―西国街道の道標(4)―

(平成23年3月8日)

 西国街道昆陽宿を過ぎ猪名川軍行橋を渡り、しばらくすると大阪府池田市になります。県境をこえたのでページ替えをしました。

 ここ池田市から京都府都の境、島本町山崎までの道標を紹介します。

 

池田市豊島南の「伝弁慶の泉」 (平成23年3月6日 追加)

● 猪名川を渡り国道171号線に沿って東に数百㍍進むと大阪府池田市になります。この泉はさらに東に行った中国自動車道の手前にありました。近くを流れる箕面川の伏流水が湧き出ているということです。設置されている「伝弁慶の泉由来記」によれば、文治元年(1185)西国に逃れるため河尻(尼崎)に向かっていた義経一行は、この辺りで行く手を遮られ、弁慶もよく奮戦し、ここで喉の渇きを潤したと伝えられているそうです。また、今在家一帯の灌漑用水としても重要な役割を果たした泉であると説明されていました。

 

池田市石橋の道標 (平成23年3月6日 追加)

● しばらく道標以外の紹介が続きましたが、この道標は阪急電車宝塚線の踏切を越えたところにありました。ここは西国街道と南北に通る能勢街道(江戸時代は大坂・池田道)との辻で、高札場跡でもあります。この踏切にはかって、石橋が架かっており、西国街道と能勢街道が交差していました。道標は、その石橋の西詰に設置されていたものです。左面には年代が書かれているようですが、見過ごしました。

 

● 銘文(正面・東)(1831年)

 右面「右 西宮 /左 大坂」

 正面「右 妙見 /すぐ 西宮」

 左面「天保二年」 (この面未確認)

 背面「すぐ 大坂京 /左 いけだ」

 

箕面市牧落(まきおち)の道標、2基 (平成23年3月7日 追加)   

● ここは西国街道と箕面・大坂道との四つ辻で牧落村の高札場でした。ここに2基の道標があります。右の道標に表記された天神は大阪市北区の天満宮、豊中市服部元町の服部天神を、刀根山御坊は豊中市刀根山元町の刀根山御坊を、それぞれ案内しています。刀根山御坊は、貞治二年(1363)存覚上人が摂津国豊島之庄に創立した大寺院で、その後織田信長が荒木村重の有岡城攻略のために刀根山城を築いたところです。

 

● 左の道標銘文(正面・西)(1720年、かのえ・ね)

 右面「享保五庚子歳十月〇日」 

 正面「みのをみち」

 左面「施主 大坂 吉文字屋 /利兵ヱ」

● 右の道標銘文(正面・西)

 右面「世話人 /當村 /西川四兵衛 /中西冶右兵ヱ門 /木屋清」

 正面「(右向き手形)大坂天神 四リ半 /はっとり(天神)二リ 道」

 左面「存覚上人 /御舊跡 /刀根山御坊 從是南 /十五丁」

 

箕面市萱野、萱野三平旧邸跡 (平成23年3月7日 追加)

● ここは赤穂藩士の萱野三平の実家です。この長屋門と土塀の一部が当時のままに保存されています。萱野三平は、吉良邸討ち入りのほぼ1年前の元禄15年1月にこの長屋門の一室で自害しています。その墓を示す道標「(右向き手形)義士萱野三平之墓」が近くにありました。萱野一族の墓はここから少し南の共同墓地にあるそうです。

● 萱野三平は、浅野長矩の殿中刃傷のとき、第一陣の急使として赤穂に急行します。江戸から赤穂までは155里ですが4昼夜半で駆け抜けたといわれています。一日30里以上を早駕籠で走ったことになります。途中自宅前を通りかかったとき母の葬儀にあい、同行の使者から立ち寄るよう勧められますが、役目なのでそのまま赤穂に急行したということです。

 

箕面市粟生新家勝尾寺口の道標と町石2基 (平成23年3月7日 追加)

● 勝尾寺(西国三十三所第二十三番札所)の参道はいくつもありますが、西国街道に面したこの大鳥居を起点として北へ向かう道が表参道になります。鳥居の右下に町石と道標(町石の左)があります。いずれも同じ大きさ形なので同時期に対で建てられたのでしょうか。梵字のコクは金剛愛菩薩などを、またタラークは宝生如来などを表しているそうです。圓光大師(法然上人)が四国配流を解かれるまでの四年間を二階堂に滞在されていたので、二十五番遺跡の第五番霊場として浄土宗信者の霊場とされています。

 

● 鳥居右下の道標銘文(正面・南)

 右面「圓光大師遺跡 /廿五箇所第五番 大坂講中」

 正面「左 勝尾寺二階堂道」

● 鳥居右下の町石銘文(正面・南)

 正面「(梵字タラーク)自是山上惣門迠三十六町 /町石施主大坂内淡路町

     小嶋長左衛門後室」 (これから山上の惣門まで36町)

● 参道左の町石銘文(正面・南)  

 正面「(梵字コク)三十六町 施主大坂内淡路町 /小嶋屋長左衛門後室」

 

箕面市小野原西の常夜燈 (平成23年3月7日 追加)

● 小さな川を渡ってすぐの村の入り口辺りにこの常夜燈がありました。西面に「金毘羅大権現」、東面に「寛政八丙辰歳九月吉日/小野原村」(1796、ひのえ・たつ)と書いてありました。この先の春日神社お旅所の説明板に東の常夜燈は、村への疾病侵入防止を祈願して建てられた、とあるので東西一対で建てられたものでしょうか 

 

箕面市小野原東の道標 (平成23年3月7日 追加)

● 常夜燈から東に向かった三叉路に小さなお堂と道標があります。お堂の前に「楠水龍王之地」と書かれた石柱もありました。延元元年(1336)楠木正成が兵庫湊川へ出陣の途中小庵で冷たい井戸水を賞味したと伝えられています。後に茶店ができ、旅人が名水として愛飲したということです。その井戸は現在民家の庭にあるようです。このお堂の向かいには小野原村の氏神である春日神社の御旅所があります。また、道標の右の常夜燈は、南面に「太神宮」と書かれています。これは村への疾病の侵入防止を祈願して江戸時代に建てられたと説明板にありました。

 

● 銘文(正面・西)(1802年、いぬ)

 右面「享和二戌年八月 願主 /弥三八」 

 正面「左 京ふしみ道」

  

茨木市豊川山下橋東詰めの道標 (平成23年3月10日 追加)

● モノレール豊川駅を下りるとすぐ西国街道になります。街道筋はカラー舗装され複雑なルートも分かりやすくなっています。東に進むと勝尾寺川に架かる山下橋を渡ります。そのすぐ東にこの道標がありました。年代は書かれていません。表記の地名は、いずれも北の方角にあります。豊川學校は豊川尋常高等小学校で明治39年に川端康成がここに入学しています。現在は茨木市立豊川小学校です。学校が道標の最初に書かれているのは、明治五年学校制度が始まり、一般国民に学校重視を示した表れのようです。また、北の方の府道4号線を北に進めば勝尾寺に行くことができます。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「是ヨリ豊川學校勝尾寺 /粟生宿久庄清水 道」

  

茨木市豊川道祖神社の道標 (平成23年3月10日 追加)

● 国道171の豊川1丁目交差点の近くに道祖神社があります。その鳥居の右にこの道標はありました。標記内容から想像すると南の西国街道筋にあったものと思われます。道祖神社は道祖神を祀る神社で、関東地方では多く見られるようですが、関西地方では数が少ないかわりに大型化し、建物の中に祀られたりしているとのことです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「是ヨリ北壱丁余」

 正面「摂津国 道祖神社」

 左面「明治十七年八月建之」

 

茨木市宿河原西会場前の道標、4基 (平成23年3月10日 追加)

● 蛇行する勝尾寺川を再度渡ると、宿河原町です。郡山宿の本陣手前に宿河原西会場があり、その前に4基の道標が集められています。よく読めないものもあります。

● 門柱右の道標は道祖街道と順礼道との分岐となる西国街道に設置され、総持寺から勝尾寺へ向かう人を案内しています。門柱左の道標にある「かちをう寺」は「かつを寺」より古い呼び方のようです。奥手前の道標の上部には梵字があるのですが、消えています。奥の道標の( )内は欠損のためありません。子供中は子供会のことです。江戸時代から子供会があったようです。文化五年は「1808年つちのえ・たつ」です。「そうじ寺」は、茨木市の西国三十三所二十二番札所総持寺です。

 

● 門柱右の道標銘文(正面・北)

 正面「右 かつをうじ」

 左面「儀誉大徳」

● 門柱左の道標銘文(正面・北)

 正面「すぐ かちをうじ道」

● 奥手前の道標銘文(正面・西)

 正面「〇これ与右ハかつをじみち」(〇の梵字、与=「より」の略字)

● 一番奥の道標銘文(正面・西)(1808年、つちのえ・たつ)

 正面「(右 そう)じ寺 /(京)大坂 道」 

 左面「文化五戊辰極月日 /(郡山駅子)供中建之」( )内は欠損個所

  

茨木市郡山宿本陣 (平成23年3月10日 追加)

● 郡山宿は、西の瀬川宿と東の芥川宿にはさまれた、西宮と京都の間の五宿駅の一つです。この本陣は、享保三年(1718)に焼失しましたが、享保六年には西国諸大名の寄付などにより再建されました。現在の建物はその当時のままに残されています。また、正門の脇には椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから「椿の本陣」と呼ばれたそうです。 

  

茨木市郡山宿の道標3基 (平成23年3月11日 追加)

● 本陣の数十メートル東の鉤の辻に3基の道標がありました。左側の大きな道標は、この道が旧国道3号線であったことを示しています。右側の2基の道標は、勝尾寺や総持寺を案内するものです。

● 明治十年京都・神戸間の鉄道が開通しましたが、当時鉄道に乗れるのは裕福な人たちであったので、道標の停車場は多くの人が鉄道に乗りに行くための案内ではなく、珍しい場所として表示されたものと思われます。

● 国道3号路線のルートは明治18年の内務省告示によると、東京から神戸港に達する路線となっています。第1号路線、第2号路線を経て、京都、山崎、芥川、道祖本(さいのもと)、瀬川、西宮、御影、神戸となっています。因みに第1号路線は東京と横浜、第2号路線は東京と大阪となっています。また、茨木街道は大阪府誌によれば、三島郡豊川村大字道祖本から同郡大冠村大字塚本(国道170の枚方大橋の辺り)で、現在の府道139とほぼ同じルートだそうです。

 

● 左の大きい道標銘文(正面・北西)

 右面「茨木街道(右向き手形)茨木三島江 枚方道」

 正面「國道3號路線(左向き手形)池田伊丹神戸 /芥川高槻京都 道」

 背面「明治三十六年八月 大阪府」

   (頭頂の四隅にそれぞれ「東西南北」が書かれている)

● 小さい方の右の道標銘文(正面・西)

 正面「右 茨木停車場 /そうぢじ 道」

● 小さい方の左の道標銘文(正面・西)

 正面「左 かちをう寺 /〇西国道」

  

茨木市中河原の里程標 (平成23年3月13日 追加)

● この里程標のある中河原は、西国街道と亀岡街道の交差点になります。古くは長柄や吹田を経て山陽道に通じる三島路と、丹波亀山(現亀岡市)から南進する路との南北の結節点でもありました。一方、西国街道は、山陽道、山崎道ともよばれていました。また、この辺りは白井河原の戦いで活躍し後に茨木城主になり、賤ケ岳の戦いで戦死した中川清秀の生誕地とも言われており、同じ敷地内にそれを示す碑「史蹟 中川清秀由緒地」もありました。

 

● 銘文

 東面「東 大津十一里京都七里八幡五里山崎三里廿町芥川一里廿町」

 南面「南 堺九里住吉七里大坂五里吹田三里茨木驛三十町」

 西面「西 姫路廿三里神戸十一里池田三里岡三里箕面山二里」

 北面「北 明治三十年十月建之 /福井村川端七郎 /川端きく /川端音蔵 /

   (左側に)1982年3月(昭和五十七年)事故之為破損再建ス」

  

茨木市耳原(みのはら)の法華寺前の道標 (平成23年3月13日 追加)

● 法華寺前の題目塔は、西国三十三所二十二番札所の総持寺を案内する道標ですが、方向がちがうのでどこかから移設されたものと思われます。「南無妙法蓮華経 」が日蓮の親筆をまねて書かれているので「ヒゲ題目」として尊称されているそうです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「南無妙法蓮華経 」

 正面「南無妙法蓮華経 」

 左面「左 そうぢじミち」

 

茨木市十日市町の道標 (平成23年3月13日 追加)

● 名神高速道の手前の、西国街道と茨木街道支線の辻に道標がありました。下部の( )内の文字は埋没しています。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「右(右向き手形)芥川 高槻 山崎 京都 /

    左(左向き手形)福井 豊川 箕面 池田 神戸 國(道)」

 正面「右 茨木停車場 大阪 /左 石川 見山 茨木(街道)」

 左面「此處安威村大字十日市」

 背面「明治四十二年三月建之 大(阪府)」

  

茨木市太田茶臼山古墳 (平成23年3月13日 追加)

● 太田の西国街道から少し北に入ったところに大きな古墳がありました。太田茶臼山古墳で、宮内庁によって第26代継体天皇陵とされています。大きさは全長226㍍、全幅147㍍、高さ20㍍で28~33㍍の濠が巡らされています。5世紀に築造されていますが、継体天皇の没年は531年(6世紀)で古墳の築造年代とは異なります。

● 第25代武烈天皇は皇子も皇女ももうけないまま世を去ったので、皇嗣がなくなる恐れがあったのですが、大伴金村によって第15代応神天皇の5世の孫である継体天皇を迎え、以降現在の天皇陛下まで連綿と血筋がつながっていることは確実視されています。

 

高槻市氷室町の道標、3基 (平成23年3月13日 追加)

● 太田茶臼山古墳をすぎると茨木市から高槻市氷室町です。巡礼橋をわたると左側の民家の蔭に3基の道標が集められていました。この道標から北に進むと今城塚古墳がありますが、こちらが531年に没した継体天皇の陵墓と考えられているようです。

 

● 一番大きい道標銘文(正面・南)

 右面「右 石川 見山 妙見 道」

 正面「右 芥川 山崎 京都 /左 豊川 池田 神戸」

 左面「此處芥川大字郡家」

 背面「明治四十三年六月建之 大阪府」

● ブロック塀に挟まれた道標銘文(正面・東)(1835年、きのと・ひつじ)

 右面「天保六乙未年」 

 正面「右 妙見道 /是より五り」

 左面「すぐ そうじ寺」

● 右の自然石型の道標銘文(正面・東)

 正面「右ハ妙見 /春く惣持寺 /すぐそうぢ寺 道」

  

高槻市芥川町水門前の常夜燈 (平成23年3月13日 追加) 

● 芥川の芥川橋を渡ると、すぐに水門があります。芥川はあまり大きくない川ですが、昔洪水でもあったのでしょうか、芥川宿の入口に石積みの水門が設けられています。水門の南側の常夜燈に道案内がありました。

 

● 銘文(正面・北)(1829年、つちのと・うし)

 右面「従是道汰(法)六十三里半」(是より道のり63里半)

 正面「象頭山 /金毘羅大権現 常夜燈」

 左面「芥川驛世話人 /日出講」

 背面「文政十二年己丑三月吉日」 

  

高槻市芥川水門の愛宕山燈籠 (平成23年4月1日 追加)

● 水門を過ぎたところに地蔵堂があり前に愛宕山の常夜燈がありました。「愛宕山燈籠は、京都の愛宕神社を火伏せの神として崇拝する愛宕信仰に基づくもので、生活の安全などを願って愛宕講によって造立されたもの」、と高槻市の資料にありました。この先の西国街道沿いでも多くを目にしました。燈籠の銘文は次の通りです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「文政五壬午歳三月吉日」(1822、みずのえ・うま)

 正面「愛宕山燈籠」

 

高槻市芥川宿の一里塚 (平成23年3月13日 追加)

● この辺りは、東の山崎宿、西の郡山宿の中間の芥川宿です。この宿の東の鉤の辻に一里塚跡がありました。 

  

高槻市天神町の道標 (平成23年3月13日 追加)

● 高槻市の繁華街の一角の天神町にこの道標がありました。道標の左の道を北に進むと廣智寺があります。高槻市の観光サイトによれば、廣智寺は「聖徳太子により草創され、太子自ら観世音菩薩像を造り堂宇も建立して安置した。かんのんさんの名で親しまれている。」とありました。また、摂津国霊場の26番札所でもあります。

 

● 銘文(正面・南)(1767年、ひのと・い)

 右面「當國廿六番 /廣智禅寺」

 正面「聖徳太子之作 /くわんぜおん不゛さつ」

 左面「明和四丁亥歳孟秋」 

   (道標の「和」と「秋」の文字は、扁と旁が左右逆になっています)

  

高槻市天神町上宮(じょうぐう)天満宮 (平成23年3月23日 追加)

● JR高槻駅の前に大きな鳥居があります。北の小高い山の上にある上宮天満宮の鳥居です。ここは天満宮の参道で、天正10年(1582)山崎の合戦の際、秀吉が本陣をしいたところです。天正18年には戦勝を感謝して神社の本殿を寄贈していますが、平成8年放火により焼失し、平成14年日本初の竹の本殿として再建されています。

● 天満宮の由緒は、日神山一帯は弥生人の集落で、元々は野見宿彌の墳墓とされる式内社野見神社がありました。正暦4(994)年勅使菅原幹正が太宰府からの帰途、この地に着いたとき牛車が急に動かなくなった。そこで幹正は「道真公の自画像を奉安して祀るのがよい」として、道真公を祀ったのが天満宮の始まりで、太宰府に次ぎ2番目に古い天満宮であるということです。 

  

高槻市古曽部の能因法師の碑 (平成23年3月23日 追加)

● ここから北の方にある能因法師の墓とされる「能因法師墳」を案内する道標です。高槻市資料によれば銘文は次の通りです。また、左面の和歌は新古今和歌集から、背面に名のある五十嵐信平は古曽部焼窯元の3代目とありました。能因法師は平安時代中期の歌人で26歳で出家し、和歌を当時の第一人者藤原長能に学び、古曽部入道とも称し、伊予、三河、陸奥など諸国を旅しながら優れた作品を残しています。 

 

● 銘文(正面・北)(1864年、きのえ・ね)

 正面・北「能因法師墳 /從是北方三町餘(あまり)」

 左面「しき嶋のふかきをしへの /跡とへば此渉るふじの /

    みちよりそいける」

 背面「元冶元年甲子五月再建 /中井清五郎 /五十嵐信平 /脇田忠兵衛」     

  

高槻市別所新町の能因法師の碑 (平成23年3月23日 追加)

● 題目碑と道標が並んでいます。写真では左側が道標です。道標は能因法師が使用したとされる名水「花の井」を案内しています。花の井は別名「山下水」とも呼ばれています。碑の表面は剥落してよく読めません。高槻市資料によれば、次の通りです。

 

● 銘文

 東面「舊記別所村寶泉寺 村田静倹建 /元部牛後書」

 西面「能因法師 あし曳きの山した水に影みれハ /眉しろたへに我老にけり」

 北面「従是四丁北 /花之井」

  

高槻市別所新町の道標 (平成23年3月23日 追加)

● 上部のない道標がありましたが、市の資料を調べるとほぼ全文が判明しました。( )内が上部欠損部の銘文です。また、○印は判読不能個所です。発起人の金澤市兵衛さんは高槻市内の数か所に本山寺の町石を寄贈しているそうです。本山寺は、天台宗の寺院で山号は北山、本尊の毘沙門天は鞍馬寺、朝護孫子寺とともに日本三大毘沙門天とされています。大正時代に国宝(現行法では重要文化財相当)に指定されています。

 

●銘文(正面・西)

 右面「石匠 大阪南区高津〇 /石福事 /白井福松」

 正面「(國宝 大日本三毘沙門天王随一)是ヨリ六十〇 /

    (左 北山本山)寺近道」

 左面「(願主 大阪)南区北炭屋町 高橋〇 /(大阪)北区北濱 原谷〇 /

    (大阪)府森小路子ノ〇」

 背面「(大正四年発起人)大阪南区難波新地 /金澤市兵衛 /〇月吉祥日」

 

(令和元年12月16日、追記)

● ストリートビューで確認したところ、家屋が新築され本道標は見当たらない。

  

高槻市梶原一里塚とその付近 (平成23年3月23日 追加)

● 一里塚の案内板に次のように説明されていました。「この地は旧梶原村の東端に位置し、かって榎を植えた一里塚が設けられていた。文化元年(1804)発行の「浪花講定宿帳」には「一里塚前 茶屋平七」の名がみえ、周辺に旅籠があったものとみえる。なお堂内の地蔵尊はかって淀川沿いの中村にあり、度重なる水害から守り継がれたもので「水あがり地蔵さん」とも呼ばれ親しまれている。」 

● この少し東から西国街道はゆるいカーブを描いて北へ延び、高槻市から大阪府三島郡島本町となります。

  

大阪府三島郡島本町桜井の桜井驛址 (平成23年3月23日 追加)

● JR島本駅の前の西国街道沿いの公園は、桜井驛(うまや)址とされています。桜井駅は、古代山陽道の「摂津國嶋上郡大原駅」です。しかし、延元元年(1336)足利尊氏を撃つために京都を発った楠木正成が、ここ桜井駅で長子の正行に遺訓を残して河内へ帰らせたことが太平記に記され、桜井駅は「楠公父子訣別の場」として広く知られるようになりました。

● 公園内には、楠木父子の像(台座の滅私奉公は近衛文麿の書ですが、上は最近置きかえられたようです)のほかにさまざまな碑が建てられています。明治天皇の御製の碑、表は東郷平八郎元帥の書、裏面は頼山陽の漢詩が刻まれています。乃木将軍の書になる「楠公父子訣別之所」碑やイギリス公使パークスによる英文の碑などがあります。小学校唱歌「青葉茂れる桜井の・・」と母親がよく口ずさんでいたのを思い出します。

  

島本町桜井の道標 (平成23年3月23日 追加)

● 公園から東に向かった三叉路にこの古い道標がありました。慶応三年の道標ということですが、年代の銘文は確認できませんでした。柳谷は柳谷観世音を案内しています。長岡京市の山中にある楊谷寺は通称柳谷観世音と呼ばれています。

  

●銘文(正面・東)

 正面「右 柳谷 /左 西ノ宮そうし寺 道」

 左面「右 京伏見山崎 道」

  

島本町広瀬の水無瀬(みなせ)神宮 (平成23年3月23日 追加)

● 街道筋に「官幣大社水無瀬神宮」と書かれた大きな石柱が建っていたので寄ってみました。水無瀬神宮の由緒は近くの説明板を要約します。「承久の乱で敗れた後鳥羽上皇を弔うため生前こよなく愛された水無瀬離宮の後に建てられた御影堂が始まりといわれています。

● 当神宮には国宝の絵画をはじめ数多くの文書類が所蔵されています。建造物では豊臣秀吉が寄進した客殿や茶室が国の重要文化財として指定されています。

● 境内より湧き出る「離宮の水」は全国名水百選として環境庁から大阪府下唯一選ばれています。」とありました。この日も多くの人たちが水を汲みに来ていました。

  

島本町山崎の道標、2基 (平成23年3月23日 追加)

● この辻には、比較的大きな道標が2本建っています。ここから北西方向の京都府長岡京市の山中にある楊谷寺(ようこくじ)は通称柳谷観世音と呼ばれています。

 

● 奥の大きな道標銘文(正面・東)

 正面「柳谷観世音菩薩道」

 左面「明治四十三年六月 是ヨリ三十丁 発起人(数名の名前があります)」

● 手前の道標銘文(正面・東)

 正面「官幣 /大社  水無瀬神宮  左へ /三丁」  

  

島本町山崎の関大明神社と境界の碑 (平成23年3月23日 追加)

● この神社は、伊丹市の辻の碑に記されていた「距関戸七里」の関戸で、また、神戸須磨の関守稲荷神社からは14里ということになります。

● 説明板によれば、「関大明神社」の始まりは不明ですが、当地が古代摂津國と山背國との関所である山崎の関の跡といわれ、関守神または辻神を祭ったのが起こりではないかといわれています。建屋は室町時代中ごろに建てられたと思われ、大阪府の重要文化財に指定されています。

● この東側に「従是東山城國」(是より東は山城國)と書かれた境界の碑があります。この辻を曲がると山城國になります。現在では大阪府三島郡島本町山崎から京都府乙訓郡大山崎町になります。