―山陽道の道標(1)―

 

船坂峠国境の碑 (平成22年10月1日追加)

● JR三石駅(岡山県備前市)から国道2号線を約2㌔ほど東に上って行くと、左へ入る旧道があります。この旧道を4~500㍍ほど進むと、さらに左へ草の生い茂った山道があり、これをしばらく上って行くと、大きな石碑がありました。太平記にも出てくる児嶋高徳ゆかりの「船坂山義挙之趾」です。ここからさらに山道を上って行くと、「播備国境の碑」と書かれた案内板が右方向を示していますので、その方向に山道から外れて下って行くと「従是西備前國」と書かれた大きな石柱がありました。

● 元禄十六年(1703)には2基の石柱が立てられていたそうですが、現在は「従是東播磨國」という石柱はありません。ここが播磨の西端ということになります。また、ここ船坂峠は方言の分水嶺でもあります。ここをこえると関西訛りは、聞かれなくなります。この草深い山道が元々の街道らしいのですが、この先は歩けそうにないのでここからは引き返すことにしました。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「従是西備前國」(是より西備前の国) 

  

県界の石柱 (平成22年10月1日追加)

● 藩境の石柱から山道を下り、旧道(旧国道2号線)を東に進むと道路の左側に大きな石柱がありました。この辺りは国道2号線や山陽本線のトンネルの上になります。

● 東宮(のちの昭和天皇)は、大正十五年五月二十一日に軍艦長門で宇野港に上陸、24日朝岡山駅から広島駅に向かわれました。その時の行啓記念の碑のようです。ただし、この地を通られたという記録は見当たりません。

● この石柱の上の方を見て気付いたのですが、上の方の木々の間に藩境の石柱が見えていました。山道で方向がわかりにくかったのですが、ここで両者の位置関係が確認できました。昔の藩境は現在の県境でもありました。 また、ここには「飾磨縣姫路元標 拾里貳拾町拾七間三尺」などと書かれた明治九年七月の木製の標柱があったそうです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「兵庫縣赤穂郡船坂村」

 正面「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」

 左面「岡山縣和気郡三石町」

 背面「大正十五年五月建設」

 

山伏峠の藩境石 (平成30年11月29日、追加)

● 山伏峠は、山陽道船坂峠からは直線距離で10㌔ほど北に離れています。上郡町から兵庫県道・岡山県道90号赤穂佐伯線を西へ進むと、岡山県との県境が山伏峠になります。この峠の頂上付近の南側にこの藩境石が建っていました。「從是西備前國」の藩境石はこれで3基目(あと1基は赤穂市)になりました。

 

● 銘文(正面・北東)

 正面「従是西備前〇」(「國」の文字は埋没」

 高さ104㌢、 幅20㌢、 奥行20㌢

  

梨ヶ原明治天皇駐輦之碑 (平成22年10月4日追加)

● 船坂峠を下りると、兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原になります。ここに明治18年8月8日の日付の入った「明治天皇駐輦之碑」という大きな石碑がありました。この辺りの山陽道には明治天皇巡幸の際の駐輦(ちゅうれん=馬車をとめて一時滞在する)所、駐蹕(ちゅうひつ=一時馬車を停止する)所などの記念碑が残っています。

● 梨ヶ原では平成4年の発掘調査で中世から近世にかけての山陽道梨ヶ原宿の集落跡が見つかったそうです(梨ヶ原宿遺跡については「古代山陽道の痕跡」を参照)。古い町並を通り過ぎると山陽道は国道2号線に合流し、鯰峠を越えます。旧道は国道2号線を東に横断し、有年峠越えになりますが、明治天皇行幸に際して国道2号線が整備されたので、現在は有年峠はけもの道になっているようです。また、山陽本線はこの辺りから旧有年宿を避けるように大きく北に迂回しています。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「明治十八年八月八日

    明治天皇駐輦之碑 /陸軍大将男爵田中義一書」

 背面「昭和三年五月 /舩坂村建之」

 

馬路池畔の駐蹕の碑 (平成27年1月4日追加)

● 国道2号線の鯰峠を下りに差し掛かったあたりの左側に馬路(うまじ)池があります。この池と国道に挟まれた場所にも明治天皇巡幸の際の記念碑がありました。兵庫県の山陽道には明治天皇巡幸に関する碑が多くありますが、これらはほとんどが昭和の初期に建てられています。この碑は明治29年に建てられ、兵庫県下では最も古い明治天皇巡幸の碑になります碑の揮毫は上郡町出身の偉人大鳥圭介によるものです。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「明治十八年八月八日

    今上天皇駐蹕之碑

    従三位勲一等 大鳥圭介謹書」

  

西有年の一里塚跡 (平成22年10月1日追加)

● 梨ヶ原から国道2号線の鯰峠を越えると西有年になります。西有年の入り口付近に立場跡という古い民家が残っていました。立場というのは人夫が駕籠をとめて休息する場所で、独特の様式を持つ建物であると説明板にありました。有年峠のふもとでもあり、この地点ならではの施設だと思いました。この立場跡の2~300㍍ほど東に一里塚跡の標識があり、石垣も残っていました。一里塚は道の両側に、こうした区画に土が盛られ、榎や松が植えてあったということです。中国行程記に「此一里山ハ備中板倉ヨリ十三里、播磨姫路ヨリ八里」とあるのは、この一里塚のことでしょうか。

 

(令和元年10月6日、追記)

● 有年横尾の通称「塚ノ元」(有年駅西側、小字名は「堂ノ元」)にも一里塚があったと伝えられ、そこまでが一里であった。(赤穂市教育委員会「文化財をたずねて」)

 

赤穂市東有年の道標 (令和元年10月7日、追加)

● この道標は、元は山陽道と県道90号赤穂佐伯線の丁字路にあったが、道路の拡幅工事や度重なる折損事故等により、現在は有年楢原の赤穂市立有年考古館に移設されていました。上記の地図に示した位置は元の場所を示しています。

 

● 銘文(正面・東、元の場所での方角)

 右面「左 王う久王ん すぐ あ可本

            城下道 三り  」 (すぐ赤穂城下道)

 正面「右 王うく王ん」  (往還)

 背面「判読不能」(文字らしい彫りの跡がある)

● 高さ110㌢、 幅18㌢、 奥行18㌢   

 

赤穂市有年堂ノ元(塚ノ元)の道標 (平成22年9月25日追加)

● この道標は昭和3年(1928)と比較的新しいものです。ここは赤穂市JR有年駅の少し西の旧道と国道2号線の交差点になっています。旧道をここからしばらく西に進むと国道373号線と交差します。このR373を北に向かえば上郡や鳥取方面に行けます。道標の形は角柱型ですが、正面の一角が削られた珍しい形になっています。昭和三年十一月十日には昭和天皇の即位の大礼が京都御所で行われています。

(令和元年10月6日、追記)

● 国道2号線の拡幅時に撤去されていたが、平成3年2月元の位置付近(旧位置より西方)に建て直された。(赤穂市教育委員会「文化財をたずねて」より)

 

● 銘文(正面・東)

 右面「右 上郡鳥取」

 正面「御大典記念 昭和三年」

 左面「左 岡山廣嶋」

● 高さ99㌢、 幅24㌢、奥行24㌢

  

有年村の道路元標 (平成22年9月25日追加)

● この「有年村道路元標」は、JR有年駅前の道路(県道457)と旧山陽道の交差点付近にありました。説明柱によれば、戦後の県道拡幅時に一時除去されていたのですが、元の位置(旧山陽道角辻)近くに設置された、とありました。

  

相生駅南の道標 (平成22年9月25日追加)

● この道標は、JR相生駅の南の公園の一角にありました。周辺の道路はよく整備されているので、最近移設されたものと思われます。右が旧山陽道で、左はしばらく進むと国道250号線に合流し、赤穂方面に行けます。道標に年代は入っていませんが、おそらく江戸時代のものと思われます。しかし、「行程記」ではこの辺りに「此棒杭ニ西 九州下ノ関道 東 上方道ト有 南 赤穂城下道」とあるので、行程記(1764年完成)の後に建てられたものということになります。

 

● 銘文

 北東面「是より右 さいこくみち」

 南東面「是より左 あ加本城下みち」

 

たつの市の正條(しょうじょう)の道標 (平成22年9月19日追加)

● たつの市揖保川町正條の揖保川郵便局の前にこの道標はありました。近くには本陣井口家や正條の渡しもあり、室津や龍野城下への分岐でもあり、当時は繁栄していたものと思われます。 揖保川町史に幕末期正條宿の図があり、街道の両側にそれぞれの宿の名前が記載されていたのですが、道標のある角地は「利八郎」となっていました。勝手な推測ですが、この宿の主人が明治になってこの道標を設置したと思われる。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「明治十五年七月」

 正面「右 飛免ぢかうべ /左 た津の山さき 道」

 左面「圓尾利八郎建之」

 背面「備中國黒嵜村石工小林」

   

正條の渡し (平成22年9月19日追加)

● 「正條の道標」を東へ進むと揖保川の右岸に出ます。この付近が「正條の渡し」で、たつの市の標識も設置されていました。「中国行程記』によれば、揖保川は「川広八十間、地水広三十間、船渡り」とあり、さらに「地水弐文、中水八文、満水十六文」と渡し賃も記載されています。川の水量で料金も異なっていました。この渡しは明治の初めまで続いたということです。

● 余談ですが、この辺りは畳堤(たたみてい)と呼ばれる特殊な堤防になっています。洪水が予想されるときには欄干のようなところに畳を入れる構造になっています。

  

揖保村道路元標 (平成22年9月19日追加)

● この道路元標は、揖保川と林田川の中間辺り、揖保町西構の民家の前に、半分ほど埋没してありました。この揖保村(道路元標)の前が旧山陽道です。

 

阿宗神社の石柱 (平成22年9月19日追加)

● 林田川の東の田んぼの中にポツリと石柱が立っていました。阿宗神社は古代に栄えた神社ということです。地図で確認するとここから北の方角、国道179の林田川永久橋付近の誉田(こんだ)町広山にあります。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「従是北八丁廣山村鎮座」

 正面「式内 阿宗神社」

 

太子町鵤の道路元標 (平成30年11月29日、追加)

● 太子町の太子山公園の入口付近の山陽道にこの道路元標がありました。現町名の「鵤」(いかるが)ではなく、「斑鳩村」と書かれているようです。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「斑鳩村道路元標」

 

太子町山田、明治天皇御小休所の碑 (平成26年5月9日、追加)

● 明治天皇は10数年かけて6回の地方巡幸を行いました。山陽道巡幸は、最後の6回目となる巡幸で明治18年7月26日から8月12日にかけて行われました。巡幸には伊藤博文らも同行し、供奉人員は199名を数えたといわれています。行程は、まず海路山口に向かい、広島を経て、岡山から兵庫は馬車で、そして神戸から海路、帰京となっています。8月8日、岡山県三石から船坂峠、梨ヶ原、東有年、相生市鶴亀、たつの市正條をへて山田峠へ向かい、その手前のここ小西邸で小休止されました。これはその記念の碑です。ちなみに8日は姫路船場本徳寺、9日は明石浜光明寺が行在所となり、10日神戸から海路帰京されています。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「史跡名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟 /

    トシテ昭和十一年七月文部大 臣指定」

 正面「明治天皇山田御小休所」

 左面「昭和十二年十月建設」

 

揖保郡太子町山田の道標 (平成29年2月15日、追加)

● 御小休所の北の小道を右折し100㍍ほど進んだ正面の三差路にこの小さな道標がありました。背面は塀に埋め込まれているので確認できません。山陽道には面していませんが、字づらから推測すると多分大正か昭和のものでしょうか。「左 ひめじ」方向に進むと山田峠に差し掛かります。

(令和2年5月27日、追記)

● この場所に設置されている訳は1923年版の「今昔マップ」で納得です。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「右 おか山 /左 ひめじ」

 高さ68㌢、 幅19㌢、 奥行19㌢ 

  

山田峠 (平成22年9月19日追加)

● この峠は、姫路市と太子町の境界にあります。近くに国道2号線が走っているので車の騒音は絶えませんが、深山渓谷を感じさせる道路です。当時の峠道は「山陽道山田峠」の標識から細い山道になっています。少し入ってみたのですが、写真(右)のように鹿の親子が迎えてくれました。峠を越えると姫路市青山となり、よく整備された団地に出ます。再び国道2号線と合流し、しばらくして旧道に入ると、随所に旧家もみられる昔ながらの町並になります。さらに進むと「青山の道標」、夢前川の渡しに出ます。

 

姫路青山人丸神社前の道標 (平成24年2月4日追加)

● 山陽道から少し北に向かった人丸神社の前の交差点に書写山を案内する道標がありました。この交差点は地図でもわかるように7本の道が交差しています。7差路は初めて出会いました。「右 志よしや道」の方向を進むと、「因幡街道の道標」姫路飾西の道標(1)のところに出ました。

 

● 銘文(正面・南)(1795年、きのと・う)

 右面「寛政七年乙卯二月」 

 正面「右 志よしや道」

 左面「左 やま道」

  

姫路青山の道標

● 夢前川の右岸、山陽道と因幡街道の交差点にあるこの道標は、姫路市内では一番大きく(高さ223㌢)、形も五角柱で、書かれた道案内も「長崎へ百六十九里二十七丁」など詳細を極め、市内でも一級品の道標と姫路市石造遺品銘文集にもあります。

● この道標の寄贈者である小松専太郎は倉吉の呉服商で頻繁に江戸などと往来を繰り返していたそうです。道標はこのように商人の寄付や途中で不慮の死をとげた旅人の供養や巡礼を終えた記念など、庶民の浄財によるものが多く、その場合には、道標の一面に「施主、世話人、願主」などとして名前が刻まれています。

 

● 銘文(正面・東)(1855年,きのと・う)

 正面右「右 因州 伯州 /作州 雲州 往来」
    (下部)「是ヨリ津山へ二十り十八丁 倉吉ヘ三十五リ /

            鳥取ヘ二十九リニ十八丁 米子へ四十二リ /
            大仙ヘ三十八リ 松江ヘ六十一リニ十七丁 /

            出雲大社ヘ六十リ」

  正 面「圓光大師二十五霊場美作 /誕生寺 道」

    (下部)「伯耆国倉吉西町 /施主 小松専太郎 /世話人下手野村 /

         大野丈助 /姫路大黒町 /高井利平」

 正面左「左 備前 九州 /金毘羅 宮嶋 往来」

    (下部)「是ヨリ岡山ヘ二十リ一丁 萩へ百リ / 

            田野へ二十六リ 下ノ関へ百六リ /

            下村ヘ二十七 熊本へ百五十八リ /

            広嶋へ六十リ三十五丁 長崎へ百六十九リ二十七丁」

  南西面「すぐ 姫路 大坂 /京 江戸 往還」

  背 面「安政二乙卯年三月建之 /為往来安全」

    (下部)「姫路〇〇・ /石工 西川〇〇・」 

 

下手野の一里塚跡 (平成24年9月4日、追加)

● 夢前川を渡ると、金毘羅大権現の文政十(1827)年の常夜燈が民家の玄関先にあります。願主桔梗屋など旅籠の屋号が書かれており、この辺りが宿場であったことがしのばれます。常夜燈の少し東の民家に挟まれた場所一里塚跡の説明板が立てられていました。それによれば明治時代まで高さ約2㍍の塚が残っていたということです。

● 26年5月9日、説明板が新調されていたので再撮影した。 

  

下手野の道標

● 青山の道標を見て、夢前川を渡り山陽道を少し東に向かったところにこの道標はあります。青山の道標と同じく圓光大師ゆかりの二十五霊場の第一番札所美作の誕生寺の案内の道標です。建立は「明和四年」で、姫路市内では3番目に古いものです。

● 「播磨の街道」(神戸新聞社刊)によれば、明治時代に因幡街道からここに移設されたとあった。また、道標の左の細い道は林田藩に向かう本道でもともとほかの道標が建てられていたという。

● 圓光大師ゆかりの霊場巡拝は宝暦年間(1751~63)に始ここにまったといわれていますので、始まって間もなくに建てられたものです。これより二年前の明和二年の道標が曽根の跨線橋の下の道標群の中にあります。

 

● 銘文(正面・南)(1767年、ひのと・い)

 右面「右 第一番みま /さか誕生寺道」

 正面「圓光大師二十五霊場」

 左面「明和四年 /丁亥十月 左 たつの道」  

 

西今宿の道標(1) (平成26年5月9日、追加)

● 下手野の道標から東に進むと再び国道2号線に合流しますが、姫新線の跨線橋をこえてしばらくするとまた旧道と分岐し、数十㍍入ったところにこの道標がありました。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「北在 五丁」

 正面「内/式 高岳神社」

 左面「昭和七年九月三日 中安 薫 /謹書」

 背面「西丁 茶屋中」

 

西今宿の道標(2) (平成26年5月9日、追加)

● 上の道標のすぐ東の高岳神社参道との分岐点にも道標がありました。

 

● 銘文(正面・南)(明治3(1870)年)

 右面「三木治兵衛・・・」(6段で30名の名前が書かれている)

 正面「式内高岳神社」

 左面「北在五丁」

 背面「庚午閏十月 姫路藩廰」 

 

西国街道の標識 (平成26年5月9日、追加)

● 山陽道は、西今宿の道標(2)から東に進み、名古山トンネルの上を通り龍野町に入ります。龍野町を通り抜けると、姫路城の外堀、船場川に突き当たります。ここを南に下り国道2号線を横断して、三つ目の小さな橋が姫路城の備前門跡で、ここからは城下になります。右の写真は船場川沿いの西国街道の標識です。平成5年の姫路城世界遺産登録を記念して、平成9年5月に建てられました。

 

船場本徳寺 (平成26年5月9日、追加)

● 備前門跡の西方、地内町に船場本徳寺があります。ここの山門の右側の植え込みに「史蹟明治天皇姫路行在所」の碑が建っています。これは明治18年8月の巡幸の際の行在所であったことを示す碑です。

● 真宗大谷派姫路船場別院本徳寺は、船場本徳寺、船場御坊などと呼ばれています。永正12(1515)年英賀城下に道場を建立、天正8(1580)年秀吉の英賀城攻めの時、亀山に移されました。元和4(1618)年亀山本徳寺から分立し、本堂を建立しましたが、その後火災で焼失しました。現在の本堂は享保3(1718)年当時のものです。

 

国宝姫路城

● 姫路城下の山陽道は、西は備前門(のちに福中門と改称)から福中町、二階町、平野町を通り、鉤型に曲がり国府寺町の外京口門(東光中学校南側)にいたるルートのようです。外京口門から市川の渡しまでのルートは明確にはわかりませんが、ケーズ電器の西側には古い家並みが残っています。

● 姫路城の各門はこちらで参照して下さい。 

  

一本松五霊天神社前の道標

● 姫路城下を抜け、市川を渡るとこのあたりになります。市川の渡しの場所は特定できませんが、現在の市川橋の少し北側と推定されています。

● 「中国行程記」には「此市川広サ弐百間(360㍍)程有、東地ニ広キ河原有、地水ノ間四十(72㍍)間程、船渡リ」となっています。市川の渡しはここ一本松の渡しのほかに小川の渡し(現小川橋辺り)や松ヶ瀬の渡し(現花田井堰辺り)があったそうです。市川に最初に木橋がかけられたのは明治八年、この道標は明治三十六年となっているので、すでに市川には橋がかけられていました。

● 現在では、姫路城の天守閣はこの市川の堤防辺りが見納めになりますが、清河八郎の西遊草には「姫路城の天守閣はたいそう高く、二里ばかり先からも見える。」とありますので、豆崎辺りからも見通すことができたのでしょうか。

● 平成23年10月14日追記、この道標は市川橋東袖の旧国道と有馬街道の分岐点に建てられたもの、詳細は「有馬街道の道標」に記載しました。 

 

● 銘文

 東面「明治三十六年十一月」 

 南面「右 大阪 神戸」

 西面「左 丹波 有馬」

 

印鐸神社参道の道標 (平成22年5月3日追加)

● 一本松の渡しから山陽道をしばらく南に進むと、大きくカーブして東に向かいますが、曲がり切ったあたりで「印鐸神社」という珍しい名前の神社の案内の看板があります。この案内に従って南に進むと小高い山の上に印鐸神社があります。参道は山のふもとから竹林の中を階段が続きます。その中段くらいに自然石型の道標があります。道標の左の方に、地図にはありませんが道らしきものがありました。方角としては、飾磨や亀山の方に向かっています。

● 参道の鳥居には安永元年(1772)の銘が、また麓の神明社の鳥居には宝暦12年(1762)の銘がそれぞれあり、かなり古いものが残っていました。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「餝万津亀山 道」

 

四郷町山脇の道標

● 交差点の民家の玄関先にこの道標はありました。下部は少し埋まっています。ここからほぼ八家川沿いに南に進むと八家地蔵に行くことができます。現在では、このような場所に案内があるのは場違いな感じがしないでもありませんが、八家地蔵は、当時は「播州名所巡覧図絵」にも描かれた名所であったことをしのばせる道標です。

 

● 銘文(正面・西)(1859年)

 正面「(菩薩坐像)右 やかぢぞう 是より一り」

 左面「右 ヒメジ /左 神戸」

   (下部)「安政六年 /正月吉日」 

                         「施主伯州汗入郡・・・ /国・・・」(・・・は埋没)

  

西御着の一里塚跡の標識

● 工場の建物の横に一里塚跡の標識がありました。ここは「此一里山ハ、播磨姫路ヨリ一里、摂津西ノ宮ヨリ十八里」と「行程記」にありました。前後の一里塚は、東は高砂市豆崎、西は姫路市下手野です。慶長九年(1604)江戸幕府は、日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出しました。そして大久保長安の指揮のもとに10年ほどで整備が完了しました。一里塚には榎や松が植えられ旅人が木陰で休息できるように配慮されていたということです。現在では道の片側にしか残されていませんが、本来の形は街道の両側に対で設置されていました。

● 余談になりますが、この「行程記」によれば、姫路から加古川は四里、ここを馬に乗ると260文(約5200円)、曽根の松、石の宝殿、高砂、尾上を廻ると412文(約8240円)、曽根の松、石の宝殿の両所廻りでは309文(約6180円)と克明に書かれていて面白い。(1文を20円で換算しました。当時のそばは16文)

  

播磨国分寺南の道標

● この道標と国分寺の間は、山陽本線や新幹線で分断されていますが参道があったようです。地図上で参道を北に延長すれば国分寺になり納得です。道標の近くに「国分寺参道跡」の看板もあります。「うしどう山」は牛堂山国分寺を示しています。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「(地蔵坐像)右 かみすヾ /左 うしどう山」

 

播磨国分寺境内の道標  (平成22年2月20日、追加)

● 写真の薬師如来堂の右にあるのが国分寺境内の道標です。道標の正面は地蔵菩薩立像となっているので、四角柱の一角が手前になる菱形になります。右面が北、左面は東向きです。国分寺境内の門を入ってすぐ左の茂みの中の目立たない場所ですので、どこかから移設したものでしょう。

 

● 銘文(正面・北東)(1842年、とら)

 右面「川渡左遍路道 /福中町〇〇会」

 正面「(地蔵菩薩立像)の光背にあたる部分に「開 /願」と横書き」

 左面「是より札所へ廿五丁 /天保十三寅年十二月 /柳屋金兵衛」       

 

別所村道路元標 (平成24年2月22日 追加)

● 山陽道、別所町公民館前の交差点南東角にこの「別所村道路元標」がありました。設置場所は、兵庫縣告示(大正9年)によれば、「印南郡別所村別所東上代1635地先地番」となっている。

 

別所町鹿島道の道標 (平成24年2月22日 追加)

● この高さ53㌢の小さな道標の位置は山陽道から少し外れますが、姫路方面から鹿島神社に向かう道筋になります。後方の山を越えたところが鹿島神社ですが、現在通行が可能かどうかわかりません。鹿島神社側から姫路に向かう道は閉鎖されていました。

● 余談ですが、この道標の向側に「大平山旗振り信号所跡の碑」がありました。それによれば、明治27年ころから大正6年までこの東の大平山の頂上に大阪堂島と兵庫の米相場を姫路に伝達するための手旗信号所が設けられていたということです。携帯電話の普及した現在からは考えられないことです。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「左 かしま道」

 左面「田中宗八」

  

高砂市曽根跨線橋下の道標群 (5基)

● 国道2号線豆崎の信号を北から南に横断しそのまま道なりに進むと、この跨線橋の下にでます。ここには移設された道標が五基集められています。この地点、大日山の南麓は浜街道への分岐点で、西向きに5基の道標が露岩の上に並べられていましたが、昭和45年に大日山を削り、跨線橋を建設したのでその際、高架下に移されました。写真は四基に見えますが、後ろに小さな道標があります。風化が激しく判読できません。「圓光大師二十五番霊場」の十輪寺は、第三番霊場です。また、この辺りの「阿弥陀町」の地名は、中筋の時光寺の阿弥陀如来に由来するそうです。「左 おうくわん」は往還、すなわち山陽道(西国街道)を示しています。ここから右(南)に向かえば、曽根天満宮の曽根の松です。

 

● 一番右の道標銘文(1765年、きのと・とり)

 南面「明和二乙酉年十二月」 

 西面「右 高砂十輪寺道」

 北面「圓光大師二十五霊場」

● 右からニ番目の道標銘文

 西面「右 時光寺道」

● 右から三番目の道標銘文

  西面「左 おうくわん」

  北面「ごちゃく へ り /かこ川 へ り /廿三丁」

● 左の道標銘文

 西面「右 曽祢之松 道」

 北面「左 楚年能末川ミち」(曽根の松)

● 奥の道標銘文

 西面「是より 〇〇高砂 /〇〇ミち」

  

高砂市阿弥陀町鹿島神社参道の道標

● この道標は、交通事故で折損したので、現物は曽根の教育センター内に移設されていました。ここ(写真電柱手前)には「道標・元の位置」という銘板が埋められています。ここから北に向かうと鹿島神社になります。

 この南側に安養山地蔵院がありますが、ここには明治天皇が明治十八年八月の巡幸の際に小休止された記念碑があります。明治天皇は八月九日、御着、阿弥陀、加古川(昼食)、土山、大久保で休憩され明石の浜光明寺に宿泊されています。

 

● 銘文

 南面「鹿しま道」(教育センター内での設置位置)

 西面「か志末道」

 北面「奉納 藤本久・・」

 

高砂市阿弥陀町地徳の道標 (平成22年8月21日追加)

● この道標は、鹿島神社の南側の阿弥陀町地徳の村落の中にありました。かっては山陽道から神社への参道だったのでしょう。

 

● 銘文(正面・西))

 右面「大正三年四月」

 正面「左 かしま道」

 左面「當村 /山本清吉」

  

鹿島神社本殿裏の道標 (平成22年8月21日追加)

● この道標は、鹿島神社の本殿裏の山道にありました。本殿左側から細い山道を登ると三叉路になりますが、その左手前に枯葉に半分ほど埋もれて立っていました。左方向は手形で示されています。地図で確認すると、ここから山を越えて西に向かうと姫路市別所方面に出ますが、道標の先の竹林で通行止めになっていました。手形は克明で軍服らしい袖付きになっています。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「明治四十一年六月」

 正面「(左指さし手形)鹿嶋(道)」( )内は埋没

 左面「右ひめぢ」

 

魚橋の道標

● 一見、地蔵さんのようで見逃してしまいそうです。よくみるとレースの下に文字が見えました。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「左 石之寶殿」

 正面「(地蔵坐像)右 姫路 時光寺 /左 曽根ノ松」

 左面「右 法花山」

 背面「大正十二年正月」(「大正」以外は不鮮明)

  

魚川橋東詰の道標

● この道標は国道2号線高砂北ランプの近くにあります。大正五年の年号が入った平板型の道標です。ここから左、すなわち法華山谷川に沿って北のほうに向かうと、西国三十三ヶ所の二十六番札所法華山一乗寺とさらに北の二十五番札所御嶽山清水寺に向かいます。背面の4名の方々が西国三十三ヶ所の巡礼を終えた記念でしょうか。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「大正五年六月建之」

 正面「(地蔵菩薩坐像)(左向き手形)左 志方 /法花山/清水」

 横に「しかた /ほつけさん /きよみず」とふりがなあり

 背面「増田〇〇 /原田〇〇 /増田〇〇 /中川〇〇」

  

高砂市神爪の道標

● 国道の暗渠を潜って東に進むと道路の右側にこの道標がありました。石の宝殿への分岐点で元は正面を北、山陽道に向けて立っていたようです。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「   牛馬無(用)」(「用」は埋没)

 正面「是より 石能ほう」(「でん」の部分は埋没) 

  

宝殿駅前の道標

● この道標は、宝殿駅前の自転車店(加古川市米田町平津になる)の店先に傾いて立っています。ここから十三丁、約1.4㌔に宮城塩釜神社の塩釜、宮崎霧島神社の逆鉾と並び日本三奇の一つといわれる生石(おおしこ)神社「石の宝殿」があります。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「    いしのほうでん /

    左 石寶殿 /

        コレヨリ十三丁」

 

石の宝殿(生石神社)内の道標(平成22年7月21日追加)

● ご神体の巨大な石造物の参拝を終えて本殿を下りると絵馬堂の前でこの道標を目にします。絵馬堂の左の石柱には、背面(東)「明治辛巳春」(明治18年、かのと・み)との文字が見えましたが、他には文字がないので道標ではないのかもしれません。

● 右の写真は石の宝殿の拝殿です。御神体の石造物は何のために作られたのか?水に浮いている?岩山にもかかわらず下の水の量が変わらない?という謎があるそうです。

 

● 銘文(正面・西)(1807年、ひのと・う)

 右面「文化四年丁卯二月」 

 正面「右 姫路 /曽根 /高砂 /尾上 /

    左 法華山 /加古川」

 左面「姫路家中 某奇進」

  

加古川駅前の道標

● ここから少し南一帯が山陽道の加古川宿であったようです。「播州名所巡覧図絵」には「加古驛」は、「人馬、大久保驛よりここに継ぎて御着の驛に至。小川の流れを郡界とし、寺家町は加古郡に属し、加古川村は印南郡に属す。二郡家つづきの驛也」と書かれています。また、中国行程記の道順の記述には、「従是酒井雅楽頭領」などと藩、郡、村の境界や「東・西・南・北」の方位が盛んに使われているので、このような境界や方位を示す標識があったのではないかと思われます。

 

● 銘文

 東面「東 明石驛迄五里十四丁」

 南面「南 西國街道播磨國 /加古郡加古川驛」

 西面「西 姫路驛迄四里五丁余」

 北面「北  」 

● 平成24年2月13日追記、

加古川市のパンフレットに「明治21年山陽鉄道が開通した時に立てられたものと考えられている。」との記述がありました。

● 平成26年9月18日追記

「加古川の道標を訪ねて」によると、江戸時代の加古川宿駅の標柱と伝えられている、とあった。だが、「大蔵谷宿」の表示でなく「明石駅」となっていることに疑問を感じます。いずれにしてもミステリアスな道標です。

  

加古川市野口交差点北の道標

● このあたりの山陽道は国道2号線の一本北の筋で、はるやまという洋服店の北側にこの道標はあります。最近周りが整備されたので、よく目立つようになりました。相当古い道標のようですが、上部は折損しています。刀田山は鶴林寺の山号です。

● 萩藩絵図方が1764年ころに作成した「中国行程記」のこのあたりの東からの記述に「此棒杭ニ尾上高砂道ト有」とあるので、「道」の上には「尾上高砂」とあったのではないかと勝手な想像をしてみました。

 

● 銘文

 東面「 道」(上部欠損)

 西面「〇田山尾上道」(上部欠損、〇は「刀」?)

  

野口神社東の道標

● 野口神社の東角に角柱型の道標があります。これも加古川駅前の道標と同様に方位または村境を示す標識ではないかと思います。再び中国行程記を引用します。このあたりの東からの道順で「→新在家村・村境・野口村→真言宗五社山神宮寺→」と書かれています。野口神社は比叡山麓日吉神社から分霊され、山王五社宮と呼ばれていましたが、明治以降野口神社となったと説明板にありました。

● 下の文字は三面で日岡神社までの距離を示しています。余談になりますが、「式内・・・」とは延喜式(967年施行)の神名帳に記載された2861の神社の一つであることを示しています。国家による神社の格付けでしょうか。これに対し地方では一宮、二宮、三宮・・・といった格付けもあったようです。

 

● 銘文

 東面「東 大野村在」

 南面「南 式内日岡神社」

 西面「西 廿五丁」

 北面「北    」

  

明石市魚住町清水の道標

● 東に向かって、左に加古川バイパス明石西ICが見とおせる住宅街の角にこの道標はあります。西側はコンクリートで民家の塀に密着している。ここから南(写真では奥)に進むと東二見や播磨町方面へ向かいます。現在は西明石ICから播磨町や二見町の人工島まで広い道路が整備されています。

 

● 銘文

 東面「左 二見」

 西面「右 江井ヶ島」

 北面「右 三木」

  

明石市魚住町西福寺前の道標

● このあたりの山陽道は、やや南北の方向に進むので、東からやってきた旅人はこの道標の南面を目にします。立派な観光案内の道標です。北面に小さな文字で書かれているのは近くの旅籠の名前のようです。

● 幕末の志士清河八郎は、日記「西遊草」によれば、安政二年(1855)近くの長坂寺の旅籠に泊まり、翌日は手まくらの松などを経由し姫路に向かっているので、この道標に魅かれたのかも・・・これも勝手な想像です。

 

● 銘文

 東面「是よ里 /者り満名所道」(是よりまりま名所道)

 南面「左 別府手まくらの松 /をのへの可年(かね) /高砂相生末川(松)」

 西面「右 岩岡 /安かし 道」

 北面「世話方 /松葉屋長・・・」

 

明石市魚住町西福寺門脇の道標 (2010年7月7日追加)

● 上の道標の反対側にありました。小さな祠の中には舟形光背型の道標があるようです。写真のように扉が閉じられていましたので、中は確認できません。銘文は手元の資料(ふれあい道中記)によりました。写真の手前が山陽道です。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(地蔵立像)右 あかし道」

 

明石市魚住町清水の道標(1) (2010年7月7日追加)

● 「是よ里 者り満(はりま)名所道」の道標の案内にしたがい、山陽道から分かれて細い路地を南西へ進みました。200㍍ほどで突当りになります。そのT字路の右わきに若干傾いた道標がありました。北西の方向に、即ち高砂方向に細い道が続いています。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「右 高砂道」

 正面「左 明石 /大阪 道」

 

明石市魚住町清水の道標(2) (2010年7月7日追加) 

● 上の道標の「右 高砂道」にしたがい西方向に進むと10㍍ほど先に小さな祠があります。そこから細い道はS字にカーブしその先で国道2号線に出ます。多分この辺りで、小さな瀬戸川を渡り二見方面で浜街道に合流するような街道があったものと思われます。「はりま名所道」の案内の道標から短い距離ですが、この間は昔の街道の雰囲気が残っているように思いました。あとで調べてみると、この小さな祠の中にも舟形光背型の道標があるようです。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「(地蔵立像)西 高さご道 /東 阿かし道」

 

明石市福里の道標(1) (2010年7月7日追加)

● この道路は、現在ではメインの道路からは少し外れていますが、当時は山陽道と浜街道をつなぐ街道であったものと思われます。現在の地図で確認すると、ここから北に向うと加古川バイパスを越えたあたりで県道84に合流し、三木市や小野市の市場に出ます。折損の痕もあり、交差点の脇にあるのでペットボトルでガードされていました。

 

● 銘文(正面・西)(1840年、ね)

 右面「南 すぐ三木市場道」

 正面「西 左 明石大坂道」

 左面「北 右 尾ノ上高砂 /すぐ 二見」

 背面「東 天保十一子年仲春建立 /世話人二見何某」  

 

明石市福里の道標(2) (2010年7月7日追加)

● 上の道標の20㍍ほど北の三叉路にこの道標はあります。古物商から返品されこの地に設置されたと明石市の資料にありました。右の細い道路は、しばらく進むと少し広い道路に出ます。この道路はまっすぐ北に進むと、国道2号線福里の交差点になり、さらに北に進むと山陽道「魚住町清水の道標」のところに出ます。また瀬戸川の方に進むと大きな工場で道路は途切れます。どこかでこの小さな川を渡り「はりま名所道」の道標辺りの山陽道にも繋がっていたのでしょうか。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「右 明石大坂 道」

  

明石市長坂寺付近の道標

● この辺りは坂と池が多く、この道標は坂の頂上にありました。木陰でわかりにくく、道標の文字も漢字の輪郭を細い線で刻んだものなので写真には文字はほとんど写りません。ここの南の方にある遍照寺は魚住の太子さんと呼ばれており、そこには和泉式部の亡き娘小式部を偲んで移した皇居の松があります。それを案内する道標です。

● また、この少し西に、奈良時代の建物長坂寺跡を示す標識がありました。古代山陽道の邑美の駅家(うまや)跡ともいわれています。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「魚住之太子道」

 正面「小式部内侍禱之松」(こしきぶないじいのりのまつ)

  

明石市金ヶ崎太山寺分れの道標

● 長坂寺からの坂を東へ下ると太山寺への分岐がありここに大きな道標があります。道標には「大山寺」とありますが、現在は「太山寺」と書くようです。ここから左方面の太山寺道の道標には、大山寺、太山寺が混在してます。 

● 中国行程記には、「此棒杭ニ左大山寺道ト有、大山寺ハ当所ヨリ四里奥ニテ・・・七堂伽藍能寺也」と書かれています。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「左 大山寺道」

  

大久保駅西の道標

● 途中、山陽道は大きな工場で途切れます。一旦国道2号線に沿って歩き、新しく整備された道路を横断し、東の方に向かう細い道がありますが、その交差点にこの道標は最近移設されたようです。この道標の北面に「播磨八拾八ヶ所」とありますが、このことを調べていたら、偶然、平成18年10月25日付け神戸新聞の記事を見つけました。そこには、この道標は付近の一里塚跡にあり、廃棄寸前であったものを地元の方々の尽力で道路が整備されたのを機にここに移設されたと載っていました。なお、八拾八ケ所は不明のままです。

 

● 銘文

  東面「左リ住吉社二見道」、本文右には「魚寿み中尾」、左には「濱谷西岡」

 北面「是ヨ里 播磨八拾八ケ所」、本文の右には「江井島」、左には「森柳井」

● 平成22年12月20日追記

 各面の端に小さな文字が書かれてたのですが、読めませんでした。本日その文字が判明したので、追記しました。

  

明石市鍛冶屋町の道標

● 明石駅の南の旧浜国道(県道718)との三叉路にこの道標はあります。このあたりの県道718が山陽道になり、明石川大観橋から東に向かうとこの道標のを見ることになります。山陽道はこの三叉路を左に曲がりすぐまた右に折れます。そして、しばらく直進するとまた三叉路になり、左にそして右に曲がると大蔵谷宿へと向かいます。このように鉤型の辻が続くのは、江戸時代宮本武蔵が城下の町割りを行った名残といわれています。

 

● 銘文

 西面「ひだり 大坂道」

 北面「みぎ ひめぢ道」 

  

明石市天文町の道標

● これは二つ目の鉤型の三叉路にあります。ここに「大日本中央標準時子午線通過地識標」の碑と同区画に保存されています。この道標の少し北を右に折れると大蔵谷宿です。そしてさらに進むと跨線橋の下で山陽道は国道2号線と重なります。

● ちなみに日本の標準時は、明治17年のワシントンでの子午線会議に基づき、同19年標準時に関する法律が公布され、同21年1月1日から適用されました。道標の四面全部に銘文があります。

 

● 銘文(1865年、きのと・うし)

 東面「右 加古川 /ひ免ぢ 道」

 南面「施主 人丸前井上某」

 西面「慶応元乙丑年五月建之」 

 北面「左 ひやうご /大阪 道」

  

忠度塚の道標

● 山陽道を少し外れますが、この辺りは源平合戦、特に平清盛の弟である忠度にかかわる神社や塚があります。忠度は一の谷の合戦に敗れ西へ落ちる際、両馬川で討ち死(1184年、41歳)にし、腕は腕塚神社に、そして忠度塚にそれぞれ葬られました。これは忠度塚を案内する道標です。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「左たゞのり道」

 背面「右へ /半丁 忠度塚」

  

腕塚神社の道標

● この道標は、国道2号線に面した場所にありました。南面に「腕塚道」とのみ書かれています。写真の道路を奥に進み右に曲がると腕塚神社がありました。

  

明石市柿本神社の道標

● これも山陽道を外れていますが、おおきな道標なので紹介しておきます。ここから三丁(約330㍍)北にある柿本神社を案内する道標です。柿本神社は古くは人丸神社、地元では人丸さんとも呼ばれています。

 

● 銘文(1860年、かのえ・さる)

 東面「右 人磨山三丁」

 南面「正一位柿本大明神道」

 西面「左 人丸山三丁」

 北面「萬延元年庚申建之」 

 下部「世話人(横書き)大蔵長蔵 /多聞安兵衛 /熨斗屋政七」

 

徳川道、明石市大蔵谷~神戸市西区高塚山 (平成30年6月13日、追加)

(地図は高塚山の古道周辺を示す)

● 山陽道は大蔵谷で国道2号線に合流しますが、ここから少し街道を外れて「徳川道」の一部、明石市大蔵谷駅~神戸市須磨区総合運動公園駅の約10㌔を歩いてみました。この間はほとんどが市街地化されており、旧い道標は見当たりませんでした。

●「徳川道」は慶応3(1867)年12月、神戸港周辺での外人とのトラブルを避けるために幕府により整備された西国街道のバイパスです。しかしながら、翌年1月には鳥羽伏見の戦いが始まり江戸幕府は消滅します。そしてほとんど使われないままに同年8月には廃道になりました。

● この「徳川道」は、明石市大蔵谷で山陽道から分岐し、長坂山、高塚山周辺から鈴蘭台を経て再度山、摩耶山の北側を通り神戸市東灘区の御影で再び山陽道(西国街道)に合流するまでの8里27町9間(約34㌖)です。(合流地点は「山陽道の道標(2)」の中ほどに掲載)

● 旧道らしい道筋は、垂水区の長坂山、高塚山は西区との境界線上になりますがハイキングコースとして整備されていました。近くの案内板によれば、そこは2000年前の古道で、徳川道や太山寺への参詣道などに代用され、昭和56年にはニュータウン開発で通行止めとなりましたが、平成20年地元有志の方々によりハイキングコースとして再整備されたとありました。(写真、中の2枚)

  

ここが播磨の東端 (平成22年11月1日追加)

● 明石から海沿いの国道2号線を、須磨浦公園まで歩きました。明石海峡大橋の下には幕末に築かれたという砲台跡などがありましたが、この間では道標は見つかりませんでした。 

● 須磨浦公園手前の山陽電車鉄橋の下に小さな川があります。秀吉の天正検地のときからこの境川が播磨と摂津の境界になっているということです。現在では播磨側は神戸市垂水区、摂津側は神戸市須磨区になっています。

● 須磨浦公園には芭蕉の句碑があります。芭蕉は元禄元年(1688)に須磨明石を訪れています。「蝸牛角ふりわけよ須磨明石」須磨は摂津、明石は播磨ということでしょうか。古い句碑は山陽道境川のほとりにあったようですが、現在の句碑は昭和11年に建立されています。