―室津道の道標―

(平成22年10月11日)

 たつの市御津町室津から姫路市の網干区を通り、千代田町の千代田公園までの道標を紹介します。室津道は、千代田公園の北、船場本徳寺前で山陽道に接続し、その東側の備前門から姫路城下に入ります。

(平成23年6月10日、追加)

 「室津道」は、御津町岩見あたりで「浜街道」(飾磨街道)と分岐します。浜街道の道標は、「的形周辺の道標」の末尾に移しました。 

(平成29年2月16日、追加)

 ページ下部に「赤穂市の道標」を追加しました。 

(平成30年10月21日、追加)

 ページ中間に「揖保郡太子町周辺の道標」を追加しました。

 

室津道の道標地図

 

たつの市室津港 (平成24年2月28日 追加)

● 室津の名は「室の如く静かな津」から来たようです。行基が開いたと伝えられ、江戸時代には参勤交代の大名の上下船などでにぎわい、「室津千軒」と呼ばれる一大宿場町でした。ここから峠を越えて、北に向かうと正條宿で山陽道に合流します。また海岸沿いに東に進むと飾磨津や姫路城下へ行くことができます。

● 港の南の岬の上には賀茂神社があります。別名「室明神社」ともいわれ、シーボルトも江戸参府の途中に訪れています。本殿は元禄12年(1699)の建立となっていました。

  

たつの市御津町中島の道標 (平成22年12月19日追加)

● 御津町苅屋の道標(「的形周辺の道標」参照)から北に向かった県道133の御津病院北の交差点の北西角にこの道標は立っていました。ここから東に向かうと揖保川を渡り、網干の魚吹神社の方角に向かいます。道標の標記の方角が正確ではないように思います。周辺の道路はよく整備されているので近年設置し直されたものと思います。上部の一部に欠損が見られますが、標記内容はよく確認できました。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「右 山田 加家 釜屋 /稲富 片 石見港 道」

 正面「左 苅屋 黒嵜 道」

 背面「明治廿三年一月」

 

八十の渡し及びその周辺 (平成24年2月18日 追加)

● 室津道は御津町中島からこの辺りで中川と揖保川を渡っていたようです。現在は八十大橋が架かっています。八十の渡しから500㍍ほど東に向かうと八枚橋になります。余子浜川に八枚の石の板が架かっていたのが名前の由来のようですが、現在はその上はコンクリートになっています。

  

網干区津市場の道標 (平成23年6月13日 追加)

● 八枚橋から北に向かい古い街並みを通ると、稲荷神社、専称寺の前を通りこの道標のところに出ます。この辺りの道路は最近整備されたようです。新しいポンプ車庫の前にありました。角柱型の一角が削られた変形の五角形になっています。

 

● 銘文

 南 面「(右向き手形)津の宮ひめぢ」(「津の宮」は魚吹神社)

 南西面「余部室津」(削られた一面)

 西 面「(左向き手形)網干駅いかるが」 

  

網干区宮内魚吹(うすき)八幡神社参道口の道標

● 魚吹八幡神社から西に延びる参道と県道27の宮内交差点の北東角の植木に隠れるようにして、この道標は立っていました。かなり風化が進んであまり文字ははっきりしません。地図で確認すると、ここから県道27を北に進めば朝日山の大日寺や太子町の斑鳩寺に行くことができます。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「朝日 観世音 /歓喜天 /参(詣道) 」

 左面「左 あさひ山へ(十八丁) /いかるがへ(三十丁)」

 背面「施主 /当(村)」( )内は埋没

  

魚吹八幡神社の楼門前の道標

● この道標は、楼門前の常夜燈の横にあります。左面は「八幡宮」の下に漢字がビッシリと書かれています。神社の由来の漢文のようにも見えますが、理解不能でした。

● 正面の「あぼし 是より拾六丁」は、ここから南の方角にある網干神社を指しているものと思われます。網干神社前の新在家自治会館前に「津宮山 是より拾六丁」の道標((「的形周辺の道標」下部「たつの市から姫路市飾磨へ」に記載))が同じ3名の名前で建てられています。また、ここの背面下部の名前が不鮮明なので新在自治会館前の道標の左面に合わせました。(この項は平成29年12月4日、追加)

 

● 銘文(正面・西)(1838、つちのえ・いぬ)

 正面「右 あぼし(下部)是より /拾六丁」

 左面「八幡宮・・・」 (以下に漢文あり)

 背面「天保九年戊戌 /新在家 福地屋六兵衛 /興浜 島屋新兵衛 /

      新在家 福屋新次郎」 

  

網干区宮内圓勝寺前の道標

● 魚吹神社から東へ200㍍ほど進んだところの圓勝寺の門前にこの道標はありました。かなり欠損が激しく読めない文字もあります。「右 むろ川」を北面にすると方向が合います。その場合、右面の欠損部「○」は「左」になりますが、元の設置位置は不明です。

 

●銘文(正面・南)

 右面「〇 ひめし /志よしや みち」 (〇は欠損部分)

 正面「右 むろ川」(むろつ)

 

網干区田井の土橋 (平成24年2月18日 追加)

● 圓勝寺の道標から北に向かい小さな川を渡ったところで東に向かうと、蓮池の先に大津茂川に架かる土橋になります。以前は欄干も無く、橋げたに土を盛っただけの小さな橋であったようです。

 

大津区大津中学校前長松の道標 (平成24年2月18日 追加)

● この辺りは海岸の砂堆地の畑地に沿った東西の通りで、長松から天満に通じています。この道標は大津中学校の建設に伴い、平成7年に再建されました。(姫路わが街ガイドより)

 

● 銘文(正面・南) 

 正面「むろかい道 右 ひめじ /左 むろつ」

 

大津区天満の道標 (平成24年2月24日 追加)

● 天満村の街道は、東西441間(約800㍍)の細い道であった。大正3年荷車の普及に伴い拡張工事が行われたが、それでも幅2.5㍍しかなかった。平成3年区画整理事業で幅4.5㍍に拡張舗装され、古い室津道の面影がなくなるのを惜しみ、平成9年、地元自治会により道標が建てられた。と「姫路校区夢プラン」に説明がありました。周辺の道標は、「室津道」「室街道」となっていますが、ここでは「室海道」となっています。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「室海道 右 室津 /左 姫路」

 

大津区西土井の道標 ((平成24年2月18日 追加)

● 姫路わが街ガイドによれば、「古くは小坂に通じる橋のたもとに道標があったが、橋の新築や道路の拡張に伴い撤去されたので、平成13年に新たに石碑が建てられた。」とありました。付近には「日本回国地蔵」もありました。これは市内四郷町や白浜町にもありました。

菅原神社の郡境石 (平成22年9月22日)

● 広畑区小坂の室津道に菅原神社があります。その境内に飾磨郡と揖保郡の境界を示す「郡境石」がありました。説明板によれば、近くの東汐入川改修の際に小坂橋付近の川の中から発見されたということです。二枚の長方形の板石からなり、先端部をV字状にくぼめ、郡境を見通すようになっています。実際に使用されていた年代は不明です。

● 近くには、「御用米蔵趾」がありました。

  

広畑区才の道標(1)

● 広畑区西土井の「室津道」とかかれた標識を過ぎると、道路は徐々にカーブし、早瀬町北の交差点から北に直進します。山陽本線の踏切を渡りしばらく進むと古い民家の横にこの道標はありました。設置年は魚吹神社前の道標と同年になっていました。背面は風化が激しく、年号の下の文字が読めません。

 

● 銘文(正面・北)(1838年、つちのえ・いぬ)

 右面「左 志よ志や ひめじ」

 正面「右 びぜん /たつの 道」

 左面「左 あぼし /むろ津 道」

 背面「天保九戊戌(以下判読不明)」 

  

広畑区才の道標(2)

● 上の道標の向かい側にあります。年号は入っていませんが御大典記念の道標ですから、昭和3年11月昭和天皇が京都御所で即位された記念です。向かいの200年前の道標に比べかなりの劣化が進んでいます。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「←天満 あぼし港 /むろ津」

 正面「→阿がほ ひめぢ /←阿ぼし駅 たつの」(矢印は方向を示す)

 左面「御大典記念 八幡村分会」

 

広畑区才の高札場跡の碑 (平成24年2月18日 追加)

● 大きな旧家の続く細い道を抜けた先の三叉路に木製の碑が建っていました。

 

●銘文

 北面「旧室津街道 札場跡 史蹟保存会」

 東面「左 夢前川 町之坪 姫路城 平成七年三月」

  

飾磨区山崎才崎橋東詰の道標

● 夢前川に架かる才崎橋を渡ると少し左に旧道らしい道路があります。その角の常夜燈の横にこの道標はありました。これも御大典記念の道標です。近くの常夜燈の説明板を読むとここが室津道で間違いないようです。この辺りはかっての夢前川東渡し場で西国大名の行列や金毘羅参りの旅人が必ず利用したとのことです。渡しは現在の才崎橋の北側辺りになります。才崎橋は大正8年に木製のものが架けられ、昭和12年に現在のコンクリートの橋が完成しました。ここから川沿いに北に向かえば、蒲田を通り下手野あたりで山陽道に合流します。南に進むと英賀神社や英賀城跡になります。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「→東可まだ 志よしや /←英賀神社」

 左面「→阿がほ駅 ひめぢ /←八幡 阿ぼし」

 背面「御大典記念 八幡村分会」

  

飾磨区山崎 西蓮寺西角の道標

● 才崎橋から東に向かうとここ西蓮寺に出ます。その寺の白壁の下に少し傾いてこの道標があります。地図で確認すると、この道標の先には本徳寺西山廟があります。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「西山参道」

 背面「昭和六年三月建之」

  

飾磨区山崎JR英賀保駅前の道標

● 室津街道を少し外れますが、英賀保駅前のよく整備されたロータリーの一角にこの道標はありました。御大典記念の道標です。少し変わった形をしていますが山陽道の道標で紹介した有年駅の西の御大典記念の道標と同じ形です。「㌔」は米偏に千の漢字で表されている。

 

● 銘文(正面・東やや北)

 右面「右→ 網干町七㌔三百米 /左← 姫路市 三㌔九百米」

 正面「御大典記念 山崎青年団」

 左面「左← 飾磨町三㌔三十米 /飾磨港 四㌔八十米」

 背面「昭和三年十一月建立」

 

姫路市町坪の常夜燈 (平成28年7月10日、追加)

● 棚田交差点の南東方向の歩道上にある金毘羅さんの常夜燈です。竿部分の銘文は次の通りです。

 

● 銘文(正面・南)(1866年 ひのえ・とら)

 右面「慶應二丙寅五月立之」  

 正面「金毘羅大權現」

 左面「願人 為右ヱ門」

 高さ213㌢

 

姫路市井の口、法輪寺 (湯澤山茶くれん寺)

● ここも、街道筋から少し北に外れます。「湯澤山茶くれん寺」というおもしろい伝承のあるお寺があります。宝暦年間の播陽里翁説という書物にあるそうです。法輪寺門前の由緒説明板を以下要約します。

● 英賀城攻めの時(1580年)、秀吉が宝林寺(現法輪寺)に立寄るとのことで大きな茶釜にお茶を準備していた。そこへ秀吉が平侍の体で現れ茶を所望したので、庄屋は秀吉とはわからず白湯を差し出した。秀吉は茶釜の茶を所望したが、「これは秀吉公のために準備したもので、差し上げることはできない」と断った。秀吉は「我こそは秀吉なり」と笑いながら名乗った。庄屋は仰天し、早速茶を出し直した。ということで秀吉は戯れて「湯澤山茶くれん寺」の寺号を与えた。またこの時、九石九斗九升九合の御朱印も賜った、ということです。

● これと同じような逸話は、京都府八幡市の常徳寺や京都市内の浄土院にもあり、秀吉はこのダジャレがよほど気に入っていたようです。

  

姫路市千代田町の道標 (平成23年6月13日 追加) 

● 手柄山公園から北に向かい、新幹線の高架を越えた兼田たばこ店の四辻にあります。この道標の年代ははっきりしませんが、同家のご先祖の直筆とのことです。

 

● 銘文(正面・東) 

 正面「←あぼ志美ち」

  

千代田町公園内の常夜燈 (平成23年6月13日 追加)

● この常夜燈は、元は北の方の室津道の出口(船場本徳寺の前あたり?)にあったと資料にあります。 常夜燈の基壇の前部に右から「あぼし むろつみち」と横書きされています。本徳寺の前を右折して東に進めば、船場川の手前で山陽道に合流します。

 

● 銘文(正面・西)(1868年、つちのえ・たつ)

 右面「慶応四戊辰年夏」  

 正面「〇の中に「金」 常燈」(〇金は金毘羅宮を表す)

  基礎の各段には世話人の名前がビッシリと書きこまれている。

  基壇最下段正面「ちみつろむ しぼあ」(右横書き)

 

 

ー揖保郡太子町周辺の道標ー

  

(平成30年10月21日)

 姫路市勝原区丁、揖保郡太子町およびたつの市揖保町あたりの道標を紹介します。下の地図(五万分の一)は、大日本帝国陸地測量部による明治26年測量、大正12年修正のものです。道標の設置された昭和初期の道筋がよくわかります。

 

姫路市勝原区丁の道標(1)

● 県道421号大江島太子線の丁(よろ)交差点を西に入り、西汐入川に架かる丁橋の西詰にこの道標が建っていました。「丁」は難読地名「よろ」と読みます。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「昭和六(?)年三月建」

 正面「ひさご塚 東南五十メートル /兵庫縣」

 高さ102㌢、 幅23㌢、 奥行19㌢

 

姫路市勝原区丁の道標(2)

● 「ひさご塚の道標」の西約30㍍の三差路にこの道標はあります。道標の正面がわからないので、ここでは幅の広い方を正面にしました。

● 山陽本線網干駅は、明治22年に開業しています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「左 あぼし駅十五丁」

 正面「東北 志よしや /ひろみね 道」

 左面「昭和四年秋 福井寅吉母建之」(母は小文字)

 背面「右 朝日山大日寺十二丁」

 高さ92㌢、 幅21㌢、 奥行19㌢

 

揖保郡太子町蓮常寺の道標

● この道標は、御大典紀念でよく見かける形です。角柱の一部が削られた変形の五角形になっており、削られた面が正面になっています。

 

● 銘文(正面・東)  

 右面「(右指差手形)阿曽ヘテ龍野驛へ」

 正面「(右指差手形?)網干驛ニ至ル」(削られた一角)

 左面「(左指差手形)福地ヘテ構村ヘ」

 背面「昭和四年一月 /(判読困難)」 

 高さ105㌢、 幅25㌢、 奥行25㌢

 

たつの市揖保町栄の道標

● 崇道天皇神社境内に建つこの道標は、台石部分が新しいので最近移設されたのではないかと思います。元の位置は、上記の明治の地図から推測すると、100㍍ほど北の交差点と思われますが、未確認です。

● 道標に示された「東、北、南」は、それぞれの目的地の方角を指しています。この道標も幅の広い方を正面としました。

 

● 銘文(正面・西) 

 右面「東 網干駅」

 正面「北 龍の町 /竜の駅」

 左面「南 網干港」

 背面「御大典紀念(以下判読困難)」

 高さ94㌢、 幅20㌢、 奥行18.5㌢

 

たつの市揖保町東用の道標

● 崇道天皇神社から県道29号網干たつの線を南に向かい山陽本線を過ぎてすぐの交差点の倉庫の横に道標が横たわっていました。よく見ると一面が削られた変形五角形です。おそらく御大典紀念の道標と思われますが上向きの面以外の文字は確認できませんでした。

 

● 銘文

 右面「(右指差手形) 今市ヲヘテ竜野駅 二五〇〇メートル」

 正面「左 網干町 五八〇〇メートル」(削られた面)

 長さ104㌢、 幅20㌢、 奥行20㌢

 

 

―赤穂市の道標ー

 

(平成29年2月16日)

 室津港から西に進むと、相生市を経て赤穂市に行くことができます。また山陽道有年宿からは南行すれば赤穂城下に入ることができました。

 この項は「播磨の碑」(司波幸作著)を参考にした。

 

赤穂市坂越大避神社境内の道標

● 坂越の小高い山の上にある妙見寺観音堂を案内する道標が、大避神社の社殿左の登山口に設置されていました。正面は漢字で、左面は仮名で表示されています。

● 神社前の案内板によると、大避神社は大避大明神(秦河勝、大化3(647)年坂越で歿した)を祀る神社で、養和元(1182)年にはすでに有力な神社でした。同神社の祭礼「坂越の船祭り」(国指定重要無形民俗文化財)は、瀬戸内三大船祭りの一つに数えられています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「 願主 大西吉壽」

 正面「觀音堂之道   」

 左面「く王んおんみち 」

 高さ120㌢、 幅19㌢、 奥行19㌢

 

赤穂市坂越上高谷 木戸門跡広場の道標

● 坂越港で下船した旅人が木戸門を出たところで目にする道標です。木戸門は江戸時代に港の入口として設けられた高さ約2㍍、幅約4㍍の木の門です。

● 正面の「右 大坂」は有年や相生方面への山陽道を、「左 城下」は赤穂の城下に行けることを示しています。西面の「右 みなと」は坂越港を案内しています。坂越港は、江戸時代北前船や塩廻船で賑わっていました。現在もこの木戸門から港までは旧い家並みが続いています。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「右 大坂 /左 城下 道」

 左面「右 み那と」

 高さ95㌢、 幅22㌢、 奥行18㌢ 

 

赤穂市木津の道標

● 山陽道有年宿から横尾、周世と南下して、ここで坂越方面と赤穂城下の分岐となる、と「播磨の碑」にはで説明があります。ということはこの辺りで千種川を渡っていたということになるのでしょうか。この辺りの詳細は不明です。道標の上部は地蔵坐像になっています。銘文は彫が浅く多少読みづらくなっています。「下道 牛馬無用」とあります。それは、城下への道の脇を流れる上水道導水路の衛生管理のためであろう、と「文化財をたずねて」に記載されていました。現在も右の道路は軽自動車がやっと通れるような狭い道です。

 

● 銘文(正面・北)

 上 部「地蔵坐像」

 中間部「右 城下道 /左 阪越浦」

 下 部「下道 牛馬 /無用」

 高さ67㌢、 幅18㌢、 奥行15㌢

 

赤穂市上仮屋北の道標

● きれいに区画された住宅街の中にこの道標はありました。この辺りはかっては侍屋敷が並んでいたようです。上部は欠落していますが、おそらく「左 大坂道」と表示されていたものと思われます。「左 義士もくぞふあり」は花岳寺を案内しています。

● 花岳寺の義士木像堂は、義士の百回忌に木像が全部揃ったのでお堂に安置して今日に至ったものです。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「左 〇坂道 /義士もくぞふあり」

 高さ94㌢、 幅18㌢、  奥行き12㌢

 

赤穂市塩屋の道標

● 「播磨の碑」では郵便局前の道標となっていましたが、郵便局は新たに150㍍ほど北の国道250号線沿いに移転していたので探すのに苦労しました。

● 旧郵便局前の道標は、「右 びぜん道」とのみ表示された自然石型の道標です。「播磨の碑」の作者は「左の塩屋の町内は迷路のようになっており、迷子になりますよ、という注意の意味も込められているのでは」と推定されている。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「右 びぜん道」

 高さ68㌢、 幅33㌢

 

赤穂市福浦の国境の碑

● この境界石は黒崎播磨赤穂工場の正門前の小高い林の中に台石の上に設置されていました。この辺りは現在は赤穂市顛和(てんわ)と福浦の境界上の雑木林の中ですが、「播磨の碑」によれば、かっては風光明媚な景勝の地であったようです。

● ここに国境の碑があるのは、岡山県和気郡日生町(以前は福河村)の福浦地区のみが住民の激しい要求の末、昭和38年に兵庫県に編入され赤穂市福浦となっているからです。JR赤穂線に備前福河の名が残っています。

 

● 銘文

 東面「従是 東 播磨國」

 南面「従是取揚島見通シ 東播磨國 /西備前國 」

 西面「従是 西 備前國」

 北面 銘文なし (単行本「播磨の碑」には「従是 北東播磨國」の写真あり)

 高さ190㌢、 幅30㌢、 奥行き30㌢