―古代山陽道の痕跡―

(平成24年6月26日)

 1300年前の街道を想像すると、自然のままの細くて曲がりくねった様子が浮かびます。しかし、当時の律令国家が整備した街道は、まっすぐで幅も広く、今風に言えば高速道路であったようです。こうした道路の全容が判明しているわけではありませんが、その痕跡はいろいろと残されています。例えば、兵庫県赤穂郡上郡町落地(おろち)遺跡で発掘された播磨国の山陽道駅路の道路は、10㍍の幅を有していました。また、兵庫県明石市和坂付近から高砂市阿弥陀付近までの約20㌔はほぼ直線のルートであることも確認されています。

 古代山陽道は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道と共に計画整備されましたが、都城と太宰府を結ぶ大動脈として唯一大路と定められました。大路には30里(約16㌔)毎に駅家(うまや)という施設が設置されていました。10世紀前半の延喜式には播磨国から長門国までに51駅が記されています。、

 ここでは「日本の古代道路を探す」(北海道教育大学釧路校準教授中村太一著)に掲載された資料に基づき播磨国山陽道の痕跡を辿ってみます。

古代山陽道痕跡の地図

 

明石駅家跡 (平成24年7月4日 追加)

● 明石駅家跡は、明石城北東の高台にある太寺廃寺(高家寺境内)が有力視されていますが、出土品も少なく確定はされていません。

● 古代山陽道の駅家で延喜式に記載されているのは、明石、賀古、草上(姫路)、大市(姫路)、布勢(たつの)、高田(上郡)、野磨(上郡)の七駅ですが、類聚三代格(平安時代初期の法令集)には「大同二(807)年・・・播磨国九駅・・・」との記録があるので、当初より二駅が廃止されていたことになります。そのうちの一つは賀古駅と草上駅の間にある佐突駅家と判明していますが、あと一つは記録がありません。近年の調査により明石市長坂寺の遺跡が該当することがほぼ判明しました。ここは邑美駅家と仮称されています。

● 7月22日高家寺境内の写真追加、日曜日のためか門が閉ざされ境内には入れず。

 

明石市明石川西岸の条里余剰帯

● 今回は明石城西方の明石川に架かる嘉永橋からスタートしました。

● 写真は明石川に架かる嘉永橋の西詰です。和坂までのほぼ直線の様子がわかります。ここは江戸時代の街道、山陽道とも重なっています。ここに見られる痕跡は、「条里余剰帯」とよばれている10~20㍍の帯状の地割ですが、住宅街となった現在では、手持ちの地図を見ても直線であること以外は判別できません。

● 条里制においては、1町(約109㍍)四方の正方形で造成された区画を「坪」といい、縦横6坪、計36坪を「里」とし、これを横に連ねたものを「条」と呼んでいました。このことによって〇〇国〇〇郡X条Y里Z坪で地番が表示されました。このような土地に敷設されていた駅路が、中央政権の弱体化とともに交通体制も崩れ、道路も衰退し、次第に耕地に編入されていった跡が条里余剰帯です。

● また、 国道175の東には「大道町」の町名も見えますが、これも痕跡の一つでしょうか?

 

明石市和坂付近 

●  条里余剰帯を通り抜け国道175を横断すると、ややゆるい上り坂になり(左写真、地図の位置)、江戸時代の山陽道は北寄りにカーブしています。現在道路はありませんが、古代山陽道はここからまっすぐに通り近くの国道2号線のほうに向かっていたようです。国道2号線を西に進むと、松の内交差点でまた分岐します(右写真)。まっすぐな古代の道路といくらかカーブの多い現在の国道2号線とはこれから先も度々交差をします。松の内交差点から古代山陽道と思われる道路はまっすぐ進み、JR西明石駅の構内を通り抜けます。

 

明石市大久保町松陰の古代山陽道の説明板 (平成25年3月30日、追加)

● 本日、大久保方面の太山寺道を歩いていたら、神戸刑務所の北の池の畔に「古代山陽道」と書かれた説明板を見つけました。ここが古代山陽道とすると上記の説明は誤っていることになります。

● 古代山陽道のこの辺りの明確なルートはわかりません。この説明板にしたがっておおよその推定をすると、和坂の坂上寺を過ぎたあたりから北西の方に向かうと区画整理の進んだ街並みになりますが、広域地図で確認すると、この説明板の方向に、細い道路が途切れながら続いているようです。ここからさらに太山寺道を西に進めば金ヶ崎で再び山陽道に合流するというルートになります。

 

明石市大久保町藤江付近

● JR西明石駅を通り過ぎると、マンションが立ち並ぶ地域となり道路は駐車場などで消滅します。その延長は国道2号線の北側の幼稚園の西側に通じています(左写真、地図の位置)。ここで再び江戸時代の山陽道と重なり雲楽池の南で国道2号線を再び横断し(右写真)、大久保方面に向かいます。

 

明石市大久保町西脇付近

● JR大久保駅の前を通り、国道2号線の大久保西交差点で道路は一旦途切れますが、その延長はコカコーラの工場の西側に繋がります。下の写真は工場の西側から東を向いています。

 

明石市長坂寺、邑美駅家跡

● ここは明石駅家と賀古駅家の中間辺りになります。延喜式にも記録のない駅家ですが、近年の調査の結果、駅家跡にほぼ間違いないといわれています。

● この辺りでは、大正年間から瓦が採集されていたので、古代寺院があると考えられ、長坂寺村廃寺と呼ばれていました。その後、山陽道の研究が進み寺院ではなく「駅家」と考えられるようになりました。ただし、この地の駅家は早く廃止され、延喜式にも記録はありません。そこで726年聖武天皇が行幸した(続日本紀)という「邑美頓宮(おうみのかりみや)」にちなんで「邑美駅家(おうみのうまや)跡」と仮称されていました。

● 兵庫県立考古博物館が平成20,21年の2年にわたり地中レーダーによる探査をしたところ、方形区画の反応があり、23年2月から発掘調査が行われました。その結果、①以前から採集されていた瓦は奈良時代の遺構である、②一辺が80~90㍍の直線的な遺構があり、これまで明らかになっている布勢駅家跡や賀古駅家跡の中枢施設である「駅館院(やっかんいん)」の規模に一致する、③遺構の南西に古代山陽道の想定ラインがあり、邑美駅家跡の可能性が高まった。などということが判ったそうです。

● 左の写真の角柱は、民家の庭先にありますが、駅家の南西端の位置にあたるようです。また、右の写真は民家の北側から撮影したもので、この田んぼが駅家跡になるようです。(兵庫県立考古博物館HPほか)(マップは右の写真の位置を示す) 

 

明石市魚住町清水付近

● 清水神社の前から北西方向の写真ですが、正面に加古川市と高砂市にまたがる高御位山(標高300㍍)が見えます。古代山陽道想定ラインがこの山の南側、高砂市阿弥陀魚橋付近までほぼ直線であることが実感できます。明石市和坂からここまでもほぼ直線です。ここから先の想定ライン上に稗沢池や賀古駅家跡もあります。

● 因みに、江戸時代の山陽道はここまでは古代山陽道のルートとほぼ重なっていましたが、この坂を下ったところからからやや北寄りになり、加古川左岸の渡しの辺りまでは古代の想定ラインとは重なることはありません。また、坂を下った西福寺の前には「是よりはりま名所道」の大きな道標があります。  

 

明石市二見福里、稗沢池(ひえざわいけ)付近

● ここは長坂寺から西へ約2.5㌔の地点で、邑美駅家と賀古駅家のほぼ中間になります。平成13年10月、この池の東に隣接する水田の30㌢ほど下から、古代山陽道跡が良好な状態で見つかり、その延長上のこの堤が古代山陽道跡と確認されました。現在遺構跡には住居が立ち並んでいました。

● 発掘された道路は、約70㌢の側溝を持ち、道路面は小石を敷詰めて補強されていました。道路の幅は最も広い所で約12㍍、狭い所で約6㍍でした。時代によって改修されていたようです。周辺からは奈良時代から平安時代にかけての須恵器や平瓦なども出土しています。遺構の長さは約40㍍で、古代山陽道の遺構としては、西は岡山県備中国分尼寺、東は高槻市郡家川西遺跡までの5ヶ所に続く6例目ということです。

● 堤の中ほどの木立は古墳時代後期と思われる古墳のようです。

 

賀古駅家跡周辺の道路

● 稗沢池の西はJR土山駅周辺の市街地となりますが、古代山陽道想定ラインの延長上にそれらしい道路は見当たりません。しかし、その西側で、播磨町と加古川市の境界が直線で、賀古駅家の方向に向かっています。また、加古川市内の市街地の大字界(旧村界)も直線となり、駅が池(うまやがいけ)の方向に進んでいます。当時の村などの境界としては、川などの自然物のほかは、このような大きな道路は重要な存在であったかもしれません。

● 左の写真(地図の位置)は賀古駅家の東側の阪神団地内道路で西向きに撮影した様子です。ここは加古川市平岡町新在家と野口町二屋の境界で長く直線状になっています。右の写真は駅家の西側の様子で、正面は駅家西側の工場です。 

 

加古川市野口町、賀古駅家跡

● この遺跡は、大きな工場に隣接した住宅街の中に、大歳神社としてありました。

● 「日本往生極楽記」に「我は、これ播磨国賀古郡賀古駅北の辺りに居住せる紗彌教信なり」と記されており、教信寺の南に位置するここ古大内遺跡が「賀古駅家跡」と考えられていました。山陽道の想定ラインは、教信上人が掘ったといわれる駅ヶ池(うまやがいけ)の南岸に沿ったラインとなるようです。

● 賀古駅家は、延喜式にも記載されている通り、駅馬40匹を備えたわが国最大規模の駅家でした。因みに延喜式には、播磨国の駅家は、明石30匹、草上30匹、大市、布勢、高田、野磨20匹、越部、中川各5匹と記されています。越部と中川の駅家は美作道です。

● 平成23年3月に、兵庫県立考古博物館により発掘調査が行われています。その結果、①駅家の入口は東側にあり、山陽道の南側に位置している、②表門の柱の礎石が発掘され、表門は立派な八脚門で開閉式の扉が付いていたことが判った、③現在の大歳神社辺りをほぼ中心として80㍍四方の築地塀で囲まれていた。などその規模が判明しました。

 

加古川市野口町、教信寺

● 教信寺 は、平安時代に活躍した教信上人の庵に建てられた寺院です。教信上人は、781年奈良に生まれ興福寺で学んだ後、16歳のとき諸国を行脚し、40年余り後に賀古駅にたどり着き庵を結びました。加古川での教信上人の活動は、ひたすらに念仏を唱え、街道を行く旅人を助けたということです。そのために「荷送り上人」「阿弥陀丸」とも呼ばれていました。また、寺の南の駅ヶ池は教信上人が地元の人々とともに掘ったといわれています。

● 教信寺の前は、江戸時代の山陽道で、その南が現在の国道2号線です。

 

加古川市米田町平津の三叉路  (平成24年7月2日、追加)

● 賀古駅家の西側は工場や学校の敷地になり、加古川市の中心部に向かいます。さらに西へ、正確には北西ですが、古代山陽道の想定ラインを延長すると、加古川橋西の米田町平津で、江戸時代の山陽道のところに到達します。確かな資料がないので、ここを古代山陽道と想定しました。

 

高砂市神爪(かづめ)  (平成24年7月2日、追加)

● この辺りの山陽道は、所々で加古川市と高砂市の境界になっており、度々市が入れ替わります。JR宝殿駅の南を通り、山陽本線を北に横断すると道の左側に石の宝殿の一の鳥居(地図の位置)があります。さらに進むと前方は、高御位山から南につづく小高い山の南端になり、ここで明石市和坂から続いた古代山陽道想定ラインの直線が終わります。右の写真の前方は国道2号線のバイパスと竜山石の採石場です。

 

高砂市阿弥陀町魚川橋  (平成24年7月2日、追加)

● 採石場の南麓を廻りながら街道は西へ進みます。この辺りは旧い街並みが残っています。左の写真は法華山谷川に架かる魚川橋(マップの位置)です。また右の写真は、国登録有形文化財である土田家住宅魚橋郵便局舎です。

 

高砂市阿弥陀町阿弥陀  (平成24年7月2日、追加)

● 魚橋西交差点で国道2号線を横断すると高砂市阿弥陀町阿弥陀になります。旧い住宅も残る街並みは、一直線に西の豆崎に向かっています。 (右の写真はマップの位置から西を見る)

 

姫路市別所町北宿の佐突駅家跡  (平成24年7月2日、追加)

● 街道は、豆崎の段丘をまわって再び国道2号線をこえ北西に進みます。しばらく行くと高砂市から姫路市となり、播州倉庫という大きな建物で行き止まりになります。 この建物の国道2号線に沿った表門の横に「佐突駅家跡」(さづちうまやあと)という比較的新しい石碑がありました。

● 佐突駅家は、承和六(839)年二月戊寅条に「播磨国印南郡佐突駅家旧に依り建立す」とあるので、一旦廃止されたあと再び設置されたことになりますが、その後の延喜式には載っていないのでまたまた廃止された駅家です。近くの別所町北宿の西段遺跡の調査などで、賀古駅家と草上駅家の中間辺りになるこの地が駅家跡の可能性が高いということです。

● また、 ここから西のルートは、草上駅家跡が特定さていないので明確ではありませんが、中村先生によれば、佐突駅家⇒播磨国府(姫路城南の本町遺跡)⇒今宿丁田遺跡(草上駅家跡)を想定されています。 

● 因みに現在佐土(さづち)と呼ばれている地は、ここから3㌔ほど西になります。

 

姫路市御国野町御着  (平成24年7月2日、追加)

● 別所町の西端、別所町佐土を過ぎると、御国野町御着になります。ここは江戸時代は姫路と加古川の中間で間の宿がありました。

● 天川に架かる天川橋(地図の位置)は、竜山石で造られた石橋で、文政11(1828)年に完成していますが、昭和47年9月に水害のため流失しています。その石橋は近くの御着城址公園に復元されています。  

 

姫路市御国野町国分寺の播磨国分寺跡  (平成24年7月2日、追加)

● 民家のブロック塀に「国分寺参道跡」と説明板(地図で位置を表示)がありました。山陽道から北に向かう小さな路地は、現在は山陽本線や新幹線で分断されていますが、その北側は国分寺南門に通じています。

● 国分寺は天平13(741)聖武天皇の詔により全国に建設されました。日本書紀(大化2年、646)に「・・・駅家、伝馬を置く」という記録があることから、山陽道はその約100年前に完成していたようです。

 

姫路市辻井の辻井廃寺跡 (平成24年7月8日、追加)

● 姫路市内の山陽道のルートは、草上駅家跡が特定されていないので明確ではありません。中村先生は、今宿丁田遺跡が草上駅家跡と想定されています。その上で、古代山陽道を佐突駅家⇒播磨国府(本町遺跡)⇒今宿丁田遺跡をつなぐルートとしています。このラインをさらに西へ延長すると、青山の桜峠を越えて邑智駅家方面に直線で結ぶことができます。

● 今宿丁田遺跡の北にある辻井廃寺も草上駅家跡候補の一つです。現在は田んぼの中に大きな礎石が一つ残されています。辻井廃寺の創建は奈良後期で平安末期まで存続したと推定される寺院です。このまえの県道5号線も太市ヘ向かいます。

 

姫路市青山の桜峠 (平成24年7月8日、追加)

● 青山から太市へ向かう峠です。途中桜山貯水池があり、当時とは全く様子がかわっていると思われます。貯水池は昭和15年、当時の国営日本製鉄所(現在の新日鉄)の工業用水確保のために建設がはじめられましたが、戦争で一時中断し昭和37年に竣工しています。地元の方の情報によれば、この貯水池には3つほどの池が水没しているとのことです。また貯水池の東にある姫路科学館の西側に旧道が残っているとのことです。

 

姫路市太市中、太市交差点の道標 (平成24年7月8日、追加)

● 県道5号姫路上郡線と県道420号石倉太子線の太市交差点の南西角に道標があったので掲載します。ここから県道420を北に進むと石倉で因幡街道に合流し伊勢方面へ、また、南に向かうと太子町太田で江戸時代の山陽道につながります。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「右 たつの /左 ひめじ」

 正面「(地蔵坐像)右 いせ」

 左面「昭和三年 /﨑谷」  

 

姫路市太市中の邑智駅家跡 (平成24年7月8日、追加)

● 太市交差点を西に進み、左に100㍍ほど入ったところにこの石碑がありました。この辺りは現在は「太市」(おおいち)ですが、駅家は「邑智、大市(おおち)」と書かれています。

石碑には次のような説明がありました。

● 古代10世紀に編纂された「延喜式」の巻二十八兵部省に記載されている駅家は播磨では9駅で、そのうち山陽道沿いの7駅の中の1つがこの邑智(大市)駅家であり、員数は20匹と定められている。

 「日本後記」大同元年(806)五月の条に山陽道の駅家は「瓦葺粉壁」とある。当時地方にあっては寺院のほかに瓦葺の建物はない時代に駅家がこれをそなえていたことは、単に建築上から考えても駅家は地方文化の中心であった。この付近(向山古瓦出土地)には「馬屋田」の字名が今も残っている。

 平成10年2月 太市地区連合自治会

 

姫路市太市中の道標 (平成28年5月22日、追加)

● 県道5号姫路上郡線の南側に昭和天皇御大典記念の道標がありました。この道標の背面には西脇青年会とありますが、県道の北側は姫路市西脇です。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「右 いかるが四㌔ たつの五㌔ /左 ひめぢ九㌔」

   (「㌔」はいずれも米偏に千の漢字)

 背面「昭和参年 /御大典記念 西脇青年會」      

 

たつの市揖西町景雲寺交差点付近 (平成24年7月9日、追加)

● 太市から県道5号線を西に進むと槻坂でたつの市になります。槻坂を越えると県道5号線は北寄りに進みますが、想定ルートは揖保川の龍野新大橋に向けて西に直線で進みます。龍野新大橋を渡ると県道5号線は再び直線で西に延びています。景雲寺交差点付近(地図で位置を表示)で県道は一時北寄りになりますが、旧道はまっすぐです。旧道を約1㌔ほど進むと、再び県道と合流し小さな峠を越えると揖西町小犬丸になります。槻坂からこの峠の麓までの約8㌔が直線で、この直線が痕跡の一つといえます。

 

たつの市揖西町新宮の道標 (平成24年7月9日、追加)

● 江戸時代の山陽道はここからかなり南になりますので、このルートでは、あまり旧い道標は見当たりませんでしたが、旧道が県道に合流する手前でこの道標を見つけました。道標の右の面は民家の塀に密着しているのでわかりません。また他の面も風化が激しく判読が困難です。案内をしている内容もよくわかりませんが、わかる範囲での文字は次の通りです。

 

● 銘文(正面・南東)

 正面「(地蔵立像)八十八ヶ所近道」

 左面「(左向き手形) 施主 新宮村?(横書き)

     〇田富蔵 /田中貞次郎」

 

たつの市揖西町小犬丸の布勢駅家跡 (平成24年7月9日、追加)

● 小犬丸遺跡が布勢駅家としての可能性が高まったのは、1984年の発掘調査で出土した軒瓦のほとんどが播磨国府系瓦であったことによります。そして布勢駅家であることを決定づけられたのは、1986年の発掘調査で「驛」「布勢井邊家」と書かれた墨書土器や木簡が見つかったからです。このように出土資料で駅家が明らかになったのは、この布勢駅家が全国唯一の例ということです。

● 駅家の建物は、駅館院(やっかんいん)と呼ばれ、この説明板を中心として1辺80㍍程度の方形区画の築地塀に囲まれていました。

 

揖西町小犬丸農業構造改善センター前の道標 (平成24年7月9日、追加)

● 布勢駅家跡から少し西の播磨道高架のほぼ下に農業構造改善センターがありますが、その駐車場の一角に道路元標がありました。表示内容から推測すると、ここから東の小犬丸交差点辺りにあったものが移設されたのではないかと思われます。なお、大正4年11月10日は、大正天皇が京都御所で即位されています。道標の下部の文字は少し判読が難しいのですが、読める範囲では次のように記されていました。

 

● 銘文

 南面「御大禮紀念」

 西面「標柱 姫路へ六里四丁 上郡へ三里十八丁 /

    龍野へ一里二十一丁那波へ一里三丁」(「へ」はいずれも小文字)

 北面「大正四年 /十一月十日  小犬丸村主」

 

相生市と赤穂郡上郡町の境界、椿峠 (平成24年7月9日、追加)

● この日、二つ目の峠、相生市と上郡町の境界となる椿峠を越えました。峠の頂上を少し下った辺りにこの地蔵板碑がありました。説明板によれば室町時代中期の造像と推定されるということです。

 

高田駅家跡が判明? (令和2年3月12日、追加)

● ここは願栄寺の1㌔ほど東の水田になります。現場で写真撮影の許可は頂きましたが、足場が悪く、スニーカーでは近づけませんでした。また、場所が特定できたのは「瓦」が落ちていたからとの話もありました。

● 神戸新聞にも、「古代山陽道沿いのこの場所が「高田駅家」の可能性があるとみて2月19日から発掘を始めたところ地下約70㌢から奈良時代の瓦がすてられた瓦溜が見つかり、中でも駅家で使われた古大内(ふろうち)式の軒丸瓦が発見されたことから、高田駅家と確定した」とありました。

 

上郡町、高田駅家跡? (平成24年7月9日、追加)

● 椿峠を下ると西方に願栄寺の大屋根が見えてきます。高田驛家跡も特定されていませんが、古代の瓦が出土している上郡町神明寺の願栄寺周辺ではないかといわれています。

 

上郡町本町の道標 (令和元年10月7日、追加)

● 古代山陽道のルートからは少し外れますが、上郡町のかっては中心部であった本町の三差路に道標があったのでここに掲載します。

● 上郡から佐用や上月方面へ行くには千種川沿いの岩場の細い道や舟を使っていたが、新しい道と言っても人がやっと通行できる程度の幅の道が完成したのでこの道標が設置された、と上郡町の冊子にありました。

 

● 銘文

 右面  「(右指差し手形)くらい谷(?) /三ヶ月 道」

 正面・西「右 龍野 姫路

      左 久崎 佐用 /平福 作州 道」

 左面  「(右指差し手形)びぜん道」

 背面  「明治五年壬申五月建之 /東脇利吉 /〇〇」

● 高さ80㌢、 幅30㌢、 奥行30㌢ 

 

(令和元年10月15日、追記)

● 相生市小河から上郡町鞍居(広根)を結ぶ谷伝いの道を「鞍居谷」と呼び、その中間の峠には嘉永二(1849)年と刻まれた地蔵があり、「鞍居谷地蔵」と呼ばれている、と小河の老婦人に聞いた。との記述があった。(ブログ名不明)

 

上郡町、千種川に架かるあゆみ橋 (平成24年7月9日、追加)

● この辺りは、古代山陽道の痕跡として特筆すべきものがありません。

● 大避神社(写真右)の祭神、秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子に仕えたのち、坂越の浦(現赤穂市坂越)に流れ着き、その後千種川上流の山ノ里(上郡町山野里)に移り、多くの社を造営し、宿神と呼ばれていました。また、外部からの災いを防ぎ道や水路の安全を守護する神でもありました。上郡町には14の大避神社があるそうです(上郡町HPより)。ということで、古代山陽道とも何らかの関わりを感じさせます。

上郡町大池西の浅野長矩公供養碑 (平成24年7月16日、追加)

● 山野里大池西の県道5号線沿いの一段高い所にこの供養碑がありました。古代山陽道とは直接かかわりはありませんが掲載しておきます。横にある説明板の要約は以下の通りです。

● この地の藩主である赤穂藩浅野家は、三代目長矩の時代に赤穂郡北部の河川、堤防、池沼の築造などの治水、灌漑事業に力を注ぎました。この山野里大池も元禄年間に修築されました。しかし、赤穂事件によって浅野家は断絶しましたが、地域の米作りや治水に大きな業績と偉業を果たした浅野家に感謝の意を表すために、寛政十二(1800)年に山野里の村人たちが大池を臨む池畔に供養碑を建立しました。

 

● 供養碑銘文(正面・南東)(元禄14(1701)、寛政12(1800))

 正面「元禄十四年辛巳年 /冷光院殿吹毛玄利大居士 /三月十四日」       

 右面「寛政十二年庚申歳 /三月上澣立之」       

 

上郡町、落地遺跡(飯坂地区) (平成24年7月16日、追加)

● 県道5号線は、大池から西にゆるい上りが続きます。その頂上付近にこの大きな説明板がありました。 ここから先は立入禁止で、そのロープの向こうに「後殿跡」の表示板が見えます。平成18年上郡教育委員会が設置した説明板を要約します。

① 落地(おろち)遺跡は、古代山陽道に設置された野磨駅家であった。

② 古代山陽道は、現在の県道5号線(姫路上郡線)にほぼ重なるルートにつくられた。落地(おろち)遺跡の調査では幅10㍍ほどの直線道路であった。

③ 現在地から300㍍ほど南西の八反坪地区では、山陽道に沿って建てられた掘立柱建物が見つかり、瓦葺きとなる前の駅家中枢施設と考えられる。

④ ここ飯坂地区では、瓦葺として整備された段階で移転した駅家中枢施設の建物が見つかった。

⑤ 全国に400ヶ所以上設置された駅家は、ほとんどが開発などにより失われた。現在駅家として確定しているのは、野磨駅家跡と布勢駅家跡の2ヶ所のみ

● 配置図(写真中)に赤で現在地と記されているのが、説明板の位置です。

 

上郡町、落地遺跡(八反坪地区) (平成24年7月16日、追加)

● 県道5号線は飯坂を西へ下ります。下った一帯が八反坪地区になり、落地遺跡の大きな看板が目につきます。その横に、平成3年に設置された説明板があります。

● 説明板後方の飯坂方面から西の船坂峠に向かって、古代山陽道は幅10㍍の直線道路になっています。その道路に沿って門、塀で囲まれた役所跡や堀立柱の建物群が調査によって確認されています。

● 遺跡は埋め戻され、写真のように現在は田や畑になっています。 

 

上郡町、梨ヶ原宿遺跡 (平成24年7月16日、追加)

● 県道5号線は、野磨駅家跡の少し西で国道2号線に合流します。2号線をしばらく行くと梨ヶ原で、江戸時代の山陽道と交差します。この山陽道を船坂峠に向かって進むと、家並みの途切れたところにこの説明板がありました。古代山陽道、播磨国の西端の痕跡になります。これも説明板を要約します。

● この辺りでは、平成4年の発掘調査で堀立柱建物跡や井戸跡、遺物などが出土しています。建物跡は、当時の一般的な民家と考えられる一方、遺物として備前焼や青磁、石鍋、宋銭など中世に広く国内で流通していた品々が多く出土しています。南北朝時代には「梨原商人」がいたと史料にもあり、今も「宿」の字名が残っていることなどからみて、遺跡は中世街道沿いの「梨原宿」として船坂峠を越えて山陽道を行き交う人々で賑わっていたものと思われます。

● ここから先は、徐々にのぼりが続き船坂峠になります。船坂峠は「山陽道の道標(1)」を参照して下さい。