ー中山道の道標(6)ー

(平成26年5月16日)

 彦根市の鳥居本宿から摺針峠をこえて、番場宿、醒井宿の中山道と米原駅周辺を歩いてみました。この間の街道筋は家並みも古いものが多く残されておりました。また、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠などの説明板もよく整備されており、当時の様子がわかりやすくなっていました。

 

鳥居本宿の本陣跡と商家跡

● 鳥居本駅前の国道8号線を横断して50㍍ほど東に進むと旧中山道になります。今日はここを左折して北に向かいました。

● 左折してすぐの右側に「鳥居本宿旧本陣寺村家」の説明板があり、その前、道路の反対側には「合羽所木綿屋」という昔の商家の建物があります。

(地図は本陣跡の位置を示す)

 

鳥居本宿の赤玉神教丸有川家

● 中山道を北に進むと三叉路になりますが、その突き当りに立派な建物があります。ここが万治元(1658)年創業の赤玉神教丸(和漢健胃薬)本舗、有川家です。説明板によると、有川家の先祖は鵜川を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で有川姓を名乗るようになりました。近江名所図絵に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。現在の建物は宝暦年間(1751~64)に建てられたもので、右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となっています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「史跡名勝天然紀念物保存法ニ依リ /

    史蹟トシテ昭和十年十一月文部大臣指定」

 正面「明治天皇鳥居本御小休所」

 左面「文部大臣男爵荒木貞夫謹書」

 

街道のモニュメント

● 彦根市に豊郷町方面から入る葛籠町にも同じようなモニュメントがありました。北へ行く人には 「またおいでやす」と、北から来る人には「おいでやす /彦根市へ」と書かれています。 

 

中山道の案内標柱

● モニュメントの少し先で国道8号線に出ますが、その合流地点に比較的新しい中山道の案内の標柱があります。ここは彦根市鳥居本町と下矢倉町の境界になります。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「昭和五十四年十一月」

 正面「右中山道」

 

下矢倉町、北國道と分岐の道標

● 国道8号線に架かる矢倉橋を渡り、右折して矢倉川沿いに進むと左手に真新しい道標があります。最近新たに設置されたものか復元されたものか定かではありませんが、ここが中山道と北國道の分岐の様です。

● 右の細い道は中山道で、これから摺針峠を越えて番場宿へ向かいます。左は北国街道で、昔は湖岸に沿った道であったようですが、現在は国道8号線に出て米原方面に向かいます。重要な分岐点の道標ですから、この上に火袋くらい乗っていたのではと想像したくなります。

 

● 銘文(正面・南) 

 右面「右 中山道 摺針 /番場」

 正面「左 北國 米原 /きの本 道」

 左面、背面「下矢倉町」

 

下矢倉町の道標

● もう一度、彦根市下矢倉町に戻ります。国道8号線から摺針峠へ分かれる道の入り口に、摺針峠の頂上にある望湖堂を案内する大きな石碑が建っています。その石碑の20㍍ほど西で、舗装道路から旧中山道が分岐しています。「←中山道」と案内のある旧道を進みましたが、前日の雨でかなりぬかるんでいたので舗装道路を歩くことにしました。頂上直前では、手摺りや階段が整備されていたのでその山道を通ってみました。

 

● 銘文(正面・北西)

 正面「舊中仙道(右横書き)

    明治天皇御聖跡

    磨針峠望湖堂

    弘法大師縁の地 是より山道八百米」

 背面「昭和五十二年五月 /彦根市長 井伊直愛」(いい なおよし)

 

摺針峠頂上、望湖堂跡

● 摺針峠の頂上(標高190㍍)は神明寺ですが、その入り口に望湖堂跡の説明板があります。周辺には数軒の民家もあります。説明板の内容は次の通りです。

「江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら、「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休所御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七(1795)年八月に奉行宛てに連署で望湖堂に本陣まがいの営業を慎むよう訴えていることからも推測される。この望湖堂は、往時の姿を留め、参勤交代の大名や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、平成3年の火災で焼失したのが惜しまれる。」

● また摺針峠には、弘法大師に因む逸話が残されています。

「道はなお学ぶことの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」

その昔、諸国を修業して歩いていた青年僧が挫折しそうになって、この峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨くのに出会います。聞くと、一本のきりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのときハッと悟った青年僧は、自分の未熟さを恥じ、修業に励み、のちに弘法大師になったと伝えられています。その後、再びこの峠を訪れた大師は、摺針神明社に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝えられています。こののち、峠は摺針(磨針)峠と呼ばれるようになりました。(彦根市観光協会HPより)

 

● 銘文(正面・東)

 右面「史跡名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟 /

    トシテ昭和十一年五(?)月文部大臣指定」

 正面「明治天皇磨針峠御小休所」

 左面「昭和十八年三月二十五日建設」

 

磨針峠の一里塚跡

● 望湖堂跡から坂を下った民家のはずれに、「平成二十三年建立」の「磨針一里塚跡」の碑がありました。

 

摺針峠三叉路の道標、2基

● 一里塚跡の碑から緩い下り坂になります。名神高速道路の手前で三叉路になりますが、ここに2基の比較的新しい道標がならんでいました。中山道は、ここから左にカーブし、名神高速道路に沿って北に進み番場宿へ向かいます。

 

● 右の道標銘文(正面・西)

 右面「  中山道」

 正面「左 中山道」

 左面「右 中山道」

● 左の道標銘文(正面・西)

 右面「中山 鳥居本」(この辺りの住所は彦根市中山町となっている)

 正面「摺針峠 彦根市」

 左面「番場 醒井」(JR駅名は「醒ヶ井」、町名は「醒井」となっている)

 背面「昭和五十年三月 樋口甚吾」

 

小摺針峠をこえる

● 三叉路の道標から左にカーブし名神高速道路に沿って北東方向に進むと再び登り坂になります。高速道路のトンネル付近が頂上になりますが、この辺りが小摺針峠で、彦根市中山町と米原市番場の境界です。伊吹山を正面に見ながら進むと集落の入り口に「中山道 /番場」と書かれた大きな石碑がありました。

 

鎌刃城跡の案内標識

● 番場宿に入ると、数か所に鎌刃(かまは)城跡の案内標識や説明板を見かけました。中山道の右手(東)の標高384メートルの山頂に城跡があり、平成10年より発掘調査が行われて、石垣など当時の様子が明らかになったようです。

● 最初は、鎌倉時代箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築かれたと伝えられています。戦国時代この辺りは、江北と江南のはざまにありました。城主堀氏は元亀元(1570)年浅井氏から織田氏の家臣となっていますが、姉川の合戦後に改易となり、その後廃城になったようです。「信長公記」の巻四、元亀2年の項に5月6日「箕浦の合戦」として、浅井氏率いる一揆勢に攻められた堀氏、樋口氏が長浜の木下藤吉郎に助けられたことが記されています。鎌刃城の名称は記載されていませんが、この周辺で攻防戦が行われたことを記しています。

 

浄土宗本山蓮華寺

● 番場宿の中ほどで「南北朝の古戦場 蓮華寺」「瞼の母番場忠太郎地蔵尊」などと書かれた大きな看板が目に止まりました。ここを右に折れて名神高速道の高架をすぎると蓮華寺の前に出ました。境内には勅使門や本堂のほかに土肥三郎元頼公(この地の領長)の墓、一向上人(当寺院の開山上人)の御廟、北条仲時以下四百三十余名(南朝軍に追われて自刃)の供養塔、番場忠太郎地蔵尊など数多くの史蹟があります。

● 本堂裏の「番場忠太郎地蔵尊」は長谷川伸により、「親をたづぬる子には親を、子をたづぬる親には子を、めぐり合わせて給えと悲願を込めて昭和33年に建立されたと説明板にありました。

 

62番目番場宿 (地図は本陣跡の場所を示す)

● 蓮華寺の看板から北に進みます。街道の左側に「中山道番場宿問屋場跡」に「明治天皇番場御小休所」の碑がありました。その先に「中山道本陣跡」や「脇本陣跡」の案内石板がほぼ隣接して並んでいます。この辺りが番場宿の中心のようです。

● 天保14年の「中山道宿村大概帳」では、番場宿には本陣1、脇本陣1、旅籠屋10軒があったと記されています。また、問屋場跡の案内は6軒ほどありましたが、宿場の規模の割には多いと感じました。御小休所が隣の本陣ではなく、問屋場にあったのは、すでに本陣が解体されていたとかの事情があったのでしょうか、これも不思議に思いました。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「昭和十二年七月文部大臣指定」

 正面「明治天皇番場御小休所」

 左面「近江神宮宮司 従一位 /勲二等 平内貫一謹書」

 背面「昭和十六年十月建設」 

 

「米原滊車汽船道」の道標

● 中山道と県道240号線の交差点にこの道標は建っています。その道路の反対側には「中山道/番場宿」の大きな石碑もあります。県道240号線を北西に向かい、米原高校の前で左折し坂を下ると、旅館かめやの前で北陸道と合流します。(「米原市米原、北陸道の道標」参照)

● 番場から米原へ抜ける道は、江戸時代の初期に開通し、米原港から京都などへの近道となっていました。当時の米原港は現在のJR米原駅の近くにあったそうです。明治22年東海道本線の米原駅が開業しているので、そのころにこの道標は建てられたようです。

 

● 銘文(正面・北東)

 正面「右指差し手形 米原 滊車 /汽船 道」

 

米原市米原、北陸道の道標

● 彦根市下矢倉町の道標から少し離れますが、中山道と分岐した北國道(道標では北陸道)は米原市内に入ります。JR米原駅の北東方向の旅館かめやの前に北陸道から中山道を案内する古い道標があります。東面には弘化三年に再建されたとあります。

● ここから右に向かい小さな峠を越えると県道240号線に出ますが、その県道を東に2キロほど進むと番場宿で中山道と合流します。左は北陸道で長浜方面に向かっています。鳥居本宿から中山道を番場宿に向かうとき、摺針峠を越えるより、少し遠回りになりますが、米原宿のこの道標を経由した方が街道は平坦で楽であったかもしれません。

 

● 銘文(1846年、ひのえ・うま)

 東面「弘化三丙午再建之」 

 南面「右 中山道 者んバ /さめ可ゐ」(番場、醒井)

 西面「左 北陸道 奈駕者満 /きの母登」(長浜、木之本)

 

久禮の一里塚跡の碑

● 名神高速道米原JCT高架下の道の両側にポケットパークがあり、その西側に「中山道 /一里塚の跡」と書かれた大きな碑と説明板が建っています。それによると、ここから「江戸へ約百十七里、京三条へ十九里」となっています。また、「一里塚には右側にはとねりの木、左側には榎が植えられていました。」とあります。

 

醒井宿の六軒茶屋

● 名神高速道米原JCTの高架下を通り過ぎてすぐに右折し東へ進むと、国道21号線の樋口交差点に出ます。ここを横断して旧道を行くと国道21号線に合流します。そして丹生川を渡った先で再び分岐して醒井宿に入ります。

● 中山道の左(北)側の古い民家の前に「六軒茶屋」という説明板がありました。「幕府の天領であった醒井宿は、享保9(1724)年大和郡山藩領となった。藩主柳沢候は、彦根藩と枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形をした茶屋六軒を建てた。この「六軒茶屋」は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。」と説明されている。ということはこの民家は、六軒のうちの一軒ということでしょうか。

● 現在の地図で確認すると、この辺りは道路の北側が米原市「醒井」、南側が米原市「枝折」になっている。

 

松尾寺の道標

● 六軒茶屋の少し東の県道17号線との交差点の南東の角にこの道標が建っています。松尾寺は県道17を南に進んだ方角にあり、白鳳時代に修行の地として開山された古刹です。本尊の十一面観音と聖観音菩薩が雲中より飛来したとの伝承から「空中飛行観世音菩薩」通称「飛行観音」の名で知られ、航空災害除けの寺として航空関係者の参拝も多いということです。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「近江西國 /第十三番 霊場松尾寺 從是 /南廿町」

 背面「昭和二年八月 寄進人 善進堂」

 

醒井宿、中山道の道標

● 中山道はやがて名神高速道に突き当りゆるく左にカーブして醒井宿の街並みに入りますが、その曲がりはじめのところにこの道標が建っています。背面に平成五年再建立とあるので、元々ここには古い道標が建っていたものと思われます。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「  番場宿へ一里」

 正面「中山道 醒井宿」

 左面「  柏原宿へ一里半」

 背面「  平成五年再建立」

 

醒井宿、泡子塚

● 醒井宿の街並みに差し掛かったところに、「泡子塚という史蹟があります。鬱蒼とした岩肌に数基の地蔵があり、その上には、「仁安三(1168)戊子年秋建立」の五輪塔があります。説明板によれば次のような伝承がありました。

● 西行法師東遊のとき、この泉のほとりで休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立ったあとに飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後、西行法師が関東からの帰途にこの茶店に休憩した時、娘より一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じて児なる、もし我が子なら元の泡に帰れ」と祈り、「水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」と詠むと、児は忽ち消えて元の泡になりました。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。今もこの辺の小字名を「児醒井」といいます。

● 僧の名はありませんでしたが、これと同じ言い伝えが「近江八幡市西生来町、泡子延命地蔵尊の碑」(中山道の道標(4)」にありました。これらの言い伝えは何を示唆しているのでしょう?

 

醒井宿、十王水と国道14号線の石標

● ここ醒井は鈴鹿山系の北部に位置する関西有数の湧水地帯です。「十王水」も醒井湧水群の一つで、古くは「浄蔵水」と呼ばれていましたが、近くに十王堂があることから「十王水」と呼ばれるようになりました。

● 偶然ですが、説明板の横に「國道十四號・・・」と書かれた標柱を見つけました。調べてみると、ここは一時期国道14号線であることがわかりました。現在の国道21号線の歴史をたどってみると、大正9年から昭和9年までの間、国道14号線でした。この石柱はその時の名残と思われます。明治18年中山道が国道7号線「東京より神戸港に達する別路線」に指定されました。大正9年施行の道路法では、この7号線がそのまま14号線「東京市より京都府庁所在地に達する路線」となりました。その後も変更がありましたが、昭和27年新道路法に基づく路線指定で国道21号線「岐阜県土岐市から滋賀県米原市)となっています。

 

醒井宿、明治天皇駐輦所の碑

● 十王水と醒井公民館の中間あたりに「明治天皇御駐輦所」の碑がありました。門のみしか見当たりませんが、ここは旧家江龍氏宅ということです。

● 今回はここをゴールとしました。