―太山寺道の道標―

(平成25年3月30日)

 明石市魚住町金ヶ崎の山陽道から分岐して、神戸市西区伊川谷町前開の太山寺までの道標を探してみました。この間のルートは複数あり、正確な道筋はわかりませんので、道標を頼りに歩いてみました。 

 

明石市魚住町金ヶ崎の太山寺の道標

● ここが太山寺分れとなったのは、太山寺の真西にあたり最短距離となること、また高低差も少ないからのようです。先人の知恵が生かされた選択です。(「明石の道標」より)

● 萩藩有馬喜惣太の中国行程記には、この地点について「此棒杭二大山寺トアリ、大山寺ハ当所ヨリ四里奥ニテ・・・七堂伽藍、谷合ニ寺有り」と記述されています。 古くからここに太山寺の案内があったようです。

● この道標の表記は「大山寺」となっていますが、現在の寺号は「太山寺」です。この先の道標にはどちらの表記も見られます。

 

● 正面・西「左 大山寺道」 

 

明石市大久保町西脇、宗賢神社

● さらに東に200㍍ほどで、独特のしめ縄をした宗賢神社の鳥居のまえに来ます。この神社の創立はわかりませんが、明治元年に王子権現から宗賢神社に改称されています。主祭神は仁賢天皇で配祀神は顕宗天皇となっています。この二人の天皇には次のような記述が古事記にあります。

● 清寧天皇(第22代)はあとつぎがなくその方策を案じていた。そんな時、雄略天皇(第21代)に謀殺された従弟の遺児である億計(おけ)と弘計(をけ)が、素性を隠して播磨国に隠れ住んでいた。たまたま播磨国司が二人の素性を知り清寧天皇にこのことを知らせた。思いがけず後継者を発見した清寧天皇は二人を宮中に迎え入れたが、後継者を得て安心したのか間もなくして崩じた。しかし、二人は王位を譲り合いしばらく空位が続いたが、結局、弟の弘計が顕宗天皇(第23代)となった。顕宗天皇は在位3年で崩じた。そのあとは兄の億計が継ぎ、仁賢天皇(第24代)となった。

● 素性を隠していたために下僕のように扱われていた二人が天皇になったということです。明石市周辺にはゆかりの宗賢神社が数ヶ所あります。また三木市には二人が隠れ住んでいたという「志染の石室」(右写真)もあります。

 

明石市大久保町西脇の道標

● 宗賢神社から東は、民家の密集した少し細い道になります。その先の三叉路にこの道標はありました。年代は入っていません。また、下部には折損したらしい痕が見えます。

(令和元年12月28日、追記)

● ストリートビューで確認したところ、数㍍東に移設されたようです。以前は三差路内にありましたが、家の北側になっています。

 

● 正面・西「右 太山寺道」

 

明石市大久保町大窪の光觸寺と門前の道標

● 光觸寺(こうそくじ)は餃子の王将から東に向かった先にあります。光觸寺は、室町時代後期に宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱の弟義清が創建したと伝えられています。義清は仏門に入り寿信と称し、諸国修行のときここ大久保に留まって光觸寺を建てました。天正6(1578)年には、秀吉が三木城攻めの時ここを本陣としました。境内には「太閣腰掛松」が残っているそうです。また、表門は姫路城主の池田輝政の寄進によるものでその寄進状も残されているそうです。

● その表門の左に道標がありました。この道標の元の場所は、ここから100㍍ほど西の医院の南側が駐車場になるときここに移設されました。(「明石の道標」より)

 

● 銘文(右面・南)

 右面「右 大久保町 /左 太山寺 道」

 左面「すぐ 金ヶ崎」

 

明石市大久保町松陰(まつかげ)の道

● 少し細い道が続きます。民家の納屋らしい建物の裏にこの道標がありました。左大山寺と案内がありますが、その方向には道がありませんので、どこかから移設されたのでしょうか? この道標の斜め向かいには「子安地蔵尊」があり、旅人の休息所としても利用されていたようです。

 

● 正面・西「左 大山寺道」 

 

明石市鳥羽、亀池西の道標 (平成28年5月4日、追加)

● この道標は、現在太山寺道とされるルートからは大きく北に外れて、亀池の土手にありました。土手の周りには道路はありませんので、上部に右方向を指差す童子像がある珍しい道標ですが、あまり人の目にとまることはないでしょう。かっての太山寺道は大久保町松陰の道標付近からこの道標の辺りに通じていたようです。松陰の道標が、道のない「左」方向をしめしているのもこれで納得できます。

● 明石市水道部のHPによれば、亀池は水需要の増加に伴い隣の野々池(昭和49年5月使用開始)を補完する貯水池として築造され、平成11年4月から使用が開始されたとありますので、道標はその頃にここに移設されたものと思われます。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「         俗名 米蔵」

 正面「(右指差し童子像)す /ぐ 太山寺道」

 

明石市鳥羽、亀池南の道標 (平成28年5月4日、追加)

● 亀池西の道標から南東に回り込んだ野々池との間にこの道標はありました。池を囲むフェンスの内側でやはり道路には面しておりません。

● この道標も亀池を築造の際、周辺からここに移設されたものと思われます。このままでは案内する方向が合いません。

 

● この項、令和2年5月31日、追記

 明治31年発行の地図を参考に「元の位置」を推定してみました。地図に示す交差点の南西角に正面を北にして設置すると案内する方向が一致します。(右の新しい地図では多少位置がずれています)

 太山寺の参詣を終え、ここから道標に示す右(西)に向かうと金ヶ崎で山陽道に出ます。また、左方向(南)に向かうと大久保町でも山陽道に出ることができます。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「右 金ヶ崎」

 左面「左 大くぼう町」

 

大久保町松陰の「古代山陽道」の説明板

● 東に進むと右手は神戸刑務所です。その北の池の畔に「古代山陽道」の説明板がありました。奈良時代の山陽道は、和坂あたりからこの辺を通り金ヶ崎で山陽道に合流するというルートだったのでしょうか? 古代山陽道については「古代山陽道の痕跡」のページ参照して下さい。

 

明石市大久保町松陰、八幡神社

● ここは「古代山陽道」の説明板から200㍍ほど東になります。拝殿は道路からかなり北へ入ります。この境内に小学生の手書きによる説明板があったので要約します。「八幡神社は万冶3(1660)年、鳥羽新田の開発に先だって明石のとの様、松平信之公が無事を祈って30間四方の土地を与えたのが始まりです。1月18,19日のやく神祭は昔から有名でにぎわっていました」

● 明石藩主松平信之(在明石1659~1679)は、名君の誉れ高く、周辺の新田開発に尽力したそうです。

 

神戸市西区枝吉、報恩寺前の道標

● 八幡神社から2㌔ほど東に行くと、鳥羽小学校前で県道21と交差します。県道21を少し北東方向に進むと神戸市西区になり、その先で県道21を右折し、南の住宅街に入ったところに報恩寺があります。その正門左に道標をかねた三界萬靈供養塔があり、大師坐像の下の台石が道案内です。門前の南北の通りは三木街道になります。

● 南江山報恩寺は、室町時代前期の永享元(1429)年に建てられた臨済宗妙心寺派の末寺です。近くの枝吉城(神本神社の地)の館を守るように建っており、枝吉城に関連して建てられました。建物は戦災により損壊し、昭和46年に改築されています。

 

● 銘文(正面・東)(1851年、かのと・い)

 右面「北 下津者”し /東 太山寺 道 /南 かにがさか」

   (下津橋、太山寺、和坂)   

 正面「三界萬靈」

 左面「嘉永四辛亥八月 /世話人 /報恩寺〇〇和尚」(〇の部分3文字かも)      

 

神戸市西区枝吉、神本(こうもと)神社

● 報恩寺の西側になります。真新しい鳥居の後ろにうっそうと樹木の生茂った小高い山があります。あとで調べてわかったことですが、周辺には弥生時代の古墳や枝吉城跡があるようです。

● まず神本神社由緒碑の由来記を要約します。「神本神社の創建は、明石初代藩主小笠原忠正公(「小笠原忠政」は晩年に「忠真」と替えている)時代の元和5(1619)年、社領田3反歩が寄進され、元和7(1621)年、明石郡林崎庄吉田村に「神本大明神」として祭祀されたことに始まる。この鎮守の森の城山は、弥生時代の「吉田古墳」であり中世から近世の過渡期には枝吉城があり、神社の境内地は城主明石氏の館跡で、周辺には武士や商人がそれぞれ居を構えた由緒ある史跡地である。明治7年には村社に列せられ、「神本神社」と称せられた」

● 余談です。枝吉城は15世紀中ごろに明石氏によって築城されましたが、天正13(1585)年、高山右近が明石川河口西側に船上(ふなげ)城を築いたとき廃城となりました。元和3(1617)年、播磨国が分割され明石藩となり、信濃国松本藩より小笠原忠真が10万石で入封し、人丸山に明石城を築いています。元和6年明石城が完成し、船上城は廃城となりました(元和5年焼失の説も)。明石藩は、明治4年の廃藩置県で明石県となりました。明石城は明治7年廃城となっています。明石県は、その後姫路県、飾磨県を経て兵庫県に編入されています。

 

明石市、明石城 (平成25年4月5日、追加)

● 明石城は、明石駅のすぐ北側です。桜満開の城内を通ってみました。

● 明石城は、別名喜春城とも呼ばれているようです。初代藩主の小笠原忠真(初名、忠政)は、元和3(1617)年に信濃国から入封し、その翌年、2代将軍秀忠から西国大名を抑えるために新城造営を命じられました。新城は、瀬戸内海を望む丘陵上に本丸や櫓を設け、元和6年に築城を終え、忠真は船上城から移っています。その後城主は、17代変わり、明治7年に廃城となっています。現在残っている坤(ひつじさる)櫓や巽(たつみ)櫓は国の重要文化財に指定されています。

● 初代藩主に招かれた宮本武蔵は、明石の町割りや城内樹木屋敷の設営に関わっていたようです。また、外堀南側にある織田家長屋門は、船上城の長屋門を移築したもので、船上城の唯一の遺構だそうです。

 

神戸市西区玉津新方、東玉津橋西詰の道標 (平成25年4月5日、追加)

● 明石城を出て明石市民病院の前を通過すると、すぐに神戸市西区になります。そして伊川に架かる二越橋を渡って右折し右岸に沿ってしばらく行くと、東玉津橋の西詰の地蔵堂の中に道標がありました。真ん中にある一番大きな石柱が道標です。

 

● 正面・東「(地蔵坐像)みぎ 人丸 /左 太山寺 道」

 

神戸市西区白水3丁目、白水北交差点付近の道標 (平成25年4月5日、追加)

● 玉津新方からは、伊川右岸の県道16を北東方向に進みます。白水北交差点の川岸にこの道標はありました。表示する方向が180度違うようなので、道路の反対側から移設されたようです。手元の資料「神戸の道標」では、向いの中田酒店のまえに建っているような写真になっています。「右 玉津村」は、白水北交差点から西の白水集会所まえを通り西南方向に向かったようです。

● この道標は、昭和8年4月に伊川谷村に県道が開通した時に、潤和(当道標を指す)、別府、長坂、小寺、布施畑の5ヶ所に建てられた道標の一つになります。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「昭和八年四月 /伊川谷村」

 正面「右 玉津村 /左 明石ニ至ル」

 

神戸市西区伊川谷町上脇、小寺橋西詰の道標 (平成25年4月5日、追加)

● 県道16をさらに北東に進みます。伊川谷小学校前を通り、第二神明道路や阪神高速道の下を通ります。地下鉄の伊川谷駅の手前の小寺橋西詰に、道路に正対してこの道標が建っていました。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「昭和八年四月 /伊川谷村」

 正面「右 小寺 /左 太山寺ヨリ神戸ニ至ル」

 

神戸市西区伊川谷町前開、石戸神社の丁石 (平成25年4月5日、追加)

● 県道16の前開交差点の手前100㍍くらいから旧道らしい左方向の道に入りました。500㍍くらい進んだ三叉路に石柱があったのですが、風化のため一部判読できません。ここから南にある石戸神社の丁石のようです。石戸神社は、前開中の氏神で明石城に水を導いた堀割疏水の取水口と面しており、浄瑠璃で有名な石堂丸伝説を持つ神社だそうです。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「昭和八年一月」

 正面「石戸神社参拝道」(?)

 

神戸市西区伊川谷町前開、太山寺 (平成25年4月5日、追加)

● やっと到着です。県道16沿いの仁王門から太山寺の参道は続きます。しばらく石畳の参道を進み、石段を上がり中門をくぐると、正面に本堂、右手に三重塔、左手に阿弥陀堂などの建物があり、往時の繁栄ぶりがしのばれる壮大な眺めです。拝観料は300円です。早速境内で道標探しを始めました。

● 太山寺は、山号を三身山と称し、本尊は、薬師如来と十一面観音です。霊亀2(716)年、藤原鎌足の孫、藤原宇合(うまかい)が堂塔伽藍を建立したといわれています。また、初代の住職は藤原鎌足の長男、定恵とされています。本堂は一度焼失していますが、永仁年間(1293~99)に再建され、国宝となっています。南北朝時代には支院41ヶ坊、末寺8ヶ寺、末社6ヶ社を持ち、僧兵も養っていましたが、世相の有為変転や戦火によって興亡浮沈は著しく、現在は龍象院、成就院、遍照院、安養院、歓喜院の5ヶ寺になっています。

 

神戸市西区伊川谷町前開、太山寺境内の道標(1) (平成25年4月5日、追加)

● 本堂の西側の鐘楼の前にありました。かなり風化しているのではっきり読み取れません。案内している先が朽木(くちき)薬師とも読めますが、60丁西の方面を地図で確認すると櫨谷町栃木(はせたにちょうとちのき)という住所しか見当たりません。正面は栃木薬師でしょうか?

 

● 銘文(正面・北)(1825年、とり)

 右面「願主 兵庫米田・・・」(・・・不明)

 正面「右 栃(?)木薬師道 六十丁」

 左面「文政八酉年九月日」 

 

神戸市西区伊川谷町前開、太山寺境内の道標(2) (平成25年4月5日、追加)

● 三重塔の東から奥の院への道が続いていますが、そこに南西向きに奥の院を案内する道標がありました。奥の院には閼伽井という眼病に効験があるという霊水が湧き出ていたところがあったようです。

 

● 銘文(正面・南西)

 正面「是より /あが井 奥の院 道」

 左面「釋宗優」

 背面「(西)丸右衛門 /政右衛門」

 

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