比べてかなり貧弱なものであった。昭和28年に架け替えられた神崎橋は、橋梁技術界では名の知れた日本初の合成桁橋である。現在の神崎橋は、高潮対策による嵩上げの必要性と道路整備の目的から昭和53年に架け替えられたものである。」 

  

大阪市淀川区加島の寺社 

● 神崎橋を渡るとヤマダ電機の大きな建物があります。その東の細い道を北に向かうと長慶山富光寺という真言宗のお寺とその先に香具波志(かぐはし)神社という珍しい名を持つ神社がありました。

● 富光寺(ふっこうじ)は、摂津国八十八ケ所の第七番霊場でもあります。その縁起は、大化年間(645~50)天竺より飛来した法道仙人が、当地の人々の懇願により阿弥陀仏を刻み一宇に建立したのが始まりといわれています。建永二年(1207)法然上人が土佐に配流される途中、当寺に一泊し、神崎の遊女に法話を聞かせたこと、貞和四年(1348)楠木正成が佐々木秀詮と一戦を交えたとき、当地に本陣を置き不動尊に祈念し、勝利を得たことが伝えられています。また、天文十年(1541)三好長慶が三津屋城を拠点とし、当寺も支配したことから現山号を名乗るようになり、朱印地一町八反歩を有する寺院であったそうです。

● 香具波志神社は、社伝によれば天徳三年(959)の創祀です。香具波志の名は孝徳天皇が有馬温泉へ行幸の途中、当地を通った際「かこはしや此花いもみせぬかもやこの花」と詠まれた御製に由来しています。南北朝時代に神崎川を挟んで両朝が戦いを繰り返し、その折楠木正儀(正成の三男)が戦勝を祈願し勝利を得たと伝わっています。戦国時代には三好長慶が当社に朱鳥居一基を奉納しており現在も沓石が残っています。また、江戸時代の国文学者上田秋成も安永二年(1773)から3年ほど居住しています。本殿は一度火災で焼失し、文久三年(1863)に復旧しましたが、平成七年の大震災で崩壊し、現在では再建されています。 

  

大阪市十三の渡し 

● ここは十三大橋の北詰になります。この辺りに中国街道の渡しの乗り場があり、舟を待つ人でにぎわっていたそうです。明治11年に十三橋という木橋ができたために渡しはなくなりました。さらに、明治42年に完成した淀川の大改修で川幅が大きく広がったため、川の南北の乗り場は川底となってしまいました。 

  

大阪市十三大橋南詰の道標 

● 十三大橋を渡った右側の堤防に大きな道標がありました。大正九年とありますので比較的新しい道標です。この後十三小橋を渡り市街地に入ります。

 

● 銘文

 東面「往来安全(右向き手形)池田 四里 /伊丹 二里半」

    台石東面「(左向き手形)高麗橋 一里」

 南面「十三橋 /南詰町 親友會 右 長柄 二十丁 /左 傳法 壱里」

 西面「大正九季庚申三月建之 /発起人(横書き)會長 深谷熊吉 /

    副會長 田邊芳松 /幹事(14名の氏名あり )」

 北面は道標を建立した経緯らしい文章が詳しく書かれています。 

  

大阪市内の街並み 

● 十三から中津に向かい、市街地に入りますが、日没も迫り中国街道の詳細がわからないので、推測で歩いてみました。市街地は立体交差も多く、疲れた足には階段はこたえます。梅田に近づくにしたがって人通りも多くなります。

● 神山交差点の南の道路の中に龍王大神がありました。この辺りは太融寺の境内であったそうです。市街地の開発に伴い道路になり、龍王大神が祀られている大銀杏も伐採されることになりました。その後銀杏の伐採に関わった人が次々に亡くなり、銀杏に棲みついた己(み)さまの祟りということになり、伐採は中止となり今に至る、ということでこのように道路の中に残ることになったようです。この龍王と対になる形で白龍社が太融寺にはあるそうです。 

  

大阪市北区難波橋 

● 神山交差点から南へ進むと堺筋に出て、難波橋を渡ります。難波橋は、旧淀川である土佐堀川、堂島川の二つの川に架かる大きな橋です。最初の橋は行基によって架けられたとも言われています。江戸時代には天神橋、天満橋とともに浪花三大橋と呼ばれ、「浪花橋」が一般的だったようです。明治9年に架け替えられましたが、このとき中之島が上流へ拡張されたため、橋は中之島を挟んで南北に分けられました。明治45年に架け替えられ、昭和50年に大改修が行われて、現在に至るそうです。また、橋の四か所には狛犬を模したライオン像が設置されています。左側が口を開いた阿形像、右側が口を閉じた吽形像です。 

  

大阪市中央区高麗橋

● 高麗橋は、大阪城の外濠として開削された東横掘川に架かる橋で、慶長九年(1604)には擬宝珠を持つ立派な橋になっていたそうです。橋の名は、古代朝鮮使節団を迎えるために造られた迎賓館に由来しているなど諸説があります。高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店、三井両替店をはじめ様々な店が立ち並び、人の往来が絶えなかったようです。そのため橋の西詰には幕府の高札も立てられていました。江戸時代には公儀橋として重要視され、明治時代には里程元標が置かれ、西日本の主要道路の距離計算の起点となっていたようです。明治3年にイギリスから輸入された鉄橋に架け替えられ、現在の橋は明治45年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋です。 

  

高麗橋東詰の里程元標 

● 江戸時代の里程計算の起点は、ここ高麗橋の東詰にあり、中国街道、京街道、紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の起点でもありました。明治9年道路の制度公布により引き続き里程計算の起点となり、ここに「里程元標」が立てられました。現在の道路元標は昭和27年の新道路法成立のとき、梅田新道の交差点の北西角地に設置されています。

● 昔の距離の起点はいずれも橋なのでしょうか、東京は日本橋、神戸は相生橋(現在は元町商店街の西)に設置されていました。「兵庫縣里程元標」は「山陽道の道標(2)」にあります。 

  

大阪市北区の梅田新道 (平成23年4月10日 追加)

● 高麗橋から梅田へ帰る途中でカメラに納めましたが、新しい道路元標のことは後日知ったので写真にはありません。

● 梅田新道は、梅田から淀屋橋の方角に向かって存在した道路ですが、現在は交差点や近くの銀行の支店名にその名を残すのみとなりました。ここは、国道1号線の終点であり、国道2号線の起点でもあります。また、和歌山方面への国道26号線、津方面への国道163号線(門真、木津川経由)、国道165号線(大和高田経由)の起点であり、四日市方面からの国道25号線、京都府宮津からの国道176号線の終点でもあります。現代の西日本道路の主要拠点となっています。

 

大阪市道路元標 (平成24年10月8日、追加)

● 横には次のような説明板がありました。

● 「大阪市道路元標は、旧道路法(大正8年)の制定により、大正11年中之島の大阪市庁舎前に設置されたのがはじまりで、それ以前は明治9年高麗橋東詰に建てられた里程元標がその役目を果たした。

 その後、新道路法(昭和27年)が制定され、市内を通る国道の起終点が梅田新道に定められたのに伴い、昭和28年道路元標もこの地に設置された。

 このたび一般国道2号線拡幅工事に際して、道路元標を新しく築造したが、黒御影石の銘は昭和28年当時のものをそのまま用いた。昭和57年4月」

 

●   台石正面・北東「大阪市道路元標」

  台石北西面  「一般国道

           1号    東京都 → 大阪市   終点

           2号    大阪市 → 北九州市  起点

           25号   四日市市 → 大阪市  終点 

           26号   大阪市 → 和歌山市  起点

           163号  大阪市 → 上野市   起点

           165号  大阪市 → 津市    起点

           176号  宮津市 → 大阪市   終点 」