―但馬道の道標―

(平成22年4月18日)

 但馬道は、姫路市から朝来市生野町までの街道で、日本海側への幹線道路です。明治9年には生野鉱山から飾磨港までの生野鉱山道(銀の馬車道)が完成し、一部重なります。姫路市北部から福崎町にかけての街道は、市川の西岸を通る道筋と東岸を通る道筋があります。この南北の街道に巡礼道や加西道、宍粟道と呼ばれる東西の街道が交差しています。

 市川の西岸は一本道のせいか道標があまり見当たりません。市川東岸の姫路市豊富町、船津町、山田町、神崎郡福崎町辺りの道標を紹介します。道路の配置の関係で前後の道標がつながらないこともありますが、南方面から順次掲載しました。

この間の道標所在地

 

(平成30年11月5日、追加)

 書写山から丹後の成相寺への巡礼道のうち、市川西岸の福崎町や市川町の道標を下部に「市川町周辺の道標」として追加しました。

 

(令和3年3月10日、追加)

国道312号線の落合橋南詰から県道34号線を北上し笠形山登山口に至るルートの道標を下部に「市川町岡部川流域の道標」として追加しました。

 

 

豊富町神谷の細野バス停前の道標 (2基)(平成22年4月21日追加)

● 加西市古法華付近から姫路市仁豊野町方面へ通じる県道373に沿って歩くと、最初の集落が豊富町神谷(こだに)です。その集落の入口の細野バス停前に2体の地蔵ではなく2基の角柱型の道標がありました。右の道標の「きれいけ」はよくわかりません。巡礼道は、金竹の順礼橋の説明板にあるように、西の書写や広峰から順礼橋を渡りこの道標を見て、次の道標から峠を越えて、飾東町小原に出たものと思われます。

 

● 右の道標銘文(正面・西)(1849年、とり)

 右面「嘉永二酉年 /施主・・・」 

 正面「(地蔵坐像)右 きれいけやしろ /左 山みち」

● 左の道標銘文(正面・西)(1813年、みずのと・とり)

 右面「文化十癸酉二月吉日」 

 正面「(地蔵坐像)右 ほつけ山 /左 〇やしろ」

 左面「西国同行中」

 背面「右 つじかわ /左 ひめじ」 

 

豊富町神谷の道標(2基)(平成22年4月24日追加)

● 上の道標の200㍍ほど南の三差路の横にありました。このお堂は県道373を背にしてありました。現在の位置では、案内する方角がおかしいように思われます。この辺りはかなり道路が整備されているようなので、工事の際に移設が考えられます。

 明治26年の地図で確認すると、この三差路の右(東)の道は行き止まりになっていますが、左(西)の道は小さな峠を越えると飾東町小原の交差点の近くに出ます。道標は元は北向きにあったのではないかと思われます。

 

● 左の大きな道標銘文(正面・南)

 右面「同行三人」

 正面「(地蔵坐像)右ほつけさん /生木地蔵 /左やまみち」

 左面「明治四十年四月」

● 右の道標銘文(正面・南)

 正面「右 ほつけ山 /左 山道」

 

豊富町神谷の岩屋地蔵堂内の道標 (3基)(平成22年4月21日、追加)

● 細野バス停前の道標から1㌔ほど西に向かった岩屋公民館付近にこの地蔵堂がありました。中には道標らしきものが4基ほど見えましたが、手がとどかず確認できませんでした。後で姫路市石造遺品銘文集を調べてみると、中には2基の角柱型と1基の舟形光背型の道標があるようですが、外観のみ掲載しておきます。資料によれば、銘文は次の通りです。

 

 ● 角柱型1銘文

 正面「(地蔵坐像)右 法花山 /左 やしろ」

● 角柱型2銘文

 正面「(地蔵坐像)・・・」(下の文字は欠落して不明)

● 舟形光背型銘文

 正面「右 やえはた /左・・・」

 

豊富町御蔭巡礼道の道標 (令和2年4月21日、追加)

● 豊富団地内の散歩道にこの道標が建っていました。横に設置の案内板を要約すると「順礼橋を渡って東へのびる田の中の道が昔の巡礼道。昭和57年に付近の藪の中から道標が見つかり、元の位置近く(旧位置は道の北側)に立てられた。・・・(略)道標の置かれていた場所がたじま(但馬)道と巡礼道の交差点であることを表している」とありました。(注:「順礼橋」は3つ下に説明あり)

● 現在ではこの付近は団地や工場敷地として整備されているので、昔の面影はみられません。「今昔マップ」によれば昔の巡礼道の道筋はほぼ判別できますが、旧但馬道は明治初期に銀の馬車道として整備されているので、案内板にある両街道の交差状況をたどることはできません。

● 表示内容は「方位」とその方角に位置する「目的地」になっています。飾東町庄の但馬道と巡礼道との交差点にも同じような表記の道標(姫路市飾東町庄の道標、「巡礼道の道標」参照)が見られます。「西 志よしや山ミち」など四面すべてに方角の表記があり、道標の向きも示された方角を向いて設置されています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「南 ごちやく 道」

 正面「西 ひろミ年 /ひめじ 道」

 左面「北 たじま 道」

 背面「東 ほつけ山 /是ゟ二り」

 ● 高さ60㌢、 幅20㌢、 奥行15㌢ 

 

豊富町御蔭栗橋公民館付近の道標 (平成22年4月21日追加)

● この道標の左の南北の道路は現在の地図では、南の御蔭(みかげ)交差点から北の船津方面へ通じる道路です。西の市川と東の但馬道の中間あたりを北に延びています。

● 明治26年の地図では、この辺りは栗橋の集落の北の入口で、横T字型の三差路になっています。ここから東への道は、但馬道沿いの御蔭の集落に通じています。道標に方向は示されていませんが、東西の道が「みかげ道」になると思われます。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「みかげ道」

 左面「周旋人 松尾弥太郎 /高馬五一郎」

 

播但自動車道豊富ランプ付近の道標(平成22年4月24日追加)

● この道標は、豊富町御蔭曽坂にある新次神社を案内するものです。設置場所は播但自動車道の豊富ランプ入口周辺の整備された一角にありました。この辺りはランプの建設で道路はかなり新しくそして複雑なっています。姫路市飾東町庄の道標から、播但自動車道に沿って曽坂峠を越えるとここに出てきます。

 

● 銘文(正面・西) 

 正面「式内新次神社 是より東 六丁」

 

順礼橋の碑(平成22年4月24日追加)

● これは道標ではありません、明治17年の碑です。巡礼道のルートが詳しく説明されていたので掲載することにしました。この説明板によれば当時の巡礼道は、橋から東に延びる道を行くと岩屋寺辺りを通り法華山へ、また、橋の西側に南北に通る道路は生野鉱山道・銀の馬車道でこれを南にいくと現在の生野橋付近で市川を越え(明治9年鉱山道完成後は生野橋を利用)、市内白国で表巡礼道(巡礼道ページ参照)に合流して書写山へ通じているとのことです。

  

豊富町豊富の道標1 (平成22年4月20日追加)

● 豊富中学校あたりを北へ過ぎると人家の少ない田んぼが続きます。約1㌔でまた集落(太尾)に入りますが、この中の三叉路に道標がありました。現在は電柱のかげで見えにくいのですが、北から来た巡礼者に姫路の広峰を経て第27番書写山圓教寺を案内する道標でしょうか。右の道は現在は狭く、左が比較的広い道路になっています。右の道を南に進むと下の道標のところに出ました。この道標の道の西側に「豊富村道路元標」が設置されていたので、この辺りが豊富町の中心であったようです。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「明治十五年建」

 正面「右 ひろみね道」

 

豊富町豊富の道標2 (令和2年4月6日、追加)

● 平成22年当時雑草に隠れていたのか見逃していましたので、追加で掲載します。下の道標の4~5㍍ほど北になります。

 

● 銘文(正面・東やや北)

 正面「右指差し手形 に婦の /ひろみね /志よしや 道」

 左面「丑年男」

 

● 高さ51㌢、 幅24㌢、 奥行12㌢

 

豊富町豊富の道標3(平成22年4月30日)

● 「豊富町豊富の道標1」を南にしばらく進むとこの道標がありました。周りの住宅は新しいのですが、古い街道筋のようです。明治26年の地図で確認すると、ここから右は南西の重国という集落近くで市川をわたり、仁豊野方面に通じています。また、左は重国の東の酒井という集落に向かっており、そこから栗橋や御蔭に道筋がついています。御蔭から南の曽坂を越えれば、御着方面に行くことができます。銀の馬車道以前の但馬道のように思えますが、未確認です。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「右 ひろみね /ひめじ /左 ごちゃく」

 

● 高さ52㌢、 幅21㌢、 奥行15㌢

  

豊富町太尾北口バス停まえの道標

● 豊富町から山田町に入る手前の、但馬方面と北条方面への道路の分岐にこの道標はあります。ここを右へ進むと北条、丹波方面へ、左に進むと生野、但馬方面へ、またその途中の大沢を西に進むと宍粟市方面にそれぞれ進みます。

● 道標の上部は一部欠損しておりますが、道標の大きさや道案内の内容、設置された場所などの点で、今回探した道標の中では一番道標らしい道標のように感じました。

 

● 銘文(正面・南)(1832、みずのえ・たつ)

 右面「天保三壬辰十二月(下部に小さな文字で)服部藤四郎」  

 正面「此方 たん者” /本うでう 道」(丹波、北条)

 左面「此方 ひめじ /飛ろミね 道」(ひろみね)

 背面「此方 たじま /志そう 道」

 高さ138㌢、 幅32㌢、 奥行30㌢

(令和2年4月6日、追記)

● 久しぶりに通ってみたら、周辺の道路は舗装整備され、道標はガードレールに隠れていました。

 

仁色我女房の道標 (平成26年3月2日、追加)

● 太尾北口バス停前の道標から「此方 たじま/志そう 道」の方(北東)に進み、平田川を渡るとすぐに三叉路になります。その三叉路に南向きの小さな道標があり、それによると右は但馬道ですが、左の細い道は「上野・・ち」となっています。この細い道を北西にたどると、仁色の集落を通り、西勝寺の西を北に進むと上野、そしてその先の御立の集落に達します。また、但馬道はここから船津町内をほぼまっすぐに北に進み福崎町の西光寺に出ます。道標の所在地が船津町史では「仁色我女房」となっていますが、現在の住所では豊富町豊富になります。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(仏像)右 たじま /左 上野〇〇ち」(欠損部は「みたち」?)

 高さ52㌢、 幅7㌢、 奥行12.5㌢ 

 

船津町仁色消防車庫前の道標(平成22年4月30日追加)

● 我女房の道標から上野道を北西に進むと、仁色の集落に入り、仁色公民館の東側に出ます。ここに小さな道標があります。下部は埋没して文字の全体は読めません。「船津町史」によれば、北から来て、右は江鮒道、左は太尾道となっています。太尾(ふとお)は今来た道を戻ることになります。仏像のある道標はどこでも、線香や供花が供えられ、中にはさい銭も置かれて、地元の方々に大切にされています。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「(地蔵坐像)右 江ふ・・・ /左 ふ・・・」「・・・」は埋没)

 高さ35㌢、 幅18㌢、 奥行13㌢

 

西勝寺西の道標 (平成29年5月11日、追加)

● 仁色消防車庫前から北に向かうと西勝寺という大きなお寺の前に出ます。ここを迂回する形で道路は少し西へ進みすぐ北にカーブしています。旧たじま道はもう一本西側の細い道を北に向かいます。この道標はその角に建っています。

● 「右 たじま道」は、道標のある細い道を北に進むと、上野を過ぎ、大沢の道標2基のところを通り福崎に向かいます。「左 い王べ渡し(岩部の渡し)」はここから西の市川堤防上の道標のところに出て、北行し、船津公園前の市川の渡しの道標のところを案内しています。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「(仏像立像)右 たじま道 /左 い王べ渡し」

 高さ40㌢、 幅27.5㌢、 奥行12㌢

 

船津町中野、市川堤防上の道標 (平成26年3月2日、追加)

● 西勝寺の少し北を左折し、上野道から外れます。実際は途中に播但道があったり、田の中で行き止まりになったりで右折、左折を繰り返しますが、市川の堤防上の三叉路に、南向きのこの道標があります。「船津町史」によれば、市川の対岸からこの道標の所に渡しがあったようです。道標の「右西光寺の」にしたがって東に進む東西の道路は、焼野池の北で、太尾から北行した但馬道と交差し、さらに東へ西光寺野を抜けて北条へ向かう「北条道」でした。また、「左たじま」はこの道標から八幡神社の西を通り市川東岸に沿って福崎町辻川で但馬道に合流したようですが、現在は八幡神社から北へ向かう但馬道は、市川や雲津川の氾濫などでなくなっています(かたりべ、第12集)。この南北の道は「ひめじ道」と呼ばれていました。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(仏像立像)右 西光寺の /左 たじま」

 高さ50㌢、 幅18㌢、 奥行11㌢

 

船津町焼野池東の道標 (平成29年5月8日、追加)

● この道標前の南北の道は但馬道です。東西の道は、上記の「中野、市川堤防上の道標」から東に向かい西光寺野を抜けて北条道に合流するルートになりますが、その後、焼野池ができて道はなくなっています。(船津町史より)

 

● 銘文(正面・西)

 正面「(仏像立像)右 北条 /左 たじま」

 高さ40㌢、 幅18㌢、 奥行10㌢

 

船津村道路元標(平成22年4月30日追加)

● 船津町の細い町道、我女房の道標で分岐した上野道をさらに北の方に進むと船津町上野というところに来ます。かなり古い火の見櫓があり、その下に「舩津村道路元標」があった。

 

船津町三又の道標と市川の渡し跡の碑 (平成26年3月2日、追加)

● 中野の市川堤防上の道標に示されたひめじ道を北行すると船津公園の東側に達しますが、公園の東の若宮神社の南に「市川の渡し場跡」の碑と小さな西向きの道標が設置されています。碑文によれば渡し場はここから約150㍍ほど南にあり、対岸は香寺町岩部で通称は「いわべの渡し」でした。渡し場は、享保年間(1716~1735)に認められたもので、東の北条と西の宍粟を結ぶ「宍粟道」でした。道標は姫路道から渡し場への分岐点に北向きにあったと思われます。上部欠損部は「右」かや志そう「左」ひめじではないかと思われる。明治26年の地図では岩部の渡しは岩部側に舟が常駐する一岸出船の記号がついています。

 

●銘文(正面・西)

 正面「〇 かや /志そう /〇 ひめじ」(夢前町鹿谷、宍粟市)

 高さ37㌢、 幅20㌢、 奥行15㌢ 

 

船津町八幡の道標(2基) (平成26年3月2日、追加)

● 姫路道をさらに北に向かい八幡神社の西を通り、八幡集会所を過ぎ、船津八幡公園の手前の祠の中に2基の道標が祀られていました。どこかから移設されたものと思われますが、その説明はありません。右の道標はほとんど文字は読めません。

● 左の道標は「右 もん志う/左 たじま」とありますが、福崎町の冊子、かたりべ第12集によれば、「右もん志う」はここから北に向かい、福崎町南田原の与位神社の手前から右折して東に向かい西光寺の交差点の南(姫が池西の道標のところ)で但馬道に合流し、北、福崎町東田原の神積寺(通称、文殊さん)に向かうという道筋になります。また、「左 たじま」は市川東岸沿いに辻川に達する道が明治のはじめ頃まであったようですが、市川の氾濫で流されたのか、現在は途切れています。

 

● 右の道標銘文(正面・東)

 正面「(地蔵坐像)右・・・ /左・・・」(劣化のため判読不能)

 高さ50㌢、 幅21㌢、 奥行13㌢

● 左の道標銘文(正面・東)

 正面「(地蔵坐像)右 もん志う /左 たじま」

 高さ50㌢、 幅18㌢、 奥行13㌢

 

山田町北山田の道標 (写真右)

● この自然石型の道標は、法華山一乗寺方面から但馬街道へ通じる道筋にありました。ここにはほかに年代の記載されていない道標と一石一字法華塔があります。現在では、道標の右方向の道路は田んぼのあぜ道のように細くなっており途中で途切れますが、明治26年の地図で確認すると、北の小さな池の東を通り山田町多田の方に延びて福崎方面への道につながっています。明和二年は1765年で、姫路市内では飾東町豊国にある延宝五年(1677)に次ぐ、古さでは2番目のものです。

 

● 銘文(正面・東)(1765年、とり)

 正面「(地蔵像)右 たじま」

 背面「明和二酉年〇 谷口助五〇」(〇は不明)

 

山田町北山田の道標 (写真左)

● 上記の道標と同じ場所にあります。上の写真では左側の道標です。これは上部が一部欠損してますが、舟形光背型の道標です。上の道標で説明したように「左のみち」の方が現在では広くなっています。近くの天満神社の石の鳥居にも明和二年の年代が刻まれていました。なお、地図にある北側の小高い山には「清盛塚」という古墳です。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「右 たじまみち /(地蔵立像) /左 のみち 」

 

北山田公民館前の道標

● 公民館のポストの陰に角柱型の道標がありました。年代の表記はありません。地図で確認すると、右方向に梅林寺がありますので、ここを案内する道標でしょうか。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「(右向き手形)是ヨリ /四国(横書き)八十八ヶ所霊場 /

                施主南山田村 /大谷文吉」 

 

山田町西山田の道標

● 西山田の村中に真新しい「地蔵堂の跡」の碑が目に付いたので近寄ってみたら、手前に道標らしき石柱がありました。残念ながら上部はなく「みち」の文字しかわかりませんでしたが、一応道標として掲載しておきます。

 

山田町西山田村中の道標 (3基)

● 上の道標の200㍍ほど西の村中に祠があり、3基の道標がおさめられていました。一見地蔵尊と思いましたが、かすかに文字が見えたので道標とわかりました。近寄って写真を撮っていたら近くの方が来て書いてある文字などを親切に教えてくださいました。花を替えたところなのできれいに写真を撮ってくださいともいわれました。期待通り?に写っていると思います。「いわ(わ=王の草書体)」は近くにある香寺町の「岩部」 、また「すくひめ」は「まっすぐひめじ」と思われます。

 

● 写真右の道標銘文(正面・東)

 正面「(地蔵立像)右 い王 /釈幼月 /左 すくひめ」

● 写真中の道標銘文(正面・東)

 正面「(地蔵坐像)右 い王 /釈幼月 /左 すくひめ」

● 写真左の道標銘文(正面・東)

 正面「右 たじま道 /南無阿弥陀仏 /左 ひめじ道」

 

山田町多田専光寺境内の道標

● 本堂の前に道標はありました。北は辻川、生野、南は法華山や加古川という位置は南北の道筋に西向きに建てれば方向が合うので、この周辺の南北の道のどこにあってもおかしくないものです。

 

● 銘文

 正面「〇〇 ほつけ山かこがは道」

 左面「北方 つじかはい久の道」(辻川生野、「北方」は右横書き)

 

福崎町八千種の道標(2基)(平成22年5月6日追加)

● 八千種庄の交差点から県道410を西に向かい、平田川を渡ってすぐの辻に2本の角柱型の道標がありました。表示の内容は西向きに設置されていれば合致するのですが、移設されたのでしょうか。県道410を東に進めば北条へ向かいます。右の法花山へは一本道ではないのですが、南に向かえば法華山の方向になります。

● 姫路市香寺町久畑から県道410のこのルートは西方面から北条に向かう旧い街道でした。久畑から東に福崎町方面へ抜けるには、福崎東洋ゴルフ場の北を通るため峠があり、平地の多い県道410に沿った街道が多く使われたようです。ここはその旧街道から法華山へ向かう分岐点になっています。

 

● 左の道標銘文(正面・東)

 正面「(地蔵坐像)左 北条 /右 法花山」

● 右の光背型道標銘文(正面・東)

 正面「・・・/〇 ひめじ道」(一部判読不能)

 

福崎町八千種、松永神社西の道標(2基) (平成26年3月10日、追加)

● 八千種庄の交差点から500㍍ほど北に進み左折すると松永神社がありますが、その200㍍ほど西の三叉路に2基の道標があります。いずれもかなり劣化が激しく文字がよく読めませんので、「福崎町石造遺品」や「かたりべ第12集」によりその銘文を確認しました。文字が不鮮明なため改行等については一部の推測になります。

● 左側の大きな道標は高さ63㌢の角柱です。小さいほうは高さ45㌢でくし形です。ここから西に進むと長池という大きな池になりますが、その南東の堤にも道標がありました。

 

● 大きい方の道標銘文(正面・西)

 右面「此 /方 ひめじ /志かま」

 正面「此 /方 いはべ /南無阿弥陀仏 /志んざい」(岩部村、神西郡)

 左面「此 /方 辻川 /あまじ」

 背面「此 /方 北条やしろ /東大坂」

● 小さいほうの道標銘文(正面・東)

 正面「(仏像) 右 御立 岩部 /左 にぶのひめじ」

 

福崎町八千種、長池堤南東の道標 (平成26年3月10日、追加)

● 長池は、福崎町と姫路市船津町に跨る大きな池です。この池の堤の南東にこの小さな道標がありました。近くに石の残欠がありますが、道標の台石でしょうか?

 

● 銘文(正面・西)

 正面「右 北条 /左 北のへ(?)」(「左」の下は不鮮明)

 

福崎町八千種、小倉の道標 (平成29年6月19日、追加)

● 八千種庄交差点から県道410号中寺北条線を東に進むと、小倉地区の三差路にこの道標があります。コンクリートの基礎で一部埋没して文字が確認できません。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「(仏像坐像) 右 つじ川 /左 ひめじ」

 高さ50㌢、 幅20㌢、 奥行16㌢

 

南田原、西野々垣内公民館前の道標(平成26年3月10日、追加)

● 松永神社西の道標の東側の道を北へ進むとこの道標の横に出ます。祠に入った光背型の道標です。北から来て目にする道案内です。道標の右の道を進むと豊富町太尾方面へ、左の道を辿ると八千種から姫路市山田町や加西市剣坂を通り法華山に向かいます。

 

● 銘文(正面・北) 

 正面「右 太尾村 /(仏像) /左 法花山」

 

船津町大沢の道標2基(平成22年5月21日追加)

● 八千種の交差点から県道410号中寺北条線を西に進むと、姫路市船津町大沢で但馬道と交差します。この交差点をさらに100㍍ほど西に向かった集落のはずれに小さな地蔵堂がありました。その地蔵堂の横に2基の道標があります。

● 前の道標は、ここから右は西の溝口駅と、左は南西方面の岩部の渡し方面を案内しているものです。その奥の道標は四面に案内があります。道標の前の南北の通りは船津町の上野から北に延びる道でここから東に進み但馬道に合流します。南の上野集落に行く途中からは御立、三又、岩部方面にも行けます。また、東西の通りは西は、八幡神社の西の渡しに通じています。東は八千種を経て、北に進めば大貫、東にすすめば北条町黒駒の道標のところに出ます。

● 奥の道標はかなり劣化しています。近くの人に聞いて文字と現在の場所がわかりました。また、頭に書いてある「東西南北」は方位ではなく、向かう方向を示しているようです。姫路市の銘文集で確認した時、この道標はきっと大きな道標と想像しておりましたが、写真の通り、15㌢角で高さは50㌢の小さな道標でした。

 

● 手前の道標銘文(正面・東)

 正面「(地蔵坐像)右溝口駅 /左岩部」

● 奥の道標銘文(正面・北)

 右面「北 もん志う /つ志か王 道」(田原文殊、辻川)

 正面「東 おうのき /ほう志よう 道」(大貫、北条)

 左面「南 上野 /にしき 道」(船津町仁色)

 背面「西 神西郡 /い王べふね 道」(岩部)

 

福崎町南田原、姫ケ池西の道標 (平成26年3月10日、追加)

● 姫路市船津町の大沢交差点を北に進むと、福崎町西光寺の交差点になりますが、その少し手前の姫ケ池の西の三叉路に小さな祠の中にこの櫛型の道標があります。祠内の右の石柱が道標です。前掛けを上に持ち上げてみるとパラパラと欠片が落ちるほど劣化していますので、ほとんど文字は読めません。船津町八幡の道標の「右 もん志う」がここにつながると「かたりべ」にありました。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(仏像)右 たじま /左 村 道」

 

神崎郡福崎新の道標 (平成25年11月8日、追加)

● ここは、船津町大沢の道標からは北西の方向にかなり離れています。播但線福崎駅の東になります。国道312は、姫路方面からは福崎新町交差点で右折し東へ向かいますが、旧道はまっすぐ北に進みます。その旧道に入って50㍍ほど進むと三叉路になりますが、この北の民家の手前に折損の痕跡が残るかなり旧い道標がありました。その案内によれば、ここから旧道を右(北)に向かえば但馬方面へ、左(西)に向かうと七種(なぐさ)への道になります。現在の地図では「七種」の地名は見当たりませんが、七種川、七種山、七種の滝などにその名を見ることができます。

 

● 銘文(正面・東)(1785、(きのと)み)

 右面「天明五巳年十二月」 

 正面「右 たしま /左 なくさ 道」

 左面「施主俗名善六 /法名・・・ /・・・道」

 

平成26年2月17日、追記

● 設置場所について、冊子”かたりべ、第十二集”(福崎ふるさと語りつぐ会、発行)よれば、元の位置は、少し南の福崎新町交差点北西角(福崎新公民館の前)にあり南向きに設置されていたが、道路拡幅の際移設された。道標の左面の刻銘も同冊子による。また、たじまへの道筋については、南、姫路市香寺町溝口から来て現道標の設置位置を北東に進み、志水米穀店の前にある題目塔から北に向かうというルートになっていた。

● 天明の頃、ここから西に向かう道筋は、少し西の七種川に沿って一旦北に向かい、現在の福崎東洋ゴルフ場の北側を廻り、姫路市香寺町の久畑に出るというコースで、現在の県道23号線に沿ったコースはなかったようです。

 

神崎郡福崎新の題目塔台石の道標 (平成25年11月8日、追加)

● 「福崎新の道標」のある三叉路を少し北に進むとまた三叉路になっています。その三叉路を右、東に進むとかなり広い道路に出ますが、その広い道路西側に高さ3㍍ほどの大きな旧い題目塔があり、その台石の西面が道しるべになっていました。市川西側の但馬道は、ここから北に向かっていました。

 

● 台石(正面・北)

 右面「右北条 /左生野」(いずれも縦書き)

● 題目塔銘文(正面・北)(1765、きのと・とり)

 右面「 明和二乙酉年三月建之」   

 正面「南無妙法蓮華経 法界萬靈」(上部はヒゲ文字)

 左面「本願人 福嵜村 道専日修 /妙崇日行」

 背面「・・・」(多数の人名らしい文字がならぶ)

 

神崎郡福崎町出屋敷七種橋西詰の道標 (平成26年2月23日、追加)

● 回り道をしてしまったが、ここからは福崎新の道標の元の位置(福崎新公民館)から西に向かう。七種橋を渡ると、右側の三角地帯に3基の石柱が集められています。内2基が道標でした。手前の小さな道標は残念ながら「右、左」の下はほとんど読むことができません。奥の大きな道標(高さ64センチ)は嘉永四年の銘があります。この道標は前述の「かたりべ、第12集」によれば、ゴルフ場の南側を通る新し西行きのコースができた後に建てられた道標のようです。

 

● 手前の道標銘文(正面・南)

 正面「右・・・ /左・・・」(「・・・」部分は風化が激しく判読不能)

● 奥の道標銘文(正面・東)(1851年、(辛)亥)

 右面「嘉永四亥正月日」 

 正面「右 田口なぐさ /左 まいの所安じ」

   (七種山付近が福崎町田口、「安じ」は姫路市安富町安志か?)

 左面「施主 加宇屋 /鉄右ヱ門」

 

姫路市香寺町中村、久畑交差点東の題目塔と道標 (平成26年2月23日、追加)

● ここ久畑の交差点は七種橋から約3㌔ほど西になります。西の山崎方面から来た場合、ここで南の姫路方面、東の福崎、北条方面の分岐点になります。交差点の100㍍ほど東の西向き斜面の中段に頌徳碑(南)と高さ2㍍ほどの題目塔(北)があり、また、その東側に小さな祠があり2基の仏像があります。

● 題目碑の前(西側)に南北の道跡があり、ここを題目碑に向かって右(南)に向かうと姫路方面になります。また、少し東の池の西側堤を北に向かうとゴルフ場の北側を通り、福崎町七種橋の西詰の道標の所に出ることになります。(「かたりべ」より)

 

● 題目碑銘文(正面・西)(1760年、かのえ・たつ)

 正面「南無妙法蓮華経南無日蓮大士」

 背面「寶暦十庚辰歳七月」  

 台石・西「右 姫路道 /左 北条道」

● 祠内右側道標(題目塔の後方)銘文(正面・北)

 正面「(仏像坐像)右・・・ /左・・・」

 

神崎郡福崎町東田原大門の道標 (平成25年11月8日、追加)

● 福﨑新の交差点を東に進むと市川を渡り、辻川交差点をこえて、さらに播但自動車道を過ぎると交差点の北西角に大きな道標があります。ここから北500㍍ほどにある妙徳山神積寺(じんしゃくじ)を案内しています。南へ行くと、「銀の馬車道」に掲載した「福崎町東田原の道標」に出ます。神積寺は、天台宗叡山派に属する寺院で、正暦2(991)年慶芳上人によって開基されました。本尊は薬師如来で脇に文殊菩薩と毘沙門天が安置されています。文殊菩薩は俗に田原文殊として親しまれ、播磨天台六山の一つに数えられています。付近の道標にも「もん志う」「もん志”ゆ」などと案内されていました。

 

● 銘文(正面・南)(元治元年=1864年)

 右面「正暦二年 /慶芳上人開基 本堂四丁 /文殊堂三丁」(991年)

 正面「従是妙徳山道」

 左面「元治元 門(門の中に於)逢困敦歳正陽建之」

   (門(門の中に於)以下は「甲子」の意)

 背面「施主 /神農講十五姓」(以下十数名の名前らしい文字あり)

 

神崎郡福崎町東田原、岩尾神社の鳥居と石橋 (平成26年2月23日、追加)

● 神積寺の手前から少し東に向かったところに岩尾神社があります。ここは辻川方面から加西市の北条方面へ向かう道筋にあたります。前述の「かたりべ、第12集」によれば、三木家の北側から神積寺の下を通り、石橋を渡り、西、東大貫集落を通り抜け、さらに東行して北条に入るという道筋であったようです。

● 近くの説明板によれば、鳥居は姫路城主池田輝政が慶長16(1611)年に建立したもので、沓石はなく直接埋められており、高さは3.5㍍である、。前の石橋も同時期に造られたといわれ、全長は6.2㍍、川底からの高さは3.1㍍、どちらも県の重要文化財に指定されています。

 

神崎郡福崎町東田原亀坪の道標 (平成25年11月8日、追加)

● 大門の道標から約2㌔ほど北東の方向、日光寺山登山口の近くの田んぼの斜面にこの道標は設置されていました。この辺りの道路は新しく整備されているので、その際に付近から移設されたものと思われます。

 

● 銘文(正面・南西)

 正面「(仏蔵坐像)みぎほう志”やう /かめつぼ

           飛だり(?)日かふ寺」(右北条 /亀坪 /左日光寺)

 

東田原亀坪の奥、日光山登山口の道標 (平成26年2月23日、追加)

● 亀坪の道標からさらに2㌔ほど北東に向かったところにも登山口があります。現在は写真のようにフェンスが閉じられていました。この地蔵堂のまえにこの道標がありました。方向は袖から右手を出して示しています。

 

● 銘文(正面・南)(1852年)

 右面「嘉永五子正月吉日」  

 正面「(袖付き左指差し手形)日光寺〇」(「〇」は「道」?)

 

福崎町大貫の道標 (平成29年5月25日、追加)

● 県道23号三木宍粟線の西大貫のバス停近くのよく整備された歩道の上にこの道標が設置されていました。高さ約110㌢、幅は約20㌢の立派な道標ですが、なぜか「福崎町石造遺品銘文集」には記載されていません。残念ながら左面はほぼ全面が欠損して銘文が確認できません。

 

● 銘文(正面・北)(1811年、辛未かのと・ひつじ)

 正面「右 志楚う いくの」 (宍粟、生野)

 左面「左 ・・・・   」 (欠損のため不明)

 背面「文化八〇未年 /施主人 糀屋」          

 

 

ー市川町周辺の道標ー

(平成30年11月4日、追加)

● 書写山円教寺(27番)から成相山成相寺(28番)への巡礼道のうち、福崎町や市川町の道標を紹介します。この間の、巡礼道の道筋や道標の銘文などは「市川町の道標」と「石造遺品の神崎郡誌(下)」を参考にしました。

(令和3年3月30日、追加)

● ここに掲載されていないものも含めて神崎郡神崎町の道標の位置については、市川町在住の方が作成した「神崎町の道標マップ」に詳しく表示されているのでご参照ください。

 

神崎郡福崎町高岡の道標 (平成30年11月5日、追加)

● 書写山境内十妙院前の道標右面に「右たんご道」とあります。これが成相寺への巡礼道のスタート地点と思われます。そして、姫路市夢前町置塩、前之庄を通ります。前之庄の道標(4)から県道407号前之庄市川町線を東に進むと、この板坂(旧字名?)の道標にでます。この道標を左折して北東に進むと、田口の道標につながります。この道標は、道路改修時に行方不明になっていましたが、その後この場所に設置されたようです。ただ、巡礼道を「ひだり」と案内しているので、西向きに設置されないとあいません。

 

● 自然石の道標銘文(正面・南)

 正面「ひだり寿んれいミち」

 高さ70㌢、 幅24㌢、 奥行15㌢ 

 

神崎郡福崎町田口の道標、1 (平成29年6月19日、追加)

● この古い道標は、県道407号前之庄市川町線と県道406号田口福田線の三差路に建っています。元は上の池の岸辺りにあったようです。近くの方の話では、巡礼道は、高岡の道標からここを通り、上の池の東側を廻って峠を越えて市川町奥に抜けるという道筋だったようです。この方の家の旧字名は「巡礼道北」だったということでした。峠の途中に「十丁」の丁石もあるということでしたが、細道のため車での通行は難しく現物は未確認です。また、大石内蔵助の妻りくさんは実家が豊岡なのでこの道を度々通ったと話に聞いているとのことでした。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「   志よしやより四里

    此方 志”ゆんれいミち

       なりあい二十三里」 (「此」などの文字一部欠落)

 高さ84㌢(除く台石)、 幅25㌢、 奥行24㌢ 

 

神崎郡福崎町田口の道標、2 (平成29年6月19日、追加)

● この道標は、「田口の道標、1」の道路反対側にあります。道標としてはかなり新しく昭和六年の銘があります。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「右→ 七種山金剛城寺 /左← 福崎驛」

 正面「右→ 丹後成相山 /左← 前之庄宍粟」

 背面「小豆島巡拝三十回記念 /昭和六年三月 村 /尾崎勝次郎」

 高さ89㌢、 幅25㌢、 奥行25㌢ 

 

神崎郡福崎町田口の丁石、3 (令和3年2月25日、追加)

● 巡礼道は、田口の道標1から北に延びてこの峠を経て市川町奥に向かっていました。現在は、田口の道標1の少し北の県道406号線から整備された農道を東に入ります。徐々に上りが続き農道が終わり竹林の山道に変わります。その竹林をしばらく進み坂を上りきったあたりの道路脇にこの舟型光背形の丁石がありました。この丁石は今も大切にされているようで新しい花も供えられていました。

● 付近に十丁以外の丁石は見当たりません。またどこに向かう丁石かもわかりませんが、十丁(約1㌔)ほど西に金剛城寺(本尊は十一面観世音菩薩)があります。創建は6世紀末の古刹ですが、明治の初期に七種山中腹から現在地に移転しています。勝手な推測ですが、この寺を示す丁石でしょうか?

● 書写山、広峰山、八徳山、清水寺の丁石の表示は「〇〇丁」で「〇〇丁目」ではありませんでした。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「十丁目・地蔵菩薩立像」

 高さ48㌢(除く台石)、 幅29㌢、 奥行12㌢

 

神崎郡市川町奥の道標① (平成30年7月27日、追加)

● 福崎町田口の道標から峠を越えると、市川町奥になります。北の丹波方面への道と東の坂戸方面への道との交差点にこの道標が建っていました。道標の現在の設置では、その表示が地図と方向が合いません。左側の道路の北側に南向きに建てると現在の地図と方向が一致します。周りの道路はよく整備されているので工事の際に移設されたかもしれませんが、これは未確認情報です。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「(地蔵坐像)右 さかとみち /左 丹波なれやい」

 高さ85㌢ 幅24㌢ 奥行21㌢

 

市川町奥の道標群 (平成30年11月5日、追加)

● 奥の集落の中を蓮泉寺に向かって北に歩くと、成相寺を案内する道標が4基ほど見られました。この道筋がかっての巡礼道になると思われます。道標②の手前は道標①へ、道標⑤の先は北東方向の近平(ちから)の道標にそれぞれつながっています。

(↓地図をクリックすると拡大できます)

 

奥の道標② (平成30年11月5日、追加)

● 奥の集落入口付近の三差路の右側ブロック塀の下に道標は傾いて建っていました。

 

● 自然石型の道標銘文(正面・西)

 正面「右 あまじ/ 左 なれあい 道」

 高さ67㌢、 幅30㌢、 奥行16㌢ 

 

奥の道標③ (平成30年11月5日、追加)

● 道標②から北へ100㍍ほど進んだ三差路右側にこれも傾いて建っていました。

 

● 自然石型の道標銘文(正面・西)(断面がほぼ平行四辺形の自然石)

 正面「左 たじま /たんご 道」

 高さ53㌢、 幅20㌢、 奥行17㌢ 

 

奥の道標④ (平成30年11月5日、追加)

● さらに50㍍ほど北に向かった所にも三差路があり、右側に道標がありました。左面は埋没し、その上文字も劣化のため不鮮明です。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「(仏像坐像)左なれ・・・」

 高さ42㌢、 幅26㌢、 奥行11㌢

 

奥の道標⑤ (平成30年11月5日、追加)

● 坂の頂上付近、蓮泉寺の手前の池の下にも道標がありました。地図にはありませんが西方向に山道があるので、ここも三差路になっています。現物では、南(左)面と西(背)面の文字が確認できませんでした。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「北 なれやい」

 正面「下 あまじ」

 左面「南 まゑの庄」

 背面「此方 山ミち」

 高さ62㌢、 幅20㌢、 奥行17㌢ 

 

神崎郡市川町甘地の道標 (平成26年11月10日、追加)

● 福崎新から市川の西岸を北に向かいます。播但線甘地駅の前を通り、県道404号長谷市川線をさらに北に進むと、光円寺と甘地小学校の中間あたりの東西の道が少しずれた交差点に、この黒い自然石の道標がありました。南面に左向きの指差し手形が「たじま」となっている。「石造遺物 の神崎郡誌」によると元の位置は、ここから南の神清寺南の三差路であったとしている。

 

● 銘文

 南面「(左向き指差し手形)たじま」(腕は着物の袂からでている)

 西面「(右向き指差し手形)ひめぢ」(腕は着物の袂からでている)

 

神崎郡市川町近平(ちから)の道標 (平成30年11月5日、追加)

● 川のほとりの祠の中にこの地蔵道標がありました。現在では奥の道標群から直接つながった道路はありませんが、その延長線上にあるのは間違いありません。この道標の左の農道を北に向かうと谷の道標につながります。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(仏像坐像)左なりあい」

 高さ51㌢、 幅17㌢、 奥行10㌢

 

神崎郡市川町谷の道標(2基) (平成30年11月5日、追加)

● 近平の道標から水田の中の一本道を北に向かうとこの道標に出会います。今まで歩いた街道は、山裾を縫うように続くコースが多かったのですが、ここでは水田の中の一本道になっており、珍しいと思いました。

● 巡礼道はこの先、鶴居か屋形で市川を渡り但馬道に合流するか、このまま北に向かって生野まで進むか二つのコースがあったようです。

 

● 右の道標銘文(正面・東)

 右面「明治四十三年 建之」

 正面「(仏像坐像・右指差手形) 右 丹後 /なれあい道」

 高さ55㌢、 幅21㌢、 奥行12㌢

● 左の道標(?)銘文(正面・東)

 正面「(仏像坐像)・・・・道 /・・光童子」

 高さ49㌢、 幅22㌢、 奥行16㌢

 

神崎郡市川町、屋形橋付近 (平成26年11月10日、追加)

● 甘地からさらに北に向かってみました。播但線鶴居駅前交差点に出ました。この北西角に「鶴居村道路元標」が建っていました。この交差点を右(東)に屋形橋を渡ると市川町屋形になり、銀の馬車道であった南北の通りにに出ます。ここを北に進むと国道312号線に合流して生野方面に行くことができます。

● 屋形はかっての宿場町であり、9軒の旅籠があったそうです。明治4年の生野義挙の際の決起の場所ともなっています。また屋形橋の上流側付近には船着場があり、宝暦5(1755)年から高瀬舟による銀や年貢米の輸送が行われていましたが、明治27年播但線の開通により廃止になっています。船着場の写真は地元の方に提供いただきました。市川もこの橋の付近は流れが穏やかですが、少し上流側も、下流側も岩場が多く船着場としては不向きな場所のように思えました。

(令和3年3月10日、追加)

屋形郵便局東側の船着き場跡の写真(右端)を追加しました。

 

神崎郡神河町新野、長楽寺付近の地蔵道標 (令和3年3月18日、追加)

● 県道404号長谷市川線から長楽寺へ向かう途中の交差点に大きな祠があり、その中にこの地蔵道標があります。地蔵の台石が道標になっています。所々判読困難な個所があります。

● 祠の前の道路が「市川町谷の道標」の延長上にある巡礼道と思われます。

 

● 銘文(正面・東)(1768年、(つちのえ)・ね)

 右面「長楽寺〇/ 〇作香林〇」(?)

 正面「これよりうゑ/ さいこく三十/ 三所多ん古”能道」(丹後の道)(?)

 左面「明和五戊子年/ 正月廿四日/ 施主 當邑中」

 高さ36㌢、 幅26㌢、 奥行26㌢ (台石のみ)

 

神河町役場駐車場の道標 (令和3年3月18日、追加)

● 役場前駐車場の南東植込みの中の道路側にありました。元は長楽寺の付近の地蔵道標の前を通り小田原川を渡ったあたりにあったのではないか、と「石造遺物の神崎郡誌」にありました。その場所は特定できませんが、現在地とそれほど違わないようです。

● 正面が「左」で背面が「右」は、同じ方向を案内していることになると思うのですが、背面の「右」の文字がよくわかりません。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「左 志そう」

 背面「右(?) たんご」(「右」に見えるが、右では方向が合わない)

 高さ54㌢、 幅28㌢、 奥行14㌢ (自然石型)

 

薬王子神社の常夜燈 (令和3年3月18日、追加)

● 薬王子神社下の新旧の道路が交差した変則交差点の一角にこの自然石の常夜灯型道標があります。

● 薬王子神社は厄除けの神として知られ本殿は、享保15(1730)年に建築されています。

 

● 銘文(正面・南) (1852年、みずのえ・ね)

 右面「嘉永五子年十一月造之/ 明治九丙子一月再建」

 正面「右 たじま/ 常夜燈/ 左 於社」(「燈」は崩し字)

 全体の高さ約180㌢、 竿部の幅50㌢

 

神河町栗の地蔵道標 (令和3年3月18日、追加)

● 県道39号一宮生野線から栗橋を渡った右側、市川の左岸にこの舟形光背型の地蔵道標がありました。

● 「左 とちはら」は、県道39号線を市川の上流側に進み、その支流の栃原川沿いに北上すると生野町栃原があります。現在では方向が合いませんが、栗橋がまだ架かる前を想定すると一旦左(西)に向かい長谷橋をわたらないと県道39号に出られません。(ストリートビューで確認すると栗橋は「昭和四十一年」架橋となっている)

● 「右 ひのはら」は現在の地図では周辺に見つかりませんが、栗地区内に「日野原」という地名があったようです。神河町の資料に「日野原地蔵」などの記述が見られます。

 

● 銘文(正面・南)

 光背右「右 ひのはら」

 光背左「左 とちはら」

 高さ55㌢(除く台石)、 幅25㌢

ー市川町岡部川流域の道標ー

(令和3年3月10日、追加)

● 国道312号線の落合橋南詰交差点から県道34号西脇八千代市川線を北上して周辺の道標と丁石を紹介します。途中、上牛尾から笠形山登山道方面を目指します。

● 判読不能の道標は「石造遺物の神崎郡誌・下」を参照しました。

 

神崎郡市川町保喜橋北詰の道標

● 県道34号線の保喜橋を渡った北側の変則十字路にこの道標はありました。近くの方の話によると、岡部川拡幅時に付近から移設されたようだ、移設の時期や元の位置などはよくわからない、とのことでした。

● 右方向は県道34号線で北の牛尾方面へ、左方向は中の道を小畑方面へ案内しています。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「明治四十四年五月吉日」

 正面「(上部に地蔵坐像)右 うしお/ 左 をばた 道」

 左面「保㐂(喜)村/古川利八 建之」

 (銘文は、WEB「兵庫県市川町の道標と丁石マップ」より引用)

 高さ48㌢(除く台石部)、 幅18㌢、 奥行11㌢ 

 

市川町北田中の道標 (令和3年3月13日、追加)

● 市川町スポーツセンターのグラウンド東南の三差路にこの櫛型の道標があります。この辺りはグラウンドや体育館、駐車場とよく整備されているのでその際に移設か設置し直されたものと思われます。近くに金比羅宮の参道入口もあるので山裾の南北の道路は古いようです。

● 右は北方向の「小畑」を案内していますが、現在の地図では直接つながる道路は見つかりません。左は西方向ですが市川の渡し場があった「西川辺」を案内しています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「明治三十八年三月建之/ 笹田金次郎」

 正面「(仏像坐像)右 をばた/ 左 かわなべ 道」

 左面「十/ 番 相畑待釋信證」 (十番は右横書き)

 高さ48㌢、 幅18㌢、 奥行12㌢

 

市川町上瀬加の道標、3基

● 上瀬加の十柱神社の参道入口の道路脇南斜面に3基の道標が置かれていました。

 

● 写真右の道標

 右(東)方向は現在の地図では、県道145号下滝野市川線で釜坂峠を越えると加西市若井町になります。また左(北)方向「可なくら」は牛尾、笠形を経て、多可郡加美町の金蔵寺を案内しています。そのルートの途中には「旅先で見た道標」の「多可町大屋の道標」があります。

 銘文(正面・南)

  右面「明治四十年十二月建之」

  正面「(仏像坐像)右 わかい/ 左可なくら 道」

  左面「施主 木村嘉一郎」

  高さ53㌢、 幅19㌢、 奥行12㌢

 

● 写真中の道標

 上部に仏像坐像があり中央に4名の法名が刻まれ、その下が道標になっております。法名は「梅芳童女/春〇童女/玉〇童女/玉円童女」が4行で刻まれています。

 銘文(正面上・南)

  正面「(仏像坐像)(4名の法名)右 わかい/ 左 うしの 道」

  高さ54㌢  (幅、奥行は未計測)

 

● 写真左の道標

 2面に道案内がありますが、右面が南(上)向きになれば方向が合います。3面の文字が見えるように置いてあるのかもしれません。

 銘文(正面・南)

  右面「右 加西加東郡ニ至ル」

  正面「左 牛尾笠形ヲ経テ/ 多可郡ニ至ル」

  高さ62㌢、 幅13㌢、 奥行8㌢

 

市川町上瀬加御室の道標

● 十柱神社前から県道145号線に出て東に進み岡部川を越えると大きな工場が続きその先の高井金属工業前の道路北側にこの櫛型の道標があります。「右うえの」はこのまま県道145号線を東に進むと加西市の上野町にでます。「左あわが」方向の山道は北で牛尾方面への道と合流していますので、笠形を越えて粟賀に出ていたのかもしれません。

 

● 銘文(正面・南西)

 右面「文久3亥七月」 (1863年、(みずのと)・い)

 正面「(仏像坐像)右 うえの/ 左 あわが 道」

 高さ48㌢(除く台石)、 幅21㌢、 奥行11㌢

 

市川町上牛尾塩谷の丁石

● 塩谷の十三仏板碑群への登り口にこの舟形光背型の丁石があります。光背の右側に「是より本堂まで三十六丁」とある本堂は、現在の笠形山山頂の笠形神社の拝殿(元は笠形寺本堂)を指しています。笠形寺は明治初年の神仏分離令により中腹に移っています。

 

● 銘文(正面・南)

 光背右「従是本堂迠三十六丁」

 光背左「享保十乙巳三月日」 (1725年、きのと・み)

 高さ63㌢(除く台石)、 幅34㌢