―枚方大阪周辺の散策―

(平成24年11月12日)

 東海道五十七次は、東海道の大津市髭茶屋追分から分岐して、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を経て、大坂城下高麗橋に至る街道です。この間では、豊臣秀吉がすでに大坂城と伏見城の間の淀川沿いに文禄堤を築き連絡路としていたので、慶長20(1615)年大坂城落城後に、ここに東海道を延長し五十七次としたものです。ここでは枚方市から高麗橋までを散策してみます。

 このルートは、地元関西では東海道ではなく、あえて京街道、大坂街道と呼ばれています。沿道の案内標もほとんどが「京街道」と書かれていました。

 京街道のルートの大部分は、明治18年に国道第2號路線(東京ヨリ大坂港ニ達スル路線)に指定され、現在の国道1号線(一部府道13号線に変わっている)の前身となっています。京都から伏見方面への旧街道は、桂川左岸の鳥羽街道と、宇治川右岸の伏見街道の2ルートがあり、国道第2號路線は鳥羽街道ルートが選択され、伏見街道に沿っては京阪本線が通ることになったようです。 したがって現在での京街道は、ほとんどが国道1号線と京阪電車と並行するように歩くこととなります。 

(この間の道標などの位置図) 

 

(平成24年11月24日、追加)

下部に「守口から大阪まで」を追加しました。

 

枚方市楠葉 久修園院

● 京阪電車橋本駅から南へ200㍍ほどのところで踏切を横断しますが、踏切を渡ってすぐのところで、京都府八幡市から大阪府枚方市に変わります。

● 工事用のパネルで区画された畑地の道を進むと、左に見えるのが久修園院です。門前の説明板を要約します。ここにも僧行基の名があります。宗覚律師もともにスーパーマンです。

● 「天王山木津寺(てんのうざんこつじ)久修園院(くしゅうおんいん)は、縁起によれば、霊亀11(716)年僧行基による開創とされています。七堂伽藍を持つ広大な寺院でしたが、大坂夏の陣(元和元(1615)年)の兵火で大半を焼失しました。のち、江戸時代に宗覚律師が再建しました。宗覚は久修園院中興の祖といわれ、宗教活動はもちろん多芸多才で、宗教学、地理学、医学、天文学、絵画、工芸、武術などを極め、後世に残る業績は計りしれません。寺所蔵の天球儀と地球儀はともに宗覚の製作(元禄15(1702)年頃)で、枚方市の文化財です。」  

 

戊辰役橋本砲台場跡の碑

● 久修園院からさらに畑地の一本道を南に進むと、住宅街に入る手前の小高い堤の上にこの碑がありました。字体が似ているのでもしやと思い碑の背面を見ると、「三宅安兵衛」の名が見えました(三宅安兵衛については「京都伏見周辺の散策」の「橋本駅前の道標」を参照)。

● 「橋本砲台場跡」となっていますが、現在の住所は枚方市楠葉中之芝になります。慶応元(1865)年5月、徳川幕府は会津藩の建白をうけ、大阪湾から京都に侵入する外国船を防ぐため、淀川左岸の橋本(楠葉)と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築きました。設計の総責任者は勝海舟があたり、築造には北河内の大工職人が動員されました。当時の設計図によると土塁と堀で囲まれ約三万平方㍍の台場内にはカノン砲3門のほか番所や火薬庫を備え、新しく付け替えられた京街道も通っていました。平成19,20年で発掘調査が行われ、国内では唯一の河川台場の規模が明らかになりました。(枚方市教育委員会説明板)

● 慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は幕府軍の不利を見て官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る橋本砲台に砲撃を加えました。このため淀川を挟んで両台場は交戦状態となりました。橋本砲台では伏見、淀から敗走してきた幕府軍で混乱を極めたと言います。やがて砲弾は底をつき、幕府軍は橋本砲台の砲門を破壊して退去しました。明治末期まで砲台跡の土塁は残っていましたが、京阪電車の敷設に伴い土塁の土砂は運び去られました。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「戊辰役橋本砲臺場跡」

 背面「昭和三年十一月稟 京都三宅安兵衛遺志」(稟=てあて?) 

 

枚方市、町楠葉2丁目の道標跡 (平成24年11月30日、追加)

● 何度も同じところを往復し探しましたが、見つからないはずです。やっと見つけたのが写真のような状態でした。ここに明治6年の銘の入った「右 八幡宮 (下部) 是より /ちか道 /二十三丁」と書かれた道標があったようですが、なくなっていました。近くに聞けそうな人もいなくて、どこに移設されたか確認できませんでしたが、Googleストリートヴューで確認したところ、最近までこの場所に道標があったのはほぼ間違いないようです。

 

枚方市町楠葉付近の街道

● 砲台跡の南の住宅街を抜け、大阪市水道局楠葉取水場を過ぎたあたりから街道はカラー舗装となります。また枚方市内では曲がり角や史蹟などには石の標柱が建てられ、地図を頼りに歩く者にとっては大変助かります。(地図は「旧京街道」の標柱の位置を示す)

● 街道は樟葉駅の北側で淀川の堤防上に出て、しばらくはゴルフ場を右手にみながらそのまま堤防上の府道13号線(旧国道1号線)を進みます。

 

枚方市上島町の道標

● 府道13号の樋之上北交差点を過ぎ、樋之上公民館の前から旧道に左折します。しばらく進むと、旧道は船橋川の堤で途切れます。多分以前はここに橋が架かっていたと思われます。ここから迂回するために再び府道13の楠葉橋を渡って船橋川の堤に下りると、地蔵尊と供養碑とともに大きな道標が南向きに立っていました。供養碑には、鳥羽伏見の戦いの際この地で戦死した兵士ら8名の名前が刻まれているそうです。道標の銘文は劣化のため一部不明な文字もありますがおおよそ次のように読めます。

 

● 銘文(正面・南)(1856年、ひのえ・たつ)

 右面「北 京五里 伏見三里 /淀二里 柳谷二里

    (下部)安政三丙辰年十月」 

 正面「(地蔵坐像)八幡宮 参宮道(?) /橋本へ一里」

    (八幡宮=石清水八幡宮)   

 左面「南 大坂六里 /奈良七里」

 

牧野駅前明治橋付近の道標

● 船橋川から南に向かうと京阪牧野駅の北までは、その線路脇の道を進みます。この辺りは線路脇に旧家も見られ、街道がそのまま京阪電車の軌道になったように思われます。京阪電車は明治39年渋沢栄一らを創立委員として発足し、明治43年大阪天満橋から京都五条(現在の清水五条)の間が開業しています。建設にあたっては用地の買収に難渋し、数回の設計変更などの結果カーブの多い鉄道になったということです。

● 街道は牧野駅の北で踏切を渡り、穂谷川に架かる明治橋を渡ります。明治橋の東詰の三叉路に小さな道標がありました。これも字が読み難いのですが「帝釋天」と読めます。あとでわかったことですが、左、東の方角ですが、清岸寺か片埜神社の帝釈天を案内しています。元々は片埜神社にあった帝釈天などが、明治時代の神仏分離により北に位置する清岸寺に預けられたということです。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「左 /帝釋天道(?)」

 

枚方市黄金野(こがねの)の常夜燈

● 明治橋を渡り、南に進むと阪今池公園に出ますが、公園を通り過ぎたところの左に一対の常夜燈がありました。ここから北東に位置する片埜(かたの)神社の参道の入口です。片野、交野はこの地方の古名で、片埜神社の創建も垂仁天皇の御代にさかのぼります。また、式内社で河内国の「一の宮」であり、大坂城の鬼門を鎮護する社でもあります。

● 常夜燈の台石に大阪、京都と書かれていますが、背面の願主の住所や下の講中を見ると道案内の表示かどうかは不明です。またこの時代に大「坂」ではなく、「阪」の文字がつかわれるのは珍しいことです。私見ですが、近くに阪今池という灌漑用の池(現在の阪今池公園)や牧野阪という住所があり、「阪」の字が使われていることが影響しているのかもしれません。

 

● 右(南)の常夜燈銘文(正面・西)(1801年、かのと・とり)

 台石  「大阪」

 本体正面「御神燈」

   左面「享和元辛酉年九月」 

   背面「大阪〇江戸掘壹丁目 /願主 竹屋勘兵衛」

● 左(北)の常夜燈銘文(正面・西)(1801年、かのと・とり)

 台石  「京都」

 本体正面「御神燈」

   右面「享和元辛酉年九月」 

   背面「四條町通 /願主 竹屋利三郎」  

 

御殿山踏切の里程標

● この辺りの街道ルートは複雑です。諸氏のブログの道案内により阪今池公園から京阪電車を越えて、三栗(めぐり)交差点を通り、再び京阪電車を横断し、渚元町の住宅街を通り抜け御殿山駅の北でまた京阪電車の踏切を渡り府道13号線に出ますが、その踏切内に里程標が大きく傾いて立っていました。付近から移設されたものと思われます。

● 大正時代の道路元標は形状が全国統一ですが、この時代の里程標はそのような定めがなかったのでしょうか、他県で見た里程標よりかなり大きく感じました。北面の「城河國界」は、山城國と河内國の境の意でしょうか? 明治36年大阪府誌では他に、和河國界、和泉國界などがありました。他県では管轄界との表現が使用されていました。

 

● 銘文

 東面「明治三十五年一月改造 大阪府」

 南面「距 北河内郡枚方町 二十六丁十六間」(距は「いたる」の意)

 西面「國道第二號路線 距高麗橋元標 /六里」

 北面「距城河國界 一里二十ニ丁三十八間(?)」(数字は不鮮明)

 

枚方市天之川町、一里塚跡

● 御殿山駅付近から京阪電車と並行する府道13号線を進み、礒島交差点から左折して旧道に入りますが、しばらく進むと天野川の堤にぶつかります。枚方市の案内板によればこの辺りに一里塚があったとのことですが、何の痕跡もありませんので、堤の上から北方向の写真を撮ってみました。(マップは、撮影場所を示す)

 

枚方市、枚方宿東見附跡

● 一里塚跡から迂回して、府道13号線の鵲(かささぎ)橋を渡り左折すると、枚方宿東見附跡の新しい案内標石があります。説明板によれば、この辺りが枚方宿の東端になり、ここの天野川には長さ17間(約30㍍)、幅3間1尺(約6㍍)の板橋が架けられていたということです。また、紀伊徳川家は参勤交代の際枚方宿に宿泊していましたが、天野川を渡るときはこの板橋の上流に専用の仮橋を架け渡河していたそうです。

 

枚方市、枚方橋跡

● 東見附から南に進み、枚方駅前付近に「枚方橋」「ひらかた橋」とそれぞれ書かれた石柱が道の両側に残っていました。横に建てられた案内標柱によれば、ここに安居川が流れていて土橋が架かっており、この橋が旧岡村と岡新町村の境界になっていたということです。

 

枚方市、宗左の辻の道標

● 枚方橋の100㍍ほど南は十字路になります。この辻は、江戸時代に付近で角野宗左が製油業を営んでいたので「宗左の辻」と呼ばれていました。この辻の南西の角に大きな道標があります。

● 東海道は、この辻の北(京都方面)から来て、右に曲がり大坂方面に向かいます。また、この辻はここから南に向かう磐船街道の起点となり、奈良方面に行くこともできます。西面の「くらしたき」(倉冶滝)は天野川の支流免除川の上流にある源氏の滝を示すそうです。また、同じ西面の「や王た」は「やわた」(八幡)を示しています。

 繁華街の一角に江戸時代の宿場町のシンボルが残っていました。

 

● 銘文(1826年、ひのえ・いぬ)

 北面「右 大坂ミち」

 東面「願主 大阪(横書き)和泉屋冶右衛門 /近江屋又兵衛 /綿屋伊兵衛 /

    小豆嶋屋勘右衛門」

 南面「瀧 文政九丙戌年十一月建之」 

 西面「右 くらしたき /是ゟ四十三丁 /左 京 六り や王た 二り  道」

 

枚方市、岡本町公園前

● 宗左の辻を西に進むと、岡本町(おかほんまち)公園まえに出ます。ここに枚方宿の案内板があったので要約します。(地図は、説明板の位置を示す)

● 枚方市は、中世末に順興寺(願生坊)の寺内町として町づくりが始まりました。豊臣秀吉が淀川の左岸に文禄堤を築き、その堤が江戸時代になって京街道として整備され、枚方宿が設けられました。枚方宿は、東見附から西見附までの797間(約1.5㌔)に問屋場、本陣のほか旅籠や商家など多くの町家が軒をつらねて宿場町の賑わいを見せていました。

● 紀伊徳川家は、六代藩主宗直の寛保元(1741)年の参勤交代から大阪、京に将軍家の権威を示すために東海道を通ることが多くなり、参府、帰国とも枚方宿に宿泊することを常としました。

● また、枚方は、淀川水運の中継港で、米や河内木綿、菜種など物資の集積地であったため、在郷町としても繁栄し、人と物が行き交う水陸交通の要衝として重要な役割を果たしました。

● 淀川は、京、伏見と大坂を結ぶ重要な交通路で、往時には三十石船など貨客船と合せて1,000艘以上が行き交い、これらの監視施設として船番所が置かれました。また、三十石船の客相手に飲食物を商う煮売茶舟は、その売り言葉から俗に「くらわんか舟」と呼ばれていました。

 

枚方市、枚方宿を通る

● 枚方宿の京街道を西に進みます。最初に、街道の右側に旧三矢村と岡村の村界を示す常夜燈が目に入り、その先の専光寺の角に枚方宿高札場跡の標柱があり、さらに進むと三矢公園の前に枚方宿本陣跡の標柱がありました。公園の正面左には「明治天皇御晝餐所」の碑もありました。慶応4年1月鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗れ、3月には朝廷の権威を示すために明治天皇は大坂への行幸を行いました。その際に枚方宿本陣が休憩所に充てられたことを示す記念碑で、昭和11年に建てられています。

● この辺りの街道筋はカラー舗装され、要所、要所には新しい石の標柱があり、訪れる者には親切でわかりやすい配慮かと思います。(地図は常夜燈の位置を示す)

 

枚方市、三矢町の里程標

● マンションが立ち並ぶ一角に里程標がありました。表示されている内容を見ると、元は西側を向いていたのではないかと思われます。読める範囲では下のような表示になっていました。

● 枚方街道は、大阪府誌によれば次のようなルートになっています。「本街道は北河内郡枚方町三ツ矢」における第二號路線に起こり、淀川渡船により三島郡に入り・・・・「高槻村を経て同郡芥川村大字芥川に至り是にて国道第三號路線に連絡す・・・」 とありますので、この里程標が枚方街道の起点のようです。 因みに国道第3號路線は東京と神戸港、第1號路線は東京と横浜港を結ぶ国道でした。

 

● 銘文

 南面「すぐ 国道第二號路線 京

    左  枚方街道渡場」(渡場は小さな文字)

 

枚方市、願生坊と浄念寺

● 里程標の少し西から京街道をはなれ、南に向かうと京阪電車の踏切を越えますが、越えてすぐ右が願生坊(がんしょうぼう)です。永正11(1514)年、蓮如上人の息子にあたる実如によって順興寺が建立されますが、元亀、天正年間に焼失し、その後東本願寺の教如によって再建され、願生坊に改称されています。近くの浄念寺の「西の御坊」に対して「東の御坊」と呼ばれているということです。枚方の町はこの順興寺の寺内町として発展してきました。

● 再び京街道に戻り、西に進むと鍵の辻になりますが、その辻の東側に建つのが浄念寺です。

 

枚方市、鍵屋資料館と西見附跡

● 江戸時代からこの地で料理旅館を営んでいた「鍵屋」の主家が枚方市に寄贈され、市立鍵屋資料館となっています。江戸時代の淀川は枚方側に喰い込むように流れており、鍵屋の立地する堤町あたりでもすぐ裏手が河岸に面していました。この立地を生かして淀川を往来する乗合船の船待ちを兼ねた宿屋が現れたようです。(鍵屋資料館ホームページより)

● ここから少し西に進んだ角に、枚方宿西見附跡の説明板がありました。ここが東見附から797間(約1.5キロ)で、枚方宿の西端ということになります。

 

枚方市、明治十八季洪水碑

● 西見附跡から淀川の堤防に上がると、そこは府道13号線になります。その交差点の左に「明治十八季洪水碑」という大きな石碑が建っています。横の説明板を要約します。

● 「明治18年6月15日、早朝からの豪雨で淀川の水位は急上昇し、ついに18日午前3時、三矢村、伊加賀村の淀川の堤防が決壊しました。その切れ口は約180㍍に達し、濁流はたちまち淀川左岸一帯を水没させました。7月にも豪雨になり、復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり、大阪府内でも7万戸余が浸水するという未曽有の大洪水となりました。この碑は明治19年に建立されたもので、洪水と復旧の経過が記され、淀川治水の重要性を今に伝えています。」

● この辺りでは淀川の恩恵を受ける反面、時にはこうした大災害にもみまわれているということです。今も近くの堤防では大規模な補強工事が行われていました。

 

枚方市、郵便屋の渡し跡

● 交差点を挟んで、洪水碑の東側の白壁にかこまれたところにこの記念碑があります。説明板を要約します。「昔 淀川には橋がなく、対岸の摂津の国に行くには唯一の交通機関は渡し船でした。ここ三ツ矢には枚方地方で最も利用が多く親しまれた枚方の渡し(大塚の渡し)がありました。明治十年対岸に鉄道が開通したことにより、淀川左岸一帯の郵便物は逓送夫さんがこの渡しで淀川を渡り、国鉄高槻駅まで運んでいました。この渡し場はこれより上流約750㍍のところにあります。」  昭和5年、枚方大橋が完成し、郵便の渡しも姿を消し、記念碑が建てられました。

 

● 「郵便屋の渡し跡

     郵便屋さん 走りんか もうかれこれ 十二時や・・」

 

枚方市、桜町付近の京街道

● 枚方宿を出て、西に向かう京街道の様子です。「歴史街道」「→京街道(枚方宿)」と書かれた新しい案内の標柱があり、カラー舗装が施されわかりやすくなっています。ここから遠回りになってしまったのですが、枚方大橋南詰の交差点に出ました。

 

枚方市、光善寺と御田地

● 枚方大橋南詰の交差点から住宅街を通り抜け、伊加賀小学校の西を南に進むと集落の中にひときわ大きな寺院の前に出ます。このお寺が京阪電車の駅名にもなっている光善寺です。

● 光善寺は、文明七(1475)年蓮如上人がこの地に草庵を築いたのが前身です。それは東海道57次が整備される150年ほど前になります。蓮如上人は3年ほどこの地に留まり、京都に移っていますので、上人の長男順如上人が光善寺の初代住職になっています。光善寺は、近畿一円の宗教活動の拠点となり、出口御坊ともよばれ寺内町を形成し、周辺は大いに栄えたそうです。また、周辺の京街道では、石垣の上に建てられた土蔵を多く見かけ、独特の趣を感じました。これは、少し話が飛びますが、木曽川と長良川、揖斐川に囲まれた西濃地区から桑名市長島地区に建つ水屋と呼ばれる建物と同様、川の氾濫対策と想像します。

 

枚方市、御田地

● 光善寺の少し南の道路の左側に一対の石柱が建った一角があります。奥に「親鸞上人、蓮如上人御田地」と刻まれた石柱があり、左側には「蓮如上人御腰掛石之碑」と書かれた大きな石碑が建っていました。一番奥にあるのが、腰掛石でした。

● 明治42年建立の「蓮如上人御腰掛石之碑」には、腰掛石の由緒が詳しく書かれているようですが内容を控え忘れたので、諸氏のブログを拝借しました。「文明七(1475)年蓮如上人は越前國吉崎からこの地に移られ、9軒あった在家のうち箕屋の空念(石見入道光善)に道を説いて聞かせるために石に腰かけた。これはその霊跡である。」

 

寝屋川市、茨田堤

● 枚方市出口の光善寺から南西方向に進み、淀川の堤防に出ます。大規模な堤防補強工事が行われている堤防上を歩くと、枚方市から寝屋川市になります。排水機場の建物を過ぎたあたりに「茨田堤」(まむたのつつみ)と書かれた石碑が建っていました。

● 石碑の横の説明板を要約します。「日本書紀の仁徳11年の記事に洪水や高潮を防ぐために茨田堤を築いたという記述があり、本邦最初の土木工事で難工事であったという。当時のこの辺りの淀川の流れは水量も多く、一つは現在と同じに西南流していたが、もう一方は南流し生駒山の西で大和川に合流していた。その分岐点がこの碑の建つ辺りと考えられる。また、土佐日記でいう「わだの泊りの分れの所」もこの地点としてよいだろう」

 

寝屋川市、茨田樋遺跡

● 茨田堤からさらに南西方向に堤を進み、淀川大橋を越えてしばらくすると堤の下にこの茨田樋遺跡が見えました。この辺りの住所は寝屋川市点野、と書いて「しめの」と読むそうです。今回はここから京阪寝屋川市駅(駅に市がつくのも珍しい)に向かいました。

● この辺りでは、江戸時代から淀川からの小規模な取水が行われていました。農業用水や生活用水を引き込む用水樋門は、淀川左岸では、枚方市から毛馬(大阪市都島区)までに8ヶ所あったのですが、台風など大水時に決壊の恐れがあるとして昭和初期にはすべて廃止されました。現在残っているのは、明治38年に造られ、昭和5年に廃止された「茨田樋跡」のみとなっています。(寝屋川市HPを要約)

 

 

ー守口から大阪までー

 平成24年11月24日、追加)

守口市、淀川佐太渡し場の碑

● 寝屋川市の茨田樋遺跡から淀川を下流側に進み、鳥飼仁和寺大橋を通り過ぎてしばらく進むと、守口市になります。守口市になってすぐの階段を下りると、国道1号線の手前の植込みの中にこの石柱があります。

● ここ佐太は、枚方宿と守口宿の間の宿として栄えました。ここには対岸の摂津市鳥飼とを結ぶ渡し船が運航されていましたが、道路網の整備に伴う架橋により昭和48年に廃止されました。この渡し場を示す石柱には4面に銘文がありますが、左面と背面の文字は植込みのために確認できませんでした。

 

● 銘文(正面・南東)

 右面「出水十二尺以上暴風雨渡舩止」

 正面「淀川筋佐太渡舩場」

 

守口市、佐太天神宮前の道標

● 渡船場から小さな水路の橋を渡り国道1号線を横断すると佐太天神宮(交差点の道路標識や地図では「天神宮」と表示されている)の参道入口になりますが、その鳥居の右手前に道標があります。

● 右面は、陽刻の右向き袖付きの手形で方向を示し、その下に南東方向の野崎(大東市)、東方向の星田、倉冶滝(ともに交野市)が案内されていますが、左面の守口、京橋はなぜか方向が示されていません。ここから堤防方向の街道を示すのであれば、この面にも右向きの指差し手形があってもよいと思うのですが・・・? 

 

● 銘文(正面・西)(1860年)

 右面「(袖つき右指差し手形)野ざき 七十丁 /ほしだ 二り /

               くらし瀧 七十丁」

 正面「佐太天満宮 一丁半」

 左面「もり口 一り /京はし 三り」

 背面「万延元年 申歳」 

 

守口市、明治天皇駐輦遺趾

● 佐太天神宮の正門左にこの石碑がありました。「明治元年3月22日(注、慶応4年9月に明治に改元)、明治天皇が大阪に行幸のとき当神社に参拝され、玉座の畳を賜ったので、宝物として神庫に保管してある。この聖蹟を後世に伝えるためにこの碑を建てた。從二位伯爵 藤原〇房 謹識」というような主旨のことが書かれています。署名はありますが、日付けはありません。 また、横にあるのは「明治百年記念事業の世話人24人の名前が書かれた石碑でした。

 

守口市、佐太天神宮

● 菅原道真は太宰府へ流される途中荘園があった当地にしばらく滞在し、自作の木造や自画像を残しました。公の死後50年の天暦年間(947~957)に道真公を慕って、祠を建て木像を御神体としてお祀りしたのが、佐太天神宮の創建と伝えられています。現在の社殿は、淀城主永井尚政により、寛永17(1640)年本殿を再興、慶安元(1648)年には拝殿、神門、鳥居などを造営しています。特に本殿は、江戸初期の建築様式を伝える重要な建物として大阪府指定有形文化財にもなっています。

● 境内には、慶安3(1650)年2月25日、淀屋右衛門寄進による石井筒もあります。また、淀屋は拝殿造営の際にも、淀城主に協力して願主になっており、天神社の整備に多大の貢献をしています。

 

守口市、菅相寺、来迎寺、陣屋跡  (地図は佐太陣屋跡を示す)

● 佐太天神宮の東隣には菅相寺が、また道路を挟んで南側には来迎寺があり、その南端には陣屋跡の石垣が残っています。

● 菅相寺(かんしょうじ)は、平安時代の創建と考えられ、かっては境内も広大で佐太天神宮の奥の院とも呼ばれていました。正保元(1644)年永井尚政が萬安禅師を招き、中興、開山させてから真言宗から曹洞宗に転じ、現在は、宇治興聖寺の末寺となっています。

● 来迎寺(らいこうじ)は、現在浄土宗知恩院の末寺となっていますが、かっては大念仏宗佐太派の総本山で末寺も36ヶ寺ありました。後村上天皇の勅願で実尊誠阿上人西願が貞和3(1347)現在の守口市来迎町に来迎堂を創設し、延宝6(1678)年この地に定着するまでに25回移動しています。境内には多数の文化財が伝わっています。なかでも寺庭の石造13重塔は鎌倉時代の石塔として大阪府指定有形文化財になっています。

● 佐太陣屋跡は、来迎寺の南側に石垣の一部が残っています。この佐太地区は、美濃国加納藩の永井氏が支配していました。永井氏は、貞享年間(1684~88)に、渚(枚方市)からこの地に陣屋を移し、約5000平方㍍の敷地に屋敷や蔵を整備しました。この陣屋は、加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし、金融や物資の調達など同藩の台所の役目を担ってきました。

 

淀川堤防を下りる (地図は京街道の標識を示す)

● 佐太天神宮周辺から再度淀川堤防に戻り左岸を歩きます。鳥飼大橋を過ぎたところから堤防を下り、守口市市街地に入ります。堤防を下りてすぐの守口市水道局の前あたりから道路はきれいに舗装され「←京街道→」と書かれたタイルもはめ込まれていました。正迎寺(しょうこうじ)の前で街道は南に進みますが、その少し先の八雲北町三丁目自治会館の前に写真(右)のような標識が設置されていました。京都市、八幡市、枚方市、寝屋川市と歩いてきましたが、それぞれの市でデザインでされた案内標識で街道を表示してわかりやすくなっていました。

● 鳥飼大橋は、守口市大日町と摂津市鳥飼西の間の淀川に架かる橋で近畿自動車道など道路が3本とモノレール線の計4本の橋がかかっています。

● 正迎寺は、門前の説明板によれば、西本願寺の末寺で観応元(1350)年の創建となっています。当寺には蓮如上人より賜った六字名号「南無阿弥陀仏」の紙本墨書など貴重な文化財が伝承されています。

 

守口市、一里塚跡

● 正迎寺から南に進みます。府道155号線を斜めに横断し、少し進むとまた斜めの十字路があり、進む方向が判りにくいのですが、緩くカーブをしながら進むと、右側の住宅街の中にこの一里塚跡の碑と説明板が建っていました。国道1号線の浜町交差点の手前になります。

● 一里塚跡の碑文によれば、この一里塚は守口の入口、出口としての目印となっていました。築かれた年代は定かではありませんが、元和2年(1615)守口が宿場になってからのようです。

 

守口市、盛泉寺

● 国道1号線の浜町交差点を横断すると、街道の左側に盛泉寺(じょうせんじ)があります。この寺は、東本願寺の末寺で慶長11(1606)年に教如上人が開基したと伝えられ、難宗寺の西御坊に対して、東御坊と呼ばれていました。本堂は元和元(1615)年兵火により焼失し、現存する本堂は天保11(1840)年に再建されたものです。

● 門前の説明板に「幻の大阪遷都ゆかりの寺」とあります。

 慶長4年3月22日の明治天皇大阪行幸は、参与大久保利通の進言により密かに大阪遷都を意図し、三種の神器の一つ八たの鏡を連ねた行幸であった。そのため当坊本堂前に賢所(内侍所、神鏡の意も)を奉安された由緒がある。しかし4月11日江戸城が無血開城され、大阪遷都はまぼろしと化した。

● 向かって左側に「明治天皇聖蹟」、右側に「史蹟 内侍所奉安所阯」と書かれた石柱が建っています。

 

守口市、竜田通りの道標

● 盛泉寺の南の街道と竜田通りの交差点に小さな自然石型の道標がありました。この辺りでは珍しく「東海道」と書かれています。また下部は埋没しているので、文字があるのかはわかりません。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「   右 大坂

    東海道  守口

       左 京  」

 

守口市、難宗寺前の道標(1)、(2)

● 東海道の道標の向かい側の難宗寺の太鼓楼の下あたりに4本の石柱があります。うち2本は道標ですが、あとの2本は「御行在所」「御假泊所」と書かれた石柱です。

● 「御行在所」は、明治天皇が慶応4年3月大阪行幸の際、難宗寺で宿泊されたことを記念する碑です。背面の日付けは「明治元年三月二十ニ日」となっています。

● 「御假泊所」は、明治43年大正天皇が皇太子の時代に淀川架橋演習視察で来阪されたとき、父陛下の若き日のご苦労を偲び難宗寺での宿泊を希望され仮泊された記念の碑です。背面には「明治四十三年十月四日」と書かれています。

 

● 道標(1) 銘文(正面・西)

 正面「すぐ 守口街道」

 守口街道は、明治36年の大阪府誌によれば「北河内郡守口村大字守口にて国道第2號路線(京街道)より分岐し」・・・「同郡早可村大字中野に於いて東高野街道に接続せり・・・」とあるので、ここが守口街道の起点のようです。 現在の道路でいえば、府道158号線(守口街道)から国道163号線(清滝街道)、四条畷市で国道170号線(東高野街道)と交差、そして木津市で国道24号線(奈良街道)と合流し、奈良と連絡することになります。

● 道標(2)銘文(正面・西)(大阪府道標資料では文政13(1830)年)

 右面「すぐ 京(みち)」

 正面「左 京(道)」

 左面「右 大(坂)」()内は埋没部分 

 

守口市、難宗寺

● 枚方市出口に光善坊を創立した蓮如上人が、文明9(1477)年に守口坊として建てたのが難宗寺の始まりといわれ、慶長16(1611)年には、西御坊と呼ばれるようになりました。元和元(1615)年兵火により焼失しました。現在の本堂は文化4(1807)年に再建されたものです。当寺は、周囲を築地塀で囲み、鐘楼、山門、長屋門、太鼓楼などを配し、本堂、書院、庫裏など守口市内の真宗寺院では最も整った構えが残こされており、重要な文化財になっています。境内には樹齢500年の大銀杏があり、大阪府の天然記念物に指定されています。また山門東側には「明治天皇守口行在所」の石柱も建っています。

 

守口市、守口宿本陣跡など (地図は本陣跡を示す)

● 難宗寺から竜田通りを西に少し進むと、駐輪場のネットフェンスに「守口宿本陣跡」の説明板があり、その道路の北側のマクドナルドの敷地の一角に「大塩平八郎ゆかりの書院」と書かれた石柱が建っています。

● 「守口宿本陣跡」の説明板要約です。守口宿は元和2(1616)年に東海道の宿場となりました。この付近には、本陣や問屋場がありました。本陣は大名や勅使、幕府役人などが宿泊する公認の旅館です。問屋場は、宿場の人馬の継立ての事務を行う場所です。大阪や枚方に行交う人馬の継立てのためこの辺りの道路(15㍍余)は、街道(2間半=4.6㍍)の三倍ほどの広さになっていました。明治5年にはすべて廃止されています。

● 「大塩平八郎ゆかりの書院、門弟白井孝右衛門屋敷跡」の説明板要約です。この敷地内には江戸時代に豪農白井家の邸宅があり、その一角に建つ書院を「大塩平八郎ゆかりの書院」と呼んでいました。天保年間のはじめ、全国的に飢きんが続き、大坂市中も犠牲者が続出しましたが、大坂町奉行所の役人は何ら対策を立てることができず、また、商人はこれを機会に利益を得ようとしていました。そこで東町奉行所元与力であった大塩平八郎は、幕府や商人に天誅を加えて窮民を救うべく、近在の富農達と謀って兵を挙げました。天保8(1837)年2月の「大塩平八郎の乱」です。当時の白井家の当主孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行っており、門弟の中心的人物でした。

 

守口市、文禄堤 (地図は右写真撮影場所(文禄堤の南端)を示す)

● 守口宿本陣跡西の八島交差点から南に伸びるゆるい上り坂があります。ここが現存する文禄堤の北端になります。ここから南の義天寺付近までゆるい右カーブを描きながら堤防状に街道が続いています。当時の淀川の流れは、このカーブの内側に沿っていました。

● 文禄堤については説明板を以下に引用します。

 文禄堤は、豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に命じて、治水と京街道の整備のために築造した淀川左岸の堤防です。文禄5(1596)年に修築が行われたので、文禄堤と呼ばれています。文禄堤は度重なる淀川の改修などでその多くが姿を消しましたが、本市には今なお現存しており、そこは東海道57番目の宿場である守口宿として栄えたところでもありました。京街道は大阪と京都・伏見を結ぶ最短陸路で、のちに東海道の一部と位置づけられました。現在の国道1号線の前身です。

 

守口市、文禄堤上の道標

● 文禄堤を南に進むと説明板がありますが、その近くに枠付きの小さな道標がありました。文禄堤から東に下る階段は来迎寺(らいこうじ)坂と呼ばれています。守口が宿場となる前からこの道が奈良への街道でした。 ということから、道標に年代の銘はありませんが、江戸時代のもののようです。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「右 なら /のざき みち」

 

大阪市、京街道の標識 (地図は石柱の場所を示す)

● 義天寺から南西に進み、国道1号線京阪本通り1の交差点を過ぎたあたりで、守口市から大阪市旭区になります。今市から南方向に街道を進むと「京街道」のいろんな標識が目につきます。各自治体でデザインを凝らした標識になっています。

 

大阪市、明治天皇聖躅碑

● 国道1号線今市交差点から府道161の京街道を南に進むと、都島通りの関目5交差点に出ます。この交差点の少し南のビルの間に「明治天皇聖躅」と書かれた碑が少し傾いて立っていました。明治天皇が慶応4年3月23日大阪行幸の際に小休止された場所のようです。

● また、この付近には「明治天皇御駐輦之跡」の碑もあったようですが、近くの関目神社に移設されたということです。

 

● 銘文

 右面「西井茶屋址」

 正面「明治天皇聖躅」(躅=ちょく、はたたずむの読みもある)

 左面「大正十四年五月十日 建之」

 

大阪市、関目神社 (平成24年11月30日、追加)

● 関目5交差点から都島通りを南に進むと左側にこの神社があります。神社に入ってすぐ左側に「関目発祥之地」という大きな碑とともに「関目発祥の由来」という碑が建っていましたので、それを要約します。

● 「この地はもと関目といい、古くは榎並荘の時代からあったもので、関目というのはこの地に見張所(目で見る関所)があったことから起こったといわれる。また、関目の七曲りとして、大坂城の防備に役立った重要な地であった。なおまた明治天皇御駐輦の地として親しまれてきた。」

● また、本殿の西側には「明治天皇御駐輦之跡」という大きな碑がありました。横の説明板を要約します。

 「慶応4年3月23日、明治天皇が千数百人のお供を連れて関目の地を通り、津村別院(北御堂)に向かわれました。津村別院では40余日滞在され、その間天保山沖での観艦式列席、大坂城や住吉大社などを巡覧されたのち、京へ帰られました。」

● この碑はもともと西井茶屋付近にあり、その後当神社に移設されました。碑の背面には建設の経緯などが漢文で詳細に書かれています。近在の庄屋、地主などの有志の賛意を得て、大正2年6月に建てられました。当時のお金で建設費1550円、保存基金100円を充てたそうです。

 

大阪市、七曲り跡 (地図は左の写真の位置を示す)

● 関目5交差点からの京街道は、交差点の少し南から右に入り、野江4交差点まで都島通りの西側をほぼ並行して進みます。その間は七曲りと呼ばれる曲がりくねった道路になっています。これは大坂城の防備のため意図してこのような道路にしたようです。現在の地図でもほぼその様子が確認できます。

● (失敗談)

 都島通りから七曲りへの入口より1本手前の道に入ってしまいました。この道は南でなく北に向かっています。当日は曇りで方角がわかりにくく、途中でおかしいと思ったのですが、手持ちの地図はパソコンからコピーした街道筋の拡大版のみで地図の外に出ると、現在地が判らなくなります。その結果かなり遠回りをして野江4の交差点につきました。戻る元気もなく七曲りを体験できませんでしたが、七曲りの罠にはまってしまったようです。

 

大阪市、関目の七曲り (平成24年11月30日、追加)

● 前回間違えた場所を辿ってみました。(地図は七曲り、北の入り口を示す)

 

大阪市、野江水神社 (平成24年11月30日、追加)

● この神社は、野江4の交差点の少し東にあります。入口の「御由緒」説明板を要約します。

● 昔この辺りは土地が低く、再々水害を被ることがありました。そこで水難からのがれようとして、水の神様がお祀りされました。天文2(1533)年三好政長がこの付近に榎並城を築城の際、水害を被ったので、水火除難の守護神として城内に社を建てて祀られたのが現在の社殿の位置といわれています。現在の社殿は明治16年の造営で、その後度々改築を加えて今日に至っています。

 

大阪市、榎並地蔵

● 野江3の交差点から南へ向かいます。街道の右側に真新しい地蔵堂がありますが、これが榎並(えなみ)地蔵です。もとはここから南の榎並川に架かかっていた水香橋のたもとにあったようです。平成20年5月6日、旧地蔵堂を解体したところ、江戸時代中期以降と推定される道祖神と道案内の書かれた台座が見つかりました。これは、地蔵堂の右側にありました。ここからさらに南に進むと環状線の高架を通りすぎて京阪京橋駅の前に出ます。

 

●銘文(正面・南)

 台座正面「者し向 /右 /可も /今ふく」(橋向こう /右 /蒲生 /今福)

 

大阪市、京橋駅前の道標 (平成24年11月30日、追加)

● この道標は、大阪環状線の高架と京阪モールの中間あたりの歩道の植込みの中にあります。野崎、奈良方面はここから少し南の寝屋川沿いに東に進む古堤街道を進めば行けるようです。この道標は近くから移設されたものでしょうか、この場所であれば、示す方向が180°違うように思います。

 

● 銘文(1826年、ひのえ・いぬ)

 東面「左 京みち」

 南面「右 大坂」

 西面「文政九丙戌年九月吉日」 

 北面「右 大和(下部)なら /のざき」(下部は小文字)

 

大阪市、大坂城の石垣

● 日経新聞社の南側の道路の2か所に移築、復元された石垣があります。

● 道路東側の石垣は、昭和50年に地下から発見されたものです。石材は生駒、笠置、六甲などの近郊のほか小豆島や与島など瀬戸内海の島々から運ばれた花崗岩です。

● 道路の西側の石垣は、平成元年に地下から東西約21㍍にわたって見つかった三の丸北端の石垣です。慶長19(1614)年の冬の陣で取り壊された石垣の一部になります。

 

大阪市、八軒家舩着場の跡

● 土佐堀通りに面した永田屋昆布本店の店先にこの石柱がありました。江戸時代この辺りには、八軒の船宿が軒を並べていたことから八軒家浜と呼ばれ、京から淀川を下ってきた三十石船が到着していました。熊野街道の起点として、また、京、大坂を結ぶ淀川舟運の要衝としても栄えました。(マップは、右の写真の場所)

 

大阪市、熊野街道の起点を示すプレート

● 永田屋の少し西の福助ビルの前にこのプレートがあります。

● 熊野街道は、このあたり(渡邉津、窪津)を起点として熊野三山に至ります。京から淀川を舟で下り、この地で上陸して上町台地の脊梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられ、平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」といわれる情景が続いたといわれます。

 

大阪市、ゴールの高麗橋「里程元標跡」

● 京街道のゴールヘ着きました。昨年は西宮から中国街道のゴールとしてここに来ています。 なお、現在の「大阪市道路元標」は、梅田新道交差点の北西角にあります。(「中国街道の道標」の末尾に掲載)