―道標ってなに?―

1、街道はいつごろから?

●「街道」は、8世紀ごろ都と地方を結ぶ幹線道路として「東海道駅路」「東山道駅路」「北陸道駅路」「山陽道駅路」「山陰道駅路」「南海道駅路」「西海道駅路」が整備されました。

● 中でも都と大宰府を結ぶ山陽道駅路と西海道駅路の一部は最も重要な道路として、小路、中路、大路のうちで唯一「大路」に指定されていました。

● 当時の道路は「駅制」と呼ばれる緊急通信制度の一環で、情報を伝達する使者・駅使が主に使用していました。そのため一定の距離(約16㌔)ごとに、駅馬や駅子が常駐する「駅家(うまや)」と呼ばれる施設が置かれていました。

● 平安時代につくられた「延喜式」によれば、播磨地方では明石、邑美(明石)、賀古(加古川)、佐突(姫路)、草上(姫路)、大市(姫路)、布勢(たつの)、高田(上郡)、野磨(上郡)に駅家があったとされています。しかし、その正確な場所や道筋については、現在も研究が行われていますが、全容解明には至ってないようです。

● 詳細は、「古代山陽道の痕跡」を参照ください。

 

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● その後、中央政権の弱体化や海上交通の整備などに伴い駅制は次第に崩れていきます。中世になると、商業が発達し「市」や「宿」が発生、それらを結ぶ物資運搬路が通じ、当地方でも丹波道などの幹線道路が開通しています。このころ街道筋から分れる大寺院などへの参道に「丁石(町石)」と呼ばれる道しるべが現れます。

● 江戸時代の慶長六(1601)年には、五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)が定められ、慶長九(1604)年には日本橋を起点として全国に「一里塚」の制度が設けられました。このとき山陽道は脇往還となりましたが、西国の人々にとっては依然として重要な道筋でした。

● 姫路は、播磨地方の中央に位置し古来より交通の要衝となっていました。そのため東西に通る山陽道をはじめとして日本海側への街道も放射線状に拡がっています。東西の街道には山陽道(西国街道)とその海側に並行する浜街道があり、姫路を起点とする放射線状の街道としては、有馬街道、丹波道、但馬道。因幡街道、出雲街道があります。また、西国三十三所の巡礼者がよく通る巡礼道と呼ばれる道などが交錯しています。ローカルな道筋の名称は現在のように定まった名称があるわけではなく、同じ道筋でも姫路では北条道、北条では姫路道などと呼ばれたりします。有馬街道も三木市のあたりでは湯の山街道と呼ばれていました。

 

2、道標の発生

● 貨幣経済の発達した元禄時代(1688~)以降、街道には旅人が急増します。まず庶民層の商人たちが、つづいて各地の神社仏閣へ講を組んで参詣する人々が、そして入湯や遊山の旅人などの通行が多くなって、街道筋の宿場には木賃宿や旅籠屋などが現れ、また宿場間にも立場や茶店などの休息所がみられるようになってきます。

● このころ街道の追分や重要な分岐点などにその行き先や里程を示した木製角柱の道しるべが増え始め、やがては自然石や切石の道しるべが建立されるようになりました。この石造の道しるべが今日、旧街道などで見られる道標です。(姫路市内最古の道標は、飾東町豊国の巡礼道にある延宝5(1677)年の道標)

● これらの建立は官製のものはなく、ほとんどが庶民の寄贈によるものです。余裕ある商人などからの寄贈のほか、親や旅の途中で亡くなった人の供養、西国三十三所巡礼の成就の記念など建立の動機は様々です。そうした道標の一面には施主、願主、発起人、世話人などとしてその下に個人名や団体名(講中、村中など)が記入されているものが多く見られます。(参考資料:神戸新聞社「神戸の道標」など)

● 周辺の道標の建立者には、商人である倉吉の小松専太郎や京都の三宅安兵衛、名古屋の伊藤萬蔵などの名前が刻まれていました。

● 下図は歌川広重の浮世絵「東海道五十三次、戸塚宿」に描かれた道標です。絵の中央に「左り 加満くら道(鎌倉道)」の道標がみえます。この道標は大正時代に近くの妙秀寺に移設され現在も保存されているようです。

 

3、道標に書かれているのは? 

● 「進む方向や方角」

 東西南北のほか「すぐ」「春ぐ」「直」(いずれもまっすぐの意)、「右」「左」「中」「此方」や指差し手形。矢印などで方向を示しています。 「従是(これより)・・・」などと文字で表示されている場合もあります。

● 「目的地」

 目的地は場所名のほかに有名な神社仏閣や観光名所などがあります。寺院の場合はほとんどが山号のみで案内されています。書写山(圓教寺)、牛堂山(国分寺)、刀田山(鶴林寺)、法華山(一乗寺)などです。また、当時の漢字の使用方法は統一されておらず、判読するのは困難を伴います。例えば「飛免ぢ(姫路)」「者り満(播磨)」「楚祢能末川(曽根の松)」などと書かれています。目的地の一番下は多くの場合「道」や「遍(へ)」の文字がくずして書かれています。

 あて字については、「播磨名所巡覧図絵、巻之二」の「播磨国」の冒頭に次のような記述がありました。当時の漢字の使い方をよく表しています。「播磨、針間、幡磨、其外さまざまに書けども、皆、仔細有事なし。只、音訓(よみこえ)のあたるべき文字を以って、いかようとも書くは、日本の古風也」と。

●「目的地までの里程」

 姫路市青山の道標には「長崎へ百六十九里二十七丁、下ノ関へ百六里」などと遠方までの距離が詳しく書かれています。一般的には、一里は三十六丁(一丁=六十間)と定められていましたが、比較的平坦な街道では四十八丁、五十丁、七十二丁など様々な場合もあったようです。人が一刻に歩ける距離が基準になっていたようです。明和元(1764)年、萩藩の絵師が作成した中国行程記で、姫路市四郷町の一里塚(行程記では西御着の一里山)の記述をみると「此一里山ハ、播磨姫路より一里、三十六丁道、摂津西ノ宮より十八里、丁数不同」などと書かれ、一里の丁数が一定でないことを示しています。 

● 「道標建立の年月日」

 「時 寛政十二年歳次庚申」(高砂市荒井神社東の道標)のように元号と干支は一組で表記されるのが一般的です。元号がなく「壬辰三年(天保三年?)」という例もありました。また、「月」の表記では、姫路市飾磨区下野田の道標に、陰暦の12月を「臘月」(としのすえつき)と珍しいものもありました。「日」は特定日ではなく、吉日、吉祥日とするのが通例のようです。

● 「道標の建立者の名前」

 道標の建立者とともに建立した主旨が漢詩や和歌(浜芦屋の道標)で書かれたものもありました。また、親や旅の途中で亡くなった人を供養するための道標や霊場巡拝成就の記念の道標もあります。こうした道標の多くには一番上に仏像を意味する梵字や、地蔵菩薩像や観音像などが彫られています。このような仏像がある道標は、今日ではお堂や祠におさめられたりして地域のお守りとして大切にされています。

● 「道標の形」

 道標のほとんどは四角柱ですが、その先端の形によって下図のような形式が見られます。A兜巾(ときん=山伏がかぶる小さな布製の頭巾)型、B三角型、C櫛型(アーチ型)、D香匣(こうばこ=香料を入れるフタのある匣)型、E丸型、F水平型です。なかには五角柱(姫路市青山、たつの市追分、たつの市新宮町)の道標も見られました。

 角柱のほかには自然石型や板碑型、仏像の光背部分に道案内の書かれた舟形光背型、仏像や常夜燈、題目塔などの台石に書かれた台石型などがあります。

4、道標に類似した石造物とは? 

● 「境界石」

 国境や藩領の境界などに建てられ「従是西備前国」(兵庫、岡山県境船坂峠)、「従是東備前國」(岡山市北区吉備津)や「従是西尼崎領/他領入組」(西宮市岡太神社境内)などと表記されています。尾道市の防地峠には街道を挟んで「從是西 藝州領」と「從是東 福山領」の藩境界石がそれぞれ建っています。また、室町時代には大寺院の勢力圏を示す「守護不入」(書写山圓教寺)、「従是西八幡宮御神領守護不入之所」(京都府大山崎町離宮八幡宮)などと書かれた大きな石柱もありました。 余談ですが、江戸時代には「藩」の文字は使われていなかったようです。確かに、この種の境界石には「・・・藩領」とは書かれていませんでした。

● 「丁石」(または町石)

 大きな寺院などの参道に主要な街道筋から一定の距離ごとに設置されていました。姫路市内の増位山随願寺や書写山円教寺の登山道でも一丁(60間≒108㍍)ごとに「十八丁」まで設置されていました。ほかにも「自是山上惣門迠三十六町」(箕面市勝尾寺口の鳥居下)や高野山の百八十町の町石(和歌山県九度山町慈尊院)なども見られました。

● 「道路元標」

 大正八年に施行された道路法施行令に基づいて各市町村に一基づつ設置された道路標識の一種です。標記は「的形村道路元標」など「道路元標」の文字の上に各市町村名が書かれています。県単位では「里程元標」(神戸市元町や大阪市中央区高麗橋東詰)もあります。道路元標の形状は大正十一年の内務省令で地上の高さ60㌢、一辺が25㌢の角柱と定められていました。兵庫県下の設置場所は大正九年の兵庫県告示で決められています。現在の道路法(昭和27年施行)ではこれら元標は何の規定もないので道路の付属物とされ、年々その数は減っているようです。 

● 「その他」

 常夜灯や題目塔などの「台石」に道案内が刻まれているものもあります。ほかに江戸後期から明治時代のものですが、「迷子の道しるべ」というのがあります。これは「たずぬる方」「しらする方」の情報交換のための立石です。岡山市北区京橋町と神戸市兵庫区の湊八幡神社境内、京都市中京区の誓願寺の門前で見られました。

 

余談、東京日本橋の「日本国道路元標」とは? (平成27年3月21日、追加)

● 日本橋が初めてかけられたのは1603年、徳川家康が幕府を開いた時と伝えられています。五街道の起点で歌川広重の浮世絵(左写真)にも描かれています。現在の橋は明治44年に架けられたもので、国の重要指定文化財となっています。石造の親柱にある「日本橋」「にほんばし」の文字は15代将軍徳川慶喜公の揮毫によるものです。橋の中心部には「日本国道路元標」のプレートが昭和47年に埋め込まれました。北詰の広場にこのレプリカと「東京市道路元標」が設置されています。「日本国道路元標」は当時の佐藤栄作総理の揮毫です。

● 現在は国道1号線と4号線の起点ですが、1号線側にはほかに15号線と20号線が、また4号線側には6号線と14号線、17号線の一部がそれぞれ重複しており、計7本の国道の起点になっています。

(写真は平成30年8月再撮影分)