―更新情報(1)―

 2010年12月21日

 以前から探していた道標の場所を偶然ネットで見つけました。早速出かけ写真に収めたので、「山陽道の道標」「播磨国分寺境内の道標」の次に掲載しました。

 また、道標の前の細い道が有馬街道ということもわかりました。下の地図は1772年の「摂播路程総図」を模写したものです。これは大阪から播磨めぐりの案内図ですが、「姫路」の東側に「フカシノ」とある辺りがこの道標の場所です。 (写真削除 23,5,15)

2010年12月18日

 本日は姫路市網干区の山陽電車平松駅から西へ室津を目指して歩きました。新たに御津町で3基、網干区で2基の道標を見つけたので「姫路市西部の道標」に追加しました。この地区は室津から姫路城下へ向かう室津道と、飾磨へ向かう浜街道がありますが、揖保川の3つの支流のため町並も道筋も複雑です。写真は、網干の天徳山龍門寺、1661年創建の禅宗の古刹です。

(写真削除 23,5,15) 

2010年12月7日

 姫路市飾磨区(しかまく)宮の町内で1基見つけたので、「姫路市西部の道標」の「広畑区本町の道標」の次に追加しました。

2010年11月1日

 明石から須磨浦公園まで歩きましたが、新たな道標を見つけることはできませんでした。「播磨」の東端を確認したので、「山陽道の道標」の最後に追加しました。

 なお、下の写真は明石海峡大橋と明石藩舞子台場跡です。(写真削除23,5,15) 

 

2010年10月11日

 姫路市の西部が手つかずになっていたので、本日山陽電車網干駅からJR英賀保まで、そして山陽電車夢前駅までの間で探してみました。4時間半、26,700歩でした。その間で10基の道標を見つけましたので、新たに「姫路市西部の道標」のページを追加しました。この後も順次調査していきます。

2010年10月1日

 本日は、JR三石駅(岡山県備前市)から船坂峠を越えて、JR有年駅(兵庫県赤穂市)まで、4時間40分(含む昼食30分)23,900歩を歩きました。この間では道標を見つけることはできませんでしたが、藩境や県界の石柱や一里塚跡を見つけたので、「山陽道の道標」の冒頭に追加しました。これで山陽道も兵庫県の西の端まで辿ることができ、一区切りがつきました。

 その他旧街道を偲ばせる大庄屋有年(ありとし)家、有年(うね)宿番所跡、明治天皇巡幸の際の記念碑(梨ヶ原、西有年、東有年)、また千種川では赤穂藩高瀬舟の荷積み場跡などがありましたので写真を掲載します。(写真削除、23,5,15)

 

2010年9月27日

 JR有年駅からJR竜野駅までの旧山陽道を辿ってみました。途中一部不明の個所もあったので正確ではありませんが、この間ではあまり旧街道の痕跡を見つけることはできませんでした。

 相生駅西の国道2号線脇の「明治天皇駐蹕處」(ちゅうひつしょ=一時乗り物をとどめた所)の碑とたつの市の「旧片島本陣趾」の碑がわずかに旧街道を思わせるものでした。

 明治18年8月8日の明治天皇巡幸の際の碑はほかに、正條に「明治天皇御駐輦趾」(ちゅうれん)、太子町山田に「明治天皇御小休所」の碑がそれぞれ見られました。

 また、片島宿と正條宿は半里ほどしか離れていませんが、正條宿は室津からの客が利用し、片島宿は陸路の人たちが主に利用していたようです。

2010年9月25日

 兵庫県の西の入り口有年宿と相生の道標を追加しました。

「山陽道の道標」の冒頭に掲載しました。

2010年9月22日

 室津街道の一部を歩きました。姫路市広畑区小坂にある菅原神社で、珍しい「郡境石」を見つけたので、「山陽道の道標、阿宗神社の石柱」次に追加しました。

2010年9月19日

 今日は姫路市青山から西に向かい、太子町を通り、たつの市のJR竜野駅迄(23,600歩)の山陽道で道標を探してみました。結果は、道標、道路元標、神社案内の各1基でした。

 山陽道は主要道路なので、それなりに名所旧跡も残っていましたが、その中から道標関連を「山陽道の道標」の冒頭に追加記載しました。

2010年9月11日

 リニューアルしました。

背景を目に優しいグレー(私白内障&加齢黄斑変性)にしました。同時にタイトルを加古川市平荘町西山の山道に残る道標に替えました。

2010年9月5日

 本日現在の道標掲載基数は以下の通りです。(含む道路元標3基)

的形周辺 15基 (2基)

山陽道  38基

浜街道  28基

巡礼道  12基

但馬道  26基 (1基)

北条道  27基

加古川  18基

合 計 164基 (3基)

2010年9月3日

 車では細い道の道標を探すことはできないので、今日は歩きました。26,000歩でした。八幡町宗佐から南へ最終地はJR加古川駅へたどり着きました。4か所で5基見つけたので「加古川市北部の道標」に追加しました。前回訪れて見つからなかったところもまわって見ました。夏草がきれいに刈られていてぽつりと小さな道標があり、宝物発見でした。

2010年8月30日

 本日も加古川市北部を歩き(ほとんど車)、道標を探しました。4か所で4基追加しました。

加古川バイパスの東加古川付近から北に延びる東播磨南北道路の新設工事が各所で行われており、あるはずの場所で道標が見つかりません。移設?廃棄?どうなのでしょう。心配です。

2010年8月27日

 加古川の兵庫大学での「伊能図フロア展」に行ってきました。伊能忠敬の映画や特別講演のほか、目玉は体育館のフロアいっぱいに拡げられた伊能図です。小図、中図、大図の三種類あるのですが、大図は体育館のフロアをはみだし北海道は本州の横に折り返して展示されていました。その中から当地周辺の写真を撮って来たので下記に掲載します。実に繊細です。これをすべて歩いて測量して作成した訳ですから驚きです。

 また、当地周辺の作業日誌を要約すると次の通りです。

文化二年(1805)十月十四日(現在では祭りの日です)高砂町から的形村を測量する。曽根天満宮の松は寛政五年(12年前)のときは我国第一の古松と感じ見とれたが、今回その名松は枯れ残念に思う。宿舎は、的形村十郎右衛門宅、この日晴天で星天観測もできた。(星天観測の場所は、地図では赤い星のマークで示されています)

十五日、的形村より海辺木場村まで測量する。そこから飾万津町まで測量、大年寄三木太一郎宅を宿舎とする。

2010年8月25日

 加古川市の資料によれば、同市の神野町、八幡町辺りはかなりの道標の密集地になっています。本日、中津→日岡→神野足守→八幡中西条→船町→厄神を歩いて、6か所7基の道標を見つけることができましたので、新たに「加古川市北部の道標」を追加して掲載しました。途中足守周辺では道路工事で見つけられない道標をもあり残念でした。これには「里渡し」の案内もあるとのことです。やはり池尻橋の近くに渡しがあったことが判明しました。

 順次道標を追加していきます。

2010年8月23日

 加古川左岸に国包の渡し跡の説明板があるとの資料を見つけたので、行ってみました。北条街道の道標の「平荘町西山の道標」の後に追加しました。

 また、加古川の渡し付近でも道標を2基見つけたので、北条街道の道標の最初に掲載しました。

2010年8月21日

 鹿島神社周辺の道標2基を、「山陽道の道標」鹿島神社周辺に追加しました。

2010年8月19日

 北条街道を少し離れて、平荘町、上荘町辺りの道標を探してみました。加古川右岸周辺なので「志者゛王多し」(芝渡し)など「渡し場」への案内が目立ちました。

 帰路、図書館で元禄年間の加古川の地図を見ましたが、芝の渡しは確認できませんでした。その地図では2ヶ所の渡し場が記されていました。一つは現在の上荘橋付近、もう一つは国道2号線加古川橋付近でした。他の道標では池尻橋付近にもあったように思えますので、再調査してみます。

2010年8月17日

 先日歩いて見つけられなかった道標を、再度調べて車で回って探してみました。5ヶ所8基の道標を見つけることができましたので追加しました。細い道ばかりで駐車場所探しの方が手間でした。

  

2010年8月15日

 加古川市の「現存する道標一覧」や「東播磨の道標をたずねて」(神戸新聞社刊)を改めて見直してみました。そして各道標を地図に書き込んでみると加古川市の北西部にはかなりの道標が散在していることがわかりました。

 本日、志方町、神吉町を4時間ほど歩き探してみましたが、10基もの道標を見つけることができました。新たに「北条街道の道標」のページを追加して掲載しました。まだまだあるようですので順次追加していきます。当時はこれくらいの数の道標が各地域に設置されていたのでしょうか?

 これらの道標は、お上が設置するのではなく、民間人即ち商人や庄屋、各種の団体などがいろんな思いを込めて設置したようです。本日の散策の途中で、大きな石材店の店頭に道標と同じくらいの高さ1メートル弱の石材が50万円となっていました。当時を想像すると、道標を作成し、荷車で運び、穴を掘り設置するわけですが、10両くらいはしたのでしょうか?

 

2010年8月13日

 播磨町で現存する唯一の道標をやっと見つけたので、「浜街道」の最後に掲載しました。また、高砂市内でも、新たに3基見つけましたので、「浜街道」の高砂神社周辺に追加しました。

 播磨町で道標を探している途中、播磨小学校の校庭に「浜田彦蔵」の記念碑を見つけました。学校は夏休みのため中には入れませんので、外から眺めるのみでしたが、この辺りの出身だったのですね。

 彼は、嘉永四年(1851)紀伊半島大王崎沖で難破し漂流の末、アメリカ船に助けられ、9年後に帰国します。この間に学んだ英語力や知識を活用し、幕末から明治にかけて通訳はもちろん新聞の発行や大阪造幣局の創設に尽力したそうです。この数奇な生涯は吉村昭の小説にもあったと思います。

2010年7月21日

 本日の歩行は、馬坂峠→JR曽根→旧山陽道→阿弥陀→魚橋→石の宝殿→伊保→曽根天満宮→大塩→的形でした。4時間,24,000歩なり。

 生石神社内で道標を見つけたので、「宝殿駅前の道標」の次に追加掲載しました。

 2010年7月15日

 当クラブ会員が一名増えました。その新会員から「糸引村道路元標」と「仁寿山校址を案内する道標」の2件の投稿があったので、「的形周辺の道標」の八家駅前の道標の次に掲載しました。

 2010年7月7日

 山陽道も浜街道もほぼ探し尽くした感があるので、両街道を結ぶ脇街道を歩いてみました。

山陽道明石市魚住町に「是よりはりま名所道」と書かれた立派な道標あります。これに魅かれて山陽道から加古川市別府町の住吉神社手枕の松を目指しました。途中五基の道標を見つけたので、山陽道「名所道」の道標の後に掲載しました。

 本日の歩行距離は、23,000歩(約4時間でほぼ15㌔)でした。実は「西遊草」の作者清河八郎の安政二年(1855)五月十一日の行程(明石市長坂寺から播磨の名松五か所と石の宝殿をめぐり午後二時に姫路に到着)を辿ろうとしたのですが、彼の半分弱でギブアップ、山陽電車「浜の宮」から帰りました。昔の人はすごい!

2010年6月27日

 明石市西二見から中八木付近までの海岸道路を歩いてみました。2万歩(約13㌔)新しい道路なので当然道標はありませんでしたが、意外なものに出会ったので紹介しておきます。一つは明石原人腰骨発見場所、もう一つは少し東のアカシゾウ化石発掘場所でした。どちらも屏風ヶ浦という名の通り崖になっていました。明石原人発見場所の崖はネットフェンスで保護されていました。

2010年6月25日

 スクラップブックを整理していたら、作家車谷長吉氏の「飾磨川」というタイトルの古いコラムが見つかったのでその要旨を紹介します。(日経新聞、平成11年12月19日付け)

 姫路市の飾磨にかって大川と呼ばれる川があった。幅二間ほどの小さな川は、なぜか村の人に大川と呼ばれていた。

 万葉集や枕草子にも詠われている「飾磨川」は、中国山脈の生野辺りに発し、飾磨ノ津へそそいでいたが、戦国時代末期に池田三左衛門輝政による姫路城築城のとき、城がある姫山の北方で大きく東へ流れを改修され、飾磨ノ津よりは一つ東の漁村である妻鹿村のほとりへそそぐようになった。同時に名も市川と改められた。播磨一の川の意である。

 しかし、この改修のとき、元の飾磨川も川幅二間ほどにして残され、城の北方では名を大野川、それが城の東方では外堀川となって、やがて城下を南に外れると三左衛門堀へ流れ込む。

 この堀は、元の飾磨川の川床を利用して、池田輝政が飾磨ノ津から城の物資を水運するために開削しようとした幅十間ほどの運河である。が、水位の計算に狂いがあり、途中で普請は投げ出されたままになった。したがって、三左衛門堀をまた南に流れる水は、自然のままに蛇行する幅二間ほどの川として放置された。

 つまり、この川が子供のころ大川と呼んでいた川だった。古飾磨川の姿を彷彿とさせる大川は昭和五十年代の高度経済成長期に幅十間ほどのコンクリート護岸の水路に改修され、名も野田川とあらためられた。

 と、ふるさと喪失を嘆いている。

2010年6月11日

 知人から道標の紹介があったので掲載します。写真はご本人が携帯で撮影されたものです。

国道179号線、出雲街道の新宮道の駅の建屋内にあったそうです。元の位置は少し東の井野原の分岐で、南に向かって左が姫路市、右がたつの市になります。道標にもそのように書かれています。左は東になりますが、たつの市の追分で国道29号線(因幡街道)に合流し、姫路市青山付近で山陽道に継ながリます

年号は元禄15年壬午(みずのえ・うま・1702)で、かなり古い道標です。紹介ありがとうございました。

説明板によれば、元の位置はここです。

2010年5月21日

 今日一度に2基、99基目と100基目を見つけました。

 記念すべき100基目は、「道標」らしい道標をと前から銘文集を調査し、これに決めていましたが、なかなか見つけることができませんでした。四面に文字があるからきっと大きな道標に違いないと思っていたので、見つからないはずです。地蔵堂の陰にあった小さな道標でした。期待外れでしたがでも100基目の記念すべき道標となりました。大沢地区には5回、計8時間くらいは歩き回ったと思います。今日もあきらめて近くの駅、といっても3㌔ほど先ですが、向かっている途中で見つけました。とりあえず万歳!!

 「但馬道の道標」の最後に掲載しました。

2010年5月18日

 的形町福泊の福泊神社前の地蔵堂内で道標を新たに見つけましたので、「的形周辺の道標」に追加しました。何度も前を通っていたのですが、気付きませんでした。他の地区のように「もしかしてこの地蔵さんも道標かな?」と思い、よくよく見つめてみると、エプロンの上に右、左の文字が見えたので、早速姫路市石造遺品銘文集を調べてみたらありました。

 これで掲載した道標の数は98基となりました。

 的形周辺 13基

 山陽道  29基

 浜街道  23基

 巡礼道  11基

 但馬道  22基

2010年5月3日

 姫路市四郷町山脇の印鐸神社参道で、新たに道標を見つけたので「山陽道の道標」に追加しました。印鐸神社の「印鐸」にはいわれがありそうですが、よくわかりません。また調べてみましょう。

 5月18日追記、印鐸神社の祭神は、神功皇后、武内宿禰、大巳貴命ですが、播磨国府の国司の印を祭ったという説もあるようです。

2010年4月30日

 南北の但馬道とそれと交差する東西の巡礼道を、5回に分けて約10万歩(70㌔)をあるきました。しかし、道標の所在地が姫路市の資料では、豊富町豊富や山田町北山田とかなり広範囲な漠然とした記載の方法なので道標全部を見つけるのは難事業です。一応の区切りとしてこれまで見てきた道標の表記についてまとめてみました。 「道標の表記」のページを追加しました。

2010年4月30日

 福崎町南田原から姫路市花田まで歩いてみました。14,5㌔でした。幕末姫路藩の名家老河合寸翁は、西光寺野の開発を手掛け朝鮮人参の栽培を試みたそうです。船津町に「姫路藩人参役所趾」というところがありました。生野鉱山道にはあまり道標が見つからないので、途中から播但道沿いの町道にルートを変えてみましたが、2基ほどしか見つけることはできませんでした。但馬道に追加しました。

2010年4月21日

 加西市古法華付近から県道373沿いに姫路市豊富町を経て、姫路市砥堀まで約7㌔を調べてみたので追加しました。地蔵像のある道標は、道案内の役目を終えた現在では地域の尊崇の対象となって、お堂や祠に納められ大切に保存管理されていました。こうした状況は、現場を見て感じ取れるもので銘文資料のみではわからないものです。

2010年4月18日

 14日と17日の2日にわたり姫路市豊富町と山田町を歩き回りました。合計4万歩約25㌔になりました。ここで見つけた道標は「但馬道」としてページを追加し、掲載しました。ここで姫路で2番目に古いという道標を見つけたので、市内の1番から4番までがつながりました。

一番古いのは、飾東町豊国の道標   延宝五年(1677)「巡礼道」参照

       山田町北山田の道標  明和二年(1765)「但馬道」参照

       下手野の道標     明和四年(1767)「山陽道」参照

       的形町福泊の道標  明和六年(1769)「的形周辺」参照

となりました。

2010年4月18日

 以前から探していた阿成の道標をやっと見つけることが出来たので、「的形周辺」妻鹿市川堤防沿いの道標の次に掲載しました。道しるべ地蔵の祠の中にありました。見つからないわけですね!

2010年2月20日

 播磨国分寺にも道標が2基あるとの資料を見つけたので出かけてみました。あちこち探し回ったのですが、境内の門の脇の1基しか見つけられませんでした。少し変わった珍しい形状の道標でしたので、「山陽道」と「街道筋の道標」にそれぞれに追加しました。

2010年2月15日

 道標の上部に彫られた仏像について、ある資料では「菩薩像」、また他の資料では「如来像」や「観音像」などといろんな説明があります。一体どれが正解なのか。そんな疑問にこたえるには「仏教」という、私にとっては砂漠のような領域に入り込まないと到底理解不能と考えておりましたが・・・

 先日神戸市立博物館で「海の回廊」展を見ました。海外から伝わったものの一つとしてたくさんの仏像が展示されていましたが、その時の説明によれば、仏像には大きく分けて4つの種類があるとのことです。「如来」「菩薩」「明王」「天」というグループです。これらを要約すると以下の通りです。

「如来」とは、真理に達した人、すなわち悟りを開いた人という意味です。髪は螺髪(らほつ)という巻貝風で、衣は一枚の大衣を着て、飾りは付けていない。釈迦の出家後の姿を基本としている。→釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来・・・

「菩薩」は、如来になるために悟りを目指して修行をしている仏です。髪は束ねて冠をかぶり、多くの装飾品を身につけている。釈迦が出家する前の王子の姿を基本にしている。→弥勒菩薩、観音菩薩、日光菩薩、月光菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩・・・

「明王」は、強い力を持った仏で、教えに従わない人々を導くための力を如来から与えられた仏で、怖い顔をし、武器を持っている。→不動明王、愛染明王・・・

「天」は、仏や仏法を護ったり、福をもたらす仏で、元はインドの神様のこと。貴人や武将の姿に表し、男女の区別がある。→四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)、帝釈天、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、阿修羅・・・

 

 ということでした。今後はその姿の違いにも注意を向けて見ることにします。

2010年2月7日

 本日は加古川市池田から別府までの約5キロを再度歩いてみました。その結果、加古川市尾上町池田と別府町で新たに4か所の道標を探し当てたので、「浜街道」に追加しました。尾上町池田の地蔵堂、尾上町口里、白旗観音寺参道その(2)、別府住吉神社前の4か所の道標です。関連の写真はスライドショーに追加しました。

 地蔵堂の中で文字をよく確認できず、また、設置位置など謎めいた部分もあるので、これからの宿題として残しておきます。

2010年1月16日

 今日、神戸新聞で「飾磨津」の場所を知り、早速現地調査(?)に出向きました。

 野田川左岸向島橋の少し南に「旧姫路藩船役所趾」の碑がありますが、この辺りが「飾磨津」だったそうです。今では河口から2㌔ほど遡った位置になります。

 その昔お夏清十郎もこの湊から上方へ発ったということです(すぐ引き戻されることになりますが・・・)。近年では生野銀山からの銀の馬車道の終点でもありました。

 そんな昔話を仕入れて周辺を歩きましたが、なるほど虫籠窓の旧家が軒を連ねていました。まるで150年まえにタイムスリップしたようです。飾磨津は明治22年飾磨港と港名を改めたということです。

 その対岸で道標を見つけたので「的形周辺」の最後に追加しました。

2010年1月7日

 初歩き、姫路阿保から妻鹿経由で的形まで14,000歩、約9㌔でした。

途中妻鹿の道標にある荒神社(こおじんじゃ)に寄りました。そこは甲山のふもとで神社の入口には妻鹿城址の碑がありました。近くの説明板によればこの城は、妻鹿孫三郎により1330年ころ建てられたそうです。天正元年(1573)官兵衛の父である職隆が城主となり、天正5年(1850)には黒田官兵衛は姫路城を豊臣秀吉に譲り、この城に入ったとありました。天正13年城主職隆が没したあとは廃城となったそうです。

これらの写真をスライドショーに追加しました。

2009年12月29日

 ホームに全行程図を追加しました。

2009年12月1日

 11月30日に加西市の一乗寺から姫路市の花田までの約15、6㌔の巡礼道を歩いてみました。10基の道標を見つけることができましたので、新たに「巡礼道」を追加しました。

 

 月替わりを機に、今までのコメントは削除させていただきました。皆さまのコメントをお待ちしてますので、今後ともよろしくお願いします。 

2009年11月25日

 姫路市内で一番古いという道標をやっと探し当てましたので、福泊の道標の次に追加しました。(12月1日巡礼道に移しました。)

 姫路市最古ということなので、最高のディスプレイを想像しておりましたが・・・その点はやや期待外れでした

2009年11月23日

スライドショーに加古川市別府から明石川大観橋までの写真を追加しました。

2009年11月20日

浜街道の道標を更新しました。

2009年11月18日

山陽道の道標を更新しました。   

2009年11月17日

的形周辺(大塩~飾磨)の道標、9基全部を掲載しました。

 

2009年11月11日

スライドショーを各コース別に区分けしました。

歩いた順に写真をアップしましたので、

街道を歩いたつもりで楽しんでください。  

 

2009年11月10日

 どうにか出来上がり!

とりあえずこの内容でスタートします。

 

2009年11月8日

 今年5月頃から山陽道や浜街道を何度も歩いて写真を撮り溜めました。そして各地区の図書館にも通っていろいろ調べて見ました。

 この成果を、本日より道標のホームページとしてまとめようと思っています。どれだけの道標が紹介できるのか・・・おたのしみに!