―山陽道(西4)の道標―

 

(平成24年8月25日)

 岡山県井原市高屋で県境を越えました。この県境は大きな川も峠も無く、幅3㍍ほどの道路を横断したらそこは広島県福山市神辺町でした。ここから山陽道をさらに西へ向かい、神辺宿本陣までの道標などを紹介ます。

 

(平成28年4月19日、20日)

 4年ぶりに井原鉄道神辺駅に下りました。ここからJR尾道駅までの街道筋を紹介します。「神辺本陣跡」の次に追加しました。

 

(平成30年4月8日)

 尾道市から三原市新倉の境界石までを追加しました。

 

神辺町上御領の一里塚跡と菅茶山の詩碑 

● 高屋の県境界石からしばらく西に進むと、この「一里塚跡」があります。街道の右側(北側)には石垣で築かれた一角があり、中に四つ堂と呼ばれる小さなお堂がありました。四つ堂は、当時の旅人の休憩所として利用されていました。また街道の左側(南側)には、一里塚跡の碑と共に菅茶山(かんちゃざん、さざん)による「高屋途中」と題する漢詩の刻まれた碑があります。

● この一里塚は寛永10(1633)年頃設置されたと見られ、四つ堂は、初代福山藩主水野勝成が諸藩遍歴の経験から便益性を認め、ひろく藩内の村々に建てられたと伝えられています。

 

神辺町御領で見かけた常夜燈など 

● 上御領一里塚を西に進むと、宗重池というため池があり、その南側に「地神」の石柱と「琴平宮」の常夜燈がありました(写真左、地図で位置を示す)。 そこから街道は南に向かい国道313を横断しますが、その国道のところに「事代主命」と書かれた碑と「えびす様(事代主命)」像が描かれた碑がありました。いずれも大きな自然石の碑です(写真中)。再び国道313を横断すると、製粉工場の近くに大きな石碑が3基建てられていました(写真右)。 後で調べてみると、ひときわ大きな石碑は相撲取りの墓でした。

● 外ヶ島弥五郎は上御領の生まれで、幼いころから稀にみる力持ちであったそうです。のちに相撲の修行を始めますが、その巡業中にあっけなくなくなってしまいました。それから60年後に八丈谷で弥五郎の追善相撲大会が開かれ、その名を刻んだ碑が建てられました。

 

● 銘文(正面・南)(寛政九(1797)年、安政四(1857)年)

 正面「寛政九年 行年 近村助力 /外ヶ島弥五郎 /

    巳七月九日 二十四 寂 當村施主」

 左面「安政四巳二月十一日 世話方若連中 /追善角力ノ一行上建 

    勧進元 清吉/差添人 谷五良」      

 

神辺町上御領の八丈岩丁石 

● 相撲取りの墓のうしろの塀の角にこの丁石がありました。ここから北の方向にある八丈岩を案内しています。八丈岩には次のような伝説が伝わっています。

● むかし、御領山には栗がいっぱい繁っていた。 高屋川をはさんで向かいの権現山は岩山で、それぞれに住んでいた鬼が、山の高さを競ってケンカになり、お互いに栗と岩を投げ合い、御領山は岩山に、権現山は栗山になった。そして、御領山は岩の分だけ高くなった。ちなみに御領山は234メートル、権現山は231メートルです。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「八丈岩(下部不明)」

 左面「←(左向き矢印)従是北〇八丁」

 

神辺町上御領の常夜燈など 

● ここにも八丈岩登山口の案内があります。八丈岩には、この先の天王神社(多祁伊奈太伎佐耶布都(たけいなたきさやふつ)神社)を通り八丈岩に行けます。

 

● 右の石柱銘文(正面・南)

 正面「御領八丈岩 登山口  約一五〇〇米 /神辺町観光協会」

● 左の石柱銘文(正面・南)

 正面「延喜式内 /多祁伊奈太伎佐耶布都神社」 

 

神辺町下御領の常夜燈 

● この辺りでは、たくさんの常夜燈を見かけました。左の写真は日吉神社の常夜燈です。因みにうしろの日吉神社の石段は151段あるそうです。右の写真は下御領八幡神社参道入り口付近の五叉路にある常夜燈です。八幡神社の中には、南大門近くに設置されていたという道標があったようですが見逃しました。

(地図は日吉神社の位置を示す)

 

下御領八幡神社境内の道標 (平成28年7月22日、追加)

● 国分寺南大門跡の南にあった道標2基がこの神社の境内に保存されていました。南大門は古代山陽道に面して建っていました。この交差点は近世山陽道と古代山陽道(県道181号線)の交差点になります。

● 道標の元の場所と向きについて次のように推測してみました。

現在の南面が近世山陽道に面していた。場所は南大門の南側で同じように2基ならんで建っていた。したがって正面はいずれも山陽道に面していた南面ではないでしょうか。

 

● 道標(1)銘文(1827年、ひのと・い)  

 東面「右 石州 ぎんざん道」

 南面「左 九州 をうく者ん」(往還)(「者、は」または「王、わ」?)

 北面「文政十 /亥中秋 十方助力」 

 高さ125㌢、 幅25㌢、 奥行25㌢ 

● 道標(2)銘文

 南面「右 かさお可近道」(「可」の部分折損あり)

 西面「左 かみ可"多道」(「かみがた」の「可”」の部分折損あり)

 北面「文政十亥  /中秋 十方助力」

 高さ106㌢、 幅19㌢、 奥行19㌢

 

国分寺東の道標 

● 三叉路の右の道に石柱が2本立っており、右の石柱の下に自然石の小さな道標がありました。これは道標か神域を表す標識なのかはよくわかりませんでした。 山陽道はこの三叉路を左に向かいます。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「是ヨリ西(小文字) /国分寺」 

 

国分寺南大門跡の道標 

● 聖武天皇の詔により全国66ヶ所に建てられた国分寺の一つです。その南大門跡です。

南大門は古代山陽道(現県道181号線)に面して建っていました。近世の山陽道は南西方向から北東方向にむかっており、南大門跡の前で交差しています。 

 

神辺町平野荒神社内の一里塚跡 

● 古い神社の中に一里塚跡と書かれた標識がありました。

 

神辺町川北の廉塾と菅茶山旧宅 

● 菅茶山(かんちゃざん、さざん)の旧宅は、神辺の街並みの東の入り口辺りに位置します。門を入ると「特別史跡 廉塾ならびに菅茶山旧宅」と書かれた石柱があり、広い庭の奥に建屋がありました。 

● 菅茶山(1748~1827)は、神辺町川北に生まれ、19歳の時京に上り朱子学を学び、その後郷里へ帰り塾を開きました。これがのちに廉塾とよばれました。ここでは常時20人くらいの塾生が学んでおり、頼山陽も一時塾頭をしていたそうです。

 

神辺本陣跡 

● この本陣辺りが神辺宿のほぼ中央になります。神辺宿は、矢掛宿と今津宿(現福山市松永町)の中間の宿場になり、また、山陽道と石州銀山道、笠岡道、福山道が交わる交通の要衝でした。

● 当時の神辺宿には三日市の西本陣と、七日市の東本陣とがありましたが、現存するのは西本陣のみです。神辺宿の場合、両本陣は本陣、脇本陣の関係ではなく、三日市の尾道屋菅波家を西本陣、そしてその分家筋にあたる七日市の本荘屋菅波家を東本陣と呼んでいました。東本陣は資料が残っておらずはっきりしませんが、西本陣は1660年ごろに筑前黒田家の通行に際して本陣を務めたことが始まりとされているようです。(神辺歴史民俗資料館HPより要約)

 

鶴が橋南詰の道標 (平成28年4月19日、追加)

● 神辺駅の南西、国道313号線(福山市から鳥取県北栄町へ)と県道391号加茂福山線の三差路、福塩線横尾踏切の手前に2本の道標が建っていました。旧い道標が交通事故で折損した際に運送会社が、復元品を作成したので2本になったようです。ここは福山から府中、上下、三次などを経て出雲大社に向かう街道になります。山陽道は、鶴が橋(旧鶴が渡し)で高屋川をわたり、西に進みます。

● 左の新しい道標も銘文は同じで、左に90°廻した位置で設置されています。

 

● 銘文(正面・北)(1863年、みずのと・い)

 右面「文久三癸亥年十月十七日  八雲琴當領(?)/ 世話 山﨑」      

 正面「出雲大社道」

 左面「出雲大社道」

 

福山市中津原の地神 (平成28年4月19日、追加)

● 自然石に「地神」と彫られ注連縄がかけられた碑をこの辺りの街道ではよく見掛けました。地神とは、一般的には田畑や屋敷内の一隅などに祀られる神で、土地の神、屋敷の神とされているようです。この碑に紀年銘は見当たりませんでしたが、設置された当時はこの辺りは田畑であったのかもしれません。

 

福山市郷分町の地神と常夜燈 (平成28年4月19日、追加)

● 大渡橋で芦田川を渡ると郷分町に入ります。左折してしばらく南に進むと正面にまた「地神」の碑がありました。さらに進むと山陽自動車道高架の手前に「金毘羅大権現」の常夜燈がありました。金毘羅さんは明治以降は仏教色が排除され「金刀比羅宮」となっています。したがって常夜燈の銘も時代によって「金毘羅大権現」、「金刀比羅神社」と使い分けられていました。

● 金毘羅はもともとインド仏教の鰐に由来するので水運関係者の信仰が厚いことで有名ですが、この辺りの街道にこうした常夜燈が多く見られるのは一般の人たちにも多くの尊崇を集めていたものと思われます。講の代表者が伊勢神宮のおかげ参りを終えると常夜燈を設置したという例を加西市あたりで見ることができましたが、同じようなことではないかと思います。地図は常夜燈の位置を示す。

 

● 銘文(正面・西)(1837年、とり)

 右面「天保八酉十月吉日 /當谷中」 

 正面「金毘羅大權現」

 

福山市郷分町二本松 (平成28年4月19日、追加)

● 山陽道は郷分町の集落を通り抜けて再び芦田川の堤に出ます。排水機場の横に「二代目二本松」の碑が見えました。かって街道に二本の松があったのですが、大正時代に水害で流失したとのことです。横にはここで行き倒れになった旅人を祀った地蔵堂もあります。

● ここには二本松というバス停があり、少し先にも三本松のバス停がありました。さらに先には一本松跡の碑もありました。現在ではここ以外では松は見あたりません。

 

福山市山手町江良の一里塚跡 (平成28年4月19日、追加)

● 山手町江良の交差点の一角に一里塚跡がありました。大きな榎の前の新しい石柱には次のような道案内があります。

 

● 一里塚の榎木 福山市山手町江良

 右の道 赤坂 松永 方面

 中の道 福山 市街 方面

 左の道 神辺 井原 方面

 

福山市山手町湯傳稲荷神社と周辺の「地神」碑 (平成28年4月19日、追加)

● 一里塚跡の少し南に湯傳稲荷神社という変わったなまえの神社があり、その境内に比較的新しい「地神」の碑がありました。湯傳稲荷神社は承応年間(1652~55)に水害で流失後、京都伏見稲荷の分社として再建されたと伝えられています。

● ここから南に向かった津之郷町の谷尻バス停前と坂部バス停前の2か所にもそれぞれ大きな碑がありました。坂部バス停前の碑は「地主大神」となっています。

 

福山市津之郷町旧一本松跡 (平成28年4月19日、追加)

● 山手町から津之郷町に入った街道の左(東)側に、説明板や祠と共に「旧一本松跡」の石柱がありました。右面を見ると「松喰虫枯為/昭和六十年十二月吉日伐採」となっていました。

● 説明板では、古代山陽道は神辺から芦田川をさかのぼり府中を経て三原に向かっていたが、近世の山陽道はこのルートになったことが説明されています。

 

福山市津之郷町の道標 (平成28年7月22日、追加)

● 酒店の勝手口にこの道標はありました。真新しい台石の上に建てられています。少し西の三差路に建っていたのかもしれませんが、お店はシャッターが下りていたので確認できませんでした。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「右 ふく山道」

 正面「左 大坂道」

 高さ66㌢(除く台石)、 幅18㌢、 奥行20㌢

 

福山市赤坂町、地神と常夜燈 (平成28年4月19日、追加)

● 済美中学校の辺りで津之郷町から赤坂町に変わり少し進むと、壹番組倶楽部前に「地神」の碑がありました。さらに西に向かうと五差路の一角に天保二年の常夜燈がありました。ここまでで少なくとも六基の「地神」を見たことになります。この地区は芦田川の氾濫で度々水害にあったのでしょうか、二本松や湯傳稲荷神社の説明にも水害で流失とありました。こうした被害をなくするための願いがこの碑に込められているのでしょう。(地図は常夜燈の位置を示す)

 

● 常夜燈の銘文(正面・西)(1831年、かのと・う)

 右面「天保二辛卯年月 當邑中」 

 正面「金毘羅大權現」

 

福山市神村町の地神と常夜燈 (平成28年4月19日、追加)

● 赤坂町を過ぎると神村町になりますが、明治時代の大きな常夜燈が目につきました。銘文は「金刀比羅神社」になっています。その少し先の神村町二区クラブ前にも本日七基目の地神がありました。(地図は常夜燈の位置を示す)

 

● 常夜燈の銘文(正面・東)

 正  面「金刀比羅神社」

 背  面「明治廿五年一月吉日

 台石正面「當組中」

 

福山市今津町、今津宿本陣跡 (平静28年4月20日、追加)

● 旧山陽道は松永バスセンタで国道2号線から分岐し、吾妻橋で小さな川を渡ります。鉤の辻のようなカーブを通り過ぎたあたりに本陣跡が見えました。表門の前の説明板を要約します。今津宿は慶長七(1602)年に、神辺宿と尾道宿の間に設けられました。戸数三百戸以上の商家が軒を連ねてにぎわっていました。本陣は代々庄屋職を務めた河本家により世襲され、現在も表門、塀、石垣などに当時の面影をを残しています。

 また、西の蓮華寺の案内板には「史蹟、西国諸大名今津宿脇本陣跡」とありました。

 

尾道市高須町の道標と一里塚跡 (平成28年4月20日、追加)

● 真田橋で藤井川を渡り、しばらく進むと尾道市に入ります。右側に崖を見ながら右にカーブをしますが、その曲がり角に小さな道標がありました。「右 ちかみち」とありますが、多分この崖の上にある関の地蔵尊への近道でしょう。さらに進むと「高須一里塚跡」の案内板がありました。周りにはなにもありません。案内板のみです。

(地図は一里塚の場所を示す)

 

● 銘文(正面・東)

 正面「右 ちかみち」

 左面「施主 水上留吉」

 

尾道市久保町の藩境石 (平成28年4月20日、追加)

● 山陽自動車道と尾道バイパスのICを越えて、バイパス沿いにダラダラと約1㌔ほどの登坂が続きます。坂の頂上(防地峠、尾道バイパストンネルのほぼ上)は、やや広い道路との交差点になっていますが、その一角にこの藩境石が建っていました。たくさんの藩境石を見てきましたが、このような立派な基壇の上にあるのは初めてです。基壇の一部にはセメントが使用されていますが、後世のものでしょうか。あとで調べてみると、道路の東側の大きな家の前に「従是東 福山領」という藩境石もありました。

● ここからは尾道の町に向かって急降下します。坂を下り始めてすぐのところで題目塔があったので坂の頂上を振り返ってみたのが右の写真です。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「従是西 藝州領」

福山藩藩境石 (平成28年7月22日、追加)

● 道路の東側に建つ藩境石の写真を追加しました。藝州領境石の後ろに見える大きな木の向こうに福山藩の番所跡が残っています。

藩境石の所在地は、福山領が尾道市高須町、藝州領が同市久保町になります。明治になり福山藩と藝州藩をあわせて広島県になったそうです。(番所跡の案内板による)

 

● 銘文

 北面・西面「従是東 福山領」

(平成30年4月8日追記)

● 備後国と安芸国の境界石は、もっと西の三原市内にありました。(「三原市新倉の境界石」参照)

● 関ヶ原のあと福島正則が広島に入城した時は安芸国と備後国の二国を領地としていましたが、元和四(1619)年福島氏が改易され、備後国の一部は福山藩となります。そして初代藩主として徳川家康の従兄弟になる水野勝成が配されました。その時の領地の境界を示すのがこの2基の石碑になるのだと思われます。

 

尾道市街 (平成28年4月20日、追加)

● 坂を下り切ったところで山陽本線と国道2号線を横断して防地口交差点を右折します。その少し先から尾道絵のまち通りと書かれたアーケードが1㌔ほど続き、終わったところがJR尾道駅になります。

● 尾道は坂と寺と路地のまち、まさにその通りでした。海岸通りには林芙美子が青春時代を過ごしたという家の跡もあり、ゆっくりと観光をしたい街です。時節柄修学旅行中の生徒も多く見掛けました。

(地図はアーケードの東の端の位置)

 

三原市木原の一里塚跡の碑 (平成30年4月8日、追加)

● 尾道駅(現在建替え工事中)を西に向かうと街道は徐々に上りになり、国道2号線尾道バイパスを越えたところで三原市との境界になります。この辺りが大入峠の頂上ですが、ここから街道中央が尾道市と三原市の境界となり、左(東)側が尾道市で右(西)側が三原市になっています。この碑は三原市側に建っています。三原市内にはこのような新しい碑が多く建てられていました。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「協賛 三原市 福岡幸司 /久井町 土肥正徳 /竹原市 菅脩二郎」

 正面「大入峠 一里塚跡」

 左面「三原市内一里塚四ヶ所の最東端」

 背面「平成十三年 /みはら歴史と観光の会」

 

三原市木原、鉢ヶ峯の道標 (平成30年4月8日、追加)

● 大入峠を下り海沿いの街道を進むと、鉢ヶ峯の登山口に山中の観音寺本尊虚空蔵菩薩を案内する道標がありました。傾いているので、背面や正面下部など一部の文字が確認できませんでした。距離の標記から推測すると大正か昭和の道標と思われます。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「尾道駅エ /四キロ五二〇米」 (「キロ」は米偏に千)

 正面「鉢ヶ峯 /虛空藏エ /一キロ五〇〇米 

   (下部)「吉和・・ /岡・・」

 左面「糸崎駅エ /三キロ四四〇米」

 背面(確認不能)

 

三原市糸崎の一里塚跡の碑(平成30年4月8日、追加)

● 糸碕神社の手前にある六本松一里塚跡の碑です。右面に「東方約五十米 鉄路内」とあるので、当時の一里塚は山陽本線の線路内にあったものと思われます。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「東方約五十米 鉄路内」

 正面「六本松一里塚跡」

 左面「協賛 糸崎町 大西勝彦」

 背面「平成十年(?) /みはら歴史と観光の会」

 

糸碕神社と舩繋之松 (平成30年4月8日、追加)

● 一里塚跡の西200㍍程のところに糸碕神社があります。この辺りはかっては長井の浦と呼ばれる風待ちの浦でした。境内には御調井(みつぎい)という井戸がありますが、神功皇后が長井の浦に船を繋ぎ、この井戸の水を求めたことに因み、その水を長井の水と称し、当地を長井の浦と称すと伝わっています。長井の浦は井戸崎ともいい、これらが糸崎や御調郡の地名の由来にもなっています。

● 神社の西150㍍程のところには「神功皇后舩繋之松御旧蹟/ 通稱下り松又夜啼松と云ふ」、左面には「御調の井戸 是より東八幡社・・」という碑と祠の中に大きな古木があります。(地図は、「舩繋之松」の場所を示す)

 

三原城址周辺 (平成30年4月8日、追加)

● 善教寺の門前に「文化年間/ 伊能忠敬 観測地」の碑(写真左)がありました。右面の説明では文化三(1806)年と文化六(1809)年に測量が行われています。

● 「水刎(みずはね)」(写真右)は、川中へ向けて三角形に石垣を築き出し、川の流れを弱めたり、流れの方向を変えて三原城の「東築出」の用地を確保するために造られた石垣と考えられています。和久原川にはほかにも数ヶ所の水刎が設けられています。

● 三原城は、小早川隆景が永禄十(1567)年に沼田川の河口の島をつないで築いたと伝えられ、満潮時には海に浮かんでいるように見えることから「浮城」とも呼ばれていた。明治維新後に競売に付され、その後鉄道が本丸を貫いて、明治27年に三原駅が開業した。現在では天守台などの一部が残るのみとなった。(いずれも近くの説明板を要約)(地図は、水刎の場所を示す)

 

三原市西宮の一里塚跡の碑 (平成30年4月8日、追加)

● 本日3基目の一里塚跡の碑です。道路の中央が三原市西宮1丁目と西町1丁目の境界になっています。この碑は西町側に立っていますが、表記は「西之宮 壱里塚跡」となっています。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「協賛 竹原市 菅脩二郎 /久井町 土肥正徳 /三原市 福岡幸司」

 正面「西之宮 壱里塚跡」

 左面「小早川隆景公四百回忌記念」

 背面「平成八年建之 /みはら歴史と観光の会」

 

三原市新倉の境界石(1) (平成30年4月8日、追加)

● 県立広島大学の北側は小さな峠(仏ケ峠、ほとけがたお)になっていてその頂上付近に道路を挟んで南北に2基の境界石が建っています。2基の道標を結んだ線が安芸国と備後国の境界のようです。現在の地図では、東の備後国側が宮浦5、西の安芸国側が新倉1になっています。

● これは北側の境界石です。中央付近に折損補修の痕があり、全体が鉄枠で補強されています。背面では紀年銘が読めません。明治十○年の「○」部分が補修痕で不明確です。また下部には「再建」らしい文字が見えるので、元々これより旧いものが建っていたと思われます。岡山県から備後国の一部が移管され現在の広島県が明治九年に確定されているので、それを機に再建されたものかもしれません。

● 右写真の地図は、明治31年帝国陸軍陸地測量部測量(昭和7年一部補正)のもので、山陽道はまだ江戸時代の名残があると思われます。これに境界石の位置などを書き込んでみました。なお、山陽本線のルートは三原駅周辺の高架化工事(平成3年完成)の際に現在のように変更されています。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「從是東 備後國

    從是西 安藝國」

 背面「明治十一(?)年十(?)年 再・・」

三原市新倉の境界石(2) (平成30年4月8日、追加)

● こちらは道路の南側の境界石です。大正三年の銘があります。上に示したようにこの頃の地図には旧国名の境界線も記入されていました。

● 刻銘によると東側は御調郡西野村(現宮浦を含む)で備後国、西側は豊田郡長谷村(現新倉を含む)で安芸国であったことを示しています。全体に彫が浅く風化もあり文字は不鮮明です。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「大正三年四月」

 正面「從是 西安藝國豊田郡長谷村・・・

       東備後國御調郡西野村・・・」

 左面「・・・」(判読困難個所)