―中山道の道標(8)ー

(平成30年3月3日)

 関ヶ原宿から東に向かい、垂井宿、赤坂宿までの道標などを紹介します。

 

平成30年3月11日追加)

● 大垣市三津屋町から美江寺宿、瑞穂市生津までの中山道を下部に追加します。

 

(平成30年3月24日、追加)

● 瑞穂市生津から岐阜市加納宿までを追加しました。歩いたのは岐阜からですが、下部への掲載は順序を逆にしました。 

 

関ヶ原町の松並木

● 関ヶ原駅から中山道(国道21号線)を東に向かいます。旧道は一ツ軒交差点で国道21号線から分岐して左に進みますが、しばらくすると松並木になります。ここには樹齢300年余りの老木が街道の両側に残っていて、往時の街道風景を彷彿とさせてくれます。

 

垂井一里塚跡

● 垂井町に入り国道21号線を横断して、少し進むと街道の右側に玉垣に囲まれた「史蹟垂井一里塚」の碑が見えます。これは江戸から112番目の垂井一里塚です。かっては街道の両側にあったようですが、現在は南側の塚のみ残っており、国指定の史蹟になっています。これほど大きな一里塚跡は初めて見ました。

● 隣の建物は「日守の茶所」で、弘法大師の札所として昭和の初めまで利用されていたようです。 

 

垂井町日守の道標

● ここから南東方向にある美濃国一宮「南宮大社」を案内する道標です。近道八町(約900㍍)とありますが、地図で確認すると、道は工場や公園などで途切れています。西方面からの旅人にとっての近道ということになります。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「南宮江近道八町」 (「江」は小文字)

 背面「吹原(?)」 (下部に小文字で) 

 

垂井宿

● 国道21号線と東海道本線こえて東に進むと、垂井宿「西の見附」の目新し案内板があり、ここから東へ約800㍍ほど宿場町が街道の両側に続きます。垂井宿は江戸日本橋から440㌔で57番目の宿場になります。西と東の見附付近は大きなカーブとなり、宿場の中央付近では鉤の辻になっていて全体が見通しにくくなっています。東の見附の説明板では、垂井宿は「58番目」の宿場となっていますが、これには起点の日本橋が含められていると思われます。

● 鉤の辻付近の旅籠亀丸屋の建物は安永六(1777)年のもので、現在も旅館を続けているそうです。

(地図は「西の見附」の場所を示す)

 

南宮大社大鳥居

● 宿場の中ほどにこの大鳥居が建っています。近くの説明板によると「寛永十九(1642)年徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、鳥居は約400両の金で、石屋権兵衛が建てた。上に掲げられた「正一位中山金山彦大神」の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆跡である」となっています。

● 道標は向かって左の常夜燈の前あります。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「南宮社江八町」 (「江」は小文字)

 

垂井町、追分の道標

● 相川に架かる相川橋を渡って右折し、また小さな橋(追分橋)を渡ると、街道は二つに分岐しています。ここは左の木曽海道(中山道)と、右は大垣、墨俣を経て東海道の熱田宮宿を結ぶ脇往還美濃路との追分になります。この追分に自然石型の道標がありました。説明板には「垂井宿問屋奥山文左衛門が建てた」とあります。

 

● 銘文(正面・南西)(1709年、つちのと・うし)

 正面「是よ里 右東海道大垣みち

        左り木曽海道 /た尓久ミみち」(「り」は小文字)

 背面「宝永六年己丑 /十月日 (下部)願主 /奥山氏末平」

 高さ120㌢、 幅40㌢

 

平尾御坊の道標

● 大垣市との境界の少し手前に大きな自然石型の道標(?)が建っていました。これはここから約400㍍北の平尾御坊願證寺(浄土真宗東本願寺派)の参道入り口であることを示しています。願證寺は垂井町の観光ガイドによると、「蓮如上人の曽孫證栄がこの地で真徳寺を開基し、その後安永二(1773)年に願證寺に改号し、平尾御坊の称を賜った」とありました。

 

● 銘文(正面・南)

 正面・南「平 /尾 御坊道」 (平尾は横書き)

 

大垣市青野一里塚跡

● この一里塚は、江戸から111里目になります。余談ですが、「美濃」は、ここ青野、各務野(各務原市)、大野(揖斐郡大野町)の三つの「野」に由来するといわれています。

 

大垣市青野 国分寺の道標

● 常夜灯型の道標は、ここから北にある国分寺を案内しています。現在の国分寺は元和元(1615)年に美濃国・国分寺跡の北東に再興されたお寺で、本尊の木造の薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されています。

● 道標の西側の道路は、中山道から国分寺への参道であったことが平成29年1月の岐阜県による発掘調査でその痕跡が確認されています。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「国分寺道」(左下部に「北四丁」らしき小文字が見える。)

 左面「薬師如来御寶前」(左下部に「浪瑞」らしき小文字が見える。)

 

大垣市青墓町、圓興寺石標

● この碑は、方向や距離がないので道標ではなく、石標としました。およそ1㌔ほど北にある圓興寺を案内しています。圓興寺は、延暦九(790)年最澄によって開山されたという古刹ですが、天正二(1574)年織田信長の焼き討ちにあい焼失したので、万治元(1658)年に再興され、現在地に移転しています。境内には平治の乱で平清盛に敗れた源朝長(義朝の次男。頼朝、義経の異母兄)の墓があります。

● また、同寺には国の重要文化財に指定された木造の聖観音立像もあります。余談ですが、戦前の国宝は昭和25年に制定された文化財保護法によりすべて重要文化財となり、その中からあらためて「国宝」を指定し直したという経緯があります。 

● この石標を建てたのは、明治、大正から昭和の初め東海地方周辺で多くの石造物を寄贈している伊藤萬蔵氏です。私の住居の近く加古川市の一乗寺にも同氏寄贈の道標がありました。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「名古屋市西区塩町 /伊藤萬蔵

 正面「国 /宝 觀世音菩薩圓興寺」 (国宝は横書き)

 左面「源朝長公御舊蹟 /御菩提所」

 背面 未確認

 

赤坂宿

● 赤坂宿は江戸から56番目(現地説明板は起点を含み57番目と説明)の宿場です。宿場のほぼ中央の鉤の辻は、北への谷汲街道、南、伊勢方面への養老街道の起点になっています。その鉤の辻手前の脇本陣跡は明治以降近年まで榎屋旅館として営業をしていましたが、皇女和宮も宿泊した本陣は、現在では建物も残っておらず跡地は公園として整備されています。また、宿場の東西には、大名行列などの際、宿場役人や名主が送迎した御使者場跡の碑が建っていました。

(地図は西の御使者場跡と兜塚の場所を示す)

赤坂宿、鉤の辻の道標

● 宿場のほぼ中央、鉤の辻の北東角に常夜灯型の道標と小さな道標の2基がありました。

● 常夜灯型の道標は、ここからは北方向になる西国三十三所巡礼の満願・結願の寺、谷汲山華厳寺を案内しているものです。同寺は延暦十七(798)年に創建され、本尊は十一面観世音菩薩です。

● 手前の小さな道標はやはり北方向(揖斐郡池田町)にある禅蔵寺を示しています。延文元(1356)年美濃国守護の土岐頼忠が土岐氏の菩提寺として開いた臨済宗の寺院です。 

 

● 常夜灯型の道標銘文(正面・西)(1683年、みずのと・い)

 右面「谷汲山觀音夜燈」

 正面「左 たにくみ道」

 左面「天和三癸亥十月十八日 /施主 松崎〇右衛門」施主名一部判読不能)

● 手前の道標銘文(正面・西)

 右面「梵字 為先祖代々菩提」

 正面「左 禪蔵寺道」

(いずれも背面は未確認)

 

赤坂港

● 宿場の東端は赤坂港跡になっています。この川港は、周辺で産出された石灰や大理石の積出港として江戸時代に設けられ、一時は500隻をこえる舟が活躍していましたが、大正8年に鉱山鉄道として美濃赤坂線が開通し、舟運は衰微しました。昭和28年杭瀬川の改修工事により水路が変わり、旧港跡は埋め立てられ現在は史蹟公園となっています。

 

大垣市池尻の一里塚跡

● 赤坂港跡から東に500㍍ほど進んだ民家の前に「史蹟 中山道一里塚跡」という石碑が建っています。これは江戸から110番目の池尻の一里塚跡です。

● 一里塚跡からさらに東に進み養老線を渡ると、田んぼの中の平坦な街道筋は階段状に4度ほど直角に曲がっていますが、その先に「中仙道 七回り半」という真新しい(背面に平成・・・とあった)碑が建っています。昔、大名行列の際、ここに殿さまが立つと行列の前後を眺めることができ、その際首を左右に振って最後に前を向いて、合計7回半首を回し行列の長さを確認したそうです。そしてその長さに満足したとのことでした。

● そういえば岡山県井原地区の山陽道には「大曲り」といって街道筋をZ字型に大きく曲げた個所がありました。やはり平坦な場所なので、その中間に立つと行列の全体が見渡せたということでした。長い旅の息抜きの個所であったかもしれません。

 

大垣市赤花町、三回り半の石標 (平成30年3月11日、追加)

● 中山道は、三津屋町から東に向かうと平野井川の堤防に突き当り右折しますが、その曲り角に「三回り半」の石標が建っています。この先は蛇行する川筋に沿って街道もカーブを繰り返します。その上、堤防の上と下に道路があり、両道の連絡路も交差していて複雑です。「三回り半」の意味は、先の「七回り半」と同じと思います。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「中仙道 三廻り半」

 背面「平成元年己巳 願主 領家町 小実(?)正一」

 

大垣市大島の道標 (平成30年3月11日、追加)

●平野井川の堤防上の大島バス停の近くにこの道標が建っています。この辺り輪中の川筋は大正時代にかなり改修工事が行われており、江戸時代の街道筋とは大きく変化しています。対岸の柳瀬に「中山道の一里塚跡」があるのもその名残りかもしれません。道標の中間あたりには折損の痕があり台石も整備されているので、移設されたものと思われます。道標の正面は下の道路の方を指しているので中山道はここから堤防下に向かっています。私は堤防の上の道路を川に沿って歩いたので、中山道を大きく外れてしまいました。

 

● 銘文(正面・北東)

 右面「右 すのまた宿道」 (「た」は「當」の草書体、「宿」は異体字)

 正面「左 木曽路」 (木曽路は中山道)

 

瑞穂市大月浄水公園の道標 (平成30年3月11日、追加)

● 大島の道標から堤防を下り平野井川を渡ると瑞穂市呂久町になります。町内には皇女和宮降嫁の際揖斐川を渡った呂久の渡しや明治天皇御小休所跡の碑などがありました。

● 呂久町を過ぎると、鷺田橋で揖斐川を渡ります。橋の東からは田んぼの中を北東に向かって一本道が続きますが、ここには戦前まで松並木が残っていたということです。この道の突き当りは大月浄水公園となっており、中山道の跡であったことを示した説明板などがありました。

● ここに上部のない道標が説明板とともに建っていました。平成27年近くの民家で見つかったものですが、元々どこにあったものかはわからないということです。

● 正面・南「・・・舩場ヲ径テ太田町ニ至ル」

 

瑞穂市宮田の藩境石 (平成30年3月11日、追加)

● JAもとす南店の一角、溝とガードレールにはさまれてこの藩境石が建っていました。ここは現在では瑞穂市宮田と田之上の境界になります。北東側の田之上は天領で、南西側の宮田が大垣領であったことを示しています。

● 藩境石は南西側を除く3面に、「従是西大垣領」とあります。

 

瑞穂市十七条の道標 (平成30年3月11日、追加)

● 犀川という小さな川を渡り東に進むと三差路になります。この辺りが美江寺宿の高札場跡です。ここに大正時代に建てられた道標がありました。中央辺りに折損の痕があります。ここから南に進むと墨俣方面へ、西に中山道を進むと赤坂であることを示しています。

● 銘文(正面・北)

 右面「大正十年十二月 覺醒」

 正面「右 大垣赤坂ニ至ル」

 左面「左 大垣墨俣ニ至ル」   

 

美江神社東の道標 (平成30年3月11日、追加)

● 十七条の道標を左折して北に向かうと突当りが美江神社になり、中山道はここを右折して東に進みます。この美江寺宿も大きな鉤の辻になっています。美江神社のすぐ東の角に新しい道標が建っています。昭和61年再建立となっているので、元々古い道標があったのかもしれません。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「昭和六十一年六月再建之 美江寺区」

 正面「美江寺觀世音道」

 左面「施主 大垣魚町 魚商 土川 /揖斐郡黒野 中村」 

 

美江寺の道標 (平成30年3月11日、追加)

● 美江寺一里塚跡の碑を過ぎると、樽見鉄道の美江寺駅南のバス停に道標があります。十七条の道標と同じ時期に建てられています。正面では東の岐阜市の方向を、左面は北方向の谷汲山華厳寺をそれぞれ案内しています。宿場の案内図ではこの碑の左から北に向かう道路が谷汲街道となっています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「大正十年十二月 覺醒」

 正面「右 岐阜加納ニ至ル」

 左面「左 北方谷汲ニ至ル」

 

岐阜市河渡一里塚の跡 (平成30年3月24日、追加)

● 瑞穂市生津交差点を東に300㍍程進むと岐阜市に入ります。さらに東に進むと長良川の堤防になりますが、その手前の住宅街の中に河渡一里塚あとの案内板がありました。この辺りは河渡宿で、江戸から106里27町、54番目の宿場でした。東の加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町で、東に長良川の渡しを控え、繁盛した宿場でした。

 

長良川を渡る (平成30年3月24日、追加)

● 河渡(ごうど)大橋をわたると鏡島(かがしま)西になります。鏡島はかっては長良川の舟運の湊があり河川交通と陸上交通を結ぶ要衝の地としてにぎわっていました。天保十四(1843)年には薪炭商や酒売など35軒余の商店が中山道沿いに軒を連ねていました。

● 長良川堤防から西を見ると伊吹山(写真左)が河渡大橋から上流方向には岐阜城のある金華山(写真中)が、また少し東に進むと「湊珈琲」の看板のある古民家カフェ(写真右)がありました。(地図は「古民家カフェ」の場所を示す)

岐阜市加納宿に入る (平成30年3月24日、追加)

● 加納宿は中山道53番目の宿場になります。岐阜城は慶長六(1601)年に廃城され、代わりに築城された加納城の城下町として宿場は発展しました。

● 本陣の松波藤右衛門宅(現在地)には、文久元(1861)年10月に皇女和宮が宿泊しています。(地図は本陣跡の場所を示す)

 

岐阜市加納南広江町の道標 (平成30年3月24日、追加)

● この四つ辻は、中山道と岐阜道の分岐で、かっては交通の要衝でした。道標は、江戸時代中期(1750年頃)にこの四つ辻の南東隅に建てられました。現在は南西の角に移設されています。案内の文字は、当初は東面と北面のみでしたが、明治の初期に南面と西面の文字が追加されています。(説明板による)

 

● 銘文

 北面「右 ぎ婦道 」(岐阜道)

 東面「左 中山道 」

 南面「左(左指差し絵) 西京 道」

 西面「右 東京 道」