―京都伏見周辺の散策ー

(平成24年9月13日)

 萩藩有馬喜惣太の「中国行程記」によれば、京都手前の山陽道は、山崎村、久賀井村、淀領納曾村、続喜郡鳶ノ森村、紀伊郡伏見村などとなっています。江戸時代にはこのコースから大津髭茶屋追分で東海道に出るのが、西国大名参勤交代の通行路になっていたようです。

 この旧道を歩いて道標を探して見ましたがあまり見つけることが出来ませんでした。そこで豊富な街道周辺の史蹟を紹介するページとしました。

 末尾に「橋本から淀へ」と「追分から墨染まで」を追加しました。 

(京都伏見周辺の地図)

 

大山崎町久我畷(こがなわて)の道標

● 阪急電車の大山崎駅を下りて西国街道を約1㌔ほど北に進むと、この三叉路になります。昨年はここを左に進み、長岡京市から京都に向かいました。今回は右に進みます。久我畷は、平安時代に長岡京と太宰府を結ぶ山陽道の一部でした。その後平安京の羅城門から鳥羽離宮辺りまで南下する鳥羽作り道と接続され、京への近道として利用されていました。当初は山崎道、京道と呼ばれていたようです、久我畷の名称は後世になってからのようです。(詳細は「西国街道の道標(5)」参照下さい。)

● 手前の地蔵さんには道案内がありますが、 方向が90度違うように思えます。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「右 八わたみち /左 よどふしみ」

 

大山崎町下植野の道標

● 高速道路ICの下を過ぎたところに真新しい道標がありました。近くの正覚寺を案内する道標です。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「寄進 株式会社北摂石材 間川三郎」

 正面「洛西観音霊場 /第十一番札所 正覚寺参道」

 背面「平成元年十二月吉日建立・・・」

 

京都市伏見区淀、淀城跡

● 小畑川を渡り、再び名神高速道路の下を通り抜けると乙訓郡大山崎町から京都市伏見区となります。そのまま桂川沿いに堤防を進み、宮前橋で桂川を越えると京都市伏見区納所(のうそ)町です。納所の交差点から北へ延びる千本通りは京都羅城門を起点とする鳥羽街道ですが、中国行程記は、ここから府道124号線を伏見に向かっています。

● この辺りは桂川、宇治川の合流地点で、古代には諸国からの貢納物や西国からの諸物資を都に運ぶ集積地、与度津として栄えていました。

● 淀城は、元和九(1623)徳川秀忠の命により松平定綱が築いたもので、明治維新後廃城になっており、現在は、淀城跡公園となり、石垣や内濠の一部が往時の名残をとどめています。また、戦国期の淀城はここより北に約500メートルの辺りにあり、豊臣秀吉が淀君の産所として築城しましたが、豊臣秀次に謀反の疑いがかけられた際、廃城になっています。

 

淀城跡公園内の道標 (平成24年9月24日、追加)

● ここに三宅安兵衛さんの道標が3本並べられていました。それぞれの元の場所には新しい石標が建てられていたので、ここに移されたのだと思います。 (三宅安兵衛さんについては末尾の「京阪橋本駅前の道標」を参照ください。)

● 唐人雁木趾の碑は、最初納所村道路元標の近くに建てられましたが、2011年頃現在地に移されました。唐人は朝鮮通信使で、雁木は船着き場の階段の意味です。通信使は対馬から瀬戸内海を経て、大坂ヘ着き、川船に乗り換えて淀川を遡り、淀城下で上陸し、京都や江戸に向かったということです。(京都市歴史資料館HPより)

● また、公園内には與杼神社があります。この神社の創設は、応和年間(961~963)といわれています。もとの鎮座地は、今の宮前橋の下流の桂川右岸の河原でしたが、桂川の河川敷の拡幅工事に伴い、明治35年現在の淀城址内に移されました。本殿、拝殿は国の重要文化財でしたが、昭和50年に焼失したので、昭和55年に新築されました。(與杼神社HPより)

 

● 淀城之故址の碑銘文

 東面「西北 (中部)水垂 四丁 /北神足 廿五丁 /山﨑ステン所 一里

       (下部)大下津 三丁 /長岡 一里」(ステン所=ステーション)

 南面「昭和三年春 京都 三宅安兵衛遺志建之」

 西面「東北 (中部)納所 三丁 /横大路廿丁(下部)富ノ森 〇丁 /

    下鳥羽 一里半」

 北面「淀城之故址」

● 淀小橋旧趾の碑銘文

 東面「右従北 /京都街道(中部)富ノ森〇丁 /横大路〇丁 /下鳥羽〇丁 /

    上鳥羽一里半

   (下部)東寺二里半 /七条ステン所三里 /北野神社四里 /桂三里半」

 南面「左従東 /伏見街道(中部)中書島一里 /伏見桃山御陵一里半 /

    稲荷神社二里半  (下部)木幡二里半 /醍醐二里半 /山科三里半」

 西面「昭和三年秋 京都 三宅安兵衛遺志建之」

 北面「淀小橋旧趾 従西南大阪至」

● 唐人雁木趾の碑銘文

 南面「昭和三年春 京都 三宅安兵衛遺志建之」

 北面「唐人雁木趾」

 

伏見区納所町の道路元標

● 納所の交差点から千本通りを北へ向かったすぐの民家の前にこの道路元標がありました。

● 正面・西「納所村道路元標」 

 

納所町の戊辰役戦場跡の碑

● 納所小学校西の住宅街の一段高い場所に納所会館があり、その前にこの碑はありました。元は、富ノ森愛宕茶屋の南の堤防上(伏見区横大路富ノ森町)にあったものがここに移されたそうです。

 

● 銘文(正面・南) 

 右面「是北従城南離宮一里至」

 正面「戊辰役戦場址」

 左面「是南従石清水八幡宮一里」

 背面「昭和三年春 京都三宅安兵衛遺志建之」

 

● 周辺には、戊辰戦争の史蹟が多くありましたので、少し長くなりますが、当時のこの辺りの戦況をまとめてみました。 戊辰戦争は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩、長州藩を中核とした新政府軍と旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽、伏見の戦いから、明治2年5月18日(1869年6月27日)の箱館五陵郭の戦いまでをいいます。明治元年の干支が戊辰(つちのえ・たつ)でした。

● 鳥羽、伏見の戦いは、慶応4年1月3日~6日の間、京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見で行われ、戊辰戦争の緒戦となりました。

● 3日夕方、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事衝突が起こり、ここでの銃声を聞いて伏見(御香宮)方面でも戦端が開かれた。伏見では、狭い街道のため旧幕府軍は兵力の優位性を生かしきれず会津藩や新撰組が新政府軍に敗れ、伏見奉行所も炎上した。

● 4日、鳥羽方面では旧幕府軍は、淀富ノ森方面へ後退した。伏見では土佐藩が新たに新政府軍に加わり、ここでも旧幕府軍は敗走した。

● 5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣し、新政府軍を迎撃したが敗退した。鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで淀城を頼ったが入城を拒まれる。その後、男山、橋本方面へ撤退する。これらの戦闘で、新撰組隊士の3分の1が戦死した。

● 6日、石清水八幡宮の鎮座する男山と橋本の宿場町に土方歳三率いる新撰組が主力となって幕府軍の本隊が陣を張った。しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が朝廷に従い、旧幕府軍に砲撃を加えた。思いもよらぬ砲撃に旧幕府軍は戦意を失い、総崩れとなって淀川を下って大坂に逃れた。この戦いで京都見廻組の佐々木只三郎は重傷を負い(のち死亡)、新撰組の吉村貫一郎は行方不明になっている。

● 6日夕、徳川慶喜らは密かに大坂城を脱し、開陽丸で江戸へ退却した。

● 7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府軍は朝敵とされた。その後、戦争の舞台は、江戸市街での上野戦争、北越戦争、会津戦争、箱館戦争へ続くこととなる。(参考:ウィキペディアなど)

 

納所町、淀小橋旧趾の碑

●納所の交差点に戻り、府道124を伏見方面に向かうと道路の左側にこの碑がありました。

● 淀小橋は、納所から宇治川を渡り淀城下へ入る重要な橋でした。長さ72間(約130㍍)というからかなりの大橋でした。当時の宇治川の流れがわからないので、想像がつきませんが。現在は住宅街に石碑があるのみです。戊辰戦争で幕府軍が千両松から淀へ退去する際に、焼き払われました。石碑の銘文は次の通りです。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「淀小橋旧趾」

 左面「平成二年 結成十五周年記念 /京都淀ライオンズクラブ建之」

 背面「昭和二年 春 /再建 三宅安兵衛遺志建之」

(京都市歴史資料化HPによれば、元の碑は淀城跡公園内にあり、建立は昭和三年となっている。)

 

千本松の戊辰役激戦之址

● 府道124をさらに伏見方面に向かうと、京都競馬場の北側を進むことになりますが、この途中の競馬場の駐車場連絡橋の高架下に「史蹟 戊辰役東軍、西軍激戦之址」という案内板があり、慰霊碑と供養塔がありました。供養塔は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」とあり、慰霊碑は後述のような長い記述がありました。

● 千本松は豊臣秀吉がこの地に植えた松があまりに見事であったので、この名が付けられたそうです。戊辰戦争の激戦のあと、西軍の戦死者は手厚く葬られましたが、東軍の戦死者は野ざらし状態であったそうです。その後、東軍の戦死者は地元の人々によってこの地に葬られたということです。東軍戦死者の埋骨地はほかも数ヶ所あり、当時の激戦の様子がうかがわれます。また、諸氏のブログによれば、昭和45年頃、競馬場拡張工事の際、この施設の一部を削ったところ工事に事故が続発したので、工事完了後盛大な供養を行い、施設も復元整備された、というエピソードが紹介されていました。

 

● 供養塔まえの慰霊碑の銘文

「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない /それが日本人同族の争でもあり いづれもが /正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己 /等の誠を尽くした。然るに流れ行く一瞬の時差 /により或る者は官軍となり 或るは幕軍と /なって 士道に殉じたので有ります こゝに /百年の歳月を関し(とじ?) 其の縁り有る 此の地に /不幸賊名に斃れたる 誇りある人々に対し慰 /霊碑の建つるを見る 在天の魂以て冥ずべし /中村勝五郎 /識す /昭和四十五年春」

 

伏見港公園

● 府道124の終点である伏見、三栖向町の手前から中書島駅方面へ向かう辺り一帯が伏見港公園です。

● 桃山時代の文禄3(1594)年、豊臣秀吉は宇治川の治水と流路の変更を目的とした大規模な工事を行い、伏見城下に陸上及び河川の交通を集中させました。その結果、伏見は河川交通の要衝となり、三十石船が伏見、大坂の間を行き来するようになりました。

● 江戸時代には角倉了以らが高瀬川を開削し、京都と伏見が結ばれたことから伏見の役割はさらに増しました。幕府の伝馬所も置かれ、参勤交代の大名が立寄るための本陣や大名屋敷も置かれ、大変栄えたようです。

● 明治時代に入って、伏見の水運は琵琶湖疏水とも接続され、大阪や琵琶湖に大型の外輪船が就航しています。日本最初の電車も京都、伏見間に建設されました。1926年には宇治川と濠川の水位を調節するために三栖閘門が建設されています。

● その後、京阪本線の開通などで水運は衰退し、戦後、港の一部が埋め立てられ、現在は伏見港公園として整備されています。

 

伏見中書島駅前の道標 (平成24年9月24日、追加)

● この駅前にも三宅安兵衛さんの大きな道標がありました。近くの長建寺などを案内しています。長建寺は、伏見の豪商たちが濠川を開拓するとき伏見奉行の建部政宇に嘆願し、京都深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して、建部姓の一字と長寿を願って名付けたのが寺の起こりといわれています。また、この辺りの地名「中書島」は播州龍野藩主脇坂中務安冶の下屋敷があり、中務を中国風に中書とするところからその敬称が地名になったそうです。

 

● 銘文

 東面「東 桃山御陵 /乃木神社 十五丁」

 南面「豊臣秀吉公 /守本尊 辨財天御像 長建寺 /是北一丁」

 西面「北 寺田屋 三丁 /大黒寺 七丁」

 北面「昭和三年秋 京都 三宅安兵衛遺志建之」

 

伏見京橋付近

● 写真は、伏見港の中心街である京橋付近で目にしたものです。京橋の下の水路は、すぐ西側で伏見城の外堀濠川につながっており、周辺は伏見みなと公園(伏見港公園とは異なる)となっていました。橋の北側には「伏見口の戦い激戦地跡」の碑とその説明板がありました。戊辰戦争の詳細は前に述べたとおりですが、この地でも激戦が行われ、近くの伏見奉行所に陣を置いていた幕府軍や新撰組が民家に火を放ちながら淀方面に敗走したので、この辺りの民家も焼かれ、大きな被害を受けたと、説明板にありました。また、近くには伏見長州藩藩邸跡もありました。

● 中国行程記では京橋を通り少し北で右折して伏見街道に入り、京都三条大橋方向に向かっています。(中国行程記の記述は「山城國紀伊郡伏見京境」まで)

● 伏見と京都を結ぶ街道は、伏見街道のほかにその西をほぼ並行して竹田街道が走っています。伏見街道は京都五条大橋付近の京七口の一つ伏見口から墨染などを経由し、伏見の京町通りに至る街道です。竹田街道は竹田口(現在の竹田街道八条交差点)から府道115とほぼ同じルートを経て、ここ京橋に至る街道です。

 

坂本龍馬遭難の跡、寺田屋

● 京橋辺りを散策していたら、坂本龍馬が伏見で常宿としていたという船宿寺田屋がありました。宿の前には水路があり船を使えば、濠川(桃山城の外濠)、宇治川、淀川を経て大阪方面に出られる場所です。 また、近くには”龍馬通り”という商店街もありました。寺田屋での坂本龍馬の遭難は、戊辰戦争のはじまる2年前の慶応2年1月23日(1866年3月9日)のことです。深夜、伏見奉行所の捕り方に囲まれますが、お龍の機転と薩摩藩邸の救援により、九死に一生を得ています。しかし、坂本龍馬は翌慶応3年11月15日、京都河原町蛸薬師の近江屋で暗殺されます。箱館戦争後、その捕虜の供述により京都見廻り組与頭の佐々木只三郎らによる殺害と判ります。

● 当時の建物は、「史蹟 寺田屋/坂本龍馬先生遭難趾」の石碑が建てられている辺りにあり、鳥羽伏見の戦いの際、焼失しています(京都市歴史資料館HP)。現存する寺田屋は、後に当時の建物の西隣に再建されたもの。

 

伏見の酒蔵

● 伏見は、かって”伏水”とも書かれていたほど質の高い伏流水が豊富な地です。桃山丘陵をくぐった地下水が山麓近くで湧き水となっており、日本を代表する酒どころとなったのも、この天然の良水に恵まれていたことが大きな要因です。近くには名水伝説をもつ御香宮神社もあります。(伏見酒造組合HPより抜粋)

● 京橋の近くには、月桂冠、黄桜などよく目にするメーカーの酒蔵がありました。坂本龍馬も伏見の酒を楽しんでいたことでしょう!

 

伏見の酒蔵(2) (平成24年9月24日、追加)

● 長建寺周辺の宇治川派流には月桂冠の酒蔵が並んでいました。

 

宇治川に架かる観月橋 (平成24年9月24日、追加)

● 国道24号線で宇治川を渡る橋が観月橋です。豊臣秀吉が伏見城築城の際架けたのは豊後橋で、これは幕末の動乱で焼失します。明治六年に再建され、秀吉の月見の伝説にちなんで「観月橋」と名付けられました。昭和50年には京阪電車を跨ぐ新観月橋が竣工しています。明治10年明治天皇の関西行幸が行われ、奈良の神武天皇陵に向かう途中、この地で休憩されたということです。

 

● 銘文

 東面「明治十年二月七日」

 南面「昭和十三年三月 京都府建之」

 北面「明治天皇御駐輦所観月橋

 

伏見、桃陵中学校内の道標 (平成24年9月24日、追加)

● 観月橋から北に向かい伏見奉行所跡を探しているとたまたま校内に道標が見えたので、写真を撮らせてもらいました。道路が狭く、交通量も多い、周辺の事情かもしれませんが、この辺りの道標の多くは学校や寺に移設されているようです。資料を探しましたが、この道標の元の位置は判りません。また、隣には「維新戦跡」と書かれた石板もありました。

 

● 銘文

 南面「北 左 大津道」 

 西面「東 右 御香宮門前大手筋 /左 京ばしふねのりば 十六丁」

 北面「南 すぐ 大津道」

 

伏見奉行所跡の碑 (平成24年9月24日、追加)

● 桃陵団地の西の入口に「伏見奉行所跡」の碑が立っていました。

● 伏見奉行所は、慶長5(1600)年に創設されましたが、実際は寛文(1666)年水野石見守忠貞が伏見支配に専念するようになったのが最初とされ、与力10騎、同心50人が属し、伏見市街と周辺8か村を支配していました。慶応3(1867)年廃止、翌年正月3日の鳥羽伏見戦では、幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所に入り、御香宮に陣を張った薩摩藩兵800人と対峙しました。激しい戦いとなり伏見奉行所は灰燼となりました。この碑はその跡を示すものです。

● 近くの説明板によれば、伏見奉行所跡地は明治時代以降陸軍の土地となり、工兵隊の基地となっていました。第二次世界大戦後は米軍に接収されますが、返還後に市営住宅が建設され今日に至っている、ということです。

● 余談ですが、この碑の100㍍ほど南に「常盤就捕処」という碑がありましたが、意味が判らないので通り過ぎました。あとで調べてみると義経の母、常盤御前が平治の乱(1159年)のあと、平氏に捕えられたと伝えられている場所を示す碑でした。

 

● 銘文

 南面「伏見奉行所跡」(やや西向き)

 北面「昭和四十三年十一月 京都市」

 

御香宮神社 (平成24年9月24日、追加)

● 桃陵団地から北の方に向かうと突然右手に大きな鳥居が目に入りました。御香宮神社の鳥居でした。この神社の創設に関する詳細はよくわからないそうですが、貞観4(862)年に社殿を修造した記録があるそうです。伝承によると、この年境内より香りの良い水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったということです。また、筑紫の香椎宮をこの地に分霊し観請したとの説もあります。

● 豊臣秀吉は伏見城築城の際、この神社を城内に移し、鬼門の守護神としましたが、のちに徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営されました。表門は伏見城の大手門を移築したものとされています。明治元年鳥羽伏見の戦いでは官軍(薩摩藩)の本営となりましたが本殿は無事でした。

 

伏見桃山城 (平成24年9月24日、追加)

● 御香宮神社を東に出ると国道24号線になりますが、これを北に向かい近鉄丹波橋駅の近くでJR奈良線を越え、東の住宅街に入りました。かなりの登り坂になります、この辺りは武家屋敷でもあったのでしょうか、桃山毛利長門東町や桃山町島津などといった町名がありました。

● 伏見城は、三度にわたって築城されています。最初の秀吉隠居場としての指月山伏見城は、慶長伏見地震(1596年)で倒壊しています。このためここから北東の木幡山に新たな城を、慶長2(1597)年に築きました。その後秀吉は城内で没しました。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥井元忠らが伏見城を守っていましたが、西軍に攻められその大半が焼失しました。慶長7(1602)年徳川家康によって再建されますが、元和5(1619)年廃城となっています。この時の部材は二条城、淀城、福山城などに移築されています。ここには桃の木が多く植えられていたので、伏見桃山城とも呼ばれていました。

● 昭和39年に伏見桃山キャッスルランドの目玉施設として模擬天守と小天守が建設されましたが、平成15年に閉園となっています。模擬天守は史実より想像の部分が多く、場所も元の位置ではないので復元ではないそうです。また、耐震基準も満たしていないので、入場禁止となっています。

 

伏見街道、撞木町

● 伏見街道を北に進み国道24号線を越えたところで「撞木橋」「志ゆもくはし」と書かれた橋の一部の石柱を見つけました。そこから数メートル先には「撞木町廓之碑」と篆書で書かれた大きな石板もありました。(マップは、「撞木町廓之碑」を示す)

● この辺りは慶長9(1604)年に開設された遊郭の跡でした。先ほど横断した国道24号線は、現在は暗渠ですが、当時は川になっており、そこに架かっていたのが撞木橋だったようです。

● また、大正7年11月と書かれた大きな石板には、遊郭建設の経緯や町の形状が撞木(T字形)に似ているのでこの町名となったこと、と共に赤穂浪士の大石内蔵助が世を欺くためにここの笹屋で遊興していたことなどが詳しく書かれています。最後のほうに大石内蔵助が大業を成し遂げたことから、「当遊郭に於て謀議する時は何事も成就すべしとて来遊する人々多し」などと書かれており、当時京都では最も小さな花街といわれた撞木町のPRのようにも思えます。

● (24年10月8日追記)

 「撞木町廓之碑」を右に進むと「撞木町廓入口」の門柱がそのまま残されていました。

 

新撰組近藤勇遭難の地付近の碑

● 撞木町から伏見街道を離れ、城南宮を目指しました。その途中、墨染駅の西の方角になりますが、料理旅館清和荘の玄関前に「この付近 近藤勇遭難の地」と書かれた石柱が立っていました。近藤勇が、狙撃されたのは伏見街道であったようですから、「この付近・・・」と少し曖昧な表現になっているものと思われます。

● 近藤勇は、慶応3年12月18日(鳥羽伏見の戦いの半月前)夕方(昼八ツ刻の説も)、二条城での軍議を終えて伏見奉行所へもどる途中、この墨染の辺りで狙撃され、右肩に銃弾を受けるという重傷を負います。近藤勇は、そのまま馬を走らせ奉行所に戻りますが、供のうち、2名が斬殺されています。近藤は、その後病の沖田総司と共に大坂城に下るので、鳥羽伏見の戦いでは副長の土方歳三が指揮を執っています。狙撃したのは元隊士の御陵衛士の残党たちで、伊東甲子太郎の仇討であったということです。

 

伏見区竹田七瀬川町の道標(2基) (平成24年9月24日、追加)

● 清和荘から西に向かい国道24を越えたところで、大きな道標が2基建っていました。手前の道標には「城南宮参詣道」、その数㍍後方の三叉路の道標には「北向不動尊」と書かれていました。また、北向不動尊の道標の前には2本の小さな道標もありました。右側の道標の正面は「鳥羽天皇御陵、近衛天皇御陵」、左側の道標の正面には「右 北向不動明王/左 城南宮 道」とそれぞれ書かれています。

 

● 城南宮参詣道の道標銘文

 東面「城南宮参詣道」

 西面「昭和二十七年九月建之」  

● 北向不動尊の道標銘文

 東面「鳥羽天皇 /勅願所 北向不動尊」

 南面「大正十五年一月建 /京都市松原通新町東 /寄附者 清水平兵衛」

 北面「不動院住職 /南面浄海代」

(令和元年12月25日、追記)

「北向き不動尊」の道標が見当たりません

● ストリートビューで確認したところ、この周辺は整備されていました。前の2本の小さな道標はありましたが、「北向不動尊」の大きな道標は見当たりませんでした。 

 

伏見区竹田浄菩提院町の道標 (平成24年9月24日、追加)

● 城南宮通りをさらに西に向かい、油小路通りを横断した角にこの真新しい道標が建っていました。京都では古い道標もありましたが、こうした新しい道標も多く見かけました。

 

● 銘文

 東面「城南離宮 右白河天皇成菩提院陵 /鳥羽天皇安楽寿院陵 /

    近衛天皇安楽寿院」

 南面「城南宮←参詣道」

 西面「右 中書島 宇治 大阪方面 /左 北東方竹田駅 北西方京都南IC」

 北面「城南宮→ 平成十一巳辰年 /三月吉日建之」

 

鳥羽、城南宮

● 伏見街道から大きく外れ西の桂川の近くまで来ました。ここへ来たのは鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切られた場所でもあったからです。しかし、城南宮の本殿前で引き返したので、それらの史蹟を見つけることはできませんでした(この辺りで3万歩を越えていたので限界寸前でした)。あとで判ったことですが、この少し西の小枝橋の東詰辺りに「鳥羽伏見戦跡」の碑などがあったようです。

● 城南宮の説明板によれば、慶応4年1月3日、幕府軍とその入京を拒もうとする薩摩藩とで押し問答が始まり、強行突破しようとする幕府軍に対して、城南宮参道に置かれた薩摩藩の大砲がとどろき、戦いの火ぶたが切られたということです。

● 城南宮の創立年代は定かではありませんが、神功皇后の時代と伝えられています。平安遷都後、城(平安京)の南にあることから城南宮と呼ばれました。白河天皇が鳥羽離宮を造営してからはその一部にとなり、天皇や上皇の行幸がしばしばありました。後代には京都御所の裏鬼門を守る神となったことから方除けや厄除の神として信仰されるようになりました。

 

戊辰戦争発端の地小枝橋、戦跡碑 (平成24年9月24日、追加)

● 名神高速道路の京都南ICを南に向かい、城南宮道を西に折れてしばらく進むと、千本通りとの交差点になりますが、この交差点の北西の角にこの碑が建ってました。

● 大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜は、薩摩を討つために上洛を決意し、慶応4(1868)年正月3日、幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍しました。この地に布陣していた薩摩藩砲兵の一隊と幕府軍の間で戦いが繰り広げられた。この碑は翌年まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦跡、小枝橋を示すものです。(京都市歴史資料館HPより)

 

● 銘文

 東面「鳥羽伏見戦跡」

 南面「昭和四十三年 京都市」

 

伏見区中島秋ノ山町の道標 (平成24年9月24日、追加)

● 鳥羽伏見戦跡の碑の西側に並んで建っています。ここから少し西が鴨川に架かる小枝橋ですが、現在は少し上流側に架けかえられています。

 

● 銘文(1859年、ひつじ)

 東面「安政六 /未五月 上鳥羽 /奈佐氏」 

 南面「左り 京ミチ」

 西面「城南離宮 右 よど /や八た」

 北面「昭和六十三年辰五月 /城南宮復元建立」

 

京都三条大橋

● 山陽道はここで終了です。江戸時代には三条大橋は幕府直轄の公儀橋として管理されていました。東海道五十三次西の起点でもあります。また、山陽道東の起点でもありました。 現在の橋は昭和25年に架けられたものです。西詰に彌次喜多の像もありました。(マップは、弥次喜多の像の場所を示す)

● 下を流れるのは鴨川ですが、三条河原と言えば刑場としても知られている場所です。戦国、江戸時代にはしばしば歴史上の人物も処刑されています。

 

 

―橋本から淀へ―

  京阪橋本駅前の道標 (平成24年9月24日、追加)

● 駅の東側にこの道標はありました。この道標が建てられた頃の橋本は、京阪電車は開通(明治43年)していましたが、橋本渡船場があり対岸の国鉄山崎駅や柳谷観音、長岡天神、粟生光明寺(法然上人25霊場の16番札所)、善峰寺(西国33ヵ所の20番札所)などへの利用客で賑わっていました。

● 現在の京阪電車軌道上(西遊寺の西)に妙見宮旧常徳寺があったのですが、文化10(1813)年に焼失したという記録があるそうです。この寺に豊臣秀吉が訪れた時、白湯を進上したので「湯たくさん茶くれん寺」といわれ、以後寺号としたとの伝説が残っています。山崎の合戦(1582年)の頃らしい。 私の地元姫路市井ノ口の法輪寺にも、秀吉が英賀城攻めの当時(1580年)に同じ伝説があり、「湯澤山茶くれん寺」と呼ばれています。他に、北野大茶会(1587年)へ向かう途中で立寄った浄土院にも同じ言い伝えがあるようです。

● ところでこの辺りには「京都 三宅安兵衛遺志」と書かれた石標が多く目につきます。調べてみると三宅安兵衛さんは京都で帯織物業を営み一代で財をなし、大正9年、79歳で亡くなっていますが、その遺志をうけ、子の清次郎さんがたくさんの碑を建てました。その数は京都市及び周辺で400を越えているそうです。この道標もその一つです。

 

● 銘文

 東面「昭和二年十月 京都 三宅安兵衛遺志建之」

 南面「京大阪街道 (下部)右 八幡御幸橋八丁 /左 樟葉八丁 /

              南 志水近道廿丁」

 西面「湯澤山茶久蓮寺跡」

 北面「橋本渡船場 三丁(中部)山崎停車所十 丁/柳谷観音一里廿丁

            (下部)長岡一里 /粟生一里半 /善峰二里」 

 

橋本中ノ町の道標(1) (平成24年9月24日、追加)

● 京阪橋本駅と淀川堤防の中間を南北に通る道路は、旧遊郭の跡で道の両側には当時を思わせる建物が連なる街並みになっています。この通りの北のT字路を左に曲がると、淀川堤防の手前に渡し場の道標が建っていました。この辺りに対岸の山崎や大阪に向かう渡し場があったようです。そうじ寺の案内もありますので、摂津国茨木の西国33カ所22番札所總持寺への巡礼道でもあったのかもしれません。大阪への渡船は京阪電車の開通と共になくなっているようですが、対岸への渡しは昭和37年まで続いています。

 

●   東面「柳谷わたし場」

  南面「山さき /あたご わたし場」

  西面「明治二己巳年六月 (1869年、つちのと・み)

    (下部)世話人 角屋三良兵衛 /北之町吉之助 /渡シ 中間」

  北面「大坂下り舟の里場 /津の国そうじ寺」

 

橋本中ノ町の道標(2) (平成24年9月24日、追加)

● 渡しの道標から東に100㍍ほど進むとまた三叉路になりますが、その北東の角にこの古い道標がありました。八まん宮はもちろん「石清水八幡宮」です。

 

● 銘文(1767年、い)

 東面「明和四年亥二月」 

 西面「左リ 八まん宮 /いせ京伏見 道」

 北面「左?・・」(判読不能)

 

(令和元年12月25日、追記)

● ストリートビューで確認したところ、現物は撤去されている。

 

橋本北ノ町の道標 (平成24年9月24日、追加)

● 中ノ町から北に向かいます。また、三叉路になりますが、その一角にこの道標がありました。

● ここで余談ですが、今歩いている道は、東海道(京道、大坂道)とあとで知りました。江戸日本橋から京都三条大橋までの東海道五十三次は、慶長六(1601)年徳川幕府によって整備されました。一方それより以前に豊臣秀吉は大坂城と伏見城を結ぶ通行路として淀川に文禄堤を築いていました。大坂城落城後はここに東海道を延長し五十七次としました。大津(53)の髭茶屋追分から分岐して、伏見宿(54)、淀宿(55)、枚方宿(56)、守口宿(57)を経て大坂高麗橋が終点です。また、西国大名が参勤交代の時に朝廷との接触を防ぐため、京都洛中をバイパスする伏見から大津へのルートをその通行路として指定していたようです。

 

● 銘文(1819年、つちのと・う)

 東面「文政二巳卯年二月吉日」 

 南面「左 津の国そうじ寺 /大坂下り舩乗場 道」

 西面 (判読不能) 

 北面「右 八まん宮山道 これより(小文字)十六丁」

 

橋本奥ノ町の古木 (平成24年9月24日、追加)

● 淀川堤防に大きな楠木がありました。樹齢千年とか、この辺りが渡し場であったとかの情報がありますが、正確なことはよくわかりませんでした。

 

(令和元年12月25日、追記)

● ストリートビューで確認したところ、堤防が整備され伐採されたようだ。

 

木津川と宇治川を渡る (平成24年9月24日、追加)

● この辺りで木津川と宇治川が合流し、さらに少し下流側で桂川と一緒になり、淀川として一本の流れになっています。三川合流の地です。ここを渡る橋は、明治18年石清水八幡宮に勅使が派遣されたことにちなんで、御幸橋(ごこうばし)と名付けられています。手前の木津川御幸橋を渡るとすぐ淀川御幸橋になります。下に流れているのは宇治川ですが、橋には淀川と書かれています。(マップは、木津川御幸橋西詰)

● 淀川御幸橋は平成15年に、木津川御幸橋は平成17年にそれぞれ新しくなっていますが、欄干は古い橋のものがそのまま使用されています。上を通る道路は府道13号線ですが、これはかっての国道1号線です。二つの橋を渡り、京滋バイパスの高架下をこえたところで、八幡市から京都市伏見区淀となります。 そのまま府道13を北東に向かえば、淀城跡公園になります。

 

 

―追分から墨染まで―

大津市髭茶屋追分の道標  (平成24年10月8日、追加)

● 京阪電車、追分駅の南の国道1号線を横断し、さらに少し南ヘ向かうと府道35号線に出ます。ここが旧東海道です。西に進むと道標のある三叉路になりますが、ここは髭茶屋追分と呼ばれており、東海道から伏見、淀方面への分岐点(=東海道57次の起点)になります。また、近江国と山城国の境界で、現在も大津市と京都市山科区の境界になっています。道標は昭和29年に再建されたものですが、大津市歴史博物館のHPによれば、元の道標は江戸中期のもので現在は県立安土城考古博物館に保管されています。 (東海道57次については前述「橋本北ノ町の道標」参照)

 

● 銘文

 東面「みきハ 京ミち」

 南面「ひたりハ ふしミみち」

 西面「昭和廿九年三月再建」

 北面「柳緑花紅 法名 /未徹」

(柳は緑花は紅、春の美しい景色、物をあるがままに受け入れるという禅のさとりの境地、などの意がある)

(令和2年11月24日、追加)

● 上記道標の現物は、安土城考古博物館の埋蔵文化財収蔵庫の東側に保管展示されてました。

 説明板によれば、安永9(1780)年刊行の「都名所図会」にこの道標が記載されているので、それ以前の建立ということになります。

 

山科区音羽珍事町の道標 (平成24年10月8日、追加)

● 追分から府道35を西に進むと、道路の北側の植え込みの中に2基の道標が見えました。また、その少し先の交差点の南側でも2基の道標がありましたが、どちらも同じ看板の造園関係の会社のようです。ここに道標が置いてある事情はよくわかりません。これらは、京都市の資料でも見つけられませんでしたので、元の位置などについても不明です。

● 伏見周辺の旧街道は道路の幅も狭く交通量も多いので、確かに道の端に道標が建っておれば、通行の支障になるでしょう。現に学校や寺院、公園などに移された道標もありました。それが京都全体の事情かもしれません。

 

山科区音羽珍事町、牛尾山の道標 (平成24年10月8日、追加)

● 名神高速道京都東ICの高架の手前にある小さな十字路の南東の一角に「牛尾山道」と書かれた道標がありました。牛尾山はここから南東へ約3㌔ほどの音羽山の支峰牛尾山の中腹にある牛尾山法厳寺(牛尾観音)への道であることを示しています。法厳寺(ほうごんじ)は延暦年間(782~806年)の開創が伝えられる古刹です。また、清水寺の奥の院としても親しまれているそうです。

 

● 銘文

 南面「寄附者 芝本三之助 /西村〇助」

 西面「大正拾貳年九月 建之」

 北面「牛尾山道」

 

山科区音羽稲芝の道標 (平成24年10月8日、追加)

● 音羽病院の前を通り、国道1号線を横断し100㍍ほど南へ行ったところの十字路の一角にこの道標がありました。ほとんど文字が見えないので通り過ぎようとしましたが、「牛尾山」らしい文字がかすかに見えましたので、とりあえず写真に納めました。あとで京都歴史資料館のHPで調べたところ明和3年の古い道標でした。

● 牛尾山法厳寺と清水寺の関係は、上の道標で記述した通りです。

 

● 銘文(1766年、ひのえ・いぬ)

 西面「清水寺 /奥之院 牛尾山道」

 北面「明和三丙戌年正月」 

 

山科区大塚中溝の道標 (平成24年10月8日、追加)

● 府道35号線は、再び国道1号線を横断します。新幹線の高架下の民家の玄関前にこの道標がありました。年代等はありませんので、いつ頃の道標かは判りません。道路が狭く、通行量も多いので道標の正面からの撮影はできませんでした。府道35は、ここから南の醍醐狭間で右折しますが、直進して南に向かえば宇治、奈良方面に向かいます。

● 銘文

 北西面「ひだり おゝつみち」

 南西面「みぎ うじみち」

 

皇塚と妙見宮の道標 (平成24年10月8日、追加)

● 新幹線の高架下を過ぎると、右手の小高い石垣の上に大きな樹がありました。ここには、もともと直径20㍍ほどの円墳があり、大塚、王塚、皇塚などと呼ばれていました。6世紀前半のものと推定されていますが、原型をとどめていません。その名称から桓武天皇の墓とも伝えられ、大塚という地名の由来となったといわれています。また、現在は岩屋神社のお旅所(大塚西浦町)にもなっています。

● 皇塚を過ぎると、次の十字路の左手に「妙見宮」の道標(大塚南溝町)がありました。妙見宮は、道標の横の「妙見道」を東に向かいます。妙見菩薩は、眼の病が治ることを願う人々に信仰され、江戸時代には多くの人が参詣したといわれています(地図は道標の場所を示す)。

 

● 銘文

 東面「横幅壹丈三尺 /奥行三町余見道 /妙見講申立合改之」

 南面「日出講 木屋市左衛門 /松坂屋儀兵衛 /伊勢屋七兵衛 /

    奈良屋嘉右衛門」

 西面「妙見宮」

 

街道沿いで見た愛宕山常夜燈 (平成24年10月8日、追加)

● この街道沿いでは多くの愛宕山常夜燈を目にしました。愛宕山信仰は、京都市右京区の愛宕山山頂の愛宕神社から発祥した神道の信仰です。愛宕の神は古くから火伏せに霊験ある神として、全国に広められたようです。京都では多くの家庭の台所や飲食店の厨房などに愛宕の火伏せ札が貼られているそうです(地図は宝迎寺前の常夜燈を示す)。

● 昨年歩いた西国街道でも京都周辺で多くの愛宕山常夜燈を目にしてます。

 

大宅古海道町、岩屋神社一ノ鳥居 (平成24年10月8日、追加)

● 宝迎寺を過ぎ、府道35を南に進むと道の左に岩屋神社と書かれた幟に囲まれた大きな鳥居が見えました(地図は一ノ鳥居を示す)。岩屋神社はこの鳥居から東に約400㍍ほどのところです。神社は、奥之院又は岩屋殿と称する本社後背の山に二つの巨巌があり、これを磐座として祀ったのが、始まりといわれています。社殿は一度焼失しましたが、現存するのは弘長二(1262)年再建された当時のものです。

 

大宅甲ノ辻町、大宅一里塚跡 (平成24年10月8日、追加)

● 岩屋神社の一ノ鳥居とお旅所を過ぎると、名神高速道の手前が大宅甲ノ辻町交差点になります。この交差点の北西の角にこの一里塚跡があります。大宅(おおやけ)一里塚跡には、以前は道の両側に残っていましたが、東側の塚は取り除かれ、現在は西側しか残っていません。これが京都市内唯一の一里塚跡になるそうです。直径4~5㍍、高さ1.8㍍の塚の上に榎が植えられています。大きな榎は一里塚が整備された当時のものと思われます。西国街道で多くの一里塚跡を見てきましたが、当時の樹木がそのまま残っているのはありませんでした。

 

● 銘文

 東面「おおやけ大宅一里塚跡」

 西面「昭和五十七年三月建之 京都洛東ライオンズクラブ」

 

勧修寺仁王堂町の道標群 (平成24年10月8日、追加)

● 名神高速道の下を通りしばらくすると三叉路になり府道35は右折します。まっすぐ行けば府道は36号線となり、宇治、奈良方面に向かいます。府道35を道なりに進むと、勧修寺前に出ますが、ここに1基の愛宕常夜燈と3基の道標がありました。元の設置場所はよくわかりませんが、それぞれの道標の銘文は、京都市歴史資料館の資料によれば次の通りです。(南側の道標から順次掲載、(・・・?)内の文字は埋没個所)

● また、銘文に京都市観光課の銘があるのは、京都市では昭和5年に日本の自治体で最初の観光部局である観光課を設置し、昭和10年代を中心に数多くの観光地道標を設置していることによるものです。 

 

● 道標(1)銘文

 東面「右 坂上田村麻呂公墓 山科滑石方面 /左 深草小栗栖方面」

 南面「右 醍醐大津方面」

 西面「京都市観光課」

● 道標(2)銘文(1843年、みずのと・う)

 東面「北江すぐ 大石蔵(之助旧跡?) /(西之山岩屋寺?) /

    井四拾七(人位牌?)」

 南面「施主(上京糸屋町 /銭屋八郎兵衛?)」

 西面「天保十四年(癸卯九月?)」 

● 道標(3)(1804年、きのえ・ね)

 東面「文化元 /子九月 (下部)京口講 /世話方」 

 南面「南 右 大津 是より一丁北西エ(行?) /

      左 京道 すべり石越大仏(道?)」 

 西面(なぜかセメントで塗りつぶされている)

 北面「北 すぐふしみふじ(の森?)」

● 常夜燈

 東面「愛宕常夜燈」

 西面仁王堂」

 

宮道(みやぢ)神社 (平成24年10月8日、追加)

● 勧修寺前の道標から細い路地を通り南へ進むと府道35に出ますが、その角に宮道神社があります。入口の由緒碑によれば、平成12年に社殿等が再整備されていますが、創祀は寛平10(898)年という古い神社です。ここは山城国宇治郡(現在の山科区、宇治市周辺)などを本拠としていた宮道氏の邸宅跡ということです。

 

深草谷口町の道標(1) (平成24年10月8日、追加)

● 宮道神社から府道35を西に進むと、名神高速道に沿って坂を上りそして下ります。その下りかけたあたりで、山科区から伏見区になります。深草谷口町の交差点の脇の空地に大きな道標が建っていました。道標は、ここから50㍍ほど北にある深草毘沙門天を案内しています。

● 深草毘沙門天は、深草鞍ヶ谷町の浄蓮華院のことで、由来は本尊の阿弥陀如来が毘沙門天と呼ばれていることからきているようです。浄蓮華院は、文政4(1821)年有栖川宮韻仁親王の命により、桓武天皇(50代)の菩提のために建立されました。

 

● 銘文

 東面「人王 /五十代 桓武大王陵」(ここもセメントが塗られて読みづらい)

 南面「泉州堺 神南・・・? 」(判読不明)

 西面「霊場(横書き) 深草毘沙門天 是よ里 /北半丁」

 

深草谷口町の道標(2) (平成24年10月8日、追加)

● この道標は、上の道標の道路の北側の水路沿いにあります。ここから100㍍ほど北にある仁明天皇(54代)御陵と、宇多天皇皇后の御陵を示しています。

● 南面にある宇多天皇(59代)の皇后胤子(いんし、又はたねこ)は、醍醐天皇の母になりますが、祖父は宮道神社の由緒碑にもあった宮道弥益(いやます)です。醍醐天皇は、胤子が亡くなったあと母の生家の菩提寺を建て直し、勧修寺と名付けたということです。

● このあたりは京都でも天皇の御陵の多い地区だそうです。京阪電車京津線に「御陵」(みささぎ)という駅もありました。

 

● 銘文

 南面「宇多天皇皇后御陵」

 西面「仁明天皇御陵」

 

深草大亀谷東久宝寺町あたり (平成24年10月8日、追加)

● 深草谷口町の交差点を過ぎ、しばらくして府道35を左折して深草大亀谷東久宝寺町に入ります。ここからは多少登り坂になります。両側には旧い家並も残っています。鍵の辻になった街道を通り抜けるとJR奈良線の跨線橋になり、西福寺を右折して藤森神社の前を過ぎるとT字路になり、伏見街道に合流です。今回のルートはここで終点とします。(マップは、左の写真を撮影した場所を示す)

 

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